Nothingness of Sealed Fibs -103ページ目

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

もう結構前になるけれど3連休は久々に休みらしい休みを過ごしやした。
土曜日に新幹線と特急しらさぎでいくと福井まで3時間半で着きました。日本も狭くなったものだ。
福井駅につくとあいにくの曇り。福井在住の後輩を呼び出して昼飯。福井名物おろしそばを平らげた後、カレー屋さんにはしご。すでに食べ過ぎ。
二時に中国に一緒にいった仲間と再会! 日本にばらけているのにこんなに集まれるなんて素敵なことだなぁとシミジミ。
合流後は車四台で福井観光に出発。永平寺見学では宝龍寺で修行してたころが懐かしく思い出されました。きーんとした空気と冷たい床がとても心地よい。
デザインとは削り落とすことだと誰かが言っていた。修行とはまさにライフ自体をデザインすることだと言える。だからかもしれないが僧の姿はどことなく美しく感じられる。自分をデザインする。それはある意味でまわりの人達へ向けて自分という生き方を贈与する事にほかならない。人は他人の生きる姿からかなり多くの事を得ているのだから。

永平寺の後は東尋坊の夕日を目当てに行くも天気が悪すぎで退散。
ホテルに着いてひと風呂の後はお待ちかねのカニ。四半世紀生きててあれだけのカニを食べたことなどないが、たぶん二匹ぐらい食べているのは間違いない。
後は部屋で二回戦。いつもより早く酔っぱらい、気がついたらヘロヘロでした。なんとみなさんから誕生日のお祝いをもらってしまいました!ありがとうございます。いつ準備してたのかなぁ。家ではその前の水曜に家族でお祝いしていたのでもう誕生日は終わったつもりだったので、不意打ちにぐっときました。照れ隠しにふて寝。ガキです。

翌日の日曜日はふたたび東尋坊まで。少し晴れ間もみえてよかったが、風が強い!たぶん前髪が数本もってかれました。
その後はソースカツ丼を平らげて恐竜博物館へ。むかし恐竜大好きだった頃に戻って見入りました。ここはスペースに余裕があるので博物館としてもよくできてる。遊び心があるのも素敵。

観覧後に解散。また集まれるといいです。
すっぱムーチョ梅味がなかなかいけます。
お菓子会社の方々、新商品もいいですが、お願いですからおいしい商品は長く店頭に置いてください。Oh!Chipsのホワイトグラタン味お気に入りだったのにー。新発売のツナマヨネーズは×。

雑談はさておき。
この前同期と話していたら恋愛の話になった。同期の男曰く「恋愛とは互いが一人で生きていけるようにすること」らしい。一見、矛盾したことを言っているようだが意外と卓見なのではないかと思った。

よく人間は一人では生きていけないと言われる。この文言の意味が、人間は自身とは異質なものとのふれあいなくしては生きていけないということならば僕は賛成だ。

僕にとっての満足って何だろうか。それはまだ聞いたことのない異質な思考にふれること。いままでどこの誰もが語っていないことを、その場で創造しながら自ら語ること。そんな僕の思考を喚起してくれる相手とのセッション。

こう言葉にしてみるとはっきりわかる。僕は自分がなんか考えついたり、他人の言葉によって目から鱗が落ちたり、そういうのが大好きなんだと。なにげにすごい自己中心的である。

だから、恋愛とは僕にとって、まずは自分とは異質の考え方をする存在との出会い。でもここで、ふと立ち止まると、自分とは異質な存在が自分自身ということもあり得るのではないかと思うのだ。
例えば、自分の力で考えることができるようになれば、自分一人で創造性を発揮できるのではないか。だとすれば僕が恋愛だと思っていることはまぎれもなく一人でできてしまうことになる。

人間の人生が、自分で考えられる=自分で楽しめるようになる為の道程だとすれば、恋愛とはその修行の場であり、相手を失ってもやっていける思考力をみにつけるための時期とは言えないだろうか。
そんな風に考えると、僕の同期は結構いいこと言っていたのかもしれない。

