政治に詳しくなる必要はないかもしれません。しかし政治はなくなりません。あの大災害で、知っておくべきことは、知っておかないとと心底思いました。政治から逃れることはできません。



(以下、読売新聞から
民主党内の東日本大震災の復興財源をめぐる議論が混迷している。党所属全議員を対象にした政策調査会主催の懇談会が21日開かれ、復興財源を賄う増税幅を圧縮するため、税外収入を上積みすべきだとの意見が相次いだ。

 しかし、増税以外の有力な財源探しは難航しているのが現状だ。



 「特別会計にメスを入れるべきだ」



 「日本郵政株の売却益を充てれば、所得税の増税は避けられるはずだ」



 「未利用国有地の売却はどうか」



 21日の懇談会は、政府税制調査会が5兆円と示した税外収入の上積みについて協議したが、意見が百出し、議論は深まらなかった。懇談会は非公開だったが、時折、いきり立った議員の声が室外に響いた。



 ただ、党所属国会議員400人超のうち、この日の参加議員は1回生を中心に50人ほど。前原政調会長は姿を見せなかった。



 党政調が全議員に門戸を広げたのは、党の意見を十分に政策に反映する場がなかった前政権の反省からだ。しかし、今回の懇談会の意見が政策決定にどのように反映されるのか、政調幹部から明確な説明はなく、出席議員からは「懇談会は、『全議員から意見を聞いた』という形を整えるためのガス抜きだ」との声も漏れた。



「この記事の著作権は読売新聞に帰属します。」



ただ、守りの姿勢だけでは、ますますどんづまるということもあります。打って出ることも考えておくことが欠かせないと思います。攻守バランスよく行きたいものです。

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本日もお読みいただきありがとうございました。

今年はちょっとムードが違うのだろうか、どうなのだろうか。福島大学の特別措置ほか、今年3月の発災だから試験そのものよりも、入学式とかに影響が多かった。2ちゃんねるがけっこう元気だ。

早期大学合格者の「入学前学習」を助ける教材を開発、ベネッセ | 留学 ...

... 今秋、5種類のラインナップを揃えて、大学向けに販売すると、7日に発表した。 現在、私立大学入学者の約半数が一般入試を受験せずに早期に合格が決定し、合格決定後に学習習慣が無くなるという、高校・大学の共通課題が生じている。 ... 留学・専門学校・大学のための「学びニュース」

大学受験講座

『大学受験ラジオ講座』より : 大学受験ラジオ講座(だいがくじゅけんらじおこうざ)は、文化放送やラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)など全国のAM,FM,SWラジオ放送局で放送された番組。1952年3月31日~1995年3月26日に放送された。ヨハネス・ブラームス ブラームス作曲の「大学祝典序曲」がテーマ曲として使用されたことでも知られる。
通称「ラ講(らこう)」。
教育出版事業の旺文社単独提供番組。基本的には毎日1講座30分単位で2本放送された。
開始当初は、大半の局で22~24時の夜間に放送されていたが、22~24時が若者向けになるにつれて、ほとんどのラジオ局は早朝5:00~6:00の放送になった。1980年10月以前で夜間放送だったのはラジオたんぱと文化放送(23:30~)、およびラジオ関西(23:35~)だった。当時、文化放送の22時以降は「夜のニュース・パレード」や「百万人の英語」など固い番組が並んでいた。
引用元 : Wikipedia『大学受験講座』

大学受験サロン板

2ちゃんねる掲示板=大学受験サロン板
愛称=受サロ
カテゴリ名=受験・学校
サーバー名=school5
フォルダ名=jsaloon
書き込み数=約3,200
書き込み数の時点=2006年7月下旬
関連板名=大学受験板
開設日=2004年8月15日
開設理由=隔離新設
名無しの名前=名無しなのに合格
ID制度=強制ID携帯/PC識別符号表示
大学受験サロン板(だいがくじゅけんさろんいた、以下受サロ)は匿名掲示板2ちゃんねるの板である。
大学受験板の自治として受験に関係が薄い馴れ合いや雑談固定の隔離を目的として新設された。
2004年8月15日 大学受験板の分割としてschool4にて新設される。
引用元 : Wikipedia『大学受験サロン板』
2011年のセンター試験まで、あと10日と少々。

