タイトルに使ったのは、山本義隆著『新・物理入門』の第1章 物理学理論と物理的世界 1-1 物理学理論の性格のなかの4つめの小見出しそのままである。

一見、どんな解説にもありそうな、さりげない(実際、この見出しそのものが大きな意図を表しているわけでもないだろう)表現だが、例えば、「数学I・Aの性格」とか、「現代生物学の性格」とか、あまりない言い回しであると思う。で、こうした「性格」の記述が、高校生向けの本で行われていることの意義の大きさをまず、指摘しておきたかった。それは、5教科8科目なり、6教科8科目なりを、「なぜ学ぶのかを教える教科に通じる話だからである。

本旨は以下である。


「俳句と方程式」というテーマ(論題)を思いついた30年近く前の問題意識のありか、発想の梃子にあたるところを、この「近代物理学の性格」は、ほぼ100%言い当ててくれている。



■近代物理学の性格 

一見するとその過程は、自然を虚心坦懐に眺めあるがままに記述することのように思える。しかし現実には物理学は、複雑で多彩な自然を特定の立場から単純化・理想化し、さらに特定の現象にのみ着目し、その他の現象を捨象することから始まる。



景色・景物を五七五に詠み獲る俳句も、同じではないかと思った、まさにその様子が引用部分にある。さらに、俳句も方程式も短い。コンデンスする魅力にも共通するものがあるだろう。「式」はexpressionである。だが、俳句には一般化や特殊化の操作に応じる道具としての数学を持たない(「物理学にとっての言葉」とは別の次元・働きを数学は持つが、それはまた他日)。
そして「その他の現象を捨象する」その仕方に、二つは違いを持っている。
いくつかのレファランスが混在し、無謀なガチンコにも思えた「着眼」だったが、いまでも、この「あたり」は失われていない。
実証される必要のある仮説でもなければ、二つをどんな意味でも同定してみたいというようなモチベーションはもともとない。


ただその「あたり」、似てるよね、というあたりを保持できればよい。
これがなかなか難しいのだが。


物理学の側から、その「あたり」を記述してくれる言葉に久々に出会えた。
ゆえあって著者の山本義隆氏に敬称略は抵抗があるのだが、わざわざ氏とするのもいやらしい。

数年前に手に入れたまま積ん読の『重力と力学的世界―古典としての古典力学』(現代数学社)、そろそろ読まなければ、もう、時間がない。


山本 義隆 新・物理入門〈物理IB・II〉
山本 義隆
重力と力学的世界―古典としての古典力学

中学・高校の教科書とこの本を、ウェブ上であれば整合性をもってハイパーリンクすることは可能だ。それだけでもかつてない数学・物理のワクワクするようなページが完成する。しかし、このことと「ある適切な構造を持つインタフェース」の構築とは別である。ただ著者が標榜する「全方位」は、適切な構造にとっても重要だ。いつでもどこでも、どこにでも飛躍できるスプリングボードであること、それを「感じる」ことがこのインタフェースの一要件だからだ。SFではないが、集中度が高まり、学習速度が速まるほど、あらゆるものがフロントに集まって見え、展望が開ける。それがますます意欲を支えるという善循環が生まれる。いわばノッてる状態の維持である。この「ある構造」は、AIの教師データになぞらえて、1)「パソコン甲子園」の普通科高校の入賞者、2)エジソンのような公教育を否定した学習者などへのインタビュー手法によって、ラフスケッチを描き出すことになるだろう。


III.「学習塾」+文部科学省のタスクフォースへ
 ウェブに連動する「教科書一千頁革命」によって構築される学習環境は、まずは家庭の一角をベースとするホーム・ベイスド・エデュケーションの一環となるのかもしれない。ウェブを学習に活かす試みは文部科学省主導の「インターネット活用教育実践コンクール」が既にある。しかし、残念ながら「教科書の革命」には至らない。学習指導要領の枠を越え出ることは困難であり、加えて「通学」を前提にしている。

