私たちが乗り合わせたこの星を一艘の宇宙船に見立て、宇宙船地球号と名付けた建築家がいます。
いつ遭難するとも知れぬ暗黒の空間を航行する地球号には、一等室も二等室も三等室もありません。
あったとしても、自由に行き来ができます。
地球号は今、タイタニック号に近づいています。一等室が約575万円、三等室は約2万円だったとか。↓

TITANIC
ポーラ パリージ, Paula Parisi, 鈴木 玲子
タイタニック―ジェームズ・キャメロンの世界

前世紀階級社会の縮図でもあったとされる船の名は、ゼウスに滅ぼされた自然力の象徴でもある、ギリシア神話の賢巨人タイタンにちなむと言います。

宇宙船日本号もタイタニックになろうとしています。同じ船に乗り合わせた、乗組員の一人として、船一艘を丸ごと無事に航行させるための知恵を求め、
タイタニック時間深夜11時40分を賢明に回避すべく、
微力ながら、力を尽くしたいと思います。


平成十八年丙歳 正月吉日

リック アーチボルド, ダナ マッコリー, Rick Archbold, Dana McCauley, 梶浦 さとり

タイタニックの最後の晩餐―豪華航路のディナーとレシピ

ジェームズ キャメロン, ランダル フレイクス, James Cameron, Randall Frakes, 品川 四郎

タイタニック シナリオ写真集

メアリー・ポープ オズボーン, Mary Pope Osborne, 食野 雅子

マジック・ツリーハウス〈9〉タイタニック号の悲劇



スクラップブック「全方位学習」で、教科「情報」の学習の題材に株式投資を取り上げることへの疑問が掲載されたので、部分的な回答としてエントリしておく。
株式投資とは何かという大前提となる問いに現状の情報科の教師が答えられるとは思えない。その点は同意する。しかしそこは、公民社会の先生にでも、お任せできるという仮定で述べる。
これはあくまで例なので他にも講談社のブルーバックスなどにもある類似の趣向のものではあるが、オーム社開発局刊『Excelで学ぶ株式投資』という本がある。

意図を明確にするためにキーワードを強調すれば『Excel学ぶ 株式投資』。

Excelだけでは、情報A「「情報活用の実践力」に終わってしまうかもしれない。このAは、「情報活用」とは言っているが、下手をすると「ソフト活用」にとどまり、要するにアビバである。これではどうしようもない。

(ソフトが使いこなせるのは大前提であるが、わざわざ学校で教えてもらう必要はないような気がする)。


Excel学ぶ株式投資』に注目するのは、Excel2000から実装されたWebクエリという機能を使って、必要なデータをウェブページから取得し、そのデータをExcel本来の機能を駆使し解析しようという、インターネットを含む活用方法を示しているからだ。で、なんのデータかと言えば、企業のいわゆる財務諸表関連であり、それをもとに株式投資にとっての指標を時間軸で追跡しようというもの(Webクエリはページに連動してデータをリアルタイム更新してくれる)。


冒頭で要約した疑義は、短期売買のテクニカルな株式投資を教えることへの疑義だった。ネットトレードの主流はそちらにあるように見えているからだ。しかし、『Excel学ぶ株式投資』に即して言うなら、チャートなどの話の前に、PERやROEなどの長期保有であれ、短期であれそれなしには成り立たない銘柄選び、企業選択の重要性と、その方法が述べられており、いわゆるファンダメンタル分析のためにまず、Excelとインターネットを使うという構成になっている。ファンダメンタル分析は、損益計算書や貸借対照表など財務諸表から、指標となるデータを取得して行われる。これは経営学のダイジェスト版、経済学のダイジェスト版である。

短期投資の手法などの話はおまけとして、投資手法で言えば長期投資に限って、情報活用とは何かを十分に学ぶことはできるはずだ。

「クエリ」とは何かに触れれば、B「情報の科学的な理解」も多少はカバーできるだろう。さらにネットトレードとWeb上の発言(企業動向に関する)のありかた、そのリテラシーの重要性を切り出せばC「情報社会に参画する態度」も学べるはずである。


後は「儲ける」とは生きることにとってなんなのか石田梅岩の「石門心学」などにまで遡るか、「務めと稼ぎ」両方あって一人前という江戸もしくは明治までの倫理観、男気の話でもするか、そのへんを高校の情報科の教師に求めるのはどうか、という話はおくとしても、一コマの授業は十分に構成可能であると思うのだが。


藤本 壱
Excelで学ぶ株式投資―Excelで実践する、銘柄の選び方からテクニカル分析の基本、シミュレーション(バックテスト)まで
新納 浩幸

Excelで学ぶ確率論

高橋 幸久, 渡辺 八一

Excelで学ぶやさしい数学―三角関数から微積分まで

情報技術科在籍の方から貴重なコメントをいただいた。

コメントによると、どうもプログラミングに関しては、普通科、工業科の差はほとんどないらしい。

しかと確認できたわけではないが、いまだにBASICだったりするらしいと聞くから(言語にほぼ共通するはずのアルゴリズムは学べるとしても)、現実のシステムで活躍している言語は、どんな科であれ、独学が主流にならざるを得ないということのようだ。

