Nothingness of Sealed Fibs -101ページ目

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

先週末は毎日飲み会が会って、なのにどれもすごく楽しくて、身体はきついけど、良い時間を過ごせました。

金曜日は高校の同期4人と。相変わらず変な奴らにあって、僕自身が決してはずれすぎている訳ではないことを確認。

土曜日はサークルOB会練習後の飲み会。もう定年退職が近い大先輩ばかりだが、とても柔らかい方が多く、単純に歌好きな先輩方の情熱にとっても暖かい気持ちになりました。

日曜日は小学校の同級生と4人と。前にあってもう8ヶ月ぐらい経っていたけど、てきとーな話で盛り上がったのでした。

と、まあ、遊んでばかりの週末でしたが、そろそろ映画みた話も更新します。


今日は、GW前半に見た映画『シュガー&スパイス』について。




僕は、なんだかんだいって恋愛映画を結構見ます。人間にとって、愛って普遍的な感情だし、世界の幸せと不幸はほとんど愛によって作られているから、愛についていろいろ考えるのは僕にとっては至上命題だ。個人的には、愛とはなんぞやという問いにそれぞれの人が答える仕方によって、その人の魂の質が分かると思ってるぐらいだ。というわけで、僕は結構恋愛映画を見る。動機はあんまり普通ではないかもしれないが。


この映画は、タイトルからも分かるけど、「恋愛にはやさしさだけでなく、たまにタフさも必要だ」ということがメインテーマなようだ。

ふ~ん。そんなもんですか? 多少浮気ものだったり、冷たい男の方がもてるってことなのかな? よくわからん。


すくなくとも、やさしさとタフさを意識して使い分けているのは、ホストみたいなことになって、愛だと言い切れんのではないかと思う。


意識していないのにやさしさとタフさが生じる人間関係とはどんな状況に成立するのだろうか。


僕のイメージでは、2人の人間が、それぞれ、自分の道をひたすら歩んでいる互いの魂を愛するとき、やさしさとタフさが生じるのではないかと思う。ひたすらさ、一生懸命さは、時に周りの人間を振り回す。その振り回しこそがタフさなのではないかと思う。


もし、相手のことが絶対優先であれば、タフさは生まれてこない。2人が互いに寄りかかっている同士の間には依存と追従ばかりで、タフさなんて出てきようがない。

たとえば僕を好きになってくれた女の子に、「いつもあなたのことばかり考えている」と言われたとき、普通なら喜ぶところかもしれない。でも僕はそれを重荷に感じる。呪いのように感じてしまうのだ。これは、時代のせいなのであろうか?


そういえば、サン=テグジュペリは『人間の土地』で愛について素敵なことを言っている。

「愛とは、2人で同じ方向を向くことだ。」


2人が互いに見つめ合うのではないところがミソなのではないかと思う。

いつも視界にいる。のではなく、つねに傍らを見るといる。そういう関係性のことなのだろうか。


同じ方向を向くというのは、多様な解釈を許すけれど、僕は、「ひたすらに存在する」ということだと思っている。

「ひたすらに存在する」ことの具体例は二人それぞれ違うことをやっていてもいいのではないかと思う。

ただ、ひたすらという点においてのみ、同じ方向を向いている2人であれさえすればよい。


密度の濃い人生を送る魂を互いに敬意を持って臨む。これが僕の愛のイメージ。


なんか取り留めなく書きました。

映画自体は青春映画だから、多少、僕のようなオヤジにはすでになくなった若いノリがあふれていて、まずまず。

一番印象に残ったのは沢尻エリカが戸田奈穂と似てるってことぐらいです。へぇ。


愛については、本当は「プラトニック・ラブ」=「プラトンのいうところの愛」、キリストの愛につぃてもっといいたいこともあるが、

今日はこの辺でもう寝ま す。


はじめて、なんだかよく分からずに平和運動に参加してみた。おそらくとはおもったが、無理。耐えれない。生理的に嫌気がさす。なにかをためらいなく主張することの虚しさが充実する。

平和を勝ち取ろう!、憲法をまもろう!、戦争反対!という主張、その内容はともかく、その主張する方法にげんなりである。
政治に興味を持つ人間でこの世界は充満しているのだ。すきだなぁ。

政治とは様々な意見の中からみんなで相談して正しい意見を選ぶ場と一般に思われているだろう。
ぼくはそうは思わない。政治とはたぶんに日々の生きることへの態度が生み出す社会の潮流である。プラトン的な意味でよく生きることは結果として哲人政治という「場」を形成する。

