いまや「社会」という言葉の意味を知らない人はいない。

だが、「社会」と「社会」という概念は、19世紀前半に「登場した」。「社会的」なるものは、産業革命以降に「誕生」したのである。そのことを、新鮮な驚きとともに理解させてくれるのが、マルクスの『経済学・哲学草稿』、とりわけその第三草稿である。

19世紀前半の青年マルクスによるこの記述以後、「社会」ということ、ものを、こうした発生・生成されるものとして見直そうとしたのは、20世紀に入って30年代、バタイユらの社会学研究会において以外に知らない。

彼らは「社会はどこだ? 社会はどこにある!」と、いわばあえて狂乱して見せることで、その視線の発生論的無垢を保とうとした。とき折しも、ヒトラーによる「国家社会主義」が台頭を始めたころのことだ。

バタイユらが探し求めた社会とは、おそらくマルクスが「社会的状態」と書いた、その社会だったのだろうと思われる。

主観主義と客観主義、唯心論と唯物論、[能動的]活動と[受動的]苦悩とは、社会的状態のなかではじめて、それらの対立を、それとともにこのような対立としてのそれらのあり方を失うことは、明らかである。

2006年2月のいま、このような社会を思い描くことは困難である。

前方にも後方にも参照しないまま、書き付けたので、不確かこの上ないが、それはいままさに「生成しつつある社会」の可能性を見ることのできた時代、その時代を生きたマルクスという慧眼が捉えた幽かな光だったのだろうと思う。あえて性急に結びつけて言うなら、それは「ひきこもりようもない社会」、出るも引きこもるもない、生きられるものとして実存する社会が、存在し得た証でもあるかも知れない。

歴史は社会を社会主義に変え、さらには共に生産し、共に生きることを主としようと図った「共産」を共産主義に変え、正体すでに見たりとして適当にあしらえる存在に変えた。

だが、イデオロギーとして形骸化したそれらとともに、マルクスの見た、産声を上げたばかりの「社会」、共に生み出すコミューンの祝祭性を、捨て去ることができたのだろうか。


捨て去ったのではなく、失ったのである。

資本主義の、その本質的な自己運動によって。

失ったというのが、言い過ぎならば、限りなく縮退したのである。


その余剰はいま、どこでどのような姿にかたちを変えて、自らに迫って来ているのかを、誰がどんな審級において問うことができるのか。


資本主義は生き物である。市場経済の源流にまで遡らなければ、いつどこでどのようにして、この機械が生命を得るに至ったかは見えてこない。しかし、その一撃 は確かに永久機関のように回転を始めて今に至っている。奇怪な「資本主義の生物学」では間に合わない。


(この項、アーノルド・ノース・ホワイトヘッドの「抱握」に、続く)


いまだ文献は見つからないが、それは「革命的祖国敗北主義」と呼ばれたもので、「祖国」が「帝国主義戦争」をおっぱじめようとする時機に応じて「内乱」を起こし、これを以て革命戦争に転じようというもの。やはりテンポラリーな戦術論であってマルクスの根幹をなす考えではない。


臨戦時の物言いとして、「青年に対し、祖国の前途に対する希望の灯を奪い、祖国呪詛(じゅそ)の精神を扶植(ふしょく)することが革命の近道だ。」なる言葉は確かにぴったり来る。

しかし、この言葉、マルクスではなく、レーニンではないのか? ロシア革命戦争前夜の。


だが、日本の戦後においては、マルクスよりも何よりも、米国のGHQがあったのだ。

ナショナリズムではなく、どの国であれ、普通の感情として持っていて当然の「国」の文化や伝統を口にするさえ恐ろしいことのように喧伝したのが、「民主主義」の名の下に行われた教育というものだった。