大学レベルでは、国内及び米国他の大学講義をインターネットで視聴できるコンテンツ検索・活用ポータルサイトNIME-glad、大学教材情報をインターネットで無償公開するOCW(OpenCourseWare)プロジェクトなどが立ちあがってはいる。しかし、これらはまだ「教科書」としての構造を備えていない。小中高大一貫教育を可能にするような「接続インタフェース」は、まだ用意されていない。今もっとも革命に近づいているのは学習塾での「個別」をコンセプトとする学習システムかもしれない。こうした学習塾の試みと、文部科学省主導の各学校のインターネット活用の試みをよりすぐり、「接続インタフェース構築」のタスクフォースを立ち上げることは不可能ではないだろう。ウェブに連動する「教科書一千頁革命」をベースとし、「通学」を従とするオンディマンドな学習環境の構築。

この革命は、従来の教師の質の向上のあり方、質と量のバランス、何よりもアタマ数を揃えるためにするような教員養成制度のあり方に対して、発想の大転換を迫るものにもなるはずである

II.「通学」を従とする「学習環境」の構築
 「学校に行くこと」が、教育の機会を十全に享受していることになるなどという時代はとっくに終わった。

学校はむしろ、動画映像を含むオンデマンドな学習環境における、その補助支援システムとして機能するくらいでちょうど良い。たとえば放送大学のスクーリングのように。

「学校」ではなく、「学習環境」、それも冒頭で述べたハッカーたちの自前の開発環境のような単位での環境から、発想しなおすべきである。

しかしそのような学習環境において、「ウェブが僕らの教科書だ」と言える学習者がハッカーだけでなく、一人でも多く生まれてくるためには、「適切な構造を持ったインタフェース」が必要である。また、このインタフェースはデジタル技術としてディスプレイ上にとどまるものでもない。ある過程ではリアルな対人コミュケーションが必要である。またより一般的な学習者は、ハッカーのように(失礼!)一日中PCのディスプレイに張り付いているわけではない。それよりも何よりも、オンデマンドにおいて旧来の紙媒体、書籍が持つインタフェースとしての優秀性を捨て去るわけにはいかないのだ。モバイルであることを含め、たとえ電子インクによる、折り曲げ可能なインタフェースが実現したとしても、あの「パラパラめくり」のブラウンジング性能を超えることはできない。またその起動速度はどんな電子機器でも敵わない。紙の書籍との連動によって、ウェブは「ある適切な構造を持つインタフェース」を完成させやすくなる。「教科書一千頁革命」は、このように、ウェブと書籍、そしてDVDなどポータブルメディアの三つ揃いによって成し遂げられるだろう。
 この三つ揃いの一つの原型ともなりえるだろう本がある。この革命について書かせる勇気を与えてくれた本でもある、吉田武著『虚数の情緒―中学生からの全方位独学法』(東海大学出版会)である。「教科書一千頁革命」という語も、この一千頁を超える本なしには思いつくことはなかった。この本は副題にあるとおり「独学法」であり、英語タイトルにある「in All Directions」にも窺えるように、「虚数」を主テーマとしながら、そこから人によって数学は無論、工学へも、物理にも、あるいは科学思想史や東洋思想などへもモチベーションをもって進むことができるように書かれている。中学・高校の検定教科書とは似てもつかない。そしてハードカバーの一千ページ重い。しかしの重さは、それだけの反力を生み出すバネである。

I.教科書としてのウェブ(承前)


