『何故、撃った?』


トオルが小さな声で杏に問い掛けた。


『急に誰かの足音が聞こえてきて・・・、銃を構えている私を試すかのように、彼女が挑発的な目で私の事を見てたから・・・。』


杏は素直に告白した。


トオル自身の足音が光恵の死を誘発した。


『そうか。』


トオルはそうとだけ答えた。


杏は淳のことが頭にあったことを付け足そうと思ったが、言葉は彼女の喉の高い位置で蒸発した。


トオルがトイレのドアを押さえながら、少し焦っている表情を見せたからだ。


ドアノブを押さえながら、杏にジャージを脱ぐように指示し、トオルは水着姿となった杏にドアノブを持たせた。


杏のジャージを丸め込んで抱えたトオルは光恵の横たわる個室に入り、思いつくあらゆる部分をジャージで拭きだした。


まるで自分や杏の指紋を拭き取ろうとしているかのようだ。


所々、血液がジャージによって引き延ばされ、白色の壁を汚してしまう結果となった。


自分の頬から滴り落ちた汗を、トオルは怒りに満ちた表情で凝視してから踏みにじった。


個室の鍵をかけて上から出ると、神経質なくらい自分の軌跡を杏のジャージで擦り付けた。


いつも涼しげな顔をしているトオルの顔面は汗でびっしょりであった。


割れた鏡の前に立ち、顔を2、3度濯ぐと、ジャージで顔の水滴を拭き取った。


トオルはなんて無様な姿なのだと、ギザギザな鏡に映る自分を見て


『FUCK!』


と激を飛ばした。


そして、その勢いで杏の体を抱いた。


まるで杏を光恵と勘違いしてるかのごとく、強く彼女を抱いた。


杏には意味が分からなかった。


左手でドアノブを押さえながら、杏は抱かれた。


獣に抱かれる恐怖感と快感が入り混じる感情が芽生えながらも、同じぐらいのパッションを有した淳が今頃レースに臨んでいるのではないかと頭の中で想像が始まっていた。


トオルはどうにか杏を肯定したかった。


最愛の人を撃ち殺した彼女を無理やり燃焼させた情熱で包み込んだ。


彼の両腕の感触次第で一瞬にして冷めてしまいそうな緊張感が共存した、彼の抱擁バランスは、しばし平衡を保ったまま、互いの額で2人の汗が混じりあった。


そこに言葉は無かった。


言葉にできなかった物質が2人の間にできた道を行き来した。


自然と杏の左手はドアノブから離れ、目に涙がたまっていた。


それを感じたトオルがジャージを隠すようにして、そっとドアを開き、彼女の背中を摩りながら混み合う通路へと出た。


野見山に会ったら伝えて下さい。


”俺が必ず迎えに行くと。


そして、俺ら、もっともっと有名になろうと伝えて下さい。”