マルクスでもレーニンでもいいのである。あの言葉から「革命」などきれいさっぱり消え去った状況における「祖国敗北主義」なら今にも通じそうではないか。


カミ仏の祖国を呪詛する風潮は確かに存在したし、呪詛とまではいかずとも、それを知らずにどこが悪いという風潮はほぼ完璧に浸透した。


思えばかつて「革命」を標榜した政党によって「革命」という言葉もコケにされたのである。この国にあっては。


ロシア革命も中国革命も死んだのであるから、いまは歴史の審判として、その「革命」は葬送されて当然であったといえる。


しかし、経済学から哲学を批判し、返す刀で今度は哲学から経済学を批判するというハイテンションな力業をやってのけたマルクスの仕事の意義は、未だに失われていない。


マルクス, 城塚 登, 田中 吉六
経済学・哲学草稿

ライブドアは糞だろうが、IPOで上場企業らしきものを粗製濫造中の証券取引所の親玉である東証も糞であろう。


今回の件では、たかが数百万とは言え、個人投資者が信用取引を許されたがために、莫大な、というのは割合としてであっても、3倍以上の追証を受けて、借金が増え(これは含み損ではなく、実際に返さなければならないカネである)、返済に窮して、首をくくるという事態が頻発しかねない。


そういう社会的犯罪であることを肝に銘じるべきである。


難民化については後日。



「Y染色体」で検索していたところ、「JanJan」なる市民記者?サイトの以下のような記事に遭遇した。

結論部のみ引用する。強調は引用者。


{引用}

例えば、 「天皇家の伝統と権威は神話に由来するものである」、「天皇が男系男子で維持されてきたのは男尊女卑の歴史に基づくものであるがいまとなってはそれも伝統ともいえるかもしれない」、という主張で何がいけないのか?Y染色体を持ち出さないと男系天皇制の正当性を他人に納得させられないのであれば、そもそもそういう主張はするべきではないと私は思う。
{引用終わり}


強調部分に関して全く同意である。ただ山田ともみさんという記者の主眼は、典範改正反対派への反論にあるようで、それは強調部分の「男尊女卑」といった言葉遣いにも現れていると思う。

ここでは、男系・女系のどちらかの是非を問うことなどしない。

それよりも女系天皇に反論する側の有識者会議のメンバーが、「Y染色体」などを持ち出してしまったことのナンセンスさ加減である。その点に関してのみ、山田ともみ記者の 「創作でなぜいけないのか?」という主張に同意する。おそらくは反対方向に向けて同意する。


創作というのが語弊があるとすれば、「象徴」としてもよい。

毎年、正月には多くの人が初詣をし、祈願をする。

これを否定する者はいないだろう。

ここで、次のように問いたい。


祈願をして、願いが叶った者が何人いたか? などという実証調査をする必要を誰か感じることがあるだろか? 「二礼二柏一礼」の作法の科学的根拠を質そうとするものがいるだろうか?


明らかにノーである。ではなぜ疑うこともなく、毎年初詣という行事を続けてきたのか?

そうしてきたからとしか、ひとまずは言いようがないだろう。根拠はないが、御利益もあるかもしれない。気持ちも改まるし。それでいいからそうしてきたのだ。


天皇における万世一系も同じである。家系図の創作もあったかも知れない。しかし、天皇に関するかぎり、それは一般家庭の偽家系図や、学歴詐称などとはわけが違う。


物語的側面、象徴(憲法がそう言う前から)的側面があってこその天皇的なるものであろう。


遺伝を持ち出したナンセンスをさらに言っておけば、脳つまり学習(後天的)とDNA、遺伝の相関はまったく明らかになっていない。文化と遺伝の相関と言ってよい。天皇ないし天皇制は文化である。

しかし一千数百年、存続しつづけているという点は、そんじょそこらの文化でもないこともまた確かである。氏より育ちと言ってすますには重すぎる歴史を持っている。


立花隆がいうミトコンドリア・イヴのほうが、おなじ遺伝子レベルを持ち出すなら、よほどエレガントかも知れない。しかしそれは「科学的根拠」として優れているからではない。物語があるからである。


そして、仮に女系天皇が誕生しても、皇位継承問題は起こる。子が生まれない可能性はゼロではない。

いまから、一千数百年続いた物語に太刀打ち出来る物語を、どうやって一から作り上げるというのか?