 もちろん冒頭の例は、公教育・家庭教育など教育・学習のすべてを覆うものとは言えない。また、熱いうちに打った鉄を精錬し、精製していく構造をウェブはまだ持っていない。しかしIT関連のベンチャーが、日本でもそこそこに成功し得ているのは、こうした学習環境を自前で築ける環境が存在するからだ。プログラミングを教科としては教えていない普通科高校の生徒たちが、「パソコン甲子園」の上位に進出し始めたのも、その一つの証左である(彼らのなかにはウェブを活用した独学・独習、自学自習の方法がしっかりと蓄積されているはずだ)。ウェブは世界百科事典であり、学習のための道具の萬屋である。アクセスさえできれば、誰に対しても、「全ての」情報、「全て」の知識を与えうる世界大百科知識ベースであり、「ある適切な構造を持つインタフェース」が与えられれば、それはあらゆる分野の「教科書」として十二分に機能しうる巨大なポテンシャルを有している。
 一方、現に日本の教育現場で用いられている日本の教科書はどうだろう? 薄すぎる。
それ以上に、新学習指導要領は興味をもって勉強しようと思う者がいる可能性を無視し、その対象を表示すること(ディスプレイ)さえしない、まるで焚書坑儒のような愚行を犯した。「そんなもの要らない」と思う者は、そもそも見向きもしない。だからこそ、全ての最高の知識と情報は全て、ありったけ、ディスプレイしておくべきなのだ。誰にも一つは興味をそそるものがある。表示されていさえすれば。それこそが「機会均等」というものではないのか。食べたいと思う者がいるかもしれない。食べたくない者は無理しなくてよい。しかし意欲した者には、ファシリテーションを提供する。道をつけていく手助けをする。ここでようやくにして「教育」の名に値する者の出番となるのではないか。そのような柔軟な、「オンデマンドなシステム(学習意欲を起動する機会は遍在する)」であるべきだろう。教育というものは。
 「万人のための教育」などまやかしである。いわんや意欲ある学習者の学習意欲に対して、その意欲を圧殺することを義務付けるような義務教育など不要である。そのような焚書坑儒を勧める学習指導要領などは、直ちに打ち捨てるべきである。機会均等とは、手にしたいと思った者が、思い立ったときに、即座にいつでもその内容へのイントロデュースを得ることができ、可能なかぎりその世界を極めていく理路と機会を封鎖しないことではないのか? そして、それでなくても「薄い教科書」を、さらに薄めるような悪行を働いた新学習指導要領の対極にあるのがウェブなのである。
薄めるのが好きな指導要領を反面教師として言うなら、情報は思いっきり最高のものを惜しまず与える「厚い」ものであるべきである。教科書は一千頁あって良い。それができるのはいまのところわが国ではウェブしかない。

文部科学省所管の財団法人「日本青少年研究所」が3月1日に発表した、日本、米国、中国、韓国4カ国の高校生の生活意識に関する調査「高校生の友人関係と生活意識-日本・アメリカ・中国・韓国の4ヶ国比較-」の結果を受けて新聞各紙は、日本の高校生の勉強への意欲低下、“勉強離れ”を盛んに報じた。


他の3カ国との大きな差が出たのは、問8「あなたは(原文ママ)現在、大事にしていることは何ですか?」に対する回答。16の「大事にしている」ことの候補が列挙され、あてはまるものに○をつける複数回答方式だ。<br>
用意された16の事柄について、日本の高校生には特に大きく票を集める事柄がなく、最も多かった「友人関係がうまく行く」でも39.8%。全事柄にわたって、なだらかなラインを描いている。対して米・中・韓は、「成績がよくなること」が突出しており、それぞれ74.3%、75.8%、73.8%で、日本は33.2%だった。
最も高いパーセンテージを示したのは「希望の大学に入学する」で、韓国が78.0%と高く、中国76.4%、米国53.8%と続き、日本は29.3%だった。新聞報道は主に、これを踏まえて報じたようだ。


しかし、「友人関係がうまく行く」ことに次いで日本の高校生が選んだのは「思い切り遊んだり、好きなことをしたりする」で34.6%だが、4カ国のなかでは最も低い割合となっている。


