床には上蓋の破片が散乱した。


杏の額には大粒の汗と真っ赤な血で汚れていた。


頬を流れる冷たい汗を拭うと、袖はびっしょりと濡れ、


血液がべっとり付着した。


強打された傷口部分を指でせせりながら、真正面を見つめた。


不用意に動けなかった。


床の破片を踏んで不用意に音を立てたくなかったからだ。


光恵の口元が震えていた。


胸が真っ赤に染まっている。


杏は銃口を手のひらで覆い、その温度を感じていた。




杏のポケットで携帯が震えだした。


電話に出ることができなかった。


否が応にもバイブ音が漏れ出す。


皮肉にもジャージの生地が擦れる音させ出したくなかった時にだ。


トイレに入ってきた足音は止まったままだ。


逃げ出すことも、追いかけてくることもない。




『おい、杏ちゃん。』


トオルの声だった。


トイレに入ってきた人物はトオルだった。


杏は鍵に手を触れながら携帯を耳にあてた。


『はい。』


外にいるトオルには聞こえないぐらい小さくかすれた声だった。


『もしもし』


杏は少し大きな声でそう言った。


外にいるトオルで電話で交信しようとした。


それに気づいたトオルは携帯から聞こえる声に集中した。


『杏ちゃん、聞こえるよ。』


トオルも小さな声で話した。


『聞こえますか・・・。』


『聞こえるよ。光恵は?あの女は?』


『・・・ました。私が撃ちました。』




外から猛烈に大きな歓声が聞こえてきた。


『淳は・・・?淳はどうなんです?』


杏が淳のレースを気にした。


『今戦ってるよ。好タイムが続出している。アイツも出し切らなきゃ、メダルは難しい。

すぐ出て応援しに行こう。シャワー浴びてこい。』


『そうですか・・・。』


これっきり杏の言葉が止まった。


すぐにジャリっとする音が個室から聞こえた。


破片を踏んだ音にも聞こえたが、トオルは嫌な気配を感じていた。


トオルは靴を脱いだ。


靴下で床に立つと、音を立てないように隣の個室に入り、


数秒聞き耳を立てた。


タオルを畳むような布の音がしている。


銃を包んでいたタオルだ。



『もしもし?』


杏が再び口を開く。


トオルはその声を直接聞き取ることができたが、返事をすることができなかった。


さらに小さな声で何かを喋っているように聞こえ、


トオルは携帯を耳に当てた。


丁度、電話は切れた。


折りたたみの携帯が畳まれる音がした時、


トオルは一瞬にしてトイレ上部に飛び乗った。


『俺も、お前も、なめんじゃねー!』


とっさに出てきた言葉は、野見山がよく口にしていた言葉だった。




上を見上げた杏の銃を目掛けて、トオルはまるで水泳の飛び込みのように突っ込んで行った。

光恵は杏の顔を見ながらゆっくりと


個室に入ろうとしていた。


『さーせん。』


個室のドアを開けて待っていた杏に軽く頭を下げてそう言うと、


右手でドアを閉めようとした。


ドアは止まった。


杏が足を挟んでいた。


無意識で挟んでいたようにも見える。


怪訝そうな表情を浮かべ光恵は再び杏の顔を見た。


杏は実に涼しい表情で光恵の胸の位置を眺めていた。


『なーに?』


光恵は杏に言う。


『ちょっとそこまで。』


目線を変えずに杏は答えた。


『ここまで入ってこられたら・・・。分かるよね?』


杏は上着のポケットに手を入れる。


光恵の体より奥にある洋式の便器を見ながら言った。


『いいじゃないですか。どうせオシッコするわけじゃないんだから。』





左手で光恵の体を少し押しながら、ドアを勢い良く閉めた。


ドアがバーンと音を立てて閉まる音が響き渡った。


光恵は体勢を崩し、便座の上に座り込んだ。


光恵が勢い良く倒れこむ様を見て、杏の心は少しばかり痛んだが


勇気を振り絞って光恵に言った。


『すみませんが・・・、すみませんが野見山君を呼んで下さい。』


『・・・』


光恵からのレスポンスはない。


とりわけグロッキー状態というわけではないが、


ぼんやりと何かを考えているようであった。


『野見山君を呼んで下さい。』


杏は小さな声で再度光恵に促した。





『愛は勝つ?』


便座に座った光恵がつぶやく。


『勝つと思います。』


『誰に何をしてるのか、アナタ分かってるわね?』


光恵は一転して吹っ切れた表情に変わった。


杏は答えなかった。




『どうしても?』


光恵の質問攻めが始まった。


質問の意図が良く分からなかったが、杏なりに考えた。


『どうしても・・・です。淳は私が、私が守ります。』


杏はそう言い終えると唇を噛んだ。


照明が行き届いていない端っこの薄暗い個室の中で


2人の会話は続いた。


2人とも小さな声だった。


光恵は相変わらず便座に座り、杏は個室の壁に寄りかかるようにして立っていた。


『愛さえあれば・・・か。』


光恵が独り言のように呟く。20歳の女は犬のような可愛い表情で目を細め、


少し眉間にしわを寄せた。




『はい。』


少し間をおいて杏が相槌をうった。


『愛さえあれば何なの?』