その大変さを思えば、やはり拙速は厳に戒めるべきだろう。

生命的次元と社会的次元、動物的次元と人間的次元、次元の混同を戒め、次元のすべてを精査してからでも遅くはない。


それをする気配のない政府にはやはり、危機感を抱かざるを得ない。



巨大掲示板のレスの一つに、ここが貼られていた。「れ」というハンドルに対するレス。「右も左も名無し」さんがつけた意見にも同意だし、「れ」氏の「慧眼」は、ここのところ考えて煮詰まっていたところへの大きなヒントだった。

-----------引用-----------

「定め」のほうの重要性をいう慧眼に禿同。
生き死にのわからんバカどものことは忘れてしまいやしょう。
この国にも動物化したリバタリアンどもがぼこぼこ生まれてるようで。
まあいずれロボコップの群れと化すんでやんしょうが。
男系を理論武装するつもりなどないが、アマテラスオオミカミ(天照大神)は女神である。
神社にある鏡。女神に仕える神官は男のほうがええからちゅう論理もあるような?

米軍兵士は神に祈りを捧げる。--天皇論(続)|weblogconcent徒然草冠II生きるために学び学ぶために生きる。
http://ameblo.jp/weblogconcent2/entry-10008032681.html

蛇足:てめえらが永遠に生きられるみてえな生意気な口を利いているバカども。
そのうちこいつら人工心臓でもつけて永遠に死ねない刑に処されると思われ。
れさんのかわりに言っておく。
-----------引用終わり-----------


その慧眼を極端につづめて言えば、女の子が男の子であっていい。とりかえばや物語であってもいい。

もっと極論すれば、愛子様は実は男子であった。何も問題はなかった、と虚構してでも、「定め」の不動性を重視すべしという主旨である。典範はあくまで男系を一貫すべし、そういう意見だ。

もちろん本人はここまで言っていない。

しかし、心的現象論として、「定め」を不動にすること、そのほうが重要であると言っている。

そのことに「則る」ことの重要性を指摘している。


天皇、天皇一家、天皇陛下、皇后様、これらは左から右へ抽象度が落ちていく。

「一家」とは言え、「サザエさん一家」の「一家」ではないことが、具体的な現前性が高まるほど、分かりにくくなっていく。


議論は、この天皇的なるものの、具体性と抽象性を整理しないかぎり、実はもう一歩も進めないだろう。


それにしても蛇足にある「生き死にのわからねえリバタリアンども」にも全く同感である。

「右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」を突き抜けてみたら、動物化したリバタリアンがウーパールーパーの如く増殖していた。


まじ当方も人工心臓に人工眼球でも埋め込んで、すべてを点検し終えたい気持ちに駆られる。

一千年級のヘヴィな問題をクリアするのは、それくらい大変だ。

諮問委員会一座と政府がサイボーグとは思えない。リバタリアンか?


アマテラスのことはこれからと思っていたところで、具体的に触れたつもりはなかったが、カミホトケの側面を忘れてはならないという視点に何か触れるものがあったのだろう。




行きつけの四文屋で働いている四川省から来た劉さんに、何か拝んでる? と聞いてみた。

なにも。 なんでそんなこと聞くんだ、という調子で答える。

お父さん、お母さんは? と続けて聞く。「仏教」だという。 


父親の年齢は45歳というから、60年代の生まれ。毛沢東のことなど意識にある中国人に、少なくとも日本でであったことはない。20代の若い中国人のなかには、誰それ? という者も少なくない。

そして彼らの親の世代は、仏教であったり、儒教であったり、道教であったりするらしい。


ハリウッド映画の戦争ものではよく見かけるシーンだが、米軍兵士は出撃前に、分隊単位で戦車ならその乗組員が輪になって、神に祈りを捧げる。我に力を与え給え。悪魔に打ち勝つ知恵を与えたまえ。

十字を切る。明らかに祈りの対象はイエス・キリストだ。映画の演出もあるかもしれない。儀礼に過ぎないかも知れない。しかし、現実の戦場でも死者に向けて祈りを捧げるあの手の組み方はキリスト教である。