注目されるのはむしろ問6の関心度調査で、日本の高校生でクラブ活動に「非常に関心がある」は33.2%で、4か国中最高となった。「まあ関心がある」を含めると米国が65.3%で最も多く、日本は64.7%。中国60.4%、韓国42.9%だった。また、この関心度を聞く問6では、日本の高校生で「勉強や成績」に関心を持つ割合は「非常に」「まあ」を含めて73.8%で、他の3カ国と問8のような極端な差は現れていない。さらに「将来の進路」については、関心ありと答えたのは「非常に」「まあ」を含め各国とも70%台であり、目だった差はない。
ではなぜ、「勉強離れ」が強調されたのか? だいたいこの調査の眼目はなんなのか? 「高校生の友人関係と生活意識」という表題が眼目なのだとすれば、日本の高校生は、調査側の意図に実に忠実に回答を選んでいるのではないか? そのような誘導があったのか?

念のために、問8「あなたは(原文ママ)現在、大事にしていることは何ですか?」が、英語ではどう表現されたのかを、電話で尋ねたのだが、窓口に留守番しかいなかったのか、片言の日本語でアジア人らしいお姉さんが出て来て、全く要領を得なかった(この研究所はいったいどういう素性のものなのか?)。


調査の対象となった高校生の実数は、日本が1,342人、米国1,008人、中国3,221人、韓国1,714人。男女の内訳は、日本が男子41.9%、女子58.1%、米国男子51.4%、女子48.6%、中国男子42.2%、女子57.5%、韓国男子55.5%、女子44.5%で、日本・中国と米国・中国で男女比が逆転しており、日本・中国の女子の割合は約6割になっている。
また、学年別に見ると2年生のみが対象となった韓国以外は、いずれも1年生が最も多く、日本は34.9%が高1生(米国47.1%、中国31.9%)。高2生が33.2%、高3生は31.9%だった。回答者の学校での成績自己評価は、日本は「上・中の上」が24.8%(米国41.9%、中国45.0%、韓国24.3%)「中」が41.4%(米国50.5%、中国45.0%、韓国43.7%)、「中の下・下」が32.9%(米国6.9%、中国12.7%、韓国31.3%)で、韓国と並んで7割以上が「中」以下と回答している。


最大の謎は、調査時期である。
調査の実施時期は、2005年の10月から12月。高3生は、センター試験出願が始まる時期であり、受験勉強が本格化するタイミングである。


「ゆとり教育」は、彼らにとっては不可抗力的に降って湧いた制度であるに過ぎず、その点において、彼らには何んの責任もない。


「ゆとり」を批判したいのは、当方とてやまやまな気持ちであるが、その勢いで、なんでもかんでも高校生たちの現状にダメ出しをしたがるのはいかがなものか。
ともあれ、まったくもって良く分からない調査なのである。


ワケわからん小生にどなたか、わかりやすく御解説いただければ幸甚。


【以下weblogconcent3の許諾を得て引用。異なる2つのスクラップブックに同時投稿はできないらしく。】

梅田望夫氏の2月の新刊『ウェブ進化論』を読んだ。

あとがきも含めて249頁ほどの新書だが、SNSや、Web2.0などウェブの現在がコンパクトにまとめられている。半分近くがグーグル論で、これにはかなり教えられるところが多い。

「グーグルはコンピュータメーカーである」という分析紹介などは実に明快・爽快である。

「アドセンスがもたらす経済格差の解消」など、著者自身が言う「楽観主義」による楽観が過ぎると批判する向きもあるかもしれないが、これは英語圏の発展途上国に現れている現実のレポートであるから、それが今後、どれだけ現実的な効力を持つものになっていくかどうかにかかっている。

無論、こうした「現実」を現時点で取り上げる視線こそが、オプティミズムであるのだが、こういう楽観はあって良い。

ネットが当たり前のものになって、とにかく使い倒せばいい道具であって、別段そこに新たに発見されたりするようなものはない、せいぜいがリアル社会が繰り返して来たことをフルに踏襲するだけさ、といった「分かったような」顔をしたがる論調が多いなかで、実に瑞々しいのである。