こういう土壇場な時期に「試験は、なんために?」

なんて考えてる暇もないだろうけど(笑)

一個言えるのは、「試験を受ける」に近いことは、大人になってからも毎日のようにやってくるということ。

そのための練習だと思えば、なんてことはないさ。

もちろん、志望校に受かるために持てる実力を発揮することだけが受験生にとって必要なこと。

センターのみの人にとっても。

(続く)




そろそろお待ちかねの夏のボーナスの季節が始まる。


と言っても昔と違って、あまりありがたい気持ちになれない人のほうが、

多かったりするのかも。


加えて、この時期から、転職活動を始める人が増えるというもの、


一昔前までは、なかった話。


「ボーナスをもらってから」というのが、


一歩を踏み出すきっかけになっている。


これはまあ、夏に限ったことではなく、

春とか、年末とかにも言えることだけど。


人によってさまざまだろうが、


「職」を変えるのと、「会社」を変わるのとでは、かなりの違いがある。


かつては、よく脱サラなんて言ったものだが。


サラリーマン辞めて、ラーメン屋を始めるとか、


独立開業ってやつ。


これは職業を変えるわけだ。言うまでもなく。


最近どうなんだろう?


「転職」ってのは、やってることはそのままで、


ギャラのよりいいところに移るってのが多いとすれば、転職というよりは、


「転社」なんですけどね。


腕に技術を身につけた人であれば、


包丁一本、自営に転ずるってこともあるだろうし。


最近では、ネット1本


っていきかたも、選択肢に含まれるようになってきたらしい。


(続く)





今年の大学入試は、センター試験の成績によって、二次受験資格者を決める2段階選抜を、予告どおり実施する大学が増えそうな予測がある。


端的に「全入時代」などという誰に向けたかよくわからない状況論など、どこ吹く風。志願者数を増やしている旧7帝大を初めとする大学が多くなっているということだろう。これは早慶、関学、同志社などの私学についても言えることだ。


センター試験は5教科7科目が多く、私学でもこれに近い科目数のセンター試験を課すところが増えてきた。


はしょって言えば、5教科7科目は、教養課程に通じている。というか、レイト・スペシャライゼーションではないが、高校まではいろんなことやっとけよ、そういう思いの体現でもあるはず。


これが科目増の「負担」なんてことにしかならない傾向があるのは、やはり「関連づけ」が足りない、または全くないからに違いない。


こういう話でいつも思い出すのが、思い出すだけで決着できていないのが、「専門性」と「職人気質」。


どうも「職人気質」というのは、一般教養というかリベラルアーツに支えられているというか、そっちへ展開するというか、そういう思いがずっとあるのだが、「一芸に秀でる者は・・・」という話以上に進めることができないでいる。


扇の要のようなもの。



たとえば、『すぐできるカンタン ホームページのつくりかた』という本があるとする。現実に似た書名の本はゴマンとあるはず。

こういう本と、同じテーマで、レベルがかなり高い本と、二冊揃える。で、二冊を目の前に置いて、文字どおり重ね合わせるように読む。この読書術の効果には、段階があるのだが、その詳細に入る前に、複数の本を並べて読む、少なくともその構えに入るチャンスはしょっちゅう起きていることにあらためて気づいた。なんのことはない、本屋にぶらりと立ち寄って、目についた本を二、三冊購入するときが、それだ。 目的買いで、ある本めがけて本屋に走る場合は、この限りにあらず。まったく異なるジャンルの本であっても、それは起きている。もちろん、普通には順番に読んでいくはずだから、重合はない。が、まとめた買ったということには、何か繋げているものがかすかにでもあったはず。そういう場合があるということだ。


