はじめて、なんだかよく分からずに平和運動に参加してみた。おそらくとはおもったが、無理。耐えれない。生理的に嫌気がさす。なにかをためらいなく主張することの虚しさが充実する。
平和を勝ち取ろう!、憲法をまもろう!、戦争反対!という主張、その内容はともかく、その主張する方法にげんなりである。
政治に興味を持つ人間でこの世界は充満しているのだ。すきだなぁ。
政治とは様々な意見の中からみんなで相談して正しい意見を選ぶ場と一般に思われているだろう。
ぼくはそうは思わない。政治とはたぶんに日々の生きることへの態度が生み出す社会の潮流である。プラトン的な意味でよく生きることは結果として哲人政治という「場」を形成する。
政治とは何らかの意見を戦わせ、社会の方向を決める場所なのではなく、よく生きる態度がおのずから形成する潮流が姿を示す場であるとプラトンは言うのだ。
分かりづらいかもしれない。でも生きる態度が倫理的であることを思えば分かりやすい。倫理に理論的な後付けが究極的にはできない以上、倫理は端的なこととして存在に引き受けられねばならない。端的な倫理性が「おのずから」生むのが哲人政治である。
よりよい社会の実現よりもまえによく生きることについて考えるような人間の集まりであれば、戦争をするわけがないし、戦争反対を声高らかに訴える必要もないだろう。なんせうるさいし。騒がしさから平和のような静かなものが生まれるなんてどうしたらありえるのだろうか。
考えた人たちが残した、文章や言葉は一様にある種の挑発性を帯びている。それは考えが根源的であるが故にもつRADICALISMだ。決して扇情ではない。勝手に怒っているのはいつもソフィスト側なのだ。
だから考える人側はつねに静かだ。奴らの言葉は静かに確実に魂に浸透する。そんな静けさを平和と呼ばずしてなんというか。
だからぼくは今の日本の政治にうまく興味がもてないんだ。と、思う。
多数決で決まるのが民主主義であるから、右翼であろうと左翼であろうと数を集めるのが至上命題だ。
数という定量で決まるような正しさは本当の正しさなんかではあり得ない。民主主義は多数決によって正しさを分かりやすく数値化した。でもそのことによって「正しさ」という言葉の意味を空虚にしている。本来の「正しさ」は「愛」と同じで端的なものであったのだから。