一人で生きる。それだけの思考力を身につければ、世界はどんなに楽しみに満ちているのだろうか。
それがたとえば僕だけの楽しみだとしても。

伊坂幸太郎の「重力ピエロ」を読み始めてみた。密度が高いのにすらすらと読めてしまう。幸せである。こういう文章を書いてみたいものだ。

読んでいて気づく。会話の中にあいづちが全くない。もし、この小説のダイアローグを素でやってのける人がいたらすごい奴だ。かなり頭の回転が速い。
そういえば普段、生活の中で誰かと話す時、僕はあいづちを多用する。あいづちをうたないことなんてほとんどない。
なるほど。あいづちは一呼吸ついたり相手の言葉への反応を考える場合の時間稼ぎにはいいだろう。挨拶や世間話ではあいづちがすべての流れをきめる。
でも、あいさつや世間話はあんまり深くは付き合わない顔見知りにたいしてするものだ。当然内容も当たり障りなくお互いの存在を祝福して終わる程度。それはそれでとてもステキだけどスリルがない。

相手のいうことがしっくるかこないか関係なくとりあえず、「そうではない」とつっぱね、突っぱねながら反論を考えて自転車操業していた数年前が懐かしい。


だから僕は決心する。大切な人と話すときにあいづちをしない、と。そんなことできるのかなぁ。でも、あいずちを減らすように気をつけるとなんとなく考えながらしゃべる負荷が老化防止によさそう。

スリルに満ちた緊張感のある会話の中にあいづちのニッチは皆無。のはず。

いけるところまで。こんなたわけた決心と一緒に。

新年明けて、いきなりこんなタイトルの映画を見てしまいました。

2004年の風間志織監督作品。けっこう傑作だったのではないかと思うので、書き込みます。

AMAZONの紹介に沿って簡単にストーリーをいうと、ある盆栽店で働く青年とそこに転がり込んできた幼馴染の女、その店のバイセクシャルの店長の微妙な恋愛模様の話。

せかいのおわり

主人公の女の子は、素敵な人と出会った瞬間に、別れの瞬間が来ることを想像してしまうタイプの子。

このリアルな感覚はすごいよくわかる。幸せであるがゆえの不安。その不安がぬぐいきれないために、本当に大事な人とは一線を越えられない。本当に大事な人とは、絶対に終わりたくないがゆえに、始まりたくはない。そういう切なさ。

これを「傷つくことがこわいんでしょ」とか、片付けないでほしい。

本当に大事な人とは、自分の世界の根底を構成している人のことである。本当に大事な人と「終わる」とは、「傷つく」ことでは済まされない。世界の崩壊を意味する。

幼馴染で、お互いに困ったときには頼りあい、助け合ってきた二人は、このどうしても越えられない深淵を、普通に見たらあきらかに絶対越えられないこの溝を、どうにか明るく見つめなおそうとする。

子供を生むことについても、この世界に産み落とされた子供がかわいそうだとつぶやける女の子が、今ドンだけいるのだろうか。意外に多いのかもしれないけど。


ラストで落とし穴に落ちたふたりが見つめる「落とし穴の形に切り取られた空」は、通常の地面からひとつ落ち込むことによって、世界の景色を変えるという高等なテクニックをうまく説明できている稀有な例だろう。

「もし、世界がおわって、ふたりだけになっても、一緒にこうやって空を見てくれる?」 沁みるではないですか。


この作品全編に漂う「切なさ」は、ある種のニヒリズムから生じているいることは間違いない。

実際、一般的な価値観から見れば、決していいとはいえない社会的状況におかれているこの映画の登場人物たちが、なぜかとても素敵な人に見えるとすれば、それは、ニヒリズムのせいで、ほかの人に比べると小さくなってしまった「光」を、彼らがその小ささゆえに丁寧に光らせているからに他ならない。けっしてギラギラとまぶしさを感じさせる光ではなく、暗闇のなかで小さく光るその「光」が、「切なさ」を通り抜けてささやかな「温もり」を生むのだ。