自衛隊は南無八幡大菩薩に祈りを捧げるのだろうか? 戦勝祈願はおくとしても、もし戦死者が出れば、

隊員は「手を合わせる」だろう。それは仏教式である。仏教には弔いの言葉、死に行く人に送る具体的な言葉はないが、神道にはますますない。それでも手を合わせる。死者は「仏様」なのだ。

 

アラブゲリラ、イスラムはアラーのもとでの聖戦を信じ、死を恐れないと言われる。


日本人の多くはあらためて聞かれると、信じている神? うーんわからないと答えて他国の人を驚かせる。

それはそれでいい。八百万の神化された日本の信心は一神教ではないから、仏教と言ったって、米兵がキリストを信じる、アラブゲリラがアラーを信じるというようには、神の名をあげるのが難しいだけだ。

天神もいれば八幡もいる。観音さんもおわすし、大日如来だっているのだ。あわせて神様仏様というしかない。


「宗教」という言葉はこういう日本の信心には似合わない。それは「もう一度一つに結束させる」という意味だから、まるで他人事か、変わった事を指す言葉に聞こえる。だからと言って、この国に「信心」が存在しないわけではない。


天皇は、生命的次元において信心に関わってきている。だから一千数百年存続したとすれば、いったいそれはどんな信仰心の支えとなったか。天皇が神そのものではないが、というより、その神観念がアラーやキリストとは異なるのであって、カミとカタカナで書きたいようなものであって。

司祭や牧師や神父や神主と考えてよい側面はある。天孫降臨の神話もある。王権神授説もある。ローマ法王の例もある。

そのへんが八百万になっていて解けない。解けないが、何かそういう「信」を天皇的なるものは底支えしてきたように思える。


こういう側面を意識できず、天皇制の解体、女性・女系問題にデリケートであることのできない政府と諮問委員会一座とは、いったい何者なのか?

近代化の化け物、米国政府の傀儡であろう。

この件のなりゆきによっては、2ちゃんには頻出の、「売国奴小泉」なる誹謗の言葉は、広く市民権を得ることになるだろう。

 

死を覚悟せざるを得ない直前、死の間際に「天皇陛下万歳!」を唱えたのは、時の教育、軍制によるのか、それとも「おかあさん!」と代替可能、同義であったのか。
これを天皇の生命的次元における働きと言わずしてなんというのか。

太平洋戦争における国家神道発動の特殊事情なのか。なぜ、歴史家はここを解かないのか。 解けないのか?

これを解かないまま、なんの諮問か! 噴飯もの極まりない歴史始まって以来の大愚行である。


hazuma

kajougenron : hiroki azuma blog: 解離的近代の二層構造論


宮台ブログの丸激本第三弾へのまえがき:IT化が突きつける価値選択  - MIYADAI.com Blog
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=322 に怖いことが書いてあった。


引用する。


■第二に、日本には超越神への帰依が存在しない。米国の場合、〈生活世界〉空洞化がもたらす不安や不信は、超越神への帰依によって吸収されるのでアノミーになりにくい。こうした吸収装置のない日本では、不安でオタオタするヘタレが、国家主義に陥りやすい。
■第五に、〈生活世界〉が空洞化した日本では、「感情の働きが壊れた人間たち」「動物化した人間たち」が大量生産されつつある。「壊れた人間たち」が多数派になれば、もはや「壊れることの是非」を論じられない。小泉自民党の大勝は、その兆しかもしれない。

{引用終わり}


どちらも当たっている、と思われる。
もっとも指摘の第一点は、政治社会学的にみた定説であって(ファシズム論など)こわいというよりは言われるような状況が、まさに生まれていると確認させられてしまう。まあ、だからやっぱり怖い。だから天皇の存在はますます重要性を帯びるということになる。日本にはドイツナチ党のような綱領を持つファシストは存在していない。存在しえなかった。昭和天皇、ないし東条英機をヒトラーなどになぞらえるのはヘタレぶ左翼のアタマの悪さを示すものに過ぎない。


