先週末は会社の同期と後輩で、てきとーな飲み会。てきとーなだけに仕事上の悩みや「ここが変だようちの会社」について話題がつきない。後輩なのにちゃんと見るとこ見れててすごいなぁという感心しきりです。君らならちゃんとやってけるよ。がんばりや。おいらは安心しやした。
当然のように朝まで新宿にいてそれから同期の引っ越しの手伝い。眠いけどがんばりました。いいぞ、おれ。
日曜日は遊びすぎた反省もあって、しっかりとお勉強。永井均先生の最新作「西田幾太郎-<絶対無>とは何か-」を読んだ。
京都にいたくせに西田哲学を読み解く事をしなかったのは、晦渋な日本語のためなのだが、永井先生は見事に西田の思考を自分の思考に取り込んでいる。
西田哲学を暴力的に要約すると、「私」とはなにごとかを為す「主体」ではなく、なにごとかが起きている「場所」であるってことになる。デカルト以後、「主体」としての「私」を追究した西欧哲学とは別の方向に行くとこまでいってしまっているのが西田哲学なのだ。
哲学では、得体の知れないものを無理矢理言葉にした文章をよむことがほとんどである。そのため、通常の日本語よりも使われる単語の意味が深い。かっこいいとかそういう深さではなく、文字通りその単語を使うために準備された思考の量が多い。
で、その準備された思考とは、一般的には問題としてとらえられないポイントについて、哲学者本人が自分のやり方で(一般的には問題になっていない以上、やり方は哲学者自身が編み出していくしかない)紡いだ思考であるから、たいていの場合、字面だけではばかげた戯言か意味不明な謎にしか思えない。哲学者のつまづいているポイントに読み手がつまづけるかに全てがかかっているのだ。
そして、すべての良質な哲学は高邁深遠などという素敵な形容詞には値しない。そういった賛辞は哲学者のつまづくポイントにひっかからない外部の人間が、よく分からない謎を体よく片づけるときに使う道具だ。本来の哲学は、結果として至極当たり前なことしかいわない。でも当たり前のことが、いかに驚愕すべきことなのか、いかに奇跡的なことなのか、哲学は懸命に語ろうとする。その奇跡とは、まさしく道ばたの石につまづいた者だけが気づける「軽々と石を越えて道を進み続けられる者達が気づかずに宿している奇跡」のことである。
つまづいた者達にとって世界は奇跡すぎる。宗教なんぞではもちろんない。宗教は奇跡という言葉のはらむ奇跡性に到達しないから。
ついつい好き勝手なことばかり書いてしまいました。反省。