『野見山? はい、はい。噂で聞いたわ。大きな事件だったものね。』
『あの事件に、とあるセンシングの手法が絡んでいるらしいのですがご存知でしょうか?』
『知らないわ。聞いてないわ。』
『もし良かったら、少しレクチャーして頂けないでしょうか。こんな感じのモデル図なんですが。』
淳は紙切れに記憶していた図を描いた。
『下から、基盤、ポリマー、抗体、抗原、ポリマー、粒子です。この系に新たに抗原が添加されます。』
『はい、はい。基盤にこのような系を作って、光学装置で測定するの。結合の度合を屈折率変化で見るのよ。抗原が低分子の場合は、抗体と結合しても、屈折率変化が乏しいから、正直、結合したかどうかが分からないのよ。』
『それを改善したモデル図なんですよね。』
『そう。』
『ゼロから実験する時、何から始めますか?』
『ポリマーの合成からかな。』
『このポリマーは、どのように合成して、どんな役割がありますか?』
『主鎖の物質が何かわからないけど、両末端に官能基を導入する必要があるから面倒ね。狙った分子量になるように重合して、分子量分布や官能基の導入率をチェックして使えるか、使えないかを判断するわ。恐らく、この作業を3回。3段階で官能基を変化させながら目的の官能基を導入するの。どこかのステップで失敗すれば、やり直しね。』
『失敗とは?』
『最初の仕込み量を大量にできれば良いんだけど、それでは官能基の導入率がガクっと下がって使い物にならないの。だからほんの数グラムの仕込みで、3回合成して、回収しなくてはならないの。回収率が悪いと次の合成ができなくなって3回もたないのよ。デリケートなポリマーね。』
『そのポリマーは後で使用するから、できるだけ多めに欲しいわけですね。』
『そうね。それで、この手のポリマーは生体適合性があって、異物とみなされずに体内環境でも使える優秀なポリマーだと思うわ。そして、色んな火の粉を払いのける役割があるの。』
『どういうことですか?』
『抗体と抗原の反応を見たいのよ。ただし、実践レベルでいうと、血液には色んなタンパク質があるでしょ。関係ない物質が相互作用しないように、ポリマーが運動して吸着を抑制するの。』
『高級なポリマーですね。』
『ええ。これが完成したら、市販のコロイド溶液、おそらく直径5ナノとか10ナノぐらいの金や銀のコロイドに混ぜてあげるの。これが粒子ね。そしたらその後、ポリマーが沢山結合した粒子の溶液に抗原を混ぜるの。』
『ポリマーの末端と抗原の末端が結合するわけですよね。』
『分散している粒子は不安定なので互いにくっつき合って凝集しやすいの。ポリマーは粒子を分散安定化する役割もあるわ。』
『なるほど。あとは抗体の登場ですね。』
『そう。反応を起こさせる活性ポイントを作る必要があるわ。抗体を設置するの。金の薄膜の上にポリマーを固定化させて、その先端に抗体を付けるのよ。抗体を付ける前にポリマーを固定化した基盤を装置の中へ入れて、濃度調製した抗体を装置のシリンジに吸わせるの。これ以降は装置の仕事よ。』
『ポリマーは不必要な吸着を抑制しつつ、抗体を担ぐわけですね。』
『そこに抗原の付いた粒子を流し込む。すると抗原と抗体がくっつくの。ちなみに、金のコロイド粒子を用いると金の薄膜と近づいたことでプラズモンというものが共鳴されて大きなレスポンスが見られるの。』
『粒子側と基盤の薄膜側が似たもの同士の方がいいわけですね?』
『そう。一度レスポンスを急激に高めておいて、新たな抗原との競合反応でこれが解離した時、一気にレスポンスは減少することになるのよ。このレスポンスの減少は解離を意味し、同時に新たなフリーの抗原の結合を意味するのよ。』
『各々の役割もわかりました。ありがとうございます。大変なのはポリマーの合成ですか?』
『そうね。あと精製。特に粒子側のポリマーに抗原物質を導入するとすごく不安定になると聞いたわ。精製段階でつまずくこともあるみたいね。』
『合成、調製、精製、評価って感じですね。』
『勿論、評価も大変よ。評価前なんて道具集めにすぎないじゃない。評価こそ色んなバリエーションがあって、頭を使う所だわ。』
『評価を押しますね。』
『私は評価が好きだから。』
『はい、わかります。すごく器用そうですもんね。それに実験室で見た人のように液体窒素をぶちまけているイメージはないし。』
『器用っぽく見える?嬉しい。あっ、液体窒素はね、ポリマーを凍結乾燥してパウダー状にする時に使うの。確かに合成は苦手な方かな。』
『少量しか取れないポリマーですから、合成も頻繁にやらなくちゃ駄目なんでしょうね。』
