もう一カ月前になるが、『硫黄島からの手紙』を見ました。
うーん。正直に言って、クリント・イーストウッドの意図はよく分かった。
日本、アメリカのどちらかの肩を持つことなく、ヒーローも作らずに、とくに悲惨さも訴えない。そんな淡々とした戦争映画である。
この淡々さはいままでの戦争映画にはなかった。戦争といえば、「極限におかれた人間たちの熱い物語」だったのである。
だから往年の戦争映画=アクション映画だったのだ。
それは、潜水艦映画の名作『頭上の敵機』が、ある種のサスペンス映画として成功したことからもうかがえる。
アメリカがベトナム戦争に苦しみ始めてから、『地獄の黙示録』や『プラトーン』が出てきて戦争映画は少し路線を変えてくる。
アクションもなく、サスペンスもなく、ただひたすら「絶望」する作品が戦争映画のジャンルに登場してきた。
そういった戦争映画の系譜のなかで『硫黄島からの手紙』を捉えようとすると、戸惑いを隠せない。
なぜなら、この映画では、ど派手なアクションもなく、華麗な作戦を描いたサスペンスもなく、かといって絶望もないからだ。
印象に残るのは、嵐の二宮君演じる青年兵の、「あきらめたかのように、上官をアホくさいと感じながらも、状況が状況だから淡々としたがっている」姿である。
これはまさに『硫黄島からの手紙』があたらしい戦争の描き方に到達していることを示していると思う。
二宮青年兵の感覚は、かなり僕自身の感覚に近い。結局、「戦争」=「あほくせー」なのである。
「戦争しよう!」と主張する人々にたいして「戦争はいけない!」という反論をするのではなく、「あきれるしかねーな」という思いを抱く。そういうあきれ方によってしか、本当の意味で戦争におさらばできないのではないか。
まちがえた。この映画は戦争とおさらばしようなんてことも明確には主張していない。
だから、あるいみでこの映画のスタンスも淡々としていると言える。人が簡単に殺されることを淡々と描いている。
じゃあ、観客としての僕はこの映画にどう対処したらいいのか。
ひとつ。「正しい戦争」なんてないですよと思うこと。「戦争」という言葉自体がすでにだめ。
ふたつ。「戦争は悲惨だからいけません」とか思わないこと。「悲惨」かどうかを基準にすると問題が「悲惨度」の相対性にうつってしまう。
というわけで、『硫黄島からの手紙』は、普通の観客がふつうに抱くであろう戦争への感想をことごとく受け付けないという稀有な映画になっている。その点、クリント・イーストウッドの真面目な奇作だといえる。
おもしろかった。