二つめの指摘は真に怖い。

で、続けて向かった東浩紀のブログhazumaが、 「人間を説明するうえで、動物的レベルと人間的レベルをきっちりと分け、別々の原理で説明すること」を提唱し始めている。
示し合わせるはずもないが、偶然にも両者は連携する。
動物化するポストモダンはもはや日常実感となってきた。怖い。
その現実への東の方略が「統合」の放棄である。


コジェーブの日本人というものへの「予言」?は現実化しつつある。
なぜ、日本だったのか? あの時代に。

たとえば弘法大師空海の評伝を読むと、そこには嵯峨天皇との交流が描かれている。橘逸勢とともに「三筆」と呼ばれ、天皇の書も他の二人のものとともに見ることができる。書を好む人にとってはすこぶる身近なものだろう。
空海よりもよく知られる弘法大師というその諡(おくりな)は、醍醐天皇が贈ったものと言われる。


『平家物語』にも武士、僧侶などともに天皇、院、法皇が登場する。後白河院は物語中に登場するだけでなく、物語全巻をまとめたいわゆる出版プロデューサーであったとされている。


言ってしまえば物語中の人物かも知れないが、すぐに思いついて挙げた数少ない天皇の名前から「天皇制」はまったく連想されない。時代が違うと言えばそれまでだが、たとえば英国の王の歴史をたどるとき、これほどの乖離を感じることは少ないはずだ。


これは時代の差、物語か史実かという差ではなく、天皇(古くは大王と呼ばれたにせよ)という存在自体が持つ二重性によるのかもしれない。


いろいろな二重性がある、いや二重性をどう表現するかは複数あるだろうが、生命的次元と社会的次元の二側面というのが、もっとも考えやすい。


生命的次元は宗教的、霊的な側面が強い。簡単な話が、人の誕生や死にまつわる儀式にはなんらかの宗教的形式が付与される。後白河院の「院」は、皇位を退いて隠遁した天皇のいわば諡であって、これは仏式である。そして日本の天皇が関与するのは神式、神道であって、どちらにしても、この宗教的秘儀は、深く生命の更新に関わっている。今上天皇にあっても祭祀に関わる「職務」は少なくないはずである。


われわれの現実的な記憶に新しい天皇は、明治天皇であり、昭和天皇である。しかもその記憶は、圧倒的に社会的次元に関わる姿である。この断絶もいぶかしいと言えばいぶかしい。明治の帝国憲法に規定された近代国家における天皇と、嵯峨天皇を比較するのがそもそも無謀かもしれない。

しかし神に直接する存在としての天皇の歴史の存続を否定することはできないだろう。

これは「天皇制」存続云々の問題とは無関係である。というよりも、「天皇制」が存続をやめたところで天皇的なるものは存在し続けるという意味で、否定できない。


天皇的なるものを言下に否定できるのは、リバタリアンとアナーキストだけだろう。
アナーキストであるためには強靱な精神力と体力(笑)がいる。


口先だけ否定することは簡単である。

先の天皇が崩御された翌年、1990年の座談会で、歴史学者・網野善彦は「それでもなお今日まで、どうして天皇が存在するのか」を問うている。


網野は自身、アナーキストかもしれないと述べている。しかし、天皇、天皇的なるものは生命的次元に根拠を持っているのではないかと予想していたふしがある。口先や力で否定しさることのできないものであることを知っていた。


女性天皇・女系天皇問題は、どちらかというと生命的次元の問題をあらためて浮上させているように思える。「Y染色体」などを持ち出し、自勢力の社会的次元に利用しようとする動きもある。だが、天皇制がたとえ絶えようとも、天皇的なるものは絶えることはないだろう。
何よりも少なくとも一千数百年の時間を乗り越えて存続してきている。


「Y染色体」など天皇的なるものにとっては意味をなさない。

不執政か、立憲君主かそうでないのか、謎のまま、執政側に機能させられてきたとも見える天皇なるものの存在について、十分な論議が行える基盤を根こそぎにされた国であることをまず悲しむべきだろう。


