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陽介はカロリーメイトを食べながら、レースを観戦している。
トオルは観戦スタンドの高い位置から陽介の後頭部を見つめて電話した。
『おつかれさん。淳のレースはまだ終わってないよな?』
『あっ、どうも。まだですね。もうすぐだと思いますが。』
『よかった。俺はかなり楽しみしているからな。アイツ最後だもんな。伝えて来てもらっていいか?』
『何をですか?』
『お前は最後なわけだし、しっかり運命と踊れよ、と。俺が言っていたと伝えてくれ。』
承知した陽介は招集所へと向かった。選手がずらりと並び腰を下ろしている。
陽介は間を掻い潜り、淳の元へと向かった。
外からパトカーのサイレンが鳴り響いてきている。
トオルは階段を降りて行った。いたって普通の速度でだ。
これから夕方を迎えようとしている夏の空の下、サイレン音も少し丸みを帯びていた。
トオルは淳のスポーツバッグに拳銃を放り込み、今度は軽快にスタンド席から去って行った。
非常階段付近の自販機でビールを買った。
さすがにトオルにも緊張が押し寄せてきていた。
プルトップを人差し指で持ち上げると、気持ちの良い至福のアノ音が聞こえた。
『ちょっと自由すぎるのではないでしょうか?』
口に含んだ冷えたビールが口角の両脇から流れ落ちた。
耳にはサイレン音が、背中には冷たい刃物が薄っすらと突き刺さっていた。
『三浦か?こら!』
背後から聞こえるマスク越しのこもった声の正体が分からずにいた。
嫉妬心にかられているマリは、レースで良い成績を残し、見返してやろう
と考えているようだ。勝負時に見せるラテン的なノリが彼女に戻りつつあった。
早くレースがしたい。そんな心境なのだろうと杏は察した。
『マリちゃん、アップ行っとく?』
『はい。そーっすね。でも、淳さんのレース、もうすぐかも。』
『あぁ、そっか。でもサブプールからでも十分見られるよ。』
杏はマリをウォーミングアップに誘った。
死体はまもなく発見される。その際の自分の取り繕い方も分からなかったし、
あまり現場の近くにいたくなかったというのが本音であった。
誰にも自分の表情を見られずに、気づけば事が済んでいるであろうという魂胆から
泳いでいるのが都合がよかったのだ。
彼女らの出場する100M自由形決勝レースに向けてのアップにしては、時間的に少し早い。
だが、途中で淳のレースなどを観戦することを告げていたため、傍から見てもその辺の違和感は
すんなりとキャンセルされていた。
『ごめん、由香ちん。』
杏は振り返りながらそう言うと、由香の方へと再び歩き出した。
今からマリと泳ぎに行くことを告げた。
杏はイケメンを物色しに行くようなノリで一緒に泳ぎに行かないかと由香も誘った。
テンションで押し切った。
マリは大きなピアスを外し、軽い柔軟を行いながらジャージを脱ぎだしている。
『で、さっきの・・・、トイレで何だったっけ?』
杏が由香に能天気さを装って、一応聞いてみた。
『超混んでて、漏れそうになった・・・。くだらねぇ。』
『相変わらず下品ね、アンタは。』
内心ほっとしながらそう言った。由香が行ったトイレは出てすぐにある一番近くのトイレで、杏とトオルが向かった売店側のトイレではなかったようだ。
『だって全然開かないないんだよ。さっさと出て下さいって話じゃない?携帯は外出てイジればよかろ?』
『私もよくやってしまう方でして・・・、座ったと同時に携帯をパカっと開いてしまって。』
『それはね、100歩譲って良しとしても、一番端っこの個室なんて逆に、超静かなの。何してんすか?って感じじゃない。』
『一番端っこ?』
『そう。奥の個室。』
『で?』
『いきなりガーってドアが開いて、出てきたの。携帯耳にあてて。”ごめん超寝てたんだけど”とか言いながら。』
