無我の間違った解釈の続きです。

 

釈尊はなぜ無我の教えを説いたのか。

その真意についての考察です。

 

人生における苦しみの原因を

釈尊は

執着にあると見抜いていました。

 

そして

その執着のもとにあるものが「我」なのです。

我見、我欲が執着の発生原因になるのです。

自分の我に基づく見方や欲望から執着が生まれ

執着から求めても得られない苦しみが生まれます。

人生の苦しみのすべては、我見・我欲からできている

と言っても過言ではありません。

 

「我あり」と思う心から

「我がもの」という心も出てきます。

釈尊は

人々の苦しみの原因を知っていたので

その苦しみを取り除くために

無我の教えを説いたのです。

無我の教えは

魂やあの世、神仏を否定した

唯物的な教えではありません。

 

否定すべきは「偽我」

煩悩に振り回された偽りの自己であって

神仏に創造された

仏性の部分の「真我」は

磨き続け、伸ばしていくべきものなのです。

 

偽我が肥大し

貪(むさぼり)・瞋(怒り)・痴(ものの道理がわからないこと)

慢(自らを高くみるおごり)・疑ぎ(仏教の真理を疑うこと)・悪見(邪悪で誤った見解)

の六大煩悩から生じた苦しみで悩んでいる衆生

を救済するためにこの教えが説かれたのです。

そして、

偽我のまま死んで

あの世に還っても

この世に対する執着だらけで

地縛霊となって天国に還れない

哀れな霊を救済するためにも

この教えは説かれています。

 

無我になるためには

真我を伸ばして

神仏に近づいていく方法と

利他の思いで

人々に優しく接していく方法

があります。

 

神仏と一体になるためには

教学、反省、瞑想をして

悟りを高めていくことであり

これが上求菩提なのです。

利他行とは

人の苦しみ、悲しみを自分のものと考え

救済していくことであり

下化衆生のことです。

 

仏教は

上求菩提・下化衆生の

異なるベクトルを

融合させる方向で修行している

バランスの取れた宗教です。

これは、

釈尊自身が

神秘性と合理性を兼ね備えた

稀有なる人物だったからだと思います。

 

そして

無我の教えを正しく理解し

バランスの取れた修行をしていくと

限りなく清らかで

限りなく透明な

無我なる心になって行けると思います。

 

自分もこの境地を目指して

精進していこうと考えています。

無我に対する理解の一助になれば幸いです。

無我の教えてついての考察です。

釈尊の説かれた真理のあかしとして
三宝印の教えがあります。
諸行無常印
諸法無我印
涅槃寂静印

の3つの法印です。
これに
一切皆苦印を加えて
四法印とすることもあります。

この教えが
仏教と他の宗教とを区別する旗印となります。

諸行無常(All things must pass.)とは
「この世のすべてのものは、時間の流れと共に変化し続けており、永遠に不変なるものはない。」
という意味で
時間論から見た変転の教えです。

諸法無我(All things in the universe lack their own unchangeable substances.)とは
「この世のすべての存在は、存在の中に滅びを内包しており、永遠に存在し続けるものはない。」
という意味で
空間論から見た万物消滅の教えです。

涅槃寂静(The state of attaining enlightenment is called nirvana, which is quiet and peaceful.)とは
「この世的な煩悩の苦しみを滅して、霊性の自由を得た境地に到達する。」
という意味で
修行して解脱すれば、
この世にいながら阿羅漢の境地に達することができるという教えです。
涅槃とは、ニルヴァーナともいわれ、吹き消す(滅尽する)という意味です。
仏教では
貪・瞋・痴などの煩悩を火にたとえ
その火が吹き消された状態を「涅槃」といい、
「寂静」(静かで穏やかな境地)と同じ意味です。

諸行無常、諸法無我の教えは
この三次元世界においては
恒常なるものはなく
生存中はもちろん
死後も
この世に執着して
この世で徘徊すること
を戒めた教えであったのですが

諸法無我の教えを
我というものはない
と間違って(意図的に?)解釈し
魂もあの世も否定している
仏教学者や僧侶が
現代日本の主流を占めている
悲しい現実があります。
彼らは
霊的体験が乏しく
唯物的な教育の影響を受けているため
人間観のところでつまずいていると思われます。

最大の間違いは
人間存在を
「五蘊(色・受・想・行・識)という五つの構成要素が
 仮に和合した存在と定義し
 死後
 バラバラになって雲散霧消し無くなっていく存在なのだ」
と仏教理論を用いて、唯物論的に理解し
自分以外の人も
納得させようとしている点にあります。
確かに