ほかにロングテールの今後など「これから」を感じさせる記述が鏤められているのだが、棋士の羽生善生との会話からまとめられた「インターネットの普及がもたらした学習の高速道路と大渋滞」は、実に未来的示唆に富んでいる。

将棋を学べるサイトや、アプリケーション、オンライン対戦などを通して、ネットで学んで奨励会二段の強さまでには高速で到達できる学習環境が用意されているという話である。

パソコン甲子園の入賞校に普通科高校が登場 していることについて、プログラミングの独習環境としてのウェブの重要性を先にエントリしたが、似たことが、他の分野でも起きているということだ。

Wisdom of Crowdや「総表現社会」という概念には異論があるものの、あらためてネットにしっかりと向き合ってみようという元気をくれる本である。

梅田 望夫
ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる

「数学に帰ろう」と書いて2ヶ月が経過した。

editorial engineに刺激されて『経済学・哲学草稿』を読み返しはじめてから数えても一ヶ月。

『数学の歴史』の再読を始めた。


こういうことを主観的に述べても詮ないことであるが、著者にとって若書きであるとしても、これは名著である。著者ご本人もすでに認められるところだろうから、遠慮なく言ってしまうが、1970年上梓のこの本には、著者のポーズがある。それを差し引かなくても、名著なのだ。


数学は「役に立つ」という方向で、「啓蒙的」な論を進めた遠山啓先生も、それなりに尊敬に値するし、矢野健太郎先生でさえ、今では牧歌的に懐かしいのだが、森毅先生は京大学派を香らせる意味において、際だっている。


すなわち「数学にとって社会とはなにか? 」という問いへの指し示しである。

また「数学にとって人間とはなにか?」とも問う。この本自体はこうした問いに答えるものでは正確にはないのだが、「第二十章 いかに、数学は現代につきささっているか」において、〈数学の工学化〉というキーワードをもって筆を擱くケリの付け方が、35年以上経過する今読んでも十分に新しいのだ。

で、結局、数学にとって社会とはなにか? という問いにも、辛うじてこの最終章の、このキーワードによって答えたものとも読めるのである。


「第二十一章 離散数学とコンピュータ」を誰かが書くことによって、この「歴史」はひとまず完結するだろう。



森 毅
数学の歴史

東進ハイスクールという大学受験予備校がある。JRの車内吊りで合格実績をでかでかと出していたのが目にとまり、ウェブに入ってみた。

最近は早慶上「理」というらしい、早大だけではない、のきなみ2割から5割以上現役合格者を増やしている。

「理」は東京理科大。ここは529人から890人で、なんと70%ちかく増加している。

同じページに受験関係のニュースがあって、どうも志願倍率というやつはそこそこの大学であれば、今年は上昇しているらしい。そんななかでのこういう実績は、けっこう注目されるのだろうと思う。

「全入時代」などという受験生を小馬鹿にするような官製の言葉(あるいはマスコミ製か?)を、ぶっ飛ばす勢いのように見えて小気味良くもある。努力する者は努力している(世の中的にはその割合が問題になるのかもしれないが、誰も客観的な統計をとってはいない)。

「秘密」は「高速学習」とある。講義がDVD化されているのだ。一種の映像学習なのだが、たしかに内容がよければ、つまり良質の講義が収録されていれば、使いようによって、効果は絶大なものになるような気がする。しかも校舎でそのDVDを見る。部活を夏休みまでやった受験生の体験記に、夜遅くまでやっていて、一日に3時間は勉強時間を確保できたとあったのが印象的だ。図書室で勉強するような環境も提供している。

これはよく言われるダブルスクールではないだろう。自宅で勉強するのと同じ時間を、より学習に集中しやすい条件で提供しているだけだ。学習のためのデイリーツカサルームとでも言うか。

