『せかいのおわり world's end girl friend』 | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

新年明けて、いきなりこんなタイトルの映画を見てしまいました。

2004年の風間志織監督作品。けっこう傑作だったのではないかと思うので、書き込みます。

AMAZONの紹介に沿って簡単にストーリーをいうと、ある盆栽店で働く青年とそこに転がり込んできた幼馴染の女、その店のバイセクシャルの店長の微妙な恋愛模様の話。

せかいのおわり

主人公の女の子は、素敵な人と出会った瞬間に、別れの瞬間が来ることを想像してしまうタイプの子。

このリアルな感覚はすごいよくわかる。幸せであるがゆえの不安。その不安がぬぐいきれないために、本当に大事な人とは一線を越えられない。本当に大事な人とは、絶対に終わりたくないがゆえに、始まりたくはない。そういう切なさ。

これを「傷つくことがこわいんでしょ」とか、片付けないでほしい。

本当に大事な人とは、自分の世界の根底を構成している人のことである。本当に大事な人と「終わる」とは、「傷つく」ことでは済まされない。世界の崩壊を意味する。

幼馴染で、お互いに困ったときには頼りあい、助け合ってきた二人は、このどうしても越えられない深淵を、普通に見たらあきらかに絶対越えられないこの溝を、どうにか明るく見つめなおそうとする。

子供を生むことについても、この世界に産み落とされた子供がかわいそうだとつぶやける女の子が、今ドンだけいるのだろうか。意外に多いのかもしれないけど。


ラストで落とし穴に落ちたふたりが見つめる「落とし穴の形に切り取られた空」は、通常の地面からひとつ落ち込むことによって、世界の景色を変えるという高等なテクニックをうまく説明できている稀有な例だろう。

「もし、世界がおわって、ふたりだけになっても、一緒にこうやって空を見てくれる?」 沁みるではないですか。


この作品全編に漂う「切なさ」は、ある種のニヒリズムから生じているいることは間違いない。

実際、一般的な価値観から見れば、決していいとはいえない社会的状況におかれているこの映画の登場人物たちが、なぜかとても素敵な人に見えるとすれば、それは、ニヒリズムのせいで、ほかの人に比べると小さくなってしまった「光」を、彼らがその小ささゆえに丁寧に光らせているからに他ならない。けっしてギラギラとまぶしさを感じさせる光ではなく、暗闇のなかで小さく光るその「光」が、「切なさ」を通り抜けてささやかな「温もり」を生むのだ。


風間監督って、初めて知ったのだが、ネットで検索すると、すごいいい言葉を書いている。


映画を作りたいという衝動がある。
映画を作ろうが、作るまいが、世界中で争いは絶えないし、人々は愛し合ったり、憎しみ合ったり、くっついたり離れたり。
わたしに何ができるのか? と自問自答しても、圧倒的な破壊と苦痛の前では、ほとんど無力で、ただ小さな声で、たわいのない、そのへんに転がっている恋愛について描くくらいしか、できることはない。
わたしには、憎しみの連鎖を切る方法がわからない。
ちっぽけな愛の感情をたいせつに育みたいと思う。たとえ壊れてしまったとしても。
幸福な記憶は、誰にも侵すことはできない。いつでも取り出して、何度でも反芻すればいい。小さな痛みとともに。
http://www.suzufukudo.com/mars_canon/staff.html  より

 

「記憶をだれも侵せない」は究極の自己主張である。でも、そのとおりで。

上の風間監督の言葉でも印象的なのは、「ちっぽけな愛」、「小さな痛み」。僕の感想でも書いたけれど、現代を真摯にやさしく生きていこうとするものにとって、キーワードは「小ささ、ささやかさ」なのではないかと思う。


そもそも人間が「でかさ、大げさ」に生きはじめたのはほんのここ100年ぐらいだから、僕にもできるはずだ。問題は、「でかさ、大げさ」の流れに飲み込まれないこと。オレはできてるのか?


ぜひ、一人でも多くの人に観てもらいたいと思う。