無我の教えてついての考察です。
釈尊の説かれた真理のあかしとして
三宝印の教えがあります。
諸行無常印
諸法無我印
涅槃寂静印
の3つの法印です。
これに
一切皆苦印を加えて
四法印とすることもあります。
この教えが
仏教と他の宗教とを区別する旗印となります。
諸行無常(All things must pass.)とは
「この世のすべてのものは、時間の流れと共に変化し続けており、永遠に
という意味で
時間論から見た変転の教えです。
諸法無我(All things in the universe lack their own unchangeable substances.)とは
「この世のすべての存在は、存在の中に滅びを内包しており、永遠
という意味で
空間論から見た万物消滅の教えです。
涅槃寂静(The state of attaining enlightenment is called nirvana, which is quiet and peaceful.)とは
「この世的な煩悩の苦しみを滅して、霊性の自由を得た境地に到達
という意味で
修行して解脱すれば、
この世にいながら阿羅漢の境地に達することができるという教えで
涅槃とは、ニルヴァーナともいわれ、吹き消す(滅尽する)という
仏教では
貪・瞋・痴などの煩悩を火にたとえ
その火が吹き消された状態を「涅槃」といい、
「寂静」(静かで穏やかな境地)と同じ意味です。
諸行無常、諸法無我の教えは
この三次元世界においては
恒常なるものはなく
生存中はもちろん
死後も
この世に執着して
この世で徘徊すること
を戒めた教えであったのですが
諸法無我の教えを
我というものはない
と間違って(意図的に?)解釈し
魂もあの世も否定している
仏教学者や僧侶が
現代日本の主流を占めている
悲しい現実があります。
彼らは
霊的体験が乏しく
唯物的な教育の影響を受けているため
人間観のところでつまずいていると思われます。
最大の間違いは
人間存在を
「五蘊(色・受・想・行・識)という五つの構成要素が
仮に和合した存在と定義し
死後
バラバラになって雲散霧消し無くなっていく存在なのだ」
と仏教理論を用いて、唯物論的に理解し
自分以外の人も
納得させようとしている点にあります。
確かに
人間は
この世の存在形態として
肉体(色)と精神作用(受・想・行・識)のハイブリッドとして
存在しているので
完全に間違っているとは言い切れませんが
釈尊は
転生輪廻もあの世の次元階層も
明確に説いており
転生輪廻の主体としての魂の存在も
認めています。
このような唯物的理解をしている
僧侶の供養など
効くはずもなく
引導を渡すことができないのは明白であり
天上界から見れば
明らかな詐欺行為になるはずです。
釈尊は
八万四千もの深遠なる法門を説いた
と言われていますが
真理は単純なことの中にあるとも言われています。
神仏は存在し、死後の世界は実在し、魂もあります。
2500年前の釈尊より
現代社会に生きている自分の方が
賢いと思いあがっている仏教学者たちは
唯物的に解釈できそうな一部の教えを取り出し
自分の理解に仏教の教えを曲解して
害毒を流し続けています。
仏教の教えを
自分が正しく理解できるように
謙虚に学んでいくことが必要であると思います。
この無我の教えを間違って解釈しているために
供養の本当の意味が分からない
現代の伝統仏教は
救済力がなく
観光仏教・葬式仏教と堕して
自分たちの生業を維持しているに過ぎない現状を
釈尊は悲しんでいるはずです。
本来、宗教は
最高の学問であり
もっとも価値あるものであるはずです。
伝統宗教も新興宗教も
真に救済力のある宗教に
変革していかれることを
心から願ってやみません。