教師による生徒殺し。その連帯責任論?


「同志社の奴らというのがおかしいでしょ。

日本語正すなら、同志社の奴やね。
同志社の2万2千分の1がそうなのであって、

2万2千人がそうなわけじゃない。」


誹謗中傷、流言蜚語に対する反駁として、この書き込みは全く正しい。
「中国人は」、「韓国人は」、「日本人は」、という言い回しには論理的正しさを証明できない。反例がすぐに見つかるという意味で恒久的な根拠を持ちえない。どんな場合でも。


ドイツの論理学者ヴィトゲンシュタインは、教え子たちが「フランス人ってのはさあ、ドイツ人よりも…」などというおしゃべりをしているのを聞きとがめて、「フランス人というもの、ドイツ人というものは存在しない。いるというのならそのドイツ人というものをすぐここに連れてきて見せてみろ!」と激怒したという。
ある集合に冠せられた名前は、その属性を帰納的にしらみつぶしにしないかぎり、真であることを証明できない。「このカゴのなかのリンゴは甘い」程度の命題なら、サンプリングで半分も食べれば、真であると言って、間違いないだろう。
しかし「フランス人は好戦的である」などという命題になるとそうはいかない。ヴィトゲンシュタインはそこを衝いたのだ。しかし、この「言い方」は日常茶飯事に使われている。


たとえば「同志社大学の連中は殺人予備軍だ」といった、事件に便乗した誹謗中傷の類は、論理的に証明できないことなど、お構いなしに増殖していく。
 なぜか? こういう物言いに使われる同志社大学とは「イメージ」だからだ。
もっと言えば「ブランドイメージ」である。これは容易に傷つく。根拠なし、論証なしで充分なのである。
まずこの手の誹謗中傷、流言蜚語から、イメージが攻撃され、そして次のような批評的推論によって、あたかも実体であるかのような説得力を持ってしまうに至る。


「しかしなんだな、大学の中で起こした事件で、起訴されて執行猶予付きながら実刑食らってるのおかしいよな。普通は「軽傷」なら示談成立で告訴取り下げだろ。警察呼んでる時点で、大学が丸投げしているわけだから、その姿勢がおかしいわな。
怪我させたのも財布盗まれたのも身内なら、内々ですますってほうが普通。よっぽど、その時点で手に負えなかった、ということなら停学程度の処分じゃおかしいし。学内でも有名だったって言うからな。本当は何があったんだ? そん時。なんかやらかす予兆があったのでは? あるいはオヤジも同志社出身とか。」


この書き込みは、事実としてあった大学側の対応処置について、憶測を含んではいるが、姿勢を問う批判として完全に成立している(但し停学「1年半」はほとんど自主退学の勧めに近い重い処分と言えないかという議論は残るが)。大学自治のスレスレのところを衝いている。これに応戦できるのは、次のような書き込みだけである。


A)「同志社は犯人の更正にかけた。キリスト教の精神にてらせば当然だろ。 多分、犯人は精神病だろうと思う。」


B)「大学にたいし責任追求するなんてどう考えてもおかしい。
連帯保証人でもない親に借金払えというのと同じだ。」


A)と同じ立場に立ちながら、「だからこそ」ダメージコントロールとして大学は大失策をやってしまったという怒りの書き込みもある。
「大学長は誤る(原文ママ)必要は一切なかった。個人的にそう思っても大学指導者としては 完全にまちがった行動をしている。 世間に同志社が悪いのだという誤解を大々的に広めただけだ。 これは同志社の在学生、OBにたいする利益相反行為であり、裏切りでしかない。今後一切コメントをだすな。同志社。他大学についての悪い前例を残すだけだ。」


汝、右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ、

だったのか。緊急表明をあえて出したのは。
汝、右の頬を打たれたら左の頬を打ち返せが当然の時代に、なんというコントロールのなさと言いたいのだろう。

B)はゲマインシャフト、ゲゼルシャフトの観点から全く正しい。(流言蜚語の鎮圧にはたとえ無力であったとしても)。
「社会学用語
http://www.mirai-city.org/mwiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E7%94%A8%E8%AA%9E
ゲマインシャフトとゲゼルシャフト
テンニースは、集団を「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」に分類した。ゲマインシャフトは、家族や近隣の村落などのように、自然発生的に形成され、成員が直接に面識があり、生活のほとんどの面で密接に関わり合いを持っている集団を指す。ゲゼルシャフトは、企業や学校などのように、成員が間接的にしか関わり合いを持たず、利害計算に基づく契約関係などで動かされる集団を指す。近代化の進展によって、集団はゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと移行してきたと言われている。」


