Nothingness of Sealed Fibs -102ページ目

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

achuko先輩にいただいた恋愛観バトンをやるまえにウォーミングアップ。


先日、会社の同期(男)と牛タンを食ってたときに、奴が「牛タン食べると、牛とディープキスしてることになるのかな?」というアホな問題提起をしてきました。

個人的には、牛タンはうまいけど、人間のディープキスは(味的には)まずいと思います。

結局、奴との問題提起は深刻なトークに発展することなく、2人ともおよそ6頭の牛とディープキスをして、大満足だったわけです。


ここからが、本題なのですが、
今日、朝の満員電車で、女子高生2人がホワイトデートークをしていたのが耳に入ってきました。

女子高生1 「ねぁ、あんた○○先輩とは、どうなってんの?」

女子高生2 「○○先輩とは、もう70チュウ以上だよー」

僕 → 驚愕の表情で、女子高生2の表現力に舌を巻く

以上、素敵な日本語表現の時間でした。
いろんな名詞の数え方を考えてみるのも結構いい暇つぶしになるかもしれません。

先週火曜日に、お世話になった先輩の送別会があった。公私ともによくしていただいた方だけに悲しい。送別会はその方の人徳で課内の会としては珍しくたくさんの人が集まった。カラオケあり、おいしい韓国料理ありで、とてもいい会になったなぁと思う。これからのご活躍をお祈りします。

先週の水曜・木曜と今週月曜は就活中の学生さん相手に会社訪問の対応を行った。これから社会人になろうとする若者のおそれを知らない姿が新鮮である。
僕が就活してたころを振り返ると、こんなまっすぐさなんてかけらもない人間だった。別に内定とれなければ大学院でもいって腐っとけばいいしと思ってたし。

それにしても、他人のまっすぐさは気持ちいいなと思う。僕自分はまっすぐになるのは恥ずいし、まっぴらだけど。ほんとあまのじゃくだ。

たとえば、僕は国際協力というフィールドのはしっこで働いているけど、人助けは大事だみたいな通俗的な倫理にはあまり共感できない。

どちらかというと、僕は嫌いじゃないのでやってます、僕は悪くないと思いますみたいな、ある種自己中心的な感覚でいる。

おそらく、価値観が多様化し、職業も千差万別な社会において、「他者を傷つけない、頭ごなしに否定しない」ように振る舞うには、あらゆる意見表明の際に「僕は」という但し書きをつけて自己中心的に見せかけるしかないのだ。

主語としてではなく、但し書きとしての「僕」は、西田哲学における場所としての「私」に近い。

複雑な世界になったものだ。でも僕の乏しい経験から言わせてもらえば、決して生きづらい世界ではない。むしろおもしろい。ただ、世界が複雑であることを理解しない人(しばしばそれは偉い人である)が放つ単純な意見が、世界を面倒くさくさせていると思う。

就活中の学生さん、がんばってください。自分自身の五感だけが頼りですから。
achuko先輩から恋愛観バトンをいただいているにもかかわらず、本日は、あまりにも病的な自己嫌悪感に苛まれているので、恋愛の話題は次回延期にしつつ、いっちょ弱音を吐かせてもらいます。

むだ。時間が無駄に過ぎていく。それを感じるおれ自分がかなしい。おれ、いなくなれ、と思う。
そうすればこの悲しみは存在しなくなる。

すべてがむかつくときがある。まさにいま。何でこうも間違っているとしっててやる悪党がはびこっているのか。我慢ならん。

おかしなことと一緒に生きなあかんこと。それくらいは予想がついてた。だから、そういうしょうもないことに時間をとられないために身につけるのが知恵だと思っていた。

おおはずれ。本当の知恵をもつ者は、しょうもない悪党に出会わないような環境に身をおくことに全力をつくす。悪党に遭遇したときの対処方法を考えていた僕は愚かだった。

あした死んだら僕は絶対後悔する。
そういう今の生き方でもいいか。

おい、おれ。

僕であることを逃れられないのであれば、僕ということばが意味をうしなう場所まで。この本物の怒りだけをつれて。

先週末は会社の同期と後輩で、てきとーな飲み会。てきとーなだけに仕事上の悩みや「ここが変だようちの会社」について話題がつきない。後輩なのにちゃんと見るとこ見れててすごいなぁという感心しきりです。君らならちゃんとやってけるよ。がんばりや。おいらは安心しやした。