たまたま元日に買ったbig issueという雑誌が、「独学をすすめ」という特集を組んでいて米本昌平氏が独学論を書いていることを知った。まずは、そういう特集が組まれていることに驚いた。

その特集で米本氏も「すべてウェブで学べる」といった主旨のことを書いている。自分も年末に「ウェブが僕らの教科書」という原稿を書いた。米本氏のことは元日まで気づかなかったので、そうか時代の兆しがそこにやってきているのは間違いないようだと心強い気持ちになれた。

考えてみれば、学ぶということの基本はすべて「独学」かもしれない。

自らつかみとろうとしないかぎり、本当に学ぶことなどできないだろう。

平仮名を教わったのは、叔母からだった。幼稚園に行く前のことだ。学校ではなかった。

「あ」の字がなかなかうまく書けず、「お」の字を点なしで書き、丸くなった箇所に斜めに線を加えることでしばらく代用していたことをよく覚えている。

学校を前提とする学習・教育以前に、学びが生まれる場(モチベーション発現の場)をあらためて見直すべきかもしれない。

そのうえで「公教育」というものが、いったい何でありえるのかを考えるという、発想を逆にたどるべきときがやってきているのかも知れない。

米本 昌平
独学の時代―新しい知の地平を求めて
コンドルセ, 阪上 孝
フランス革命期の公教育論

2003年から始まった、全国の高校生がプログラミングの技を競う「パソコン甲子園」には、当初から注目してきた。


何よりも、毎年、グランプリは工業科高校が占めているが、準グランプリには普通科高校が入賞している点に興味をそそられる。
今年の準グランプリは埼玉県立伊奈学園総合高等学校、第6位には滋賀県立膳所高等学校が入賞ている。伊奈学園総合高校は名のとおり新しいスタイルの総合科高校、膳所高校には8年前から理数科があるけれども、特に教科として学校でプログラミングを勉強しない点は、普通科高校とほぼ同じと言える。


もう当たり前のことのようになっていて、あまり意識がそこに向かうことはないのかもしれないが、これはインターネットが繋がっていない時代にはありえないことだったのではないだろうか。

ある種の自学自習、独学の方法を、パソコンとインターネットによって編み出す高校生が生まれてきている。そこのことに注目する。


もちろん、パソコンクラブや同好会などがあるだろうから、文字通りの独習・独学とは言えないかも知れないが、少なくとも授業では教えないことを生徒が自ら学び取っている、そういう環境が生い立って来ているということは、あらためてきちんと見直すべきことではないかと思う。
ウェブに繋がったPCは、「開発環境」であると同時に、「実行環境」であり、そして「学習環境」でもありうる。ということは、かなり、かなり、重要なことを示唆していると思う。


いまざっとあげたたった3つの環境でさえ、それらは連続して見えるので、本人たちは、そのようには意識していないかもしれない。しかしそこには、3つの少しずつ異なる環境を繋いでいくインタフェース(プラスの学習の転位を促す)が、無意識のうちにも生成されていると見るべきだろう(マッキントッシュの設計思想も思い出しておくほうがいいかもしれない)。


そこには、まずは基礎を勉強して、そして応用へといった、あるいは初級・中級・上級といった線形な階梯を超えてしまうことが起きているはずだ。
基礎はいつだって重要である。だが基礎が終わらないかぎり、その先がディスプレイさえされない、という教室の環境とは、まったく別の光景がウェブを活用する学習環境には生まれて来ているはずなのである


それはプログラミング言語というものの特性であるのかもしれないのだが、それを駆使することに面白さを感じる彼らのなかには、コースウェアのコースウェアという意味でのメタコースウェアが暗黙のうちに生まれているのかも知れない。


「そこ」を取り出す必要があると思うのだ。


グレゴリー ベイトソン, Gregory Bateson, 佐藤 良明
精神と自然―生きた世界の認識論

もし、パソコン甲子園に参加した人たちがここ読んでたら、授業で教わらない? いやあるよ! とか

いろいろ教えてもらえると嬉しいです。工業科のみなさんも。



教師による生徒殺し。その連帯責任論?


「同志社の奴らというのがおかしいでしょ。

日本語正すなら、同志社の奴やね。
同志社の2万2千分の1がそうなのであって、

2万2千人がそうなわけじゃない。」


誹謗中傷、流言蜚語に対する反駁として、この書き込みは全く正しい。
「中国人は」、「韓国人は」、「日本人は」、という言い回しには論理的正しさを証明できない。反例がすぐに見つかるという意味で恒久的な根拠を持ちえない。どんな場合でも。


ドイツの論理学者ヴィトゲンシュタインは、教え子たちが「フランス人ってのはさあ、ドイツ人よりも…」などというおしゃべりをしているのを聞きとがめて、「フランス人というもの、ドイツ人というものは存在しない。いるというのならそのドイツ人というものをすぐここに連れてきて見せてみろ!」と激怒したという。
ある集合に冠せられた名前は、その属性を帰納的にしらみつぶしにしないかぎり、真であることを証明できない。「このカゴのなかのリンゴは甘い」程度の命題なら、サンプリングで半分も食べれば、真であると言って、間違いないだろう。
しかし「フランス人は好戦的である」などという命題になるとそうはいかない。ヴィトゲンシュタインはそこを衝いたのだ。しかし、この「言い方」は日常茶飯事に使われている。


