ここまで、現象学と現象学的還元という方法とをあえて混同してきた。
現象学は「現象を記述する」、現象学的記述に徹する、方法である。これはごく一般的な意味で。
この場合、「歴史的思考の現象学」は、歴史的思考というものが存在すること自体に疑いを差し挟むことはない。
「茶は鎌倉で利休は戦国」は、歴史的思考の例であって、同時にその記述の試みの断片である。
しかし、現象学的還元となると話は違ってくる。
たとえば「日本の太平洋戦争の歴史は犯罪的な過ちに満ちたものである」という言説に対して、ちょっと待てその歴史ってなんだ? そんなものそもそも存在するのか、と半畳を入れる意識に伴われている。事実、そこに犯罪的な過ちがあるかどうかといったことは、まずは問題にならない。
「歴史」というもの自体が、そもそも成立しているのかどうかについて判断を停止するのだから、これは最初の意味での「歴史的思考の現象学」とは似ても似つかない。
土台、御本家フッサールにおいて「還元」は、こんなことの方法には使われていないと思われる。
それは認識批判(限界の見定め)であって、のちにカントの認識論を越えていないとその限界を指摘されたりもするところである。そういう認識の成り立ちを問うような、自己言及のループにはまるに決っている作業をするつもりなど毛頭ない。
さらに「歴史」という言葉にまつわるこうした問題意識については、すでに「共同幻想」という比較的安定な概念装置を吉本隆明がこさえてくれていた。
注視したいのは、この「共同性」の濃度はそれこそ時代によって移ろうということであり、ここ数年見られる「歴史」という語にまつわる現象としては、「共同性という共同幻想」がやけに濃くなっているように思われることだ。いや、そのように「歴史」という語がいま濫用されている、と言ったほうが正確だろう。
歴史は存在する。歴史に名を借りた言説も存在する。そして、歴史的思考も存在する。
とりあえずの結論。
たとえば、今度の石原都知事の「南京事件」に関する米国での発言を「歴史的認識が誤っている」などと言ってはならないということ。正しいかどうかを問う必要もない。物量的に可能だったか、不可能だったかも問う必要はない(おそらくあれは都知事の言が事実に近いのだろうと思われるがしかし)。「史実」であるかどうかを問う必要がない。それはそうしたリップサービスによって現実にしようと考えられている政策の方向、価値の問題としてあげつらうべきであって、「歴史の問題」とすべきではないということだ。
そもそもがあれは、中国や韓国が「歴史」という言葉を切り出したときの対応で、すでに舌戦に負けている。
まんまオウム返しにうけちゃっているからである。
「戦争犯罪」というわけのわからん言葉もそう。A級戦犯が祭られているからって、そりゃ平将門、菅公の昔から、祟りそうな霊こそを日本人は祭り鎮魂してきたのだ、と言ってみても、戊辰戦争云々しても遅い。
ムダである。
日ごろからわれわれ日本人に、御霊への歴史的思考が生きて動いていたりすればまだしも、「歴史」という言葉で啖呵を切られて大慌てでなんだかんだ持ち出してみたところで、この喧嘩は、はなから負けているのである。
そう日本人は日本を知らない。だからと言って、啖呵切られてあわててほじくりだすものは、係争のための「資料」であって「史料」ではあるまい。東京裁判に遡ってもらおうではないか。日本人の日本への無知が加速し始めた記念すべき係争に遡行してもらおう。
だから、慌てるな。負け癖は繰り返されるものだから。
歴史的思考であってなおかつ、有象無象のクレイマーを黙らせるに足るような弁舌に達するのは、そうたやすいことではない。
なんだか、とても貧しい結論になった。ことほどさように、「歴史」と言う語はいま「歴史的思考」とは程遠いところにある。
- 吉本 隆明
- 柳田国男論・丸山真男論