そして、 「それでもなお今日まで、どうして天皇が存続してきたのか」を問うことが急務である。
これは天皇制の是非とは、まずもって無関係な問いである。


世俗武士の末裔、伊藤博文はすでにこう自白している。
「我国ニ在テハ宗教ナルモノ、其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルベキモノナシ」。
これが擬似立憲君主制を仕立てた張本人の本音である。


(続く)


concentはconcentration。タメ口きいとランでとかとは無関係。バカがバカだと公言するんで自分から。だから結局バカ丸出しじゃんの村上タツってのもいた。似とるな二人。顔だすなよ本屋に、暑苦しいと思ったついでだ。それこそ余計なこと言うとらんで。

大型書店にポスターが貼ってあった。去年の夏の思い出だ(笑)。舌鋒鋭く批評の真似事でもと思ったのか、まるですれ違い様に喧嘩を売るようなメッセージになっている。


年も改まったことではあるし、登録ジャンルもジャンルだから、変えてしまおう。


concentはconcentration。余計なこと言うとランでとかとは無関係。無知につける薬はない。無知の知を知れ。もっと言えば恥を知れ。そんな硬いこと言うとランで、というのは単なる怠慢。なんのための言語か。

「無学」になるまで全方位を尽くしていくべきである。さもなくば沈黙の沼に沈め。


結局、ほとんど変わっていないのだが。

他山の石としたい、自戒の念を込めてということで。


というより、全方位である。editorial engineeringのスクラップブックは後ろに「学習」をつけているが、学習とはその効果によって何かを成し遂げる、いや、効果があること即、生きることであったりする。それでいいのだが、自己目的化したとたんに具合が悪くなることもある。

(電話が鳴ったので中断)

年末までいろいろと世を騒がせる事件に気を盗られた。

耳も目も塞げばいいのかもしれないが、そうはいかないものがあったりするものだ。

熱中でさえ接触を生む。アレクサンダー大王の影が邪魔だと謝絶したディオゲネスの逸話など、派手か地味かの度合いに過ぎないのであって、どうあがいても物を考えることは、社会性を逃れることはできないのだろう。

「当て推量」と物証、真犯人と冤罪--広島女児殺害事件|weblogconcent徒然草冠II生きるために学び、学ぶために生きる。
http://ameblo.jp/weblogconcent2/entry-10006633776.html

反復|weblogconcent徒然草冠II生きるために学び、学ぶために生きる。
http://ameblo.jp/weblogconcent2/entry-10006747350.html

「同志社大学」という名の「人物」は存在しない。|weblogconcent徒然草冠II生きるために学び、学ぶために生きる。
http://ameblo.jp/weblogconcent2/entry-10007012404.html

腹が減ってパンを強奪←→発注ミスで20億円の利益|借金の心理学/*武士は喰わねど高楊枝
http://ameblo.jp/editorialengineering/entry-10007196922.html


最新の株式の事件などは、経済学畑の学者評論家先生たちが何か言いそうなものだが、まだあまり聞かない。しかし経済学畑にはなぜこうもどうしようもない学問屋が多いのか。京都の佐和、元一橋の中谷・・・。

「学術」をなめてはいけない。などというべらんめえ、が最も似合いそうにないのが数学なのだが。ま、晩年の岡潔先生の例があるにはあったのだが。


『情緒と創造』がいいのは、われわれがそれぞれの数学をできそうな気持ちにしてくれることだ。

べらんめえ調も数学になる。この察しは実に数学的であると思う。


岡潔は『春宵十話』のなかで言っている。
「私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、

スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、
そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、
スミレのあずかり知らないことだと
答えて来た」と。


ただスミレのように咲いて見せてくれる者がいなくなった。
自己目的化さえなしえない学問屋ばかりが目に付く。


というわけで、「そろそろ数学に帰ろう」というのは、もっと強力な論理と言語でもって、さらにさらに一騎当千な働きに向かおうかということであって、決して隠遁して静かにしていようなどということではないのである(笑)。

岡 潔
岡潔―日本の心
岡 潔
情緒と創造