たとえば「同志社大学の連中は殺人予備軍だ」といった、事件に便乗した誹謗中傷の類は、論理的に証明できないことなど、お構いなしに増殖していく。
 なぜか? こういう物言いに使われる同志社大学とは「イメージ」だからだ。
もっと言えば「ブランドイメージ」である。これは容易に傷つく。根拠なし、論証なしで充分なのである。
まずこの手の誹謗中傷、流言蜚語から、イメージが攻撃され、そして次のような批評的推論によって、あたかも実体であるかのような説得力を持ってしまうに至る。


「しかしなんだな、大学の中で起こした事件で、起訴されて執行猶予付きながら実刑食らってるのおかしいよな。普通は「軽傷」なら示談成立で告訴取り下げだろ。警察呼んでる時点で、大学が丸投げしているわけだから、その姿勢がおかしいわな。
怪我させたのも財布盗まれたのも身内なら、内々ですますってほうが普通。よっぽど、その時点で手に負えなかった、ということなら停学程度の処分じゃおかしいし。学内でも有名だったって言うからな。本当は何があったんだ? そん時。なんかやらかす予兆があったのでは? あるいはオヤジも同志社出身とか。」


この書き込みは、事実としてあった大学側の対応処置について、憶測を含んではいるが、姿勢を問う批判として完全に成立している(但し停学「1年半」はほとんど自主退学の勧めに近い重い処分と言えないかという議論は残るが)。大学自治のスレスレのところを衝いている。これに応戦できるのは、次のような書き込みだけである。


A)「同志社は犯人の更正にかけた。キリスト教の精神にてらせば当然だろ。 多分、犯人は精神病だろうと思う。」


B)「大学にたいし責任追求するなんてどう考えてもおかしい。
連帯保証人でもない親に借金払えというのと同じだ。」


A)と同じ立場に立ちながら、「だからこそ」ダメージコントロールとして大学は大失策をやってしまったという怒りの書き込みもある。
「大学長は誤る(原文ママ)必要は一切なかった。個人的にそう思っても大学指導者としては 完全にまちがった行動をしている。 世間に同志社が悪いのだという誤解を大々的に広めただけだ。 これは同志社の在学生、OBにたいする利益相反行為であり、裏切りでしかない。今後一切コメントをだすな。同志社。他大学についての悪い前例を残すだけだ。」


汝、右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ、

だったのか。緊急表明をあえて出したのは。
汝、右の頬を打たれたら左の頬を打ち返せが当然の時代に、なんというコントロールのなさと言いたいのだろう。

B)はゲマインシャフト、ゲゼルシャフトの観点から全く正しい。(流言蜚語の鎮圧にはたとえ無力であったとしても)。
「社会学用語
http://www.mirai-city.org/mwiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E7%94%A8%E8%AA%9E
ゲマインシャフトとゲゼルシャフト
テンニースは、集団を「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」に分類した。ゲマインシャフトは、家族や近隣の村落などのように、自然発生的に形成され、成員が直接に面識があり、生活のほとんどの面で密接に関わり合いを持っている集団を指す。ゲゼルシャフトは、企業や学校などのように、成員が間接的にしか関わり合いを持たず、利害計算に基づく契約関係などで動かされる集団を指す。近代化の進展によって、集団はゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと移行してきたと言われている。」


犯罪者の子どもが、「人殺しの子ども」と呼ばれていじめられることはある。
これは血縁ゲマインシャフトによるある種、連帯責任論を成立させてしまうバックグラウンドを形成する感情だろう。こうしたイジメが容認されるべきものでないことは確かだが、それでもこの下卑た感情の存在を否定することもできない。
ともあれ大学は家族のような、ゲマインシャフトではない。情操教育の段階、人格陶冶、社会性の獲得などといわれる、いわゆる「育てる」「育つ」段階は、高校までで修了した「大人」が知識・技術・研究方法・スキルなどなどを学び、修得するために門をたたく機関が大学である(そうであったはず)。その意味で大学は「人を育てる」機関ではないし、その必要もない。人間がある目的達成のため作為的に形成した集団であり、基本的に合理的・機械的な性格をもち、近代の株式会社をその典型とするゲゼルシャフトの一形態である。
もちろん、「同じ釜の飯を食う」という言葉に込められているような家族・兄弟間の親密度に近い愛着が、クラスやゼミやサークル単位で生まれることは大いにありえることだ。
仮にあるとすれば「愛校心」とはこうした、仲間や恩師を介して得られた感情が基盤となって成立するものであって、そこでは「何大学であるか」は二義的であると言ってよい。
2万2千分の一の学生の犯罪への反応は、こうした個々の学生時代、もしくは現に属している大学での仲間やゼミでのアタッチメントを刺激するゆえに起きる。
犯罪の発生と在籍大学、卒業大学との相関はない。どんな大学であっても。
犯罪の種類にもよるが、企業人の場合も所属する企業と犯罪の発生に相関はない。
しかし、「不祥事」はダメージを与える。それだけは確実である。
ゲゼルシャフトをゲマインシャフトとみなしてしまう感情論が噴出することも一種の人としての生理現象であると言えるかも知れない。
大学は「教育の場」であるということになっているから、「犯罪」とは最も遠いものというイメージが定着している。これは企業人が犯罪を犯した場合よりもっと強烈な反応を引き起こす。しかも停学処分を食らっていたとは言え、現役の大学生であればなおさらだ。だが、大学はゲマインシャフトではなく、ゲゼルシャフト、利益社会である。契約に反して、その社会の利益に反する行為を行なったものは追放される。停学処分・退学処分・除籍は、大学が利益社会であることの証でもある。
だが、ここには二重性がある。あくまで身内意識(ゲマインシャフト)を貫くなら、同志社はあくまでも彼を庇護すべきだった(A)の徹底につながる)。その勢いで、「あんなやつはうちの人間ではない!」という親が子を勘当するようなメッセージを出せばよかったかも知れない。一方で、同志社大学をブランドとすれば、学生は商品であることになる。虫のように湧く「欠陥商品を作ったメーカー」という揶揄、誹謗は、この論理が感情のオブラードを着ているもの以外ではない。

