まるで何事もなかったかのように通路へと出た2人は、うつむきながらスタンド席へと消えて行った。
トオルは平然を装うと、レースが行われているメインプールを眺めながら独り言をブツブツ言い始めた。
必要以上に財布をいじりながら、何かを呟くアダルト系購入者のように不自然だった。
拳銃と光恵の携帯が入ったポケットの重みを感じながら、トオルは杏の背中をさすっていた。
『何も恐れることはないよ。杏ちゃん、安心して戻りなね。』
トオルはプールを見たまま左横にいる杏に帰るように命じた。
『私、どうすれば・・・。』
『大丈夫だって。何も心配するな。』
『だって・・・。』
『だって? だって何だ? お前はどうしたい?』
『・・・。』
不安な心境になっている杏にとって、どうしたい?と投げかけられるのは辛かった。
意地悪にも思えた。トオルが銃殺した自分の事をどう思っているか、まだ言葉で聞いていないからだ。
トオルは大人すぎて難しい。
杏は自分の不甲斐なさを感じつつも、大人のズルさみたいなものを感じずにはいられなかった。
光恵の死体が発見されるのは時間の問題だ。
杏にもそれは痛いほど分かっていた。
大好きな淳に栄光あれ!と思ってとった行動であった。本音がまったく見えないトオルに何て言って良いか杏は迷った。
『捕まっても、いいです・・・。』
杏はそう答えた。多少の計算はあった。捕まりたくないと言えば、虫が良すぎるからだ。
『馬鹿やろう!』
杏にとってはある種、予想通りのアンサーだった。内心、少しホッとした。
トオルは杏の手を引き、自陣のスタンドへ向かわせた。
杏は歩き出した。トオルは少し距離を置いて、杏の帰りを見守った。
『あれ?SCREAMのトオル君じゃない?』
他校の女子生徒がトオルを呼ぼうとしている。巨大組織SCREAMは全国区だ。
少しヤンチャな生徒でトオルを知らない方が珍しいほど、彼の名前と写真は出回っていた。
とりわけ関東圏では無敵な男だ。
田舎臭さが抜けない女子生徒にトオルの話題を振られた男子はチラっとトオルを見ると、すぐに目をそらした。
通路を彼が通過してから、
『間違いねぇ。でもやべぇよ。』
と、もの珍しそうにこちらにトオルを呼ぼうとしている女子を制止しようとした。
『トオル君!』
懲りずに女は彼の名前を呼ぶと、すぐに物陰に身を隠した。
『お前、君付けで呼ぶなよ。殺されるぞ。』
『だって皆、トオル君て呼ぶじゃん。』
育ちの悪そうな女はふて腐れた。
トオルは振り返りもしなかった。
女は往々にして楽勝に上下関係を飛び越える。
それはあまり男からは理解できない。男が10年ぐらいかけて築き上げた関係性をも、
5分で飛び越えようとしてしまう奴がいる。
『お前、何様だよ!』
男子生徒はトオルを君付けで呼ぼうとする女に突っかかり始めた。
『お前こそ何様だよ。別にアンタSCREAMのメンバーでも何でもないでしょ?マジ最低。』
女は自分の言葉の威力に確信を持っていた。
男は菓子の袋を女の頭に投げつけて、下らないイザコザは終わった。
この中学は、もうほとんどの選手がレースを終えているようだ。観戦に飽き始めていた。
杏が再び自分達の観戦席に戻る。
トオルは少し離れた場所でその様子を見ていた。
杏は自陣のエリアの一番上のベンチに一人で座り、誰にも話しかけずに手首を回しながらプールを見た。
あたかもずっと前から座っていたかのような顔を必死で作っていた。
一人で間が持たない杏は2つ下のベンチにあったオーディオを手にとり、イヤホンを耳にあてた。
レースを控えた選手がコンディションを整えるときの様にそっくりであった。
イヤホンから聞こえてきたのは由香が駅前で貰ってくれたバンドマンのMDだった。
由香の設定は自分のものより遥かに小さな音量であった。
しかし、杏はボリュームを上げることができなかった。
いつもはもっと大きめの音できくのだが、アナウンスや会場の状況が分からなくなることが怖くて仕方がなかったからだ。
『おい!』
杏は肩をたたかれた。杏はビックリして立ち上がる程だった。
イヤホンをずらして振り返ると、由香がいつも通りのサバサバした表情で立っていた。
動揺した杏は立ち上がった際にイヤホンのコードを引っ張り、ポータブルの本体を地面に落としてしまった。
『ごめん、ごめん。びっくりしたぁ。ごめんね、落としちゃった。』
『うん、はいはい。いいよ別に買ったばっかだし。』
由香が冗談まじりに言う。
『ほんと、ごめんて。』
『あんた、何キョドってんのさ?』
『あっ、んん。大きい音で聞いてて、全く外に意識が行ってなかったから・・・びっくりした。』
『ほんと天然だよね。計算?そりゃカワイイ、カワイイ言われるわぁ。』
『もう、違うんだってば。』
2人の間に笑顔が戻った。トオルもその様子を見て少し安心していた。
『でさぁ、今、トイレ行ってきたんだけど、』
由香がそう言った。
どうやら、さっきまで由香はこの辺りに座っていてトイレに立ったようだ。
杏は由香の顔が見れなくなった。
『ねぇ、聞いてんの杏?』
下手な嘘は付けない。杏は胸の中でそう思った。
『あっ。』
杏は何かを思い出したかように席を立ち、ベンチには由香のオーディオを残したまま、ずっと前方に座るマリや陽介の元へと歩き出した。
由香は不思議な顔をして杏の背中を眺めていた。