人間は

この世の存在形態として

肉体(色)と精神作用(受・想・行・識)のハイブリッドとして

存在しているので

完全に間違っているとは言い切れませんが

釈尊は
転生輪廻もあの世の次元階層も
明確に説いており
転生輪廻の主体としての魂の存在も
認めています。

このような唯物的理解をしている

僧侶の供養など

効くはずもなく

引導を渡すことができないのは明白であり

天上界から見れば

明らかな詐欺行為になるはずです。

釈尊は

八万四千もの深遠なる法門を説いた

と言われていますが

真理は単純なことの中にあるとも言われています。

神仏は存在し、死後の世界は実在し、魂もあります。

 

2500年前の釈尊より

現代社会に生きている自分の方が

賢いと思いあがっている仏教学者たちは

唯物的に解釈できそうな一部の教えを取り出し

自分の理解に仏教の教えを曲解して

害毒を流し続けています。

仏教の教えを

自分が正しく理解できるように

謙虚に学んでいくことが必要であると思います。

この無我の教えを間違って解釈しているために

供養の本当の意味が分からない

現代の伝統仏教は

救済力がなく

観光仏教・葬式仏教と堕して

自分たちの生業を維持しているに過ぎない現状を

釈尊は悲しんでいるはずです。

 

本来、宗教は

最高の学問であり

もっとも価値あるものであるはずです。

伝統宗教も新興宗教も

真に救済力のある宗教に

変革していかれることを

心から願ってやみません。

法治国家についての考察です。

 

法治国家とは

国家が定めた憲法や法律に基づいて

国家運営がなされる国家と定義されており

この意味では

ほとんどの国家が法治国家になるのでしょう。

 

16世紀~18世紀のヨーロッパにおいて

近代国家が誕生する過渡期に

強力な権限を持った王様などが支配する

絶対主義を否定する過程で

法律に基づいた統治の方が

公平さを担保できるシステムであるとの

認識から成立してきております。

 

しかし、

法治主義にも

法の形態を備えてさえいれば

悪法もまた法となり

国民を抑圧できるという

問題点があります。

先日成立した

などはその実例でしょう。

 

その意味で

中国の共産党幹部たちは

自国を法治国家と

思っているのかもしれませんが

習近平による人治国家であるとの

認識が方が正しいと思います。

もし

彼らが自国を法治国家というならば

彼ら自身

自国の憲法を知らないか

法律が憲法よりも上位法

と思い込んでいるとしか考えられません。

 

「中華人民共和国憲法」

には以下の内容が明記されています。

第一章 総則

第1条
中華人民共和国は、労働者階級の指導する労農同盟を基礎とした人民民主主義独裁の社会主義国家である。
社会主義制度は、中華人民共和国の基本となる制度である。いかなる組織又は個人も、社会主義制度を破壊することは、これを禁止する。

第3条
中華人民共和国の国家機構は、民主集中制の原則を実行する。

第二章 公民の基本的権利及び義務

第33条
中華人民共和国の国籍を有する者は、すべて中華人民共和国の公民である。
中華人民共和国公民は、法律の前に一律に平等である。国家は、人権を尊重し、保障する。
いかなる公民も、この憲法及び法律の定める権利を享有し、同時に、この憲法及び法律の定める義務を履行しなければならない。
第34条
中華人民共和国の年齢満18歳に達した公民は、民族、種族、性別、職業、出身家庭、信仰、宗教、教育程度、財産状態及び居住期間の別なく、すべて選挙権及び被選挙権を有する。

ただし、法律によって選挙権及び被選挙権を剥奪された者は除く。
第35条
中華人民共和国公民は、言論、出版、集会、結社、行進及び示威の自由を有する。
第36条
中華人民共和国公民は、宗教信仰の自由を有する。

 

総則で社会主義を標榜することはいいとしても

公民の基本的権利及び義務については

全く守られていません。

これだけ見ても

中国が法治国家でないことは一目瞭然でしょう。

 

法律とは

本来、自由を保障するべきものなのです。

法律を侵さない範囲で

国民は自由な行動が保証されるのです。

 

オーストリアの経済学者

『隷従への道』で有名なハイエクは

「計画経済」は必ず破たんし

国民の不満が生じるため

為政者たちはその不満を抑圧しようと

「独裁」につながる

と述べており「自由」の大切さを強調しています。

 

経済システムと政治システムは

密接に関連しています。

その意味でも

自由を制約する法律は

なるべく少ないのがいいと思います。

 

法律に似たものに戒律があります。

仏教では

在家信者の「五戒」から始まり

女性の出家者(比丘尼)に対して

348の戒律があります。

 

しかし、

これらの戒律を

釈尊は

教団設立当初から

制定していたわけではありません。

随犯随制といって

教団内で問題が生じると

その都度

今後、このようなことはしてはいけない

と戒律を制定していったのです。

 

王子として生まれ

帝王学を学んでいた釈尊は

当然リーガル・マインドを持っていたと思います。

しかし

釈尊は

人間を善なるものと捉え

各人に宿っている仏性を信じ

自由の規制を極力抑えていたのだと思います。

 

