三福についての考察です。
三福とは
明治の文豪 幸田露伴(1867~1947)が
『努力論』で主張したもので、
「惜福」「分福」「植福」の三つからなり
幸福が続く秘訣のことです。

露伴は
宗教に精通している人だったので
この三福を
仏典から学んだものと思います。

仏典の「観無量寿経」に
行福、戒福、世福の3福が説かれています。

行福とは
因果の理法を信じて
人々に仏の道に入らしめることです。
財は一代の宝
仏法は末代の宝といわれるように
お金をあげるより
仏教を教えるほうが
はるかにすばらしいのです。

戒福とは
仏法僧の三宝に帰依し
戒律を守って、精進することです。

世福とは
父母に孝行し
師や先輩によく仕え
慈悲心を持って
十善を行ずることです。

露伴はこのような内容を十分熟知したうえで
以下の幸福が続く三福を提唱しています。

惜福とは
自らに与えられた福を使い尽くさずに
天に預けておくことです。
この心掛けを持っていると
幸運が再度やってくる確率が高くなります。
運の悪い人は
惜福の工夫のない人で
惜福の工夫を積んでいる人が
不思議にまた福に遇うと露伴は述べています。

分福とは
幸福を人に分け与えることです。
自分ひとりだけの幸福はありえません。
周囲を幸福にすることが
自らの幸福につながります。
情けは人のためならずという言葉があるように
自分から福を分ち与えれば
人もまた自分に福を返してくれます。

植福とは
将来にわたって幸福が続くように
幸福の種を蒔いておくことです。
過去に蒔いた種が発芽し、
現在の自分を形成しているのです。
今から良い種を蒔き続ければ、
望ましい未来が拓けます。

惜福の事例として
徳川家康が挙げられています。
家康は忍耐で天下を取っていますが
運が来ても有頂天にならず
質素倹約な生活を実践し
その後、300年の徳川治世を築いています。

分福の事例として
豊臣秀吉が挙げられています。
秀吉は気前の良さで天下を取りました。
高松城を水攻めした時
現地の農民たちを使って
土のう1俵に対し、米一升分の銭を払う約束をしました。
そして、この約束をきちんと果しています。
これが世に言う「中国大返し」で
分福により天下取りの幸運が舞い込んできました。

植福の事例として
リンゴの種子を播いて
成木にすることを述べています。
一株の樹でも
将来、多くの実を結べば
自他ともに幸福を享受できるのです。

これら三福が
「幸福論」ではなく
「努力論」に述べられている点に
注目したいと思います。
露伴は
「努力」を最も高貴なものと評価しています。
努力即幸福を述べておられた
本田清六先生の考えにも
相通じるものでしょう。

これらの偉人が
明治時代に活躍していたことを
誇りに思う次第です。

皆様の幸福が
この三福を実践することで

末永く続いていくことを
心から願っています。

今回は食糧危機についての

対応について記述します。

 

下の地図をご覧ください

この地図を見ていただければ

三峡ダムの位置と武漢や上海の

位置関係がわかると思います。

 

日本のメディアは

自国の水害情報は熱心に報道しますが

隣国の中国が

異常な水害に見舞われていることは

あまり報道しません。

 

三峡ダム崩壊の危険性は

これまでマイナーなメディアで

報告されていましたが

ニューズウィークの最新版にも

三峡ダム決壊を警告する記事が載っています。

このダムは世界一の規模を誇るダムですが

その規模ゆえに

もし、崩壊すると6億人もの人が

亡くなると言われています。

 

おそらく、農産物も

かなりの被害を受けることが想定できます。

 

日本人は中国製品を敬遠しておりますが、

(自分も出来るだけチャイナフリーです。)

輸入相手国としては

アメリカ、EUに次いで三番目が中国です。

 

自給率4割の我が国が

一時的かもしれませんが

三峡ダムが決壊して

中国からの輸入が無くなると

食糧危機が発生することは

間違いありません

 

食糧が完全になくなることはないと思いますが

食糧の高騰はしばらく続くと思われます。

 

武漢ウイルスで

我が国の経済も

冷え込んでいる状況ですが

食糧の高騰が起きる前に

食料の備蓄を

少しずつ行うことをお勧めします。

 

玄米は比較的

長期保存ができます。

虫がわかないように

「米唐番」を入れておけば

1年は保存できます。

玄米が嫌いであれば

その都度精米すれば

白米を食べられます。

おかずは缶詰など

比較的長期保存ができるものを

備蓄していかれるとよいでしょう。

 

我が国も

毎年水害に遭遇していますが、

地震なども

今後起きる可能性は高いです。

これらの天変地異は

神々の警告です。

為政者をはじめ、国民も

謙虚に神への尊崇の念を

持つべき時期なのでしょう。

 