そこにあるのは、ただひたすらブランド(もとは家畜の尻に押す烙印のことである)の問題だけだろう。それしかない。ブランド攻撃とはそういうものだ。教育理念がどうの、なんのと言葉がいかに氾濫しようと、それはただブランドイメージの破壊に収斂する以外はない。


ブランドと人物、ブランドと個々の商品。
大学がブランドによるマーケティングを明示的に行なっているとするなら、
そのダメージコントロールの優劣として、同志社は最悪の選択をしたと言えるだろう。
学長、学部長の緊急声明によって。
看板としての「教育」理念の一貫性の表明としての声明と、現実の大学の教場での実践は、乖離しているにも関わらず、生起した事件に応じて更正の可能性を優先するかのごとき言説を撒き散らすのは、愚行と言われても仕方がない。
すでにとっくに新島精神は死んでいるだろう。現代の大学実践現場に適用する試みを敢行しないかぎり、その言葉、キャッチコピーであり、コーポレートメッセージを出ないものになる。イメージキャラクタに成り下がっているとしたら、その自らの肖像を見て新島襄はどう思っているだろうか?

精神的「近隣」を意味した「社(company)」を名前に残す「同志社」。
「大学」と「同志社」はもともと異なる社会形態である。いまさら言ったところで詮無いことではあるのだが。そのキマイラ性を、同志社大学は、充分に戦略としてきたのだろうか?


願わくは、あの声明を決める際にマタイの言葉が、遠くから小さくではあれ、微かにも響いていたのだと信じたい。


「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」マタイによる福音書5章38-39節
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
マタイによる福音書5章43-44節


申し上げておくが、ここで「敵」とは、中傷誹謗ではない。

窃盗を働き、ついには殺人という犯罪を犯すに至った、自らの大学の現役学生、一人の同志社大生である。

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 作家ら 仮処分申請へ 入試問題集出版「作品無断で使用」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051205-00000037-san-soci


どちらにしても「法の運用」の問題である ことに変わりはない。
事案ごとによく見る必要がある。

だが、この版元(中学・高校受験の赤本屋だ)は、ちとあくどいと思うぞ 。ネットを使って、いかにもさもしい商売をしている。

せこい商売 (←クリックすると、せこい値段が読めます。せこすぎ!)
そんなんタダじゃん! と、フツーに言いたくなるはずだが、世のお受験ママ、親バカは、ついカードで購入してしまうのだろうなあ。あああさましい。

大学受験生用の「赤本」で十二人の作家らが著作権を侵害されたとして、損害賠償請求訴訟を起こし係争中の「教学社」は、ネットでこんな浅ましいことはしていない。
過去問のダウンロードは教学社のサイトで無料である。

同じ著作権法を振りかざすにも、相手によりけりという、いい例ではないか。

中高の受験予備校は見たことないが、大学受験予備校のサイトでは、過去問は(各校の解説・解答つきで)どこでも無料で閲覧、ダウンロードできる。

当サービスは有料って

こんな↑スキャンしたり、ダビングしたりしただけのものを、ページ単位で金とるサイトなんか、初めて見た。利用するほうも利用するほうだ。バカじゃないの?

これじゃあ谷川俊太郎氏も怒るはずである。

しかし、元祖「赤本」の教学社のケースは、上とはかなり異なるのではないか?

 

教学社出版センター

大学入試センター試験過去問研究 国語I・II (2005年版4) 大学入試センター試験過去問研究シリーズ

本庄 隆
赤本847 京大の理系数学25ヵ年
こういう教学社の、うん十年続く過去問題集、けっこう編集による付加価値も加わっていると思う。
編集権、その価値と権利はどうなっているのか?
国語だけ? 公理や定理なんぞ、みんな作者がいるぞ。フーリエ、ニュートン、ガウス、オイラーなどなどなど(みんな一世紀以上も前に亡くなっている。それは分っている。しかし、姿勢、魂胆、それだけの価値があるのかあんたの書いたものに? などと、つい言ってみたくなる助走、景気づけ)。

法の運用論の問題である。個人情報保護法なんぞとともに、なんだかこういう問題が喧しくなってきている。

学級名簿を作るな? はあ?


