光恵は杏の顔を見ながらゆっくりと
個室に入ろうとしていた。
『さーせん。』
個室のドアを開けて待っていた杏に軽く頭を下げてそう言うと、
右手でドアを閉めようとした。
ドアは止まった。
杏が足を挟んでいた。
無意識で挟んでいたようにも見える。
怪訝そうな表情を浮かべ光恵は再び杏の顔を見た。
杏は実に涼しい表情で光恵の胸の位置を眺めていた。
『なーに?』
光恵は杏に言う。
『ちょっとそこまで。』
目線を変えずに杏は答えた。
『ここまで入ってこられたら・・・。分かるよね?』
杏は上着のポケットに手を入れる。
光恵の体より奥にある洋式の便器を見ながら言った。
『いいじゃないですか。どうせオシッコするわけじゃないんだから。』
左手で光恵の体を少し押しながら、ドアを勢い良く閉めた。
ドアがバーンと音を立てて閉まる音が響き渡った。
光恵は体勢を崩し、便座の上に座り込んだ。
光恵が勢い良く倒れこむ様を見て、杏の心は少しばかり痛んだが
勇気を振り絞って光恵に言った。
『すみませんが・・・、すみませんが野見山君を呼んで下さい。』
『・・・』
光恵からのレスポンスはない。
とりわけグロッキー状態というわけではないが、
ぼんやりと何かを考えているようであった。
『野見山君を呼んで下さい。』
杏は小さな声で再度光恵に促した。
『愛は勝つ?』
便座に座った光恵がつぶやく。
『勝つと思います。』
『誰に何をしてるのか、アナタ分かってるわね?』
光恵は一転して吹っ切れた表情に変わった。
杏は答えなかった。
『どうしても?』
光恵の質問攻めが始まった。
質問の意図が良く分からなかったが、杏なりに考えた。
『どうしても・・・です。淳は私が、私が守ります。』
杏はそう言い終えると唇を噛んだ。
照明が行き届いていない端っこの薄暗い個室の中で
2人の会話は続いた。
2人とも小さな声だった。
光恵は相変わらず便座に座り、杏は個室の壁に寄りかかるようにして立っていた。
『愛さえあれば・・・か。』
光恵が独り言のように呟く。20歳の女は犬のような可愛い表情で目を細め、
少し眉間にしわを寄せた。
『はい。』
少し間をおいて杏が相槌をうった。
『愛さえあれば何なの?』
『えっ?・・・。』
『何なのよ?』
『鬼に金棒です。』
『ふーん。』
光恵は少し笑みを浮かべた。
愛想笑いのような形になったが、杏もつられて少し笑った。
『私も、これがあれば鬼に金棒なんだ。』
光恵が携帯を再び持ち、すぐにボタンを長い指で押し、
これ見よがしに携帯を耳にあてた。
同時にトイレのレバーが引かれ、杏の口元が動いた。
杏は水の音で電話を妨害したかった。
『野見山をよんでください。』
杏は口パクで連呼した。
水の音が激しくなろうが、光恵は携帯を離さない。
光恵の話はまだ核心に迫っていない。
何の連絡を誰にしているのかが分からない。
『野見山を呼んで下さい。』
再度口パクしたが、光恵はとりあわない。
『あっ、うん、全然大丈夫。』
光恵が電話相手に言ったその瞬間だった。
杏はトイレのレバーを足で踏んずけながらポケットをまさぐり
タオルをほどくと光恵にまたがるような体勢で拳銃を突きつけた。
光恵の声が止み、顔色が変わった。
杏は目を大きく開き、オデコに汗をかきながら銃を光恵の顔に接触させた。
『野見山呼べよ。』
杏は声に出してそう言った。
杏は再びレバーを足で踏んずけた。
水が勢い良く流れ、その轟音が止むまで沈黙は続いた。
水の流れがおさまった時、トイレのドアが開き、誰かが中に入ってきた。
その足音が聞こえてきた瞬間、杏はタンクの上蓋で頭を激しく強打された。
蓋は割れ、杏の嗚咽と共に、地面に破片が飛び散った。