なづけえぬもの | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

寒くなってきました。
社会人をやってると、日々が「みんながわかること」、「第三者に説明できること」、「より分かりやすいこと」によって埋められてゆくのに気づく。
それはそれで、ビジネスという土俵の上では必要なことなのだ。それはよくわかる。

先週、新書で話題になっている「なぜ若者は三年で辞めるか」を借りて読んだ。
すこぶる明快。論旨の組立もしっかりしていて読みやすい。なるほどなぁとおもった。きっとこういう文章がビジネスで求められる言語能力なんだろう。
でも感心する一方で空虚感もおぼえた。噛み応えがないのだ。僕はだいたいこの本を100分ぐらいで読み通したけど、あまりにもさらっとよめてしまった。どっかでみたような言葉つかいだから先が読めてしまう。

これは僕の個人的な偏向なんだけど、僕は「わかりやすいもの」よりは「わかりにくいもの」が好きだ。それは、「わかりにくいもの」を「わかる」為には言葉では不十分であり、何度も「わからなさ」に向き合ううちに何となく分かってきて、ついに腑に落ちるときのあのしっくり感がステキだと思うからだ。
哲学や思想の楽しみは、あのわけわからん文章にしっくりいってしまうようにかわっていく自分のかわりっぷりを味わうことにある。僕はそう思う。もちろん哲学や思想なんてお遊びの話であって、仕事とはなんも関係ない。
しかし、一度「わかりにくいこと」との遊びを知ってしまった後では、大真面目に「わかりやすさ」を追求するなんて味気なさすぎてつらい。

「わかりやすさ」が第一義的な承認を受ける世界では、「羊のかぞえかた」と「友達のかぞえかた」の違いについて思いめぐらすなんてありえないのだから。

目的、目標にしばられれば、最初に意図されたものだけが見える世界ができる。でも人間の考え出す目的や目標以上に世界やら人間やらは豊かな可能性をもっている。その豊かさとは、まぎれもなく「わかりにくさ」が担保する余剰のことだ。

目を閉じると広がる世界だってある。そういうことだ。