『だね。まぁ、違う研究テーマの人でも同じポリマー使ってる人がいるからいざとなったら貸してもらうけど。』
『もし、合成や評価の役割分担ができるとしたら、評価の作業に没頭したい派ですかね?』
『そうね、どっちかと言えば。』
『システムを作っていくのに向いているんじゃないですか。今回の系で言うと、どこがポイントになりますか?』
『基盤の表面の構築に関してでしょ。もしも良いポリマーができているなら、抗体の固定化量ね。そこが毎回再現すると、その後の評価はうんと楽になると思うわ。基板上のポリマーの数は恐らく再現がいいと思うの。その先端に付く抗体の数に関しては疑問ね。過剰量を添加して抗体がしっかりと付いている状態を毎回再現できれば、抗原抗体反応って相性がいいから起こりやすいし、フリーの抗原添加までの不安要素は消えるわね。』
『話は戻りますが先ほどの野見山と僕はCANDYっていうチームを結成しました。このモデル図を見て、僕がポリマーで彼が抗体です。彼は、僕たちが踊っていた屋上に姿を現すようになった。それまで単独行動していた彼がです。何故、彼は屋上に来たんでしょう?』
『そういうのは分からないわ。』
『その屋上には、たまにトオルさんもいました。彼女のアナタは何も知りませんか?』
『ほんとにチームのことは分からないのよ。ほんとよ。』
『少し話は変わってすみません。僕はさっき来たときこのパネルをざっと見て研究室を探そうと思ったのですが、皆さんパワーポイントって使えるんですか?』
『うん。月に1回、研究の進展を先生に発表する時とかにパワポで作るわ。このパネルの図は私のパワポからのコピーよ。』
『上手ですね。僕、実は話しながら見てて気づいてました。ただ、それを祐子さんが作ったとは知りませんでしたが。ある人が今日、さっきのモデル図を見せてくれたんですよ。パワーポイントによる図でした。その配色とそっくりだなと思って。』
『誰?実験室の人?』
『トオルさんですよ。』
『あれ?渡したっけ?』
『渡してないんですか?』
『ちょっと憶えてないわ。』
『トオルさんは貰ったと言いましたが。』
『それはない。』
『それはない?渡してはいないんですね。』
『渡してないわ。』
『何故言い切るんですか?』
『そんな記憶は無いからよ。』
『では、トオルさんがどうにかして自分で入手したと。そもそも自分のテーマじゃないパワーポイントを作るものなのですか?』
『あれは、来年研究室に配属される人の為に作ったの。私は4年生で、研究室では一番下ってこともあるし、その4年の中で図を作るのが上手いってことで。でも結局、メインのテーマの図を1個決め手大きく載せることになって、今回のモデル図はパネルに使用しなかったから。』
『パソコンの中に保存されているはずだと。だから、渡していないということですね。では、何故トオルさんは必死になってその図を入手したのでしょう?』
『さぁ。わからないわ。』
『何故PCから図を入手するのに、PCの持ち主である彼女に知らせなかったんですかね?』
『信じられないわ。トオルくんが取って行ったなんて。』
『トオル自身が大学の敷地に入って取ったとは限りません。誰かが忍び込めばいいだけですから。僕達がここにいれるぐらい大学はオープンなわけだから、誰だって入れますよ。ちなみにトオルさんは博識のある男です。でも、ここまでの原理を理解するほどでは無かったでしょう。でも、急遽この図が欲しくなった。この図の意味を知ったわけですね。色々リサーチしたんだと思いますよ、あなたの周辺を。そしたら、その類の物ならアナタのPC内に確実にあるのでは?という情報を入手したんじゃないでしょうか。最近のことだと思います。来年の学生用に作ったという情報を入手したならね。何故アナタに連絡しなかったのでしょう。連絡できない事情があったと考えるのが普通かと思います。』
『事件と関わりがあるんじゃってことが言いたいんでしょ。でも、事件はとっくに終わってるじゃない。去年の話しよ、事件は。この図はついこの間作ったものだもの。先月の終わりぐらいからだわ。』
『何らかの知識を得たトオルさんは、これに沿う現象は無いかと探して、アナタにたどり着いた。仮にそうだとしたら前からこのことが引っかかっていた。それが去年からでもおかしくはない。ようやくシステムらしき物にき気づき、リサーチの末モデル図を特定した。それでもアナタに連絡しないということは・・・、わかりますよね。』
『極秘だったということでしょ。』
『少なくとも彼は気づいたんですよ、この図にアナタが関係していることが。それも重大な。』
『仮定の話しだわ。こじつけに近いし。』