このブログを読んでいただいている

皆さんには

少しでも有益な情報を提供したいと

考えています。

 

今後想定される食糧危機への

参考になれば幸いです。

仏教の伝統的な修行についての考察です。
仏道修行する者が修めるべき
基本的な修行項目が 
戒・定・慧であり、
三学といわれています。

戒とは
個人が主体的に守る内容を決め
日々の生活の中で実践するものです。
戒を破っても罰則はありません。
自分の良心の痛みが生じ
反省をすることになります。

具体例としては、
伝統的に以下の十善戒と呼ばれるものがあります。
不殺生(殺さない)・不偸盗(盗まない)・不邪淫(姦淫しない)
不妄語(嘘をつかない)・不綺語(おべんちゃらを言わない)
不悪口(悪口を言わない)・不両舌(二枚舌を使わない)
不慳貪(貪らない)・不瞋恚(怒らない)・不邪見(邪な見解を持たない)
最初の4つに不飲酒(酒を飲まない)を加えた五戒は、
仏教の在家信者が守るべき戒と言われているものです。

このような戒を自分に課し
日々実践していると
目に見えない「戒体」というものが形成され、
悪の誘惑から逃れられるといわれています。

定とは
戒を守ることで
心が乱れない状態を
維持できるようになり
さらに
精神統一(瞑想)をすることで
心の浄化を進める修行です。

瞑想法には様々な種類がありますが、
基本的な瞑想に五停心観というものがあります。
・不浄観(貪りの心を抑える観法)
・慈悲観(怒りの心を抑える観法)
・因縁観(愚痴の心を抑える観法)
・界差別観(自我が強く驕り高ぶる心を抑える観法)
・数息観(心の散乱を抑える観法)

不浄観は
主に性欲を抑える修法で
腐乱した死体が
白骨になっていく姿を心に描き
煩悩の炎を消すものです。

慈悲観は
怒りを相手にストレートに出す前に
相手も神が創造された存在であると思って
平等視をするよう努力し
抜苦与楽の心を呼び起こして
心を穏やかにするものです。

因縁観は
愚痴や不平不満を抑える修法で
因果の理法に基づいて
原因を探求し
神を恨んだり、人に八つ当たりする
態度を改めるものです。

界差別観は
自分を構成している要素を
十八種類に分けて
自我やプライドを抑える修法です。
自他の比較で思い上がっている心を
「六根・十二処・十八界」に分解し
この世の自分がいかに虚しい存在であるかを
気付くことで、無常を感じ
天狗の心を抑えるものです。

数息観は
雑念ばかりが浮かんで
一つのことに集中できないときに行う修法で
深呼吸をしながら数を数えて
心を穏やかにする修法です。

このような禅定を続けていくことによって
自分のうちに智慧の光が生じてきます。
洞察に裏付けられた深い叡智を得ることで
自分の迷いや煩悩を滅尽できてくると
他人の心の闇を切り裂いて
智慧の光を与えることができるようになり
これが救済へとつながっていきます。

そして
最後に
智慧を得ることで
無明が破られ
解脱し、
悟りの境地に達することができます。

後天的な修行によって
得られる智慧に
聞慧・思慧・修慧
の三種類があります。

聞慧とは
悟りたる人の話を聞いたり
真理の書籍を読んで吸収した智慧です。

思慧とは
真理の知識を思索することで
自分のものとし
応用ができるまで昇華できた智慧です。

修慧とは
禅定を習慣化し
真理知識を深く考え続け
深いところまで身体に沁みてくる感じで分かってくる智慧です。

このように
仏道修行の目的は
智慧を得ることなのです。
滝に打たれたり
断食したり
千日回峰をしたり
奇妙奇天烈なことをして
他人の耳目を引くことではありません。

三学修行を実践すれば
宗教の正邪を見抜けるだけでなく

人生途上で遭遇する

難問を解決する
智慧を得ることができます。
この修行をやることは
難しくはないですが
凡事徹底して継続していくことは
決して容易なことではありません。

しかし
やるだけの価値はあります。
三学修行を通して得た智慧により

皆さんが自分で問題解決できる人となり

周囲の人たちの悩みにも

的確なアドバイスができるように

なって行かれることを

切に願っています。

以前、断善根についての考察をしました。
結論から申し上げますと
すべての人間に仏性が宿っており
その発現のレベルに違いがあるだけです。

改めて、仏性とは何であるかというと
これは、大乗仏教の教理で説かれている教えで
仏になり得る可能性の事です。

宗教のタイプは
大きく分けて2種類あるといわれており
・神人隔絶型
・神人合一型
に分類されています。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などは
神人隔絶型の宗教で
これらの宗教では、
神と人間では、
圧倒的な差異があり
人間は神によってのみ救われる存在で
神となることは許されません。

