『他にトオル君から言われたことがあるでしょ?』


光恵は杏の目を見て言った。


杏は黙って光恵の目を見続けた。


黒目と茶色の構成をまじまじと眺め、目玉の弾力を想像した。


杏には温度のない光恵の恐ろしい目に負けぬように、大きな目玉を単なるゴム玉として認識しようとしていた。


『いえ、特にありませんが。』


『そう・・・。』


光恵はそう言うと、トイレの真ん中に立ったまま携帯を取り出した。


携帯のボタンを押しながら再び口を開く。


『アナタ好きになった相手が悪かったわね。』


光恵が数回携帯のボタンを押し、画面に目をやっていると


杏もつられて携帯を取り出した。


杏はアドレス帳を眺めた。


光恵はその動作をチラっと見た。



光恵は杏に言った。


『彼に電話しとく?』


杏はその意味が分かっていた。


『・・・。』


杏は答えなかった。


『電話するだけしてみれば?』


杏は淳の家の玄関先で見たときから憎いと思っていた目の前の女に


好きな男に対する助言を受けることが気に入らなかった。



『はい。そうします。』


杏は携帯のボタンを押し、耳にあてた。


トイレ内を動きながら話し始めた。


光恵にはそれが照れ隠しのように見えた。


『もしもし、今どこ?』


トイレで杏の声だけが響いていた。


『あ、そうなんだ。まぁなんとなくなんだけど。』


『うん、そう。いつも通りてきとうーな電話。』


『私疲れてくると目にくるタイプじゃん。だから今、俄然二重。右だけ。』


『うーん、何ていうか最後だし・・・、これからもよろしくねって話しだよ。』


『はい、はい。気をつけます。またね。』



杏は淳の今大会への意気込みを誰よりも知っていた。


自分は普通に泳げれば表彰台は確実なのだが、淳は違う。




電話の相手は由香だった。


杏は携帯を閉じると目を閉じた。


すぐに光恵に視線を戻し言った。


『おトイレはお済ではないですよね?』


『あ、うん。』


光恵が杏に目をやる。


『どうぞ。』


杏は個室のドアを開けて待っていた。