ともあれ、この二つの出版社の訴訟・係争、よくよく比較吟味してみる必要がありそうだ。


坂村 健
大人のための「情報」教科書

教科「情報」というのは、2003年から新学習指導要領に基づいて高校で教えられるようになった。新課程で勉強した高3生が来年は受験年だ。

教科「情報」はA・B・Cの3科目構成で、どうも全部教えているところは少なく、Aが圧倒的に多いそうだ。

Aはまあ言ってみれば、アビバみたいなもので、実習が5割を占める。で、マーク式のペーパーテストには適さないということで、大学入試センターは来年以降当分の間、出題しないことに決めている。

おかしな話だと思うけど。じゃなぜわざわざ新しく「情報」なんて教科を作ったのか?


大人の世界でもネットトレーダーとか、デイトレーダー(この言葉については注意が必要だが)とか、パソコンとインターネットを使って株式売買をする個人投資家(この言葉も注意が必要)が増えているらしい。


何が言いたいかというと、株式投資の授業をやれば、ごたごた言わずにA・B・C全科目を自ずと「履修」せずにはおけなくなるはずということ。


詳細は追って。

性はほとんど生きていることと同義である。少なくとも成人にとっては。

それはある年齢から天命を全うするまで、已むことはない。

その様相は年相応に変化していくにせよ。


そのように誰もが自然のこととして有しているセクシャルインパルスが、犯罪に結びついたとき何が起こるだろうか?

「再犯」の可能性と「更正」の可能性のトレードオフ問題である。


近頃頻発するペドフィリアによると思える犯罪は、再犯の可能性が高い。

それは対象が尋常でないこと(それこそが糾弾されるところではあるのだが)、を除けば、

生きていることと同義であるという意味での性として、誰にも反復されるのと同様に、反復される可能性が高いからだ。

この反復性自体を否定することはできない。誤解を恐れずに言えば、その否定は、彼に死ねと言うのも同然である。そのようなケースは存在しうる。


簡単に言えば前歴、前科の存在、再犯、再々犯…の確率が高い場合が多いということになる。

昨年の奈良の事件の犯人にも、今回の広島の事件の犯人にも「前歴」がある。

同じく昨年、ヨーロッパ全域を震撼させたフランスのフルニレ(62歳の森林監視員)などは明らかなシリアルマーダーである。

これは偶然ではないはずだ。


いつまでも、ずっと、何度でも愛し合いたいと若い恋人同士は願う。

それと同じ欲望(但し、「持続」と「連続」はまったく異なる)が、尋常ではない対象に一方的に強行的に向けられて起こる犯罪、と考えることができる。

許せることではない。


だが、そのような反復性を持つことへの理解なしに、この手の事件の再発を食い止めることはできないだろうことも確かである。

英国でメーガン法が成立したのが、1997年。

この前後に何が起きていたのか、というのはあまりにも近い現代史であるために、対象化は難しいかもしれない。だが、事件が発生する史的環境への目線も失うべきではないのだ。


歴史まで広げなくても、ペドフィリアの成長史を見るだけでも多くのことが分かってくるはずだ。

彼個人のなかに悪魔が住み着いているのは確かだろう。しかし、悪魔が住み着いたのはいつからなのか?

悪魔をそそのかす魔は、なんだったのか? 

それとも悪魔として生まれてくる者がいるというのだろうか?

いまや、その可能性も否定できなくなって来ている。だが、誰がそれを断定し、悪魔払いをする権利を持つことができるだろうか? 


あらゆる「還元主義」を排して、しかしながら断固として立ち向かわなければならない現実が立ち現れていることだけは確実である。


A.ミラー, 山下 公子

魂の殺人―親は子どもに何をしたか

百件以上もの難事件を解決した米国のサイコメトリスト、ロン・バードは自らがサイコメトリックの力を発揮しているときの状態を「その人間の持っていたものに触れると、その人のことが、まるでビデオテープを見ているかのように見えてくる。」と述べている。


アメリカの哲学者、論理学者、物理学者で現代記号論の先駆者であるパース(Charles Sanders Peirce 1839年9月10日-1914年4月19日)は、演繹、帰納と並ぶ第3の推論様式を仮説形成、遡行推測(retroduction)と呼んで人間の推論の可能性を広げた。
この第3の推論(推測abduction)は、パース自身もそう呼んでいるいわゆる「あてずっぽう」「当て推量」であり、誰もが行なっているところでもある。


シービオク夫妻が書いた、このパースの「当て推量」の体験にスポットライトを当てた『シャーロック・ホームズの記号論-C.S.パースとホームズの比較研究』には、盗難にあったパースが自ら探偵のごとく振舞って真犯人を捕らえ、盗品を奪還するという話が出てくる。

このとき使われたのが、あてずっぽう、遡行的推測である。

T.A.シービオク, J.ユミカー=シービオク, 富山 太佳夫

シャーロック・ホームズの記号論―C.S.パースとホームズの比較研究


奈良の事件からちょうど一年に近いこの時期に、またぞろ女児殺害事件が起きた。巨大掲示板ににわか探偵が湧いたのも去年同様だ。もちろんその大半は早く捕まってほしいといういたたまれなさから来る、言わずにおれない書き込みである。ロムしつつふと気づいたことがある。そこにあるのは当て推量ではあるが、かなりいい線を行ったものもある。
しかしである。そこで一つの疑問が生じた。パースの言う遡行的推測(当て推量)は、事件の当事者でなければ、正しく働くことはないのではないか? という疑問である。


つまりはパース自らの例で言えば盗難事件の被害者であるという意味で当事者であるということだ。疑問の行き着く先は明白だ。事件が殺人事件の場合はどうなるのか? 