一方、
神人合一型の宗教は、
神が創造された万物に
神性(仏性)が宿るため、
神と人間は一体であり、
人間は、
神近き存在となっていくことができる
と説かれています。
仏教、汎神論、神秘主義などが
これに該当します。

特に仏教では
仏に成る(成仏する)ために仏道修行しているため
内なる仏性を開花させ
悟りの階梯を昇っていく道が
説かれています。
仏性を開発して
自身の煩悩を滅尽し
苦しみから開放されることで、
他の衆生の苦しみも救済していけるのです。

世間一般では、
人は、
死後、みんな仏になると考えており
刑事ドラマなどで、
死んでしまった人に対して
この仏さんは?って言う台詞を聞きますが
これは、明らかに間違っています。

このような考えが出てくる背景に
実は、天台本覚思想があるのです。
本覚とは、
「仏性を持った人間は
 生まれた時から悟った存在であるため
 全員、成仏できる」
という考えです。
最澄の設立した比叡山はこの思想です。
これが日本仏教の主流をなしてきたため
一般にも浸透している考えなのです。

しかし、
この思想を突き詰めると
修行論が不要になり
釈尊の教えに反していることが
分かります。
「一切衆生悉有仏性」
(全ての生命は仏性を持っている)は正しいですが、
この考えを飛躍させて
「一切衆生悉階成仏」
(全ての生命は成仏している)は間違いです!

ところが、
悉階成仏の方が
忍耐を要する修業が不要となるため
長い歴史の中で人気があったことは
容易に推察できます。

間違った教えを説いたことで
最澄は天上界に
帰ることができないでいる
と言われています。

釈尊の真意が

歴史の流れの中で

様々に間違って解釈されていることは

とても悲しいことです。

釈尊自身は、

自助努力の人で

修行の中で悟りを開かれ

衆生を救済された人です。

 

人間はともすれば

安易な近道を選択する傾向になりやすい

ものです。

自分の中にもその傾向は見られます。

 

世の中に満ち溢れている

安易な儲け話や

○○日で英語が話せる

といった類の詐欺商法には

注意が必要であると思います。

 

仏性と成仏を考える際の
参考になれば幸いです。

武漢ウイルスで
映画鑑賞も制限されており
映画館を経営している方々も
厳しい状況かと思います。

今回は、映画についての感想です。

一番有名な映画賞と言えば
アメリカのアカデミー賞だと思います。

日本でもアメリカにちなんで
日本アカデミー賞があります。
樹木希林が出場した
『万引き家族』は、
2018年に最優秀賞作品に選ばれています。

バイオレンス描写が強烈な『ジョーカー』は
主演のホアキン・フェニックスが
主演男優賞を受賞。

アメリカのアカデミー賞の選考基準は、
映画芸術科学アカデミー会員の投票で選ばれます。
日本では、同様に
日本アカデミー賞協会会員が選考します。
つまり、明確な選考基準はなく
あくまでの個人の思想、信条、倫理かに左右されます。

一方で、あまりメジャーではないかもしれませんが
モナコ国際映画祭のように
非営利、無党派の国際映画祭もあります。
この映画祭で選考される
作品の選定基準は、明確に示されており
以下の3つを基準にで選考されています。
・暴力、セックス描写のない家庭向けの映画
・愛、平和、ワンネス(一体感)の映画
・審査員は、利他主義の感覚を持った専門家で構成
 (ディレクター、プロデューサー、映画撮影技師、脚本家など)

つまり、

この賞を取った作品なら

親子で観て楽しめる映画と判断してもよいでしょう。

 

『万引き家族』や『ジョーカー』を

子供に見せたいと思う親は少ないと思います。

勧善懲悪が古いとか面白くないとか

色々な意見があることは知っています。

 

悪を犯すには

それに至った経緯など

正当化する理由はあると思いますが

厳し生活環境に置かれれば

全員同じ悪を犯すと

考えるべきではないはずです。

正当化は単なる言い訳にすぎません。

善悪の判断を放棄したり

悪や暴力を礼賛する風潮は

許容すべきでないと思っています。

 

悪に至る理由を理解することは

大切だと思います。

相手を理解することも

愛であるという教えもあります。

しかし、

幼少時には、

真・善・美を教えた方が

その後、真っ直ぐ育っていく傾向が強いです。

悪の手口や存在理由を考えるのは

大人になってからでも遅くないはずです。

 

映画の影響は

以外に広く、深く浸透していくものです。

悪や暴力を礼賛したり

グロテスクな作品は

あまり観たくないものです。

世の中に良い影響を与えてくれる作品が

多くなることを心から切望するものです。