淳からの短いメールだった。


まだまだ物足りないと言わんばかりのメールだ。




トオルは杏に言った。



『牢屋に入る前の奴に、こんなメッセージかよ。』


トオルは光恵の携帯を杏に見せる。


杏は淳のメールを読んだ。そして送信元のアドレスを何度もチェックした。


紛れもない淳からのメールだった。


杏は嬉しかった。


内容的には危なっかしいかもしれないが、


淳が未来のことを少しでも考えていたからだ。


杏は淳が今どうしているかが気がかりであった。



早く淳に会いたかった。




そんなことを心の中で思っているとトオルの呟きが杏の耳に入ってきた。



『アイツは俺から何もかも奪って行くつもりか。』



SCREAMからの引退や光恵の死。



トオルはメールを読んだ直後から、大事な物をいとも簡単に奪われた気分になっていた。



杏は血まみれになっている自分の姿すら忘れて、心は淳のことで一杯になってる事に気づかされた。


光恵を銃殺した目の前の事実から反射的に逃避するかのごとくトオルとの会話を不毛と思感じ始めている矢先での


トオルの呟きだった。


杏は恐る恐る顔を上げてトオルを見ると、目が少し赤いトオルは怒りに満ちた顔をしていた。


杏は淳に対する嫉妬心の表われだと察知した。


トオルは杏の顔を見つめて言った。



『小せぇな、スケールが。散々好き放題やっといてよぉ。』


トオルの怒りの怒声が静かなトイレに響いた。


巨大組織SCREAMの元ヘッドの今後の野望が気になりもしたが、


これから取るトオルの行動を想像すると恐ろしさを感じずにはいられなかった。


トオルはこの個室から出て次へ行こうと頭が切り替わり始めている。


と同時に、光恵という一人の女にどれほどのインパクトや興奮を与えられただろう


という回顧が同時に行われた。


プライベートとしての彼女、仕事人としての彼女。もっともカテゴライズしずらい人物だったが


どの側面から見ても、彼女にとって自分が一番の男だったと確信した。


それが今の彼の唯一の誇りと自信だ。


そう思える相手を愛せて良かったと、トオルは頭の中での回顧を締め括った。



『まだだ。俺も小さいかもな。』



トオルは個室のドアを開けた。


血まみれの個室がアラワになる。


安らかに眠る光恵に新しい風が当たり、長い髪の毛が揺れた。


風は生ぬるく、真っ白くギラついた太陽が少し開いたスリガラスの窓の隙間から見えた。


光恵の額には未だ薄っすらと汗の粒が浮かんでいた。


トオルはトイレ入り口のドアを押さえながら杏に出てくるように命じた。


外の空気は美味かった。


夏ももうすぐ終わる。


海に行きたいような、行きたくないような気分だ。


トオルの中でリセットしたい気分がリアルになってきている。


『杏、早く出て来いよ。』


杏は返事はするものの中々出てこない。


『お前もレース控えてる身だろうが。出てきなよ。』


光に触れることが怖いのであろうか、杏は薄暗い個室でしゃがみ込み、


顔に手を当てている。




『もう夏なんて終わっちまえや!』


トオルは目の前の手洗い場の鏡を拳で叩き割った。



『すみません。』


少し大きめの返事をした杏がよろけながら個室から出てきた。


杏はトオルにどう話しかけて良いかが分からない。


どう謝ればいいのかも。




あいてしまいましたね。


今日から再始動。

トオルは光恵の手を握った。


彼女の指先からは血がしたたり落ちている。


杏は黙ってその様子を見ていた。


時折スタンドの歓声がけたたましいほど大きくなるが、トオルも杏もそれどころでは無かった。


しばらくしてトオルが光恵のもう片方の手も握りだした。


ただ光恵の体温を感じているだけではないようだ。


2人の両手が結ばれ、ループ状になるとトオルは目を瞑った。


トオルの口元がわずかに動いているのが杏には見て取れた。





絡まりすぎてややこしかった糸が、ゆっくりと解けようとしている。


思いやりも空しさも、お互い伝わりずらくなったこんな時、


さも大げさに、一期一会を口にして、


僕ら2人にだけ効く魔法の粉、互いの空に振り撒いた。


まだ温かい君に、僕は大切な腐れ縁感じている。




好きと言いながらも、やっぱ好かれたい。


だから騙しあいは否めない。


時に不本意に、時にややこしく。それが長続きの秘訣ね?




絡まりあう程、悩んだね。


誰もが皆、繊細。


おちゃらけてる様で相性って奴には敏感なんだ。


クローゼットには入りきらない胸騒ぎ、


誰にも見つからないように身に付けた。


あそこでの待ち合わせ、悩みながらもいい足音心掛けた。



自分らしさもプライドも頭に無い、本能的なあの日程、


本音を出し惜しみしたあの日程、


全てが手探りだけど、


今となっては素敵に思えて、誰にも迷惑をかけないような、


旧友も知らないような、


いけない事をできた気がする。



もう一度君との悩ましい快感を。


僕は正直求めている。


本当の愛かどうかを疑うような


優しいキスを。


今の僕らの薄目具合は丁度良い感じに


あの頃に似ている。








ウジウジ考えたけど、もう何も言葉はかけないよ。


時間がないし。


もう結末は分かっているから。


君が冷めてしまう前にキスで終わろう。


もう一度、最後の熱を入れよう。


ほら、こんなに欲情してんだ。


もうすぐ道ができるよ。


相変わらずだけど、久しぶりだろう。


俺とお前しか通らない道だけど、


今日はしっかり送るよ。


もう2度と通れないだろうからね。


誰も見てないし、思いっきりいけない事をしよう。


何なら仮面を付けて。




大丈夫、なんだかんだとウジウジ考えても


全ては君の歴史の産物。


見れて光栄だよ。


さっさとお気に入りの仮面を付けろよ。それすら愛せるから。


散らかってけど、久々寄ってけよ。


キスだけだってば。


目を瞑ってくれな。


もういいんだ、瞑ってさ。


頼むよ。


最後だし、俺は仮面をとるからさ。


ほらね。


これからの君にも、僕にも、


言おうか。



”おかえり、


そして、行ってらっしゃい。”



thank you光ちゃん。


ごめんな。














トオルが2人のいる個室にダイブした。


杏の持つ銃が上を向いた。


ブルブルと震えている杏の腕に飛び込んだトオルは


拳銃を奪い取ると、個室のドアに激突した。


しゃがみ込んだトオルの目線の先には丁度光恵の膝があり、


血まみれになった彼女の上半身をゆっくりと下から見上げて行った。




生気も何もかもが吹っ飛んだ彼女は別人のように綺麗だった。


廃盤になって入手できない懐かしのレコードを思い出しながら口ずさむ時の気分だ。


いつだって思い出して歌える場所は一緒だ。


トオルが決まって思い出し、リピートしてきた彼女に対する最高の記憶の断片が、これ以上無い形で目の前に存在した。


同時に、仮に時が止まった時の虚しさを実感した。



日に日に曖昧になって行き、美化してきた虚像の根本は胸騒ぎだ。


今から思えば、やり直したいと思った日ほど、心は揺れまくっていた。



全くもって揺れることも、膨らんで張り裂けそうになることも、


増殖して不安になることも無く、まるで石のような完璧な心を手に入れた代償は大きかった。


女々しい事だとは分かっていた。さんざん憎んできたが、彼女のことが好きだったことにトオルは気づかされた。


常日頃、ムシャクシャしたら物事に終わりがあることを教えてやるつもりでいた。



目に涙が溢れ出し、大粒の涙が零れ落ちた。


この思いを何処まで遠くに飛ばしても彼女には届きそうにない。


もうどんだけ思いを募らせようが、掻き集めようが、2度と彼女には伝わらない。


今はただ、会えてよかった、と


それすら伝えられないことが悔しくて、悔しくて仕方が無かった。


本気を出し惜しみした気分だ。



光恵に熱さが無いと言われるのが影ながら大嫌いだった。


本当は、誰よりも野心家だ。


光恵に対しても同じだ。


ハングリーなんて心にしまっておけば良いと思っていた。


口に出して言うものではないと思っていた。


言ったもの勝ちなんて真っ平だ。


取り分け光恵には伝え方が分からなかった。





今なら大声で叫べるのは何故なんだ?


ココにはもう戻らないよ。


もう2度と言わないから、今日だけは聞いてくれ。