『この図を実生活に落とし込む話しをした時、心理学みたいって言いましたね。つまり、化学的ではないと。なぜそのような反論が出てこないのですか?』
『それは余りにもバカげているからよ。』
『研究者のアナタからなら、まずその反論が来ると思いましたが。』
『そうですか、トオルさんなんですが、僕にこう言いました。この事件の首謀者は傍観者だと。』
『私だっていいたいの?』
『実際にアナタだと言っていました。』
『ふざけないで!』
『この模様を見て興奮するのは傍観者じゃないですか?』
『違うわ。』
『装置の脇のモニタを眺めているアナタが浮かびますが。』
『一番興奮するのは実験者に決まってるでしょ。さっきの話だったらポリマーを合成した人間よ。自分の力で一点尾の曇りも無いようにと、今回こそはと丹精こめて合成して、徹夜して精製したポリマーがしっかり機能したのを眺めることができるのよ。』
『さっき、ポリマーは道具にすぎないと言っていましたが。やはり、評価の前段階も重要ってことですよね。それは全然いいんです。研究者として合成から評価まで一人でできることって重要なんでしょうね。因みにトオルさんが普段何故、そのような本を読まれていたか知っていますか?一つはアナタに惚れていたからです。アナタと少しでも多く話しが合えばと思っていたに違いありません。アナタのことを一番大切に扱っていたから。そのお金を出してあげて、注文した本を受け取っていたのは誰か知っていますか?』
『知らないわ。』
『アナタが知っている人です。トオルさんが最も居心地が良さそうな顔をしているのは彼女と一緒にいる時でした。それに一番過ごす時間も長い人だった同い年の子。光恵さんです。』
『・・・・』
『彼女もアナタのことが気に入らないと言っていました。お互い様ですね。但し、彼女はトオルさんが何故そんなに狂ったように本を読むのかは知りません。SCREAMのヘッドとして舐められないように教養を身につけていると思ったことでしょう。彼女はヘッドとしての勉強代としてお金を立て替えて、彼の側に寄り添っていました。』
『ウソよ。あの子が知らないわけがない。私をバカにしていただけよ。でも、だからって私は事件には関わってないわ。』
『ご存知なんですね、事件の詳細を。トオルさんは、光恵さんのことは深夜の病院で気づいたようです。』
『噂で聞いたわ、あの子のことは。』
『聞かせて貰えませんか?』
『野見山くんとデキて逃げてるって。』
『野見山と付き合ってるんですか?』
『トボケないでよ。知ってるくせに。』
『何分、野見山とは襲撃前会ったきりなので。』
『そんなコアな情報、どこで仕入れたんですか?』
『トオルくんか、その周辺が話しているのを聞いたの。』
『トオルさんがアナタにSCREAMのメンバーを合わせたんですか?』
『SCREAMのメンバーかは分からないけど、そんな感じの男友達よ。』
『どこのチームでも構いませんが、アナタをお披露目するとはね・・・、考えずらいんですよ。』
『・・・さぁ』
『光恵を切って独占状態じゃなですか。切ったといっても結果的かもしれませんが。同じ状況に陥ったらまた繰り返すんですか?他に女は五万といますよ、彼には。』
『繰り返すも何も・・・』
『そうでしたね。ただ、気を付けて下さい。トオルさんは今、アナタを疑っていますから。アナタの描いた絵で野見山に刺されて引退に追い込まれた、そう思っています。SCREAM自体も最強の面影を無くしています。何かが違ったんでしょう、当初の予定と。アナタと何かを共謀してたんじゃないですか?でも事件当日、思い描いた物と違うことが起こった。疑いはアナタに掛けられ、その仕組みを長いこと密かに探った。ついにカラクリを発見した彼が、アナタに連絡しないのは当然ですよね。もちろん推測です。』
『・・・』
『少なくともアナタに裏切られたとは思っているだろう。面子を大事にする奴だ。これ以上はマズイっすよ。殺されるかもしれない。本当のことはなしましょうよ。アナタ嘘が付けないんだからさ。今なら間に合うかもしれないっすよ。今日トオルと2度会いました。久々なのに2回もです。随分引きこもってたのか、どこか遠くへ行っていたのか知らないが、全く姿を現さなかった男が最近動き回っている。しかもそれが、トオルだ。俺はSCREAMの3代目を甘く見たことは一度もないっすよ。そして、俺の経験からするとかなり危険だ。今日会って、急ぐように去って行った。焦っているようにも見えた。これからココに訪れるかもしれない。今のうちに本当のことを話してくれ。』
『・・・』
『アンタなんだろ? いいじゃないか、手は下していない。』
『・・・』
