GW半ばに高校時代の先輩にあって飲んだ。
先輩は昨年研修を終えてこの四月から東京の国立医療センターで小児科医をしている。学年は一つ上だがいかにも切れる感じの優秀な方であり、なんちゃってな僕とは違うすごい方だ。
もう六年ぶりぐらいだったが、会ってそうそう、�マシンガントーク系になった、�肥えたと言われた。そんなもんだろうか。
近況報告のあと、医学と哲学の評価について議論になる。
先輩は哲学が実学でない点を批判し、僕が世の中のためになる学問=実学という前提を批判するという感じだった。
頭がいいと言われる人と議論すると、相手の主張を整理・理解するのが驚異的にうまいけど、その人が考えたことのない概念について理解してもらうのがとても難しかったりする。
本当に論理的な人ならば、論理が相手に伝わるのはなぜかという問いに論理的な回答が出せないことを知っていなければならないと思う。
論理も結局は一つの土俵であり、その土俵がどれだけ広いとしても、土俵自体の成立を論理では語れない。そういうものだ。
先輩と話していると、自分と異質な意見に対する感度が高い。論理の身の程をよく知っている。そういう人と話すと思いがけなく僕自身が考えたことのない地点にまで行けるときがある。
そんなとき、僕は論理あるいは言語の奇跡に目をみはるのだ。
論理的であるとはけっして理屈っぽいということではない。形式的であるが故に自在であるような文法のことである。
哲学に効能があるならば、頭蓋という明確な限界、自分という明確な限界を分かっていながら越え出ようという精神の普遍性に気づけるからだろう。私が私でなく、人類として感じられた時の喜びは、愛する人との共鳴する喜びと等しい。
朝の満員電車でそんなことを考えているとなんか落ち着く。