『真夜中の弥次さん喜多さん』 | Nothingness of Sealed Fibs

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これ、なんと言ったら良いかわかんない作品です。どう捉えればいいのだろう?

真夜中の弥次さん喜多さん

ものすごい薄っぺらくて思い出す価値も無いような映画かもしれないし、少し考えさせる作品なのかもしれない…。


脚本家として絶大な人気を誇る宮藤官九郎の初監督作品だが、原作マンガのあやしい意味不明感をさらにナンセンスコメディー風に味付けしてて、観ながら突っ込みを入れているうちに観終わってしまうという不思議な一作になっている。


たいていの人間は、最も自分らしい部分は自分の魂だと思っている。けどこの映画に出てくる魂のように、身体を失った魂って傍から見ると(見えればの話だけど。)みんな同じに見えちゃうのかもしれない。これは「すかすか自我」という現代的な状況にも通じる感覚だ。


「外見より中身」という人は「大事なもの=中身=自我」という構造を念頭に置いているはず。でも、その肝心の自我ってなんだ? その人の話術だったり、話すことだったり、雰囲気だったり、そういった諸々もある意味では外見だ。本当に自我って言えるものって実は正体がはっきり分からない。はっきり分からない以上、「魂=個性をもたない」というこの映画と同じ結論に至る。


じゃあ、「外見より中身」と言っている人の主張って、実はたいしたこと言っていない気がする。


「外見」と「内面」について、どっちを重視しようと、そういった外的な手がかりから相手を判断しようとする構造は変わっていないってこと。手がかり、判断材料とは常に「外的」でしかありえないから。じゃあ、どうするのか? 相手を判断するなんてやめちゃう「判断停止」、またはいったん下した判断を常に変えていく「前言撤回」。うわー。これはまさに泥沼の現○○学?


おちもつかぬままに。この映画と同じような終わり方で…。