体験記に、「自宅に戻るとつい勉強したくなくなるので」、とあったのがこの「サービス」が満たす需要のありかを正直に語っている。


時空の制約を超える可能性を享受できるのが、デジタル技術(マルチメディア)とインターネット通信技術の融合のメリットの一つとすれば、この予備校の手法も出現すべくして出現した知恵である。


一方、日本青少年文化研究所の意識調査結果で、新聞各紙は高校生の勉強離れ、意欲低下を報じたが、この調査には疑問がある。調査時期は2005年の10月から12月。高3生は、センター試験の出願が始まる時期だ。この時期の調査で、なぜ「低下」を示す結果になるのか。追ってエントリーする。


スクラックブック「全方位学習法」に新しいメンバーがようやく一人。

「seasonとsaisonは、同時に(一緒に、だったか)覚えたほうがいい」とコメントにあったので、「学習の転移」というものを思い出した。

先に学習しておいたものが、後から学習するものの学習効果を上げてくれる、理解しやすくしてくれる、そういう相互に影響関係におかれることを「学習の転移」、学習が転移するという。

「seasonとsaison」はまさに、この場合、「正の転移」がおこりやすい関係のわかりやすい例である。

たとえば日本人なら誰でも日本語を先に学習している。seasonはこの先行学習からすれば「季節」である。

で、「季節→season」の転移は起こりにくい。「負の転移」があるかどうかはおくとしても、英語の国で生まれた人の先行学習としてseasonを知っていれば、第二外国語なりに仏語を取ったとして、学習が促進する、進みやすいというのはわかりやすい話だろう。英語と仏語の場合は相互に正の転移が起きやすいということだ。

これに近いことが、たとえば国語と数学の間でも起きうる と考えるのが「全方位学習法」。

後先はあまり重要ではないかもしれない。全方位であろうとするのは意志なので、ブルーナーがやったような生理学的心理学的学習理論には収まりきらないからだ。

土台、自然言語である国語は、数学よりも生物学的に先行している。

しかし数学のある問題が解けたら、国語の成績もあがった ということはあり得る。そういう仮設である。

ブルーナーの転移説は、とっかかりに過ぎない。それに、どうもあまり実証的な研究ではなかったらしい。

しかし手がかりとして「転移」という概念は大きい。

また「後先」も実際的な方法のレベルの話になると実に重要である。

ショートケーキを食ってからラーメンを食べるか、ラーメンを食ってからショートケーキを食べるかでは、

同じ二種類の食べ物が、食事・味覚・満足・充足という点でまるで違ったものになるだるう。

要は「編集」ということなのだが。

編集的認知心理学といおうか、編集的認知工学というか、そういうものによって「全方位」はただの意志を超えて、実際の方法論として仕えるものになっていくはずだ。


なお「全方位学習法」の「全方位」は吉田武著『虚数の情緒』のサブタイトル「全方位独学法」 からインスピレーションを承けたもの。実際、この本はすでに、「全方位学習」に導くナビゲーションとして完成していると見ている。


あとは読書術、並行読書、重合読書(これについては後日)など、本と本の間に「転移」の可能性のモデルを見ていくことはできそうだし、具体性もあってうまくいきそうである。


吉田 武
虚数の情緒―中学生からの全方位独学法

publicを日本語は「公共性」と訳したが、あれはおかしいと坊主は言う。

公と共は別物であると。


共はcommon。コモンセンスのコモンなんだと。


公共の利益のために私を犠牲にするなんてありえない、のだそうだ。


いまや口にするだに恥ずかしいものになりさがった「共産主義」の「共」も実は、commonだったのではないか?


(取り急ぎ、書き留めておくことにする)。


capitalism→資本主義など、(capitalはまずもって首都である)、概念語の日本語訳には、変なものが多いと気づきはじめた。


一度、総ざらえしたい。