『はは。図太い人だね。』
『しかも、指で髪の毛クルクルしながらね。ギャルみたいな顔して。あんぐらい図太くないとアソコの主将は務まらないのかもしれないけど。』
『まさか・・・。ウチらとタメの?』
『そのまさか。去年はずっと欠場してたらしいけど・・・妊娠説が流れてたしねぇ。今年復帰したみたい。』
話しながら由香もジャージを脱いでいた。
マリがセームタオルで杏のお尻を叩くと、3人は神奈川県内で無敵の中学の女主将の話をしながらサブプールへと向かって行った。猛者が集う学校として有名であった。個人競技では負けたことがない杏やマリも、リレーでこの学校に苦汁を飲まされた経験は何度もあった。
そんな話をするこの3人も周りからすれば憧れの的だ。周囲の連中から注目の眼差しを受けながら彼女達は歩き続けていった。
トオルは彼女等の後は追わず、三浦陽介に接近しようとしていた。
由香と話した反動で、杏は他の人とも自然に話せそうな気がしていた。
階段を下り、マリの元へと向かった。
『まだ、レースまでもう少しあるよね?』
杏はマリと共に出場する決勝レースの話題から入った。
マリは杏の右腕に抱きつき、さも寂しかったと言わんばかりの表情で杏にペチャクチャと話し掛けた。
マリは杏の不在を知っていた。
空白の時間は30分もない。
杏はそれを考慮しつつ当り障りにない返答をした。
どうやら杏をトオルの元へと向かわせた張本人、陽介はメンバーに何も話していないようだ。
杏は右目の視界の端っこに映る陽介の視線だけが痛く体に突き刺さった。
『トオル君知ってるじゃないですか?』
マリが杏に問い掛けてきた。
杏は”トオル”というキーワードが陽介に聞こえていないか心配だった。
『ああ、うん。』
『さっきね、女の人と一緒にいたんです。大人の女って感じの人。』
『そう。』
『やたら綺麗な人だった。』
『トオルさんって、なんとなくだけど、色々お友達多そうだもんね。』
『さぁ。ああ見えて、意外に孤独な人だと思ってたんだけどなぁ。時々寂しそうな目してるし。』
『へぇ。分からないもんだね。』
『年下としては生意気かもしれないけど、守ってあげたいって思ってたし。』
『意外と大人なのねぇ、マリちゃんは。誰なんだろう、その女の人って?』
杏は気が付くとそう口にしていた。
まるで何事もなかったかのように通路へと出た2人は、うつむきながらスタンド席へと消えて行った。
トオルは平然を装うと、レースが行われているメインプールを眺めながら独り言をブツブツ言い始めた。
必要以上に財布をいじりながら、何かを呟くアダルト系購入者のように不自然だった。
拳銃と光恵の携帯が入ったポケットの重みを感じながら、トオルは杏の背中をさすっていた。
『何も恐れることはないよ。杏ちゃん、安心して戻りなね。』
トオルはプールを見たまま左横にいる杏に帰るように命じた。
『私、どうすれば・・・。』
『大丈夫だって。何も心配するな。』
『だって・・・。』
『だって? だって何だ? お前はどうしたい?』
『・・・。』
不安な心境になっている杏にとって、どうしたい?と投げかけられるのは辛かった。
意地悪にも思えた。トオルが銃殺した自分の事をどう思っているか、まだ言葉で聞いていないからだ。
トオルは大人すぎて難しい。
杏は自分の不甲斐なさを感じつつも、大人のズルさみたいなものを感じずにはいられなかった。
光恵の死体が発見されるのは時間の問題だ。
杏にもそれは痛いほど分かっていた。
大好きな淳に栄光あれ!と思ってとった行動であった。本音がまったく見えないトオルに何て言って良いか杏は迷った。
『捕まっても、いいです・・・。』
杏はそう答えた。多少の計算はあった。捕まりたくないと言えば、虫が良すぎるからだ。
『馬鹿やろう!』