政治とは何らかの意見を戦わせ、社会の方向を決める場所なのではなく、よく生きる態度がおのずから形成する潮流が姿を示す場であるとプラトンは言うのだ。

分かりづらいかもしれない。でも生きる態度が倫理的であることを思えば分かりやすい。倫理に理論的な後付けが究極的にはできない以上、倫理は端的なこととして存在に引き受けられねばならない。端的な倫理性が「おのずから」生むのが哲人政治である。

よりよい社会の実現よりもまえによく生きることについて考えるような人間の集まりであれば、戦争をするわけがないし、戦争反対を声高らかに訴える必要もないだろう。なんせうるさいし。騒がしさから平和のような静かなものが生まれるなんてどうしたらありえるのだろうか。

考えた人たちが残した、文章や言葉は一様にある種の挑発性を帯びている。それは考えが根源的であるが故にもつRADICALISMだ。決して扇情ではない。勝手に怒っているのはいつもソフィスト側なのだ。
だから考える人側はつねに静かだ。奴らの言葉は静かに確実に魂に浸透する。そんな静けさを平和と呼ばずしてなんというか。

だからぼくは今の日本の政治にうまく興味がもてないんだ。と、思う。

多数決で決まるのが民主主義であるから、右翼であろうと左翼であろうと数を集めるのが至上命題だ。

数という定量で決まるような正しさは本当の正しさなんかではあり得ない。民主主義は多数決によって正しさを分かりやすく数値化した。でもそのことによって「正しさ」という言葉の意味を空虚にしている。本来の「正しさ」は「愛」と同じで端的なものであったのだから。
GW半ばに高校時代の先輩にあって飲んだ。

先輩は昨年研修を終えてこの四月から東京の国立医療センターで小児科医をしている。学年は一つ上だがいかにも切れる感じの優秀な方であり、なんちゃってな僕とは違うすごい方だ。

もう六年ぶりぐらいだったが、会ってそうそう、�マシンガントーク系になった、�肥えたと言われた。そんなもんだろうか。

近況報告のあと、医学と哲学の評価について議論になる。
先輩は哲学が実学でない点を批判し、僕が世の中のためになる学問=実学という前提を批判するという感じだった。

頭がいいと言われる人と議論すると、相手の主張を整理・理解するのが驚異的にうまいけど、その人が考えたことのない概念について理解してもらうのがとても難しかったりする。

本当に論理的な人ならば、論理が相手に伝わるのはなぜかという問いに論理的な回答が出せないことを知っていなければならないと思う。

論理も結局は一つの土俵であり、その土俵がどれだけ広いとしても、土俵自体の成立を論理では語れない。そういうものだ。

先輩と話していると、自分と異質な意見に対する感度が高い。論理の身の程をよく知っている。そういう人と話すと思いがけなく僕自身が考えたことのない地点にまで行けるときがある。

そんなとき、僕は論理あるいは言語の奇跡に目をみはるのだ。

論理的であるとはけっして理屈っぽいということではない。形式的であるが故に自在であるような文法のことである。

哲学に効能があるならば、頭蓋という明確な限界、自分という明確な限界を分かっていながら越え出ようという精神の普遍性に気づけるからだろう。私が私でなく、人類として感じられた時の喜びは、愛する人との共鳴する喜びと等しい。

朝の満員電車でそんなことを考えているとなんか落ち着く。

ずいぶんと更新しませんでした。我ながら筆不精です。


GWはいつのまにか過ぎ去り、僕は、本を読んだり、映画を観たり、歌の練習をしたり、新宿伊勢丹の前でダメダメなライブをしたり、後輩と暗く飲んだり、あいかわらず無駄に過ごしてしまった時間を後悔してます。

後悔を紛らわすために、「無駄なことをだらだらやってるとたまにいい思い付きがおとずれるものだ」となかばやけくそ気味にフォローになってない慰めを自分にいい聞かせてるありさまで。


よろしくない。


あんまり、ちゃんとしたことを書こうとするとなかなか文章にするのに時間がかかるので、このまえの選挙のはなしでも適当に。

このまえの4月の選挙の時、我が家の食卓では次のような会話が交わされた。


母親: 「今日は投票日ね。あんたグータラしてないでちゃんと投票いきなさいよ。」

愚息: 「へいへい。選挙は大事でござんすね。あ、でも今日、名探偵コナン劇場版みにいくんやった。あかんわ。」

母親: 「あんた、投票は国民の貴重な権利なのよ。権利は行使しないと失われることもあるんだから。ちゃんと自分の意見をもって投票しなさい。自分の国の行く末を考えないなんて無責任よ。」