当て推量しようにも本人はもはや仏様である。
当人以外による仮説形成は冤罪に結びつくこともあるだろう。今日の物証主義の限界がデッチあげになる。だがここで物証捜査を補完するものとしての仮説形成が働けば、状況はかなり変わる。

すくなくとも容疑者の絞り込みが格段に速くなるかもしれない。


で、殺人事件のときにどうするか? 死んでしまった被害者=当事者の代わりに「遡行的推測」を実行できるエージェントがいればいい。こうしたエージェントになりえるのが、サイコメトラーだろう。仏さんの気持ちになり、その身になって、感情移入し「私はなぜこの人物(真犯人)に殺害されたのか」と考えること、想起することである。簡単に言えばそうなる(今度の事件は、珍しいと言っていいくらいに遺留品が多い。サイコメトラーは、これらの物から、犯人像をいやでも見ずにいられなかったことは言うまでもないが)。


米国では実際にサイコメトラーは正規の捜査に活躍している。
それは決して超能力だからなのではなく、いやそういう超とつく能力を稼動しうる、パースのような論理学のバックグラウンドを持っているからではないか。
サイコメトラー、物を測るように、気持ちや心の位置関係を測ることができる測度能力を持つもの、と考えれば、それはオカルトではない。サイキックではあっても。
その根拠を論証できる論理が、そこには確立されていると思われるのだ。


広島の女児殺害犯は捕らえられた。真犯人であると確証できるまでには、あと少し時間が必要だろう。
もう一度、幼くして命を落とした、あの日の彼女の心のなかに遡行しておこうと思う。

合掌。

C.S. パース, 伊藤 邦武
連続性の哲学

追記:

遡行的推測はプロファイリングとも結びつくだろう。そのことを思い出すきっかけになったのは、

このエントリ矢野「住民」がガスコンロとホースと結束バンドを「セット購入」したのはなぜか? だった。


関西学院大学は本気だと思った。
入学前奨学金制度のニュースを読んで。
それから神学部のページに入り、さらに同志社のページにも行ってみた。
美学芸術学の教員のページをつらつら眺める。
もう30年近くになる。知った先生がいるわけもない。
ふと中村敬治先生はどうされているだろうと思った。
3年ほど前か、初台のオペラシティの美術館で副館長をされていることを知ってから、一度お訪ねしようと思いつつ、不精ゆえ果たせていない。
ぐぐってみた。訃報だった。今年、3月に先生は胃癌で亡くなられていた。
享年68歳とのこと。


まだまだ大丈夫という不精の言い訳は通用しないことがあるのだと思い知る。
たまたまこれも20年近く前に一緒に働いた出版社の編集者と朝、ばったり出会ったその日の午後のことだ。
朝のラッシュ時ゆえ、互いにろくに挨拶もせず、彼女が言うには、よく知る写真家が癌であることがわかったとのこと。
こういう消息は連続するのか。
いつまでも明日があると思って飲んだくれていてはいけないよ、と教えてくれているのだろう。


遅きに失するとは言え、先生の冥福を祈りつつ、訃報を知らせてくれたウェブページから引用させていただく。


合掌。


中村敬治先生が、まだ元気だったころ、2000年5月26日(金)~6月18日(日)開催のキム・スージャ「針の女」について書いたメッセージを手向けとして引用させていただく。