風間監督って、初めて知ったのだが、ネットで検索すると、すごいいい言葉を書いている。


映画を作りたいという衝動がある。
映画を作ろうが、作るまいが、世界中で争いは絶えないし、人々は愛し合ったり、憎しみ合ったり、くっついたり離れたり。
わたしに何ができるのか? と自問自答しても、圧倒的な破壊と苦痛の前では、ほとんど無力で、ただ小さな声で、たわいのない、そのへんに転がっている恋愛について描くくらいしか、できることはない。
わたしには、憎しみの連鎖を切る方法がわからない。
ちっぽけな愛の感情をたいせつに育みたいと思う。たとえ壊れてしまったとしても。
幸福な記憶は、誰にも侵すことはできない。いつでも取り出して、何度でも反芻すればいい。小さな痛みとともに。
http://www.suzufukudo.com/mars_canon/staff.html  より

 

「記憶をだれも侵せない」は究極の自己主張である。でも、そのとおりで。

上の風間監督の言葉でも印象的なのは、「ちっぽけな愛」、「小さな痛み」。僕の感想でも書いたけれど、現代を真摯にやさしく生きていこうとするものにとって、キーワードは「小ささ、ささやかさ」なのではないかと思う。


そもそも人間が「でかさ、大げさ」に生きはじめたのはほんのここ100年ぐらいだから、僕にもできるはずだ。問題は、「でかさ、大げさ」の流れに飲み込まれないこと。オレはできてるのか?


ぜひ、一人でも多くの人に観てもらいたいと思う。



12/28

仕事年内最終日 この日で退職される方、異動される方を送る会の後、すでに年末行事となりつつある会社同期の納会。

新しい出会いを迎えた一人を祝福して、残りのものどもで徹カラ。12月で4度目です。どうなってんですかね。この堕落っぷりは。

ま、楽しいからいいんだけど。なんかストレスたまってるのかもしれません。


12/29

早朝帰宅。夕方まで就寝。敬愛する小栗康平監督の最新エッセー集『時間をほどく』を読了。

タイトルもそうだけど、この監督の感覚の鋭敏さが遺憾なく発揮されたエッセー集で相変わらず面白かった。

夜からお笑いコンビ「ラーメンズ」の公演を見始める。一気に6回分(約10時間)を借りてきたので、かなりマジで見つづける。

「ギリギリ人」コントがツボにはまってしまった。おもしれー。脳が反応してしまう。みつづけてふたたび徹夜。


12/30

見たいと思ってて観れていなかった『せかいのおわり』、『珈琲時光』、『青い車』をみる。

『せかいのおわり』以外はみんなのシネマレビューにレビューを更新。どの作品も結構面白くってためになった。

『せかいのおわり』が一番考えさせられたので、そのうちここでレビューします。


12/31

大晦日。奈良の寺めぐりから両親が帰ってきた。テレビを取られたので、あえなく読書。ドズトエフスキーの『悪霊』に取り掛かる。

なげー。でも、すごい。紅白はなんかつまらなくて仕方ないので、さっさと寝る。ひさびさに年代わりの瞬間に寝てた。


1/1

午前中『悪霊』継続。

ときどき長くてしんどくなるので、映画化される三崎亜記著『となり町戦争』なんか斜めでよんで、気力をつなぐ。

午後高尾まで自転車でいってみる。足がなまりすぎ。帰りに八王子で狙ってたラーメン屋にいくも、年始で休業。

よく考えないで行動することの悲しさを知る。


1/2

『悪霊』読了。すごい。なんじゃこりゃー!『カラマーゾフ…』より衝撃的。あまりの感動に1時間ぐらい頭が麻痺する。

リハビリにラーメンズ公演と前日にやってたお笑い番組の録画を見る。

それに飽きたのでレヴィナスの『全体性と無限』を読み返して、また涙。論理の隘路をたどる強靱な思考に触れる喜び。


1/3

午前。渋谷で『合唱ができるまで』を鑑賞。合唱好きでない人にはまったくもってお勧めしません。

午後、筑波に移動した同期邸でお好み焼きを食いすぎる。しゃべりすぎる。


年明けまで宿題と書いた件ですが、腹を決めました。そのうちここに結果をご報告できるといいなと思います。