杏にとってはある種、予想通りのアンサーだった。内心、少しホッとした。
トオルは杏の手を引き、自陣のスタンドへ向かわせた。
杏は歩き出した。トオルは少し距離を置いて、杏の帰りを見守った。
『あれ?SCREAMのトオル君じゃない?』
他校の女子生徒がトオルを呼ぼうとしている。巨大組織SCREAMは全国区だ。
少しヤンチャな生徒でトオルを知らない方が珍しいほど、彼の名前と写真は出回っていた。
とりわけ関東圏では無敵な男だ。
田舎臭さが抜けない女子生徒にトオルの話題を振られた男子はチラっとトオルを見ると、すぐに目をそらした。
通路を彼が通過してから、
『間違いねぇ。でもやべぇよ。』
と、もの珍しそうにこちらにトオルを呼ぼうとしている女子を制止しようとした。
『トオル君!』
懲りずに女は彼の名前を呼ぶと、すぐに物陰に身を隠した。
『お前、君付けで呼ぶなよ。殺されるぞ。』
『だって皆、トオル君て呼ぶじゃん。』
育ちの悪そうな女はふて腐れた。
トオルは振り返りもしなかった。
女は往々にして楽勝に上下関係を飛び越える。
それはあまり男からは理解できない。男が10年ぐらいかけて築き上げた関係性をも、
5分で飛び越えようとしてしまう奴がいる。
『お前、何様だよ!』
男子生徒はトオルを君付けで呼ぼうとする女に突っかかり始めた。
『お前こそ何様だよ。別にアンタSCREAMのメンバーでも何でもないでしょ?マジ最低。』
女は自分の言葉の威力に確信を持っていた。
男は菓子の袋を女の頭に投げつけて、下らないイザコザは終わった。
この中学は、もうほとんどの選手がレースを終えているようだ。観戦に飽き始めていた。
杏が再び自分達の観戦席に戻る。
トオルは少し離れた場所でその様子を見ていた。
杏は自陣のエリアの一番上のベンチに一人で座り、誰にも話しかけずに手首を回しながらプールを見た。
あたかもずっと前から座っていたかのような顔を必死で作っていた。
一人で間が持たない杏は2つ下のベンチにあったオーディオを手にとり、イヤホンを耳にあてた。
レースを控えた選手がコンディションを整えるときの様にそっくりであった。
イヤホンから聞こえてきたのは由香が駅前で貰ってくれたバンドマンのMDだった。
由香の設定は自分のものより遥かに小さな音量であった。
しかし、杏はボリュームを上げることができなかった。
いつもはもっと大きめの音できくのだが、アナウンスや会場の状況が分からなくなることが怖くて仕方がなかったからだ。
『おい!』
杏は肩をたたかれた。杏はビックリして立ち上がる程だった。
イヤホンをずらして振り返ると、由香がいつも通りのサバサバした表情で立っていた。
動揺した杏は立ち上がった際にイヤホンのコードを引っ張り、ポータブルの本体を地面に落としてしまった。
『ごめん、ごめん。びっくりしたぁ。ごめんね、落としちゃった。』
『うん、はいはい。いいよ別に買ったばっかだし。』
由香が冗談まじりに言う。
『ほんと、ごめんて。』
『あんた、何キョドってんのさ?』
『あっ、んん。大きい音で聞いてて、全く外に意識が行ってなかったから・・・びっくりした。』
『ほんと天然だよね。計算?そりゃカワイイ、カワイイ言われるわぁ。』
『もう、違うんだってば。』
2人の間に笑顔が戻った。トオルもその様子を見て少し安心していた。
『でさぁ、今、トイレ行ってきたんだけど、』
由香がそう言った。
どうやら、さっきまで由香はこの辺りに座っていてトイレに立ったようだ。
杏は由香の顔が見れなくなった。
『ねぇ、聞いてんの杏?』
下手な嘘は付けない。杏は胸の中でそう思った。
『あっ。』
杏は何かを思い出したかように席を立ち、ベンチには由香のオーディオを残したまま、ずっと前方に座るマリや陽介の元へと歩き出した。
由香は不思議な顔をして杏の背中を眺めていた。