 僧服かともみえる黒っぽく慎ましやかな服を着て,無造作に束ねた長い髪を垂らした女性が一人,背中を向けたまま画面の中央に立ちつくしている.キム・スージャ(金守子)本人である.彼女だけがモノクロームで,彼女だけが動かない.ひたすら立ちつくしているだけであるから,たとえば東京,渋谷の雑踏の中では,前後左右をせわしなくあるいは所在なげに行き交う人々の色彩の流れに一瞬のみ込まれてまったく消えてしまうこともある.みえなくなると――どこへ行ってしまったのか――埒もない不安がよぎる.しかし一刻,周囲の人通りが途
絶えてしまったかのように,彼女の背中だけが鮮明にみえてくる瞬間がくる.彼女の存在が雑踏を切り開き,彼女にだけ光があたる空隙を作り出したかのようである.それは一瞬の無の空間のようでもあるし,永遠の空間のようでもある.彼女がみえなくなった間停止していた時間が再び流れはじめるのであろうか.ある安堵が訪れる.
 ただ雑踏に立っているだけの彼女の後ろ姿に,なぜこのように一喜一憂するのであるか.微動だにしない後ろ姿の果敢さが,ある決意を放射しているからである.生存のすべてをあずけたパフォーマンスに立ちあわされているらしいからである.彼女はあるいは街頭にいるのではなくて,黄泉とこの世,生と死の間を往還しているのかもしれない.彼女の往還に,みる者は自分の存在の根源的な不確かさを重ね合わせる.人々の流れに覆いつくされて消えてゆく彼女に,存在のはかなさを読んで不安になり,不動のまま凛として立ちつくす彼女を再び発見
して,生の力の確実さに勇気づけられるのかもしれない.
 渋谷の作品では,彼女の周りを通り過ぎる人々は概して足早であるが,誰ひとり立ちつくす彼女に視線すら向けない.人々はそれぞれの私事に没入し,遊びであれ仕事であれ目標に向かって忙しげである.
 上海では人々の歩みは比較的ゆるやかで,一人一人が気ままでランダムにぶらついているようにみえる.そして多くの人が彼女に視線を投げ,ふり返り,さらには立ち止まって覗き込んだりもする.雑然としたデリーの裏通りでも,この好奇心この無遠慮さは同じである.
 しかし,決してそれぞれの都市における人々の行動や反応の文化人類学的ちがいが問題なのではない.どこであるかは二次的である.まったくのアパシー,それでいてある種整然と流れ続ける渋谷でも,みんながブラウン運動をしているようなカオティックな街でも,彼女は立ちつくすだけである.人々の流れにのみこまれ,浮かび上がりを繰り返しながら徐々に街に,人々に縫いこみ織りこまれてゆこうとする.すべてを結びつけ,つなぎ合わせてゆく「針の女」として,自分の居場所を獲得しようとする.
 人々に隠れていた彼女がはっきりとみえてくる瞬間,みる者は突然の覚醒にうたれる.それは彼女の存在が確立される瞬間であり,そしてみる者の内にも存在が充満しはじめる.立ちつくし,自身を空無化してゆく時,世界が透明に開け,突然自分がみえてくるのではないか.存在とのほとんどエロティックともいえる出逢い,Ekstase(ハイデッガー)であり,存在論的なインスピレーションである.
 それは,街頭ではなく,彼女が自然に対峙するふたつの作品でさらに明らかである.巨大な岩の上に,片手をのばして彼女が横たわる作品がある.もちろん彼女は動かない.裏からみた涅槃像のようで,微かなユーモアがある.青空の下,盤石の上に煩悩を滅するかのごとく横たわる不動の彼女の向こうで,雲がかすかに流れ,それにつれて光がゆらぐ.岩は動かないが,時間は確実に流れているのだ.
 インド,デリーのヤムナ河を眺めながら立ち続ける作品,「洗う女」では,はじめほとんど淀んでいるかのようにみえた水面にやがて大小のごみの塊が現れて意外に速い流れであるのがわかる.ごみが彼女の前を流れるとき,ごみを浮かべた水が彼女の身体を貫いてゆくようにみえる.水に洗われ,浄化されてゆくようである.
このふたつの作品で彼女は自然の時間にシンクロナイズすることで,自分の時間を獲得しようとしている.そして彼女がとらえたコズミックな時間に,みる者の時間も合流してゆく.
 キム・スージャのヴィデオ作品は,街頭や自然の中でのたんなる記録映像ではなく,テープ作品として完結しているわけでもない.画面の映像とみる者との間に心身的なインタラクションが生起することによってはじめて完成する.そのためにはモニター上でみるのでは不十分である.プロジェクターで映写され,一定の場あるいは空間が作り出されなければならない.そこで後ろ向きの彼女や周囲の人の流れと観客が心身的に交錯し,対話が交わされることが必要である.だから,映像をみることは彼女のパフォーマンスに参加することである.それぞ
れの映像を撮影する過程そのものが元来は彼女ひとりでのパフォーマンスであったのだが,それがインスタレーションとして映写される時,観客を加えたもうひとつのパフォーマンスとして完成してゆく.そして,このインタラクションを通じて,観客は映像の意味を作り出すのである.
 画面にはほとんどなにも起こらない.映像が意味を与えてくれるわけではない.だが,その静謐なる映像が観客の中に不安や充足の入り交じったさまざまなエモーションを励起する時,観客と画面はひとつのリアリティを共有しはじめる.それが画面に投げ返されて映像の,作品の意味となってゆくのである.
 しかし観客はどのようにして作品にインタラクティブに参加し,後ろ姿の彼女の覚醒を共有することができるのか.そこに,意識的というより直観的と思えるが,使われている技法の秘密があるのではないか.まず第一に,いずれのテープも編集されておらず,七分余の映像の時間は現実の時間である.この時間の流れに身を添わせることで,撮影時のパフォーマンスを共有することになる.フィックス・ショットであること,映像が操作されていないことが,一切の虚構性を排除する.
 そしてどのテープにおいても彼女の後ろ姿のほぼ上半身だけが写っていて,足下がみえないのも重要なファクターである.全身が写っていれば,観客はただ冷ややかに,客観的に画面を眺めるだけであろう.だが,下半身がみえないことによって観客は彼女のすぐ後ろに立って,同じ光景をみているかの身体的な一体感をうることができる.ここで,映像は視覚性を超えて,全身的なリアリティとなってゆく.であるからまた,映像は映写 されるとき大きすぎてはならず,画面の彼女と観客が等身大で対峙できるのが理想的である.
 その点,今回は出品されないが,1997年の「Sewing into Walking」が先駆的実験の役を果たしたと思える.この作品では彼女自身は登場しない.カメラを固定してイスタンブールの繁華街を写し続けただけである.しかし視点が眼の高さであるため,彼女と並んで同じ光景をみているような不思議な臨場感にとらえられる.作為のなさが彼女をそこに実存させ,それがみる者に伝わる.こうして変哲もない街路の映像が,存在の映像になってゆくのである.後の「針の女」シリーズの原点がここにある.
 従来彼女の作品については,韓国の伝統と近代化,そこでの女性の役割やフェミニズム,さらにはノマディズム等々,さまざまなラベルが貼られてきた.それはひとつには彼女が永年使い続けている韓国の伝統的なベッドカヴァーの布に由来する.ごく初期にはこの布の断片をコラージュしたり,縫い合わせて壁掛け風の作品を作ったりした.やがてこの色鮮やかなベッドカヴァーで古着の大きな包み(ボタリ)を作り,インスタレーションにしたり,トラックに山積みにして韓国中を十一日間走り回るパフォーマンスも行った.また,同じ布をもの干場
のようにロープに吊したり,テーブルクロスとして美術館のカフェのテーブルにかけたりもした.
 ベッドカヴァーにはさまざまな意味が染みついている.人は生まれてこの布に包まれ,ベッドの遺骸もまたこの布に被われる.その間に,就寝し,休息し,性もあって,布は人の生涯を見続ける.さらに,彼女が使うのはいつも誰かが実際に使用した古物であり,決してニュートラルではない.
 そして女性はその縫い方を母親に習い,それに家財を包んで家を出る.すべてを包む布,それを縫う女,そして世界を包み込み,人々を縫い合わせようとする女,彼女が「針の女」である.
 というわけであるから,キム・スージャの布の作品は,心ならずもポスト・モダニズムやポスト・コロニアリズムに格好のトピックを提供することになったのかもしれない.彼女が求めてきたのは人間の普遍性であったにもかかわらず,いわば善意の矮小化が跋扈したように思える.――そして,彼女と布との関係は,様式はまったく違うのだが,トリン・T・ミンハの映画作品,特に「姓はヴェト,名はナム」を思い出させる.――彼女たちの作品は,作品としてみ,かつ楽しまれるよりもさきに,ディスクールの材料にされてしまうことが多すぎた.
 布はテキストであり,彼女自身布について,それを使うことについて少なからず発言もしている.だから貼られたラベルは必ずしも間違いとはいえない.だが,彼女が,染みついた意味の重圧は重々知りながら,あえて布を使い続けてきたのはなぜなのか.恐らくは,布によって出自を確定しながら,それを超えでたところに,より普遍的な居場所を見つけられないかと考えてきたからではないか.布から離れたヴィデオ作品は,一切のラベルを振りはらいうる方法の探求なのかもしれない.立ちつくすだけのパフォーマンス,no-nonsenseというか,虚飾を振りはらった行為のミニマリズム,それは実存のミニマリズムである.
 ヴィデオのキム・スージャはなにものからも自由であるようにみえる.
                                                       なかむら・けいじ
                            NTTインターコミュニケーション・センター副館長/学芸部長