『俺らは明後日から大会だ。アンタの面倒は見れないぞ、もう。俺達だって野見山パクられてんだぞ、ナメンジャねーぞコラ。水泳やってなきゃ、今頃俺だって、殺人で捕まってるかもしれない。俺らは打ち込む物があるだけマシなんだよ。野見山は今頃・・・、アイツは・・・。アイツのことは俺らは絶対忘れん。死ぬ気で泳ぐつもりだ。あいつに届くように、泳ぎまくるしかないんだよ!お前もいい加減何か言えや!』
トオルは足早に走り去って行った。
淳は納得したような気分にもなったが、腑に落ちない気持ちも否めなかった。
『何焦ってんだアイツは。田中祐子か・・・。確かに傍観者かもしれない。しかし、彼女が傍観して楽しいのか?』
淳は陽介に電話を掛けた。
『ちょっと今から平気か? 単車で速攻来てくれ。』
『OK。久々の集会じゃねーだろうな?』
『それに近い。なんてね。人数を集める必要はない。屋上前に集合で。』
『了解。』
陽介の単車のヤカマシイ排気音は直ぐに聞こえてきた。
『木刀はいらん。相変わらず下品な単車だな。遠目に屋台かと思ったぜ。』
『一応、お祭り仕様のロケットカウルだぜ。喧嘩じゃねーの?』
『飢えてるな、お前。聞き込み調査だ。野見山の一件を忘れてないだろ?。今日はトオルに2回も会った。内、一回はあの件に関する黒幕の話となった。』
『トオルに会った? アイツ引退して海外行ってるって噂だったのに。』
『スカシタ車に乗ってたよ。トオル曰く、あの一件の首謀者は全くの傍観者らしい。それらしく皆を踊らせる絵を描いた奴はトオルの寵愛を最も受けている女だ。』
『そんな女いるのか? 光恵さんじゃないだろ?』
『光恵さんとは真逆な存在だな。もの静かでミステリアスな女だ。』
『そそるな。』
『飢えてるな、お前。まぁ、おもしれーからアタックしてみろや。』
『まずは、見てからな。で、その女で決まりなんだろ?』
『おそらく。ただ、トオルは何かおかしかった。焦っているとういか・・・何かに怯えているような・・・、気がした。気がしただけだが、引っかかる。裏を取る必要はあるだろう。今日ケリをつけるぞ。』
『怯えている? まさか警察か・・・。それとも、その女にか・・・。』
『さあ?何なんだか。急に現れて、どこか行きやがった。前、文化祭に乱入して踊った大学があるだろ?すぐのところだ。坂上がった所で単車止めてくれ。ヤカマシイからな、お前の単車。』
『結構、評判いいんだぞこの音。』
『警察にだろ? その音で居場所がすぐ分かるからな。』
『どうする?知らないチームとカチ合ったら。警察は?』
『チームなら潰す。目をそらしたら、明日から生きて生けなくなくなるからな。警察はシカトだ。全開で振りきってくれ。』
『俺はスタートから全開だ。単車も水泳もな。』
『ぶち抜けよ。でもコケルなよな。』
『単車も水泳もな!』
『うるせー。』
淳を後ろに乗せた派手な単車は発進した。タンクにCANDYのスッテカーは無かった。10分も走ると大学近くまできた。単車を敷地の一歩手前で止めて、歩いて入っていった。構内図で田中の学部の校舎の位置を確認し、建物へ入って行った。
『研究室にいるらしいんだが、どこかな。』
『科があるみたいだな。』
『生物系だったかな。』
淳が学生に尋ねた。
『生物系の研究室って何階ですか?』
『何科ですか?』
『あっ、生物だったと思うんですけど。』
『なんていう人?』
『4年の田中祐子っていう』
『さぁ?4年のことは知らないな。生物系なら3階か4階のどっちかだろうね。』
『ありがとうございます。とりあえず行ってみます。』
エレベータで4階に着くと、正面に研究室紹介のパネルがあった。研究室名と研究テーマが書かれていた。
『わけわかんねーな。何個あんだよ。』
『高分子、遺伝子をキーワードに探そう。ブラリと歩いてみよう。』
『おい、名前張ってるぜ、ここ。』
研究室前の廊下のロッカーに紙が張られていて、名前と在室、退室などが書かれており、各自のマグネットが貼り付けられていた。
『何だかんだ、他も張ってるな。その内、見つかるぜ。』
2人は廊下を歩いた。一番奥から2番目の研究室前に彼女の名前はあった。
『あったよ、おい。これ、これ。』
『マジだ。どうするよ?』
『じゃ、陽介、顔見たいだろ?行って来いよ。』
『ふざけんなよ。お前、俺は単車持ってきただけだろーが。』
『チキンが。』
『じゃあ、俺はノックだけする。』
『俺はドアノブを引く。』
『おい!』
『お前はホントに・・・。じゃ、ノックだけしてくれ。』
陽介はふざけてドデカイノックをした。
『テメッ。 あっ、田中さ・・・』
淳は部屋に入っていった。10秒もしない内に出てきた。
『どうだった?』
『白衣の下は・・・って感じだな。ありゃ、黒だな。』
