土曜日に御茶の水まで「エドワード・サイード OUT OF PLACE」を観にいった。
サイードはちょっと前に死んでしまったけど、パレスティナ出身の知識人として、様々な政治的問題についても思想的な発言を繰り返してきた人物である。その点で、ノーム・チョムスキーと似ている。
この映画は彼の伝記映画ではない。サイードが住んでいた、或いは言及していた地域にすむ人たちを訪ねることによって、サイードが放った言葉と、実際に生活している人々の生活感の間を埋めていこうというこころみである。
当り前のことだけど、エドワード・サイードは知識人であるとはいっても政治家ではないからアラファト議長に比べれば知名度は落ちるし、レバノンやイスラエルのパレスティナ難民キャンプにおいても、サイードについて知っていると答える人は少ない。
彼の思想的な言説は決して全ての人に届いている訳ではない。その事実がよく分かる映画だったと思う。
彼が、パレスティナ問題でどういう立場を取っていたかという問題は、僕には少し遠く感じられた。
傍から見てれば「仲良くすりゃいいーじゃん」と見えることでも、当事者たちはのっぴきならない真剣さで争っていることはよくある。
僕がむしろ近いなと思ったのは、いくつか引用されたサイードの言葉。
「あるべきところからはずれ、さまよいつづけるがよい。決して本拠地など持たず、どのような場所にあっても自分の住まいにいるような気持ちは持ちすぎないほうがよいのだ。」
この言葉には「いま、自分がいるところになじみすぎてはいけない」という教訓と、「世の中の悪は、自分がいることろになじみ過ぎたものによって引き起こされる」という洞察が含まれている。
ある意味、サイードの言葉を実践するのは非常に困難なことだろう。しあわせな家庭を持ち、家に帰ったらくつろぐ。それで何が悪いのか。おそらく多くの人がそう問い掛けたいのではないかと思う。それは一理ある。
でも、やはり確かなことがある。「なじみすぎた=根をはった」ことを、人間は守ろうとする。別にしあわせな時であれば、それで問題ない。しかし、世の中の争いごとの大半は、人間が何かを守ろうとしたことで始まったのではなかったか? 周りを見てみよう。変なこだわりを持つ人にどれだけ振り回されていることだろうか。こだわりも個性のうちならかわいいのだけれど。
いまさら過去のことをどうこういってもはじまらない。人類はいくつかのあやまった選択をしてきただろうし、その誤った選択が為された後も依然として人は生きつづけ、歴史を刻んでいる。「あれはまちがいだった」と知っていても、その選択がなされた時代に戻ることはできない。大事なのは、今からすこしづつ意識を変えていくこと。「なじまない」生き方の可能性を探し始めること。
なじまないと何がいいのか。自分にこだわりがないから、他人の言うことに耳を傾けられる。大きな力に左右されず、自分で考えて判断することができる。
サイードの言葉でいえば、「漂流」。ウィトゲンシュタインであれば「潜水」と言ったかもしれない。この世界になじまない感覚。あえて言えば、いまの自分の社会的状況は僕の本質ではなく、はあくまで仮なのだと思う力。
この力とともに生きるのは確かに、それなりに大変である。でも、大変さに見合うだけの楽しさもあるはず。
自分の予想もつかない考えや思いに触れられる喜びに出会えるのも、自分に閉じこもらない、自分になじまない態度でいるせいだと思う。
OUT OF PLACE。 「ここではないどこかへ」ではなく、「ここにいながら、あるいみでここにいない」。そんな感覚で生きたい。