マルセル・デュシャン、ウォーホル、アメリカンポップアート、コンセプチュアルアートへの寄り添い方を学んだ。ひょっとすると日本への引導の渡し方も、先生は考えていたかもしれない。
「ポップアート以後」は最近の自分のこの分野でのキーワードの一つだが、先を見れたかも知れないチャンスを失った。もう確かめようもないのだが、先生の書く物、言語に対する姿勢、ワークに対しての言葉のスタンスは、たとえばウォーホルのキャンベル缶のラベルの文字と見分けがつかないものへと消え入ってほしいというものだったかもしれない。その距離のとり方が絶妙、山水のように、であったような気がしている。


それでは先生、さよなら、さよなら国家甲羅


追記:
「ポップアート以降」をやり過ごして、たとえば「日本美術」の研究を進めることはできるだろう。若冲や、円山応挙など、蕪村の俳画など、研究してみたい対象は少なくない。
だが「日本美術史」とは何か? 日本の歴史を構成する要素であるかぎり、現在の文脈から問われるべき史的課題というものも、あるのではないだろうか?
伝統とコンテンポラリーの問題、古くは伝統(正統)と前衛の問題。西洋のタブローにおける伝統と現在の関係はどういうものだろうか。
少なくとも、フランス美術史とフランスで言えば、そこには古来の作品から現代美術までが含まれるはずだが。
日本画にあたるようなフランス画は存在しないと同様に、日本美術史は、フランス美術史のようには成立していないようである。


以上は、ついに先生と語り会うことのできなかった、ここ2年ほど気になっているテーマである。

二人羽織いや落語のごとく、一人で片付けるしかなくなった。


中村 敬治現代美術巷談

中村 敬治現代美術 パラダイム・ロスト