愚息: 「はいはい。じゃ、ごちそーさま。」


僕は、結局選挙には行かずじまいで、家でグータラしながら投票率の低下に暗躍していたわけだけど、別に選挙にいかないことが悪いことだとは思わない。どうしても現状をよりよくしなくてはならないという切羽詰ったレベルでの必要性が僕には感じられないないからだ。

最近は、投票率の低下が嘆かれているけど、むしろ、さしせまった状況改善の必要性を感じない人が多いということは良いことなのではないかと思う。


僕は、投票するのであれば、候補者の主張、経歴をちゃんと下調べして、各候補者を比較検討し、自分で考えて投票する候補者や政党を決めるのが「責任」であると思う。母親は国の行く末を考えないのが無責任というけど、各候補者についてちゃんと下調べもせずに投票するほうがよほど無責任だと思う。○○党の支持者であったら、○○党の主張だけでなく、××党の主張もちゃんと勉強しないときちんとした比較にはならない。幸いなことに僕にはそういった下調べに時間を費やす必要を感じるほど、現在の状況に困っていはいないのだ。


そもそも、ぼくは、政治というものにうまく関心をもてたことがない。

哲学なんてものをかじっていると、政治だ社会だという前に、私が生きるとはなにか?、その問いを立てている「私」と前の問いの中の私の違いは何か?、そういった問題に立ち向かう必要があるのではないかと思えてしまう。

そういってしまうと、哲学はやっぱり社会に役立つものではないとか言われそうだ(半分ぐらいその感覚は正しいいんだけど)。

でも、僕が個人的に思うに、哲学的に「よく生きる」とは、正しい主義・主張をすることではなく、むしろ、その「正しさ」が担保されてる条件のチェックや(つまり、ALWAYS正しい正しさなんてないから、いつだって△△の状況であればという但し書きが必要なわけで、その△△をちゃんと把握しておきましょうってはなしです。)、主義・主張が語り落としていることの振り返りに命をかけることではないか。だとすれば哲学が社会と乖離しているとまではいえないと思う。かなり話が飛びました。


もちろん、哲学的に「よく生きる」事については、なんも説明できてないから、この文章上では正直、肝心な部分が伝えられないのだが、僕の実力がまだ足りなくてうまく言葉にできないという面もある。とりあえず、雰囲気的にだけでも。


まだまだ修行がたりませんでしたとさ。

achuko先輩、おそくなってすいません!

先週末に大阪はUSJすぐ隣で行われた同級生の結婚式に行ってまいりました。

歌のほうは散々でしたが、幸せな空気の一部を吸い込めたのはありがたいことであります。

さて、さっそくバトンを。


☆1☆ 外見でタイプを教えて下さい。
素朴&たまにポニーテールにする人。芸能人だと、伊藤歩 。細木数子や藤原紀香は×。


☆2☆ 内面でタイプを教えて下さい。
根が暗い人、あるいは変な発想系

☆3☆ 恋愛対象はいくつからいくつかを教えて下さい
今まで惚れそうになったのは3つ下から12つ上まで

☆4☆ 無口な人と喋る人ではどちらがいいですか?
しゃべれなくはないけど、本当はしゃべるのもめんどくせーと思っている人。

☆5☆ 異性のこういうところに弱いっていうのは何ですか?
たまにポニーテール、会話中のするどい切り返し、歩き方のバランスよさ


☆6☆ 異性にされて、もしくは言われて特に嫌なことは?
気が利きすぎて、「○○もうやった?」とか言われること


☆7☆ 好きな人ができるとどんな行動をとりますか?
ずっと見てる。そのあと飲みに誘う。


☆8☆ 積極的ですか?消極的ですか?
相手による。

☆9☆ 告白はしたいほう?されたいほう?
されるほうが気は楽だけど、スリル重視ならするほう。

☆10☆ 恋愛観を知りたい5人の恋愛におけるイメージを教えて下さい。
miwaさん あたたかく、たまにきびしく、えりごのみ

おちゃこさん むふふ系

はるちゃん 3歩進んで2歩進む

きゃなこさん それどころではない?

だいづさん なんとなく幸せ


以上、そんなわけでした。といっても、好きになっちゃうものはしょうがないわけで、今までの経験だと結構なんでもありな人間です。


ではでは。