『何が黒だ?まさか・・・見えたのか?おい!淳ちゃん。白衣の下は?』
『飢えてるな、お前。今日3度目な。犯人だって意味の黒だ。しかもこれは冗談だ。ってことを言うのが面倒だ。実験室に回ってくれってさ。ここは研究室で、隣が実験室。はい、となり!』
『じゃ、ノックノック!』
淳はドアを開けた。
『失礼します。失礼します、すいません!』
ポンプが何台も動作しており、うるさい部屋だった。おまけに頭がクラクラするような匂いに襲われた。
部屋には何人か学生がいるようであったが、一向にこちらへ来る気配がない。
長い実験台が横に4台あり、台の上にはスタンド組まれていて、コックの付いたガラスのラインが通っていた。
一番奥の台で白衣を着た男が巨大な容器を傾けて液体窒素を小さな瓶へ流し込んでいる。瓶から外れた液体窒素の丸い球が出入り口付近まで走しってきた。
『恐えぇ。』
陽介の声に気付いた男はこちらをチラっと睨むと、ゴミを捨てながら近づいてきた。
マスクを外すと2人の顔をじっくり見た。
『何か? 誰かに用ですか?』
『田中さんはいらっしゃいますか?』
『田中!』
男はデカイ声で田中を呼び、2人を指差すと、すぐに実験台へ戻っていった。
『はーい』という声とともにサンダルで歩くような音が聞こえてきた。
『はーい・・・どうしたの?淳くん。どうした?』
『え?あ、あのちょっと話したいことがありまして、お時間いただけませんか?』
『あ、うん。』
田中はビニール手袋を外しゴミ箱へ捨てると、実験ノートを覗き込んだ。
『ごめんね、今ちょっと実験中で手がはなせないの。あと20分くらい、いい?そこで一区切りつくから。ごめんね。エレベータの前に長椅子があるからそこで待ってて。』
『はい、大丈夫です。わかりました。』
2人はドアを閉めた。2人とも廊下で深呼吸した。
『くっせー。なんだこの部屋。頭がガンガンするぜ。あいつ絶対、黒だな。おかしいもん。しかも実験って。客が来てるのに実験だぜ。怪しいな。逃亡する気だな。』
『まぁそう言うな。突然の訪問だからな。』
『20分くらい、いい?の”いい?”で首を横にしたぜ。若干ぶりっ子だな。』
『はは。とりあえず、この実験室と研究室は見張るぞ。トオルに電話してたりしたら面倒だなぁ。』
廊下を奥まで進みきると階段があった。階段の手前にシャガミ、研究室の方を見張った。
15分程すると彼女は実験室からお菓子を持って出てきた。エレベータ方向へ向かった。
2人は彼女の背後を歩き、ついて行った。
『あれ?普通だな。逃げも隠れもしないな。』
田中は予定通り、長椅子に腰掛けると辺りを見回していた。
2人はすぐに姿を見せた。
『すいません。ちょっと見学してました。』
『あっ、お待たせ、ごめんね。お菓子食べて。』
『ありがとうございます。白衣着てるときって何かアクティブですね。』
『そう?そんなことないよぉ。』
『部屋すごいですね。はじめまして、三浦と申します。』
『はじめまして! どうもぉ。臭かったでしょ?色んな溶媒使ってるから。気化しやすいやつ。私はもう慣れたけど、初めはだめだった。研究に興味ある?三浦君は何になりたいの?』
『そうですね、電動コケシを作る人になりたいです。』
『バカヤロウ!』
『いいのよ、シモネタにももう慣れたたら。それにね、立派な技術だと思うの、これは冗談ではなくて。』
『コイツはそんなに深く考えてないので・・・。あの、センシングってあるじゃないですか?』
『うん。色々あるわ。』
『詳しいですか?』
『まぁ。知らないものも当然あるわよ。私のテーマは再生医療なの。』
『ぶっちゃけ、実験系を実生活に置き換えたりしたことありますよね。』
『実生活に?』
『そういう目で見るんじゃないでんですか?人や物を。』
『あまりないわ。』
『あまり・・・ですか。』
『何?何?ぶっちゃけ全然ないかも。』
『それだけ実験にのめり込んでてですか?』
『置き換えようとも思わないし、置き換えようが無いわ。置き換えて、どうするの?』
『やはり反応を見るのではないでしょうか。』
『あぁ。でも見れる?そういうのって?装置とかもないわけだし。定量も難しいわね。』
『アバウトかもしれませんが、反応は見れると思いますよ。』
『うーん。それで?』
『僕が興味あるんですが、人をどうにかして操れませんか?』
『不可能では無いと思うけど、それって心理学じゃない?もしかしたら?私も教えてもらいたいな、それ。』
『・・・野見山の件はご存知ですよね。』
淳も家へ帰ることにした。屋上から下りて、歩き出していた。
ふと、ある言葉をリピートしていた。
