伊勢神宮(特に内宮)に
つかわれる
定番の表現で
「凛とした空気に包まれる」的な
表現がありますよね。
「背筋が伸びる。」とか
ちょっとした
ある意味、緊張感。
ある意味、神氣に満ちる。
みたいな。
このところ
神宮の摂社末社を巡って
思ったのですが
どの神社もやはり
この透明感というか
凛とした空気のエッセンスが
含まれている感じがしました。
幼いころから
神宮の摂社末社って
なにか馴染めなかったところが
ありました。
それはわたしだけではなくて
地元と密着していないという感覚です。
近くにあるけれど氏神様ではなくて
氏神さんは産土八社とよばれる
上ノ社(かみのやしろ) 今ノ社 坂ノ社 などでした。
そこの神様は私たちにもっと
身近な感じがしました。
1月15日のどんど焼きの日には
お餅を焼いたり
甘酒の振る舞いがあったり
私の子どもの頃は
近所に仲のいい友だちがいたので
上ノ社(ごーずさん)で
よく遊んだりしました。
今のあるる館は
母方の祖父母の家でした。
祖父は表具師で
観光土産の
「天照大御神」という
掛け軸をたくさん作っていました。
6畳の間に裏打ちされた掛け軸を
を乾燥させるのに天井から蛇腹に吊るされた
天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神天照大御神
文字が並ぶのは壮観でした。
それはともかく
近くに、今はだいたい毎日訪れている
草奈伎神社(摂社)もありましたが
幼い頃は何か恐ろしいイメージがあって
そこで遊ぶのはなにかいけない。
った思っていたのです。
そこで地元の人がおまつりをするということは
ありませんでした。
今でも神宮摂社のおまつりは
神宮の人たち(神主さんたち)が
やってきて
知らない間に始まって
知らない間に終わってしまう。
というお祭りです。
お木曳きだって
お白石持だって
神宮に許可をいただいてはいるものの
勝手にやっている。
のです。
それは本来の
神宮のまつりとは関係がないのです。
神宮のまつりは 神宮内で完結しているのです。
そうやって
神宮のお社は
地元とは少し距離感のある
場所になっています。
それが却って
透明感を保つ要因でもあるのだなあ。
と今回いろいろな摂社を
訪れてみて
すこし体感できたような気がしました。
つまり抽象度が
少し高いということです。
私たち庶民目線よりも少し高いところに
目線がある。
私たちがそれを観るためには
背筋をすこし伸ばして
背伸びしないと
視られない。
だから宇治橋をわたると
背筋が伸びたり
凛としたりするのだと
言うのがわかりました。
外城田巡りの時でも
参加者の全員が
地元密着の「しあわせの宮」で
一番ゆるんだ。
感覚と言うのが
まさに。です。
なぜ
おはらい町が出来たのかも
同じです。
あまりに抽象度の高い
空間なので
またこの世にもどってきたときに
自然と「ゆるさ」を
求めてしまうのです。
おはらい町 おかげ横丁には
あらゆる食の欲望が
具現化されて存在します。
それはまさに先ほどの
神の世界とは対極を増す世界です。
かつての江戸時代は
古市がその役割を担ってきました。
古市で遊ぶのは伊勢参拝の
最終日の「精進落とし」です。
伊勢に着いた旅人は
御師に出迎えを受けて
御師宅に宿泊
翌日は二見輿玉神社へ
禊に出かけ
世俗の垢を洗い落とし
透明感あふれる人になります。
そして外宮、内宮、朝熊の金剛証寺
を参り
御師宅でお神楽をあげていました。
御師は神宮の下級神官でもありましたから
御師宅でもお神楽を上げられるのです。
4日目にして
「終わった~!」と
羽目外して 地元に戻ってゆく。
といった具合です。
神宮の全ての鳥居は
ヒノキでできています。
しかも全て無垢です。
石の鳥居はありません。
お賽銭箱もありませんし
鈴やら鐘もお守りもありません。
なぜ瞑想がないんだろう。
とも考えました。
神宮はアウトプットの世界だからじゃないか。と
思いました。
内と言うよりも外
と言うよりも
上げるというのかな。
背筋を伸ばして
上にあげる
から瞑想は要らないのでは?
もっと世の中が
シンプルだった過去はそうですが
現代は上げるだけでは
上がり切れない人にとって
瞑想は必要なんじゃないかな。
今まではこうだったから
それを頑なに変えない
という場所でもある神宮。
それは透明性を保ってゆくために
必要な装置のようにも思えます。
しかしその装置をもっとうまく
使わせていただくには
自分たちの透明性を
保つことが必要なのでは。
なんて考えました。
まとめようと思ったけど
まとまらないので。
この辺で。
そんなことを思いました。
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