犯罪者の子どもが、「人殺しの子ども」と呼ばれていじめられることはある。
これは血縁ゲマインシャフトによるある種、連帯責任論を成立させてしまうバックグラウンドを形成する感情だろう。こうしたイジメが容認されるべきものでないことは確かだが、それでもこの下卑た感情の存在を否定することもできない。
ともあれ大学は家族のような、ゲマインシャフトではない。情操教育の段階、人格陶冶、社会性の獲得などといわれる、いわゆる「育てる」「育つ」段階は、高校までで修了した「大人」が知識・技術・研究方法・スキルなどなどを学び、修得するために門をたたく機関が大学である(そうであったはず)。その意味で大学は「人を育てる」機関ではないし、その必要もない。人間がある目的達成のため作為的に形成した集団であり、基本的に合理的・機械的な性格をもち、近代の株式会社をその典型とするゲゼルシャフトの一形態である。
もちろん、「同じ釜の飯を食う」という言葉に込められているような家族・兄弟間の親密度に近い愛着が、クラスやゼミやサークル単位で生まれることは大いにありえることだ。
仮にあるとすれば「愛校心」とはこうした、仲間や恩師を介して得られた感情が基盤となって成立するものであって、そこでは「何大学であるか」は二義的であると言ってよい。
2万2千分の一の学生の犯罪への反応は、こうした個々の学生時代、もしくは現に属している大学での仲間やゼミでのアタッチメントを刺激するゆえに起きる。
犯罪の発生と在籍大学、卒業大学との相関はない。どんな大学であっても。
犯罪の種類にもよるが、企業人の場合も所属する企業と犯罪の発生に相関はない。
しかし、「不祥事」はダメージを与える。それだけは確実である。
ゲゼルシャフトをゲマインシャフトとみなしてしまう感情論が噴出することも一種の人としての生理現象であると言えるかも知れない。
大学は「教育の場」であるということになっているから、「犯罪」とは最も遠いものというイメージが定着している。これは企業人が犯罪を犯した場合よりもっと強烈な反応を引き起こす。しかも停学処分を食らっていたとは言え、現役の大学生であればなおさらだ。だが、大学はゲマインシャフトではなく、ゲゼルシャフト、利益社会である。契約に反して、その社会の利益に反する行為を行なったものは追放される。停学処分・退学処分・除籍は、大学が利益社会であることの証でもある。
だが、ここには二重性がある。あくまで身内意識(ゲマインシャフト)を貫くなら、同志社はあくまでも彼を庇護すべきだった(A)の徹底につながる)。その勢いで、「あんなやつはうちの人間ではない!」という親が子を勘当するようなメッセージを出せばよかったかも知れない。一方で、同志社大学をブランドとすれば、学生は商品であることになる。虫のように湧く「欠陥商品を作ったメーカー」という揶揄、誹謗は、この論理が感情のオブラードを着ているもの以外ではない。

そこにあるのは、ただひたすらブランド(もとは家畜の尻に押す烙印のことである)の問題だけだろう。それしかない。ブランド攻撃とはそういうものだ。教育理念がどうの、なんのと言葉がいかに氾濫しようと、それはただブランドイメージの破壊に収斂する以外はない。


ブランドと人物、ブランドと個々の商品。
大学がブランドによるマーケティングを明示的に行なっているとするなら、
そのダメージコントロールの優劣として、同志社は最悪の選択をしたと言えるだろう。
学長、学部長の緊急声明によって。
看板としての「教育」理念の一貫性の表明としての声明と、現実の大学の教場での実践は、乖離しているにも関わらず、生起した事件に応じて更正の可能性を優先するかのごとき言説を撒き散らすのは、愚行と言われても仕方がない。
すでにとっくに新島精神は死んでいるだろう。現代の大学実践現場に適用する試みを敢行しないかぎり、その言葉、キャッチコピーであり、コーポレートメッセージを出ないものになる。イメージキャラクタに成り下がっているとしたら、その自らの肖像を見て新島襄はどう思っているだろうか?

精神的「近隣」を意味した「社(company)」を名前に残す「同志社」。
「大学」と「同志社」はもともと異なる社会形態である。いまさら言ったところで詮無いことではあるのだが。そのキマイラ性を、同志社大学は、充分に戦略としてきたのだろうか?


願わくは、あの声明を決める際にマタイの言葉が、遠くから小さくではあれ、微かにも響いていたのだと信じたい。


「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」マタイによる福音書5章38-39節
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
マタイによる福音書5章43-44節


申し上げておくが、ここで「敵」とは、中傷誹謗ではない。

窃盗を働き、ついには殺人という犯罪を犯すに至った、自らの大学の現役学生、一人の同志社大生である。