『綺麗にパーツがハマるポジションはそこだけだったんですよ。』
話して気づいたことだった。確かにヘッドのポジション以外なかった。勿論、その方が都合が良いという打算も無かったわけではないのだが。
苛立ちを覚えた淳は看板を蹴飛ばした。KEEP OUTと書かれていた。
『英語!、この英語が!』
横の大通りに車が停まった。トオルの車だ。トオルは一人であった。
『おい、待てよ。』
『なんすか、今度は? 話すことはないと思いますが。』
『乗れよ。』
淳は無視して歩きだした。
『さっき、あの女見たぞ。会ったのか?』
『知らん、もう帰ってくれ。』
『いいこと教えてやるよ。』
『いちいちウルセーナ、アンタ。』
淳は車のドテッ腹を蹴り上げた。トオルは車から降りると、淳に近寄り、髪の毛をむしるように掴んだ。
『なめんなよ、ガキ。大会ごときでナーバスになってんじゃねぇ。ちょっと来いや。』
トオルは車の中から一枚の紙切れを淳に見せた。
『これが何かわかるか?』
『実験のモデル図でしょ。』
『意味がわかるか?』
『さぁ? 抗体っぽいマークは分かりますが。』
『そう、Y字マーク。これは抗体だ。いいか、これが野見山だ。』
『何のことっちゃ?』
『アポトーシスなんて、そう簡単に誰かが操れると思うか?恐らく、この絵があの一件のモデル図だ。ある程度確証された実験さ。その中でも条件設定が難しいとされるものだ。麻薬などの薬物のセンシングにも使われる。ちなみに、お前らのCANDYだってスラングじゃ、そっちの意味だろ。』
『この絵の通り事が進んだとでも?』
『ああ。間違いない。抗体と特異的に結合するのが抗原だ。こいつ等は、親和度が高く、恋愛のように互いを欲する。鍵と鍵穴の関係だ。抗体が野見山で抗原は?』
『俺か、光恵さんのどっちかだと・・・』
『そう、この場合抗原、つまりY字にはまる△マークは、光恵になる。』
『俺は?』
『お前は、このヒモのようにニョロニョロしたポリマーだ。単なるポリマーは腐るほどあるが、コイツは機能性ポリマー。頭と尻尾が官能基で機能化されている。しかも胴体は両親媒性だ。色んな溶媒に溶けることができる。頭が良くて器用な奴だよ。この絵を見て何か思ったことは?』
『上と下で分かれているような気がする・・・。』
『大雑把に見て2つに分かれる。そのとおりだ。しかし、実際は抗体を介して、上の系と下の系は繋がっている。絵の右端から単独で△のマークが一つ飛んできているだろ?これも光恵だ。』
『光恵さんは2つ?』
『お前だって上と下で2箇所に存在するだろ?上が過去で下が未来だ。その中間にいるのが野見山だ。この絵を他人事のように傍観すれば、過去と未来が直線で並ぶように見えないこともない。まさしくSCREAM脱退とCANDY立ち上げ、SCREAM襲撃を表している。横から飛び込んできているのは、新たな光恵だ。初代CANDYの女としてだ。』
『この反応はいったい?』
『フリーで新たに飛び込んでくる光恵が抗体である野見山を目指す。今、野見山と結合しているのは3代目SCREAMの光恵だ。この2つが競合して野見山と相互作用する。身軽でフリーな光恵が結合し、3代目の彼女は解離する羽目になる。3代目の彼女を良く見ると、SCREAM時代のお前のポリマーと繋がっている。そしてポリマーのもう一方の末端は粒子と結合しているだろ?この大きな粒子がSCREAMであり、俺だ。そして、この競合反応の末、過去と未来が決別する。』
『俺は何の為に?』
『お前の役割は何個かある。一つは野見山を担ぐ為。高機能なお前はポリマーの両末端が使える。未来のお前で言うと、一方でCANDYという新たな土壌である基盤に結合し、もう一端で野見山を担いだ。野見山のようなシンプルで血の気の荒い奴が欲しかった。彼を反応の活性ポイント、抗体として利用したかった為だ。複雑な反応が起こらず、相手によっては強い親和性を示すという、抗原抗体反応が観察できるもってこいのサンプルだ。』
『俺はそんな・・・』
『このモデルでは、そうなんだ。それにお前は即席でCANDYをつくっただろ?手っ取り早く作る為には、基盤が丁度良い。ポリマーを溶かして基盤の上に浸せば結合する。何回か洗えば精製も完了する。俺らSCREAMは高級な手法をとった。粒子を使えば精製は面倒だ。何十万Gもかけて遠心精製を繰り返す。精製中に組織が壊れることだってザラだ。お前という高級ポリマーも手間暇かけて合成する必要だってあった。お前は寝返って、自分というポリマーを基盤に浸したに過ぎない。それで土壌が出来上がったら、丁度良い野見山を担いだのさ。気分が良かっただろ?光恵が近づいて来た気がしただろう?それはお前が最強の名を欲しいがままにした野見山を担いだからだ。3代目SCREAMの女は、確かに”後の”CANDYに近づいたかもしれない。魅力あるチームがもうすぐ誕生すると思えたかもしれないよ。これがSCREAM脱退近辺の話だろう。事件当日、俺と別れたばかりの光恵は野見山と結合した。当たり前の話だ。お前は自分に近寄ってきていると勘違いしただろうが、お前の周辺に興味があっただけだ。野見山との結合が正しかったのだ。』