法律をすべて撤廃する必要はないと思いますが

色々な分野の参入障壁となっている法律は

逐次改正していって欲しいものです。

立法府同様に廃法府の設置を

検討してもいいと思います。

平等についての考察です。

一般的に自由と平等は
無批判で正しいものと
受け入れられているかもしれません。

しかし、
平等に関しては、
平等を求める対象によって
天国的なものにもなり
地獄的なものにもなります。

「結果の平等」を求めたとき
そこに展開するのは
堕落、衰退、無気力などの
地獄的な社会が出現すると思います。
英語のことわざに
The road to hell is paved with good intentions.
(地獄への道は善意で舗装されている。)
があります。

格差を否定しすぎるあまり
すべての競争や切磋琢磨を否定することは
人間の健全な成長を阻害します。
以前、
小学校の徒競走で
順位をつけない「手つなぎゴール」
が話題になったことがありました。
マスコミが煽っただけで
実際には存在していなかったという説もあり
真偽のほどは分かりませんが
このような平等を肯定すると
運動会をやる意味はないし
生徒は真剣に取り組まなくなると思います。

 

実際

人間は能力も個性も生活環境も異なり

勤勉に働く者も怠けている者も

平等に扱うなら

勤勉に働く者はいなくなります。

平等の根拠は、

人間が神により等しく想像された

この一点に求めるべきものだと思います。

それ故

全ての人間が等しく尊い存在なのです。

 

努力の結果により生じた格差は

平等に扱うべきでなく

公平に評価すべきものであると思っています。

そして

結果の平等でなく

チャンスの平等を求めるべきと考えています。

 

身分制社会のように

生まれた環境でその人の人生が決まる社会は

個人の努力が公平に評価されない

健全な社会ではないと思います。

つまり

「チャンスの平等」とは「自由」のことなのです。

チャンスが平等に与えられた中で

努力する自由、怠ける自由があり

その結果が公平に評価される社会の方が

健全に繁栄していく社会であると考えています。

 

もちろん

最低限の社会福祉は必要でしょう。

しかし

過度の社会福祉は堕落した社会になって行くはずです。

そこには、夢も希望もないはずです。

官僚は

法律によって

様々な分野における参入障壁を築くことで

既存の組織を保護することを

正義と考えているように見えますが

健全な自由競争のない社会に未来はないと思います。

 

結果平等を求めるより

自由・民主・信仰が

健全に機能している社会の方が

格差は生じても

積極的で明るい社会であると思っています。

 

平等を求めるより

自由を求めて努力し

失敗や成功を経験しながら

その結果を公平に受け入れるように

心がけています。

全体主義における人間観は
民衆を愚民視して
一部のトップエリート層による
支配に向かう傾向を示し
トップの意向に沿わない民衆を
粛清していくことになります。

全体主義の特徴は
以下の3点を備えているか
どうかを見れば
判定できると言われています。
1.一党独裁の国家機構
2.秘密警察の存在
3.強制収容所の存在


この特徴の根底には
唯物論的無神論があり
その政治体制に反対する民衆を
粛清しても
良心の呵責が生じないように
洗脳されることになります。

これに対して
民主主義の根底には
人間一人一人が
神により創造された
価値ある存在
であるという
人間観が根底にあると思います。

この性善説的考えが根底にあり
個人の自由を尊重する民主主義から
資本主義が生まれる土壌に
なっているのだと思います。

一方の全体主義は
性悪説的な考えが根底にあるため
一部の成功者を否定し
貧しさの平等を善とする
社会主義、共産主義の経済体制と
親和性があるように思われます。

そして
資本主義を繁栄主義と捉えた
松下幸之助さんの慧眼には
感服するばかりです。

経営の神さまである
幸之助さんは
資本主義化では
成功する自由も
失敗する自由もあり
たとえ
失敗してもやり直しできる自由があり
自由の重要さを
しっかり認識していたようです。

しかも、
神仏への信仰心もあり
生前、教育・福祉・文化事業に対する巨額の寄付・寄贈だけでなく
寺院や仏閣にも多くの喜捨をしています。
このような人物を
天上界の諸菩薩が応援しないわけはないと思います。

いずれにしても
民主主義の根底には
性善説に基づいた
力強い人間観
があるように思えます。
一人一人を価値のある人間である
と認めるからこそ
愛が生まれ
共に繫栄する社会を
築いていけるのだと信じています。

個人の欲望のみを増大させる
資本主義が
本当の資本主義ではないと
思います。

 

個人の長所を

自由に伸ばしつつ

他の人々とも調和しながら

繁栄された社会を築いていけるように

民主主義における人間観を意識しつつ

努力していきたいと考えています。