『えっ?・・・。』


『何なのよ?』


『鬼に金棒です。』


『ふーん。』


光恵は少し笑みを浮かべた。


愛想笑いのような形になったが、杏もつられて少し笑った。



『私も、これがあれば鬼に金棒なんだ。』


光恵が携帯を再び持ち、すぐにボタンを長い指で押し、


これ見よがしに携帯を耳にあてた。


同時にトイレのレバーが引かれ、杏の口元が動いた。


杏は水の音で電話を妨害したかった。


『野見山をよんでください。』


杏は口パクで連呼した。




水の音が激しくなろうが、光恵は携帯を離さない。


光恵の話はまだ核心に迫っていない。


何の連絡を誰にしているのかが分からない。


『野見山を呼んで下さい。』


再度口パクしたが、光恵はとりあわない。


『あっ、うん、全然大丈夫。』


光恵が電話相手に言ったその瞬間だった。


杏はトイレのレバーを足で踏んずけながらポケットをまさぐり


タオルをほどくと光恵にまたがるような体勢で拳銃を突きつけた。



光恵の声が止み、顔色が変わった。


杏は目を大きく開き、オデコに汗をかきながら銃を光恵の顔に接触させた。


『野見山呼べよ。』


杏は声に出してそう言った。


杏は再びレバーを足で踏んずけた。


水が勢い良く流れ、その轟音が止むまで沈黙は続いた。


水の流れがおさまった時、トイレのドアが開き、誰かが中に入ってきた。




その足音が聞こえてきた瞬間、杏はタンクの上蓋で頭を激しく強打された。


蓋は割れ、杏の嗚咽と共に、地面に破片が飛び散った。














『他にトオル君から言われたことがあるでしょ?』


光恵は杏の目を見て言った。


杏は黙って光恵の目を見続けた。


黒目と茶色の構成をまじまじと眺め、目玉の弾力を想像した。


杏には温度のない光恵の恐ろしい目に負けぬように、大きな目玉を単なるゴム玉として認識しようとしていた。


『いえ、特にありませんが。』


『そう・・・。』


光恵はそう言うと、トイレの真ん中に立ったまま携帯を取り出した。


携帯のボタンを押しながら再び口を開く。


『アナタ好きになった相手が悪かったわね。』


光恵が数回携帯のボタンを押し、画面に目をやっていると


杏もつられて携帯を取り出した。


杏はアドレス帳を眺めた。


光恵はその動作をチラっと見た。



光恵は杏に言った。


『彼に電話しとく?』


杏はその意味が分かっていた。


『・・・。』


杏は答えなかった。


『電話するだけしてみれば?』


杏は淳の家の玄関先で見たときから憎いと思っていた目の前の女に


好きな男に対する助言を受けることが気に入らなかった。



『はい。そうします。』


杏は携帯のボタンを押し、耳にあてた。


トイレ内を動きながら話し始めた。


光恵にはそれが照れ隠しのように見えた。


『もしもし、今どこ?』


トイレで杏の声だけが響いていた。


『あ、そうなんだ。まぁなんとなくなんだけど。』


『うん、そう。いつも通りてきとうーな電話。』


『私疲れてくると目にくるタイプじゃん。だから今、俄然二重。右だけ。』


『うーん、何ていうか最後だし・・・、これからもよろしくねって話しだよ。』


『はい、はい。気をつけます。またね。』



杏は淳の今大会への意気込みを誰よりも知っていた。


自分は普通に泳げれば表彰台は確実なのだが、淳は違う。




電話の相手は由香だった。


杏は携帯を閉じると目を閉じた。


すぐに光恵に視線を戻し言った。


『おトイレはお済ではないですよね?』


『あ、うん。』


光恵が杏に目をやる。


『どうぞ。』


杏は個室のドアを開けて待っていた。








スタンドを出て、売店の脇のトイレに光恵と杏は直行した。


光恵の歩くスピードは打って変わって速かった。


スター選手である杏を間近で見た他校の生徒の甲高い声が廊下の一部から聞こえる。


光恵がトイレのドアを前方へ押す。


薄暗い長方形の隙間に杏の体が押し込まれて行く。


光恵は杏の肩を抱きながら歩き進み、振り返らずにトイレへと身を隠した。




トオルはトイレに意識を集中させ、ドアの横で待機した。


個室のドアが乱暴に閉まり、スライド式の鍵がかかる音が外にいるトオルの耳にも届いた。


トオルに緊張感が走る。


携帯が鳴った。


トオルの元へ4代目の泊から一報が入った。


一応現段階で、光恵には、淳がSCREAMの5代目に就任すると答えたという内容であった。


淳は5代目に就任はしない。


トオルはトイレに意識を残しながらも、泊への返信内容を考えた。


必要以上にトイレのレバーが引かれている音が聞こえてくる。


層内の水が果てるまで数回に渡りレバーは引かれた。


トオルは携帯を握ったまま固まった。




光恵は杏の肩を抱き、トイレの中央部まで進むと、口を開いた。


『ところで杏ちゃん、アナタは何しに来たんだっけ?』


杏は戸惑いながらも答えた。


『トイレの中までお見送りするようにと言われたので。』


『トオル君がそう言ったの?』


『はい。』


『そっかぁ・・・。』