『何故、光恵さんと別れた? タイミングが良すぎるでしょ?』
『すべては、あの女の企みだ。俺はドラッグを嫌う。人格が飛ぶからだ。チーム内でも殺人よりも禁止したほどだ。あの女に吹きこまれた。このセンシングの原理にも気づかずね。あとな、この実験系でわざわざSCREAMを表す粒子がいるだろ。昔のお前のポリマーとその先端に昔の光恵の抗原の付いた粒子が。これは無くてもいいんだ。無くてもお前が担いだ抗体に新たな光恵の抗原が初代CANDYの女として結合すれば問題ない。ただし、この実験を傍観する側の人間にとっては全然面白くないのさ。SCREAMというある程度の重さがある粒子が、あらかじめ抗体と結合、つまりはある距離で相互作用していると、それが競合反応で解離した時のレスポンス変化が、単に光恵のような低分子抗原が抗体と作用するより遥かに劇的な変化をもたらすからね。薬物のような低分子体を高感度にセンシングする為に使われる一つの手法さ。奴にとっては興奮する実験なわけだ。』
『あの女ってまさか田中祐子・・・』
『アイツだ。とりあえず、こんな感じだ。これでスッキリしただろ。アイツのことは俺に任せておけ。お前を責める奴などいないだろう。大会頑張れよ。』
『ああ、はい。』
『では、わかりました。CANDYを始めた理由は一つではないので、話せるものだけ話します。一つは自分のチームが欲しかったというシンプルな理由です。SCREAMでいくら活躍しようが、有名になろうが、失敗しようが、全てトオルさんのポイントになることが歯痒かったからです。このままではSCREAMを作ったトオルさんには一生かなわないと思いました。新しいチームを作って見返してやろうっていうか・・・』
『見返す?』
『いえ、要はSCREAMを潰そうと思いました。彼より上に立ちたかったんです。』
『分からなくもないけど、急だったんじゃない?』
『いつまでもSCREAMにいても何も変わらないと思ったので。SCREAMを抜けるというのは、やはり危険な行為です。それまで散々無茶してきましたから、迷いも少しはありました。だからこそ、思い切って飛び出す必要があったんです。僕は感情を表に出すタイプではないので、その辺が謎めいて見えるのだと思います。』
『本音は見せないタイプ?』
『あまり見せませんね。はっきり言うと・・・いや、こうして話していて気づきましたが、全く見せないタイプでしょう。僕は、それまで何の利害関係も無く、別次元で生きている野見山に惚れたんです。何故だか、彼には色んな話しができました。価値観など持ち合わせていない様な、バカみたいに器の広い彼の前のでは子供のように振舞っていました。少々格好付ける時も勿論ありますが。』
『分かるわ。でもね、アナタは新しいチームを作ることだけが目的だったのではないでしょ。チームの先頭に立って、地位も名誉も欲しかったわけでしょ?』
『勿論そうです。でもそれは結果ですから。結果的にそのようになれば良いと思っていました。』
『嘘よ。アナタがヘッドになってSCREAMを潰した方が良かったんじゃないの?全てがアナタのポイントになるじゃない。』
『違う。それは単なるポジショニングの問題です。CANDYは僕が作ったという事実がしっかりと残っていればヘッドでなくても問題ないのです。組織としてのポイントの何割かは、自然と僕のポイントとしてバックしますから。僕が作ったCANDYがSCREAMを潰してビッグな存在になれば、僕は満足なんです。』
『それが答えね。手を汚さずにシステムだけを作って得したかったんでしょ?』
『そう思いたければ、この際、それで結構です。但し、野見山を悪用したとは思われたくないですね。僕と彼は・・・ある種の恋愛をしたんです。アナタには多分、分からないでしょう。』
『ごめんなさい、全然分からないわ。悪用したとしか私には思えないから。』
『それはない。あとこの際、アナタに言っておきますが、あまり男をナメないで下さい。アナタだって何を企んでるのかわかりゃしない。普通に考えてアナタと野見山と付き合うなんてバカげてるでしょ。アナタこそ野見山に入れ知恵でもしたんじゃないですか?もしそうだとしたら、俺はアンタを殺すかもしれない。いいですか、これは本音です。俺は別に水泳やって丸くなったわけじゃないっすよ。』