当然のように朝まで新宿にいてそれから同期の引っ越しの手伝い。眠いけどがんばりました。いいぞ、おれ。

日曜日は遊びすぎた反省もあって、しっかりとお勉強。永井均先生の最新作「西田幾太郎-<絶対無>とは何か-」を読んだ。


絶対無とは何か

京都にいたくせに西田哲学を読み解く事をしなかったのは、晦渋な日本語のためなのだが、永井先生は見事に西田の思考を自分の思考に取り込んでいる。

西田哲学を暴力的に要約すると、「私」とはなにごとかを為す「主体」ではなく、なにごとかが起きている「場所」であるってことになる。デカルト以後、「主体」としての「私」を追究した西欧哲学とは別の方向に行くとこまでいってしまっているのが西田哲学なのだ。

哲学では、得体の知れないものを無理矢理言葉にした文章をよむことがほとんどである。そのため、通常の日本語よりも使われる単語の意味が深い。かっこいいとかそういう深さではなく、文字通りその単語を使うために準備された思考の量が多い。

で、その準備された思考とは、一般的には問題としてとらえられないポイントについて、哲学者本人が自分のやり方で(一般的には問題になっていない以上、やり方は哲学者自身が編み出していくしかない)紡いだ思考であるから、たいていの場合、字面だけではばかげた戯言か意味不明な謎にしか思えない。哲学者のつまづいているポイントに読み手がつまづけるかに全てがかかっているのだ。


そして、すべての良質な哲学は高邁深遠などという素敵な形容詞には値しない。そういった賛辞は哲学者のつまづくポイントにひっかからない外部の人間が、よく分からない謎を体よく片づけるときに使う道具だ。本来の哲学は、結果として至極当たり前なことしかいわない。でも当たり前のことが、いかに驚愕すべきことなのか、いかに奇跡的なことなのか、哲学は懸命に語ろうとする。その奇跡とは、まさしく道ばたの石につまづいた者だけが気づける「軽々と石を越えて道を進み続けられる者達が気づかずに宿している奇跡」のことである。

つまづいた者達にとって世界は奇跡すぎる。宗教なんぞではもちろんない。宗教は奇跡という言葉のはらむ奇跡性に到達しないから。


ついつい好き勝手なことばかり書いてしまいました。反省。

もう一カ月前になるが、『硫黄島からの手紙』を見ました。


硫黄島からの手紙

うーん。正直に言って、クリント・イーストウッドの意図はよく分かった。

日本、アメリカのどちらかの肩を持つことなく、ヒーローも作らずに、とくに悲惨さも訴えない。そんな淡々とした戦争映画である。


この淡々さはいままでの戦争映画にはなかった。戦争といえば、「極限におかれた人間たちの熱い物語」だったのである。

だから往年の戦争映画=アクション映画だったのだ。

それは、潜水艦映画の名作『頭上の敵機』が、ある種のサスペンス映画として成功したことからもうかがえる。

アメリカがベトナム戦争に苦しみ始めてから、『地獄の黙示録』や『プラトーン』が出てきて戦争映画は少し路線を変えてくる。

アクションもなく、サスペンスもなく、ただひたすら「絶望」する作品が戦争映画のジャンルに登場してきた。


そういった戦争映画の系譜のなかで『硫黄島からの手紙』を捉えようとすると、戸惑いを隠せない。

なぜなら、この映画では、ど派手なアクションもなく、華麗な作戦を描いたサスペンスもなく、かといって絶望もないからだ。

印象に残るのは、嵐の二宮君演じる青年兵の、「あきらめたかのように、上官をアホくさいと感じながらも、状況が状況だから淡々としたがっている」姿である。



これはまさに『硫黄島からの手紙』があたらしい戦争の描き方に到達していることを示していると思う。

二宮青年兵の感覚は、かなり僕自身の感覚に近い。結局、「戦争」=「あほくせー」なのである。

「戦争しよう!」と主張する人々にたいして「戦争はいけない!」という反論をするのではなく、「あきれるしかねーな」という思いを抱く。そういうあきれ方によってしか、本当の意味で戦争におさらばできないのではないか。

まちがえた。この映画は戦争とおさらばしようなんてことも明確には主張していない。

だから、あるいみでこの映画のスタンスも淡々としていると言える。人が簡単に殺されることを淡々と描いている。



じゃあ、観客としての僕はこの映画にどう対処したらいいのか。

ひとつ。「正しい戦争」なんてないですよと思うこと。「戦争」という言葉自体がすでにだめ。

ふたつ。「戦争は悲惨だからいけません」とか思わないこと。「悲惨」かどうかを基準にすると問題が「悲惨度」の相対性にうつってしまう。



というわけで、『硫黄島からの手紙』は、普通の観客がふつうに抱くであろう戦争への感想をことごとく受け付けないという稀有な映画になっている。その点、クリント・イーストウッドの真面目な奇作だといえる。



おもしろかった。