『野見山君のことはアナタも知っての通り、理論的に行動するタイプじゃないわ。ただひたすらエネルギーを盾に走り回ってる人でしょ。そこに惹かれたの。こんな恋愛初めての体験よ、私だって。でも他の男と違うのは臆することなく飛び込むところよ。トオルの女ってことでウジウジする男は沢山見てきたけど、気持ちよくさらわれたのは初めてなの。』
『気にしない男なんていないっすよ。』
『気にしたかもしれないけど、結局奪い去ったのは彼だけよ。そんな勇気やパワーや彼の持つ衝動のキャパシティーに惚れたの。純粋な恋愛よ。』
『それは俺も同じです。それが、ある種の恋愛と言った意味です。俺だって組織に不安要素はできるだけ入れたくないが、あいつを目の前にしたら組みたいと思った。どうにかして組みたいと思ったんだ。そしたらヘッドのポジションしかないでしょう。綺麗にパーツがハマるポジションはそこだけだったんですよ。野見山的にもCANDY的にも。』
『ありがとう。一応わかりました。でね、CANDYを始めた他の理由は?』
『一個目がメインです。今となっては、他の理由は別にどうでもいい物なんです。』
『今となっては・・・か。でも言いずらい理由がメインじゃないんだ?』
『それこそ、今となってはですね。って先ほどの話しを聞かされて、少し腹を割ろうかなと思い始めています。』
『是非教えて』
『要は一発かましたかったんです。こんな事は口が裂けても言わないつもりでしたが、やはりいい機会だし清算の意をこめて言っておきます。好きな人に見てもらいたかったんです、自分の姿や、僕の成功を。自分の手柄を見せ付けたかったんですよ。振り返って欲しかった。向こうだってその気があると思っていたし。手応えも十分にあった。あと一押しする絶対的なものが僕には無かったから、チームを作りました。子供扱いなんてもう沢山だったし、弟になるくらいならいっその事世界一嫌われたいと思い始めました。このように考えが2つに1つになる時点で危ういのでしょうが、歯止めが利かなくなりました。経験したことのない感情に毎日襲われて、告白しないと自分が壊れそうになって行きました。そんな時、ある日真逆の風が僕に吹きました。惚れさせなきゃ、と。これが下らないキッカケです。でも随分助かりました。この件が片付いて以来、僕は2度と年上の女を好きにならないと決めました。これで、いいですか?』
『はい。』
『挙句の果てに、野見山に取られましたが。せっかく告白したので、1つ聞いておきたいのですが、あの当時は、トオルさんよりも僕のことの方が好きだったんじゃないですか?』
『ごめんなさい。いいえ、です。』
『勘違いか。本当に?今日は嘘を付かずに話して欲しい。誰にも話さないから。』
『ごめんなさい。違いました。』
『そう・・・。あっさりだな。いや、いんです。僕には勇気も無かったし。今の彼女に初めて自分から告白することができました。』
『あら、そう。彼女いるんだ。よかったわ。学校の子?』
『はい。水泳繋がりで。これまた厄介な奴なんですけど。水泳界では神のような存在で。綺麗で。同級生でも少し近づき難いところがあるんですよ。大人にチヤホヤされてて。バカだけど、高嶺の花かな?なんて思わせる子です。俺が幾ら格好つけようが、泳ぎでは俺より速く泳ぐ男はまだまだいますからね。遠征か何かは分かりませんが、アイツが関西から帰ってきて関西弁とか真似して話してるとゾっとしたりして。』
『じゃ、今回は全国大会行けて本当に良かったね。あっ、面子も大事かもしれないけど、優しくしてあげないと駄目よ。』
『そうですね。俺格好悪い恋愛ばっかりしてるなぁ。』
『あなたにも不器用なところがあるのね。もっと心をいっぱいに広げていきなよ、夏なんだし。って自分にも言ってる感じだけど。』
『できれば年中そうでありたいね。楽園マインドで。アポトーシスについては本当に知らない。格好つけて言ったんだと思うんです、もしくは秋がそういう気分にさせたか。』
『あらっ?秋のせい?』
『なんつーか、本当に言った記憶がないんです。』
『分かったわ。色々ありがとう。これで帰るわ。長いことごめんね。』
『いや、こっちこそスッキリしました。野見山によろしくお伝え下さい。駅まで送りますよ。』
『駄目よ。誰が見てるかわからいし。大丈夫よ、ありがとう。』
2人は握手し、光恵は屋上からゆっくり階段の手すりへ降りた。
『頑張ってね、大会。またね!』
『はい。』
淳は屋上から光恵が歩いて帰っていく姿を見守っていた。見えなくなるまで立ち続け、頭を丁寧に下げた。