西早稲田の古本屋で、店先で3冊100円の文庫を買った。


『賃労働と資本』

『天皇の影法師』

『タイムスケープ』


この場合、新刊本屋でウィンドウショッピングとは違って、「持ってけ」ワゴンのなかから3冊を辛うじて選び取るという制約がある。

それしかない。表に積まれた古本に期待すべき掘り出しものはめったにあるものではない。それでも、なんとか受容できる本を選ぶ。


で、上の3冊。目的買いではないので、全く関連づけは存在しない。だが、パラパラめくっていくうちに、ある相関が浮き上がってきたりする。これはこれで面白い。いや、実はこれ、重合読書の究極、なのである。


『すぐできるカンタン ホームページのつくりかた』と『ユニバーサルHTML/XHTML』の重合といったレベルは、これに比べれば実に実用的な初歩の初歩に過ぎないのだが、それさえきちんと方法として話されているのを聞いたことがない。切り出していくことにした。


ついでに、読みの速さは重ね合わせにおいても相当重要だ。自分でそういう「術」を意識したことはこれまでないが、あらためて思い返してみると、石膏デッサンをみっちりやらされたのも、読みの速度に貢献しているような気がする。

1分間で何文字、読み取っているかという読書スピードの平均は600文字だそうだ。話すほうは1分に200文字程度だから、読みは3倍速か。読書スピードの速い人は、1分間になんと10000文字は平気で読むという。自分では計ったことがないが、「理解」ということとからめて、検証しておきたい話ではある。


新日本速読研究会

ということになったようだ。

「サイバー大学」は、今年1月だったか経済特区から立ち上がって、初めは「日本サイバー大学」という仮称だった。

いろいろと文科省あたりから、チェックを入れられて、募集人員を当初予定されていた規模の半分近くに縮小するなど、控えめな出発をするようだ。


お役所のくくりでは、通信教育課程ということになっている。私学では老舗の法政大学が運営するものなど、通信制大学は古くから存在するが、そういう通信制と異なり、このサイバー大学にはキャンパスがない。したがって教室もない。


生の対面授業はまったくなく、サーバに置かれた講義コンテンツに学生はインターネットを介してアクセスし、受講する。


全講義オンデマンド方式の大学が誕生することになる。

ライブは、ないようだ。ライブだとオンデマンドではなくなる。ライブを保存して再出することは当然できるが、経営上それでは無駄が多くなる。


きちんとスタジオで収録した音声付き動画ファイルに、適切な講義資料などを同期させて完成度の高いマルチメディアな講義コンテンツを作成するほうが高いクオリティを保持できる。


4年制大学として認可されているので、きちんと単位を取って卒業すれば、学士、大卒の「資格」が与えられる。

スクーリングも何もない。昔ながらの「大学生活」というものは、この大学には存在しない。


高校生が志望大学にすることは、ごくごくまれだろう。そこは放送大学にも似ている。スクーリングがないことを除いて。

さらには、資格取得志向を明確に打ち出した「IT総合学部」「世界遺産学部」の2学部制になっている。いずれは同じ方式で大学院も設置していくのではないか。


関係ないようだが、旧7帝大には、「研究型総合大学」「研究型大学」という言い方で自己規定をする傾向が出てきている。

法科大学院などに代表されるプロフェッショナルスクールの「専門職」型高等教育機関との対比だろう。


関連して、今回サイバー大学を含め11の大学が来春開校に向けて認可されたが、サイバー大学以外は医薬看護系と教育系の単科大学になっているのも時代を感じさせる。どちらも資格取得型である。


さらにさらに、サイバー大学は、7番目の「株式会社立」の大学になる。他の10の大学はすべて学校法人。瀬戸内海ぞいに立地するのに、環太平洋を名乗る大学(笑)も学校法人だ。どうでもいいことかも知れない。事業として株式会社が企画をする場合には、しかし重要なことであるはずと思える。ネーミングはサービス業において、実に重要である。その点、サイバー大学が当初の「日本」をはずしたのは賢明な選択だった。


何が言いたいのがわかりにくいエントリになったが、ある新聞が書いた「全入時代なのに11も大学が新設されるなんて、なんということだ」といった、実に愚かな論調に比べれば、実にまずすべての認可された大学は健全であるということ。事業意志として。


その上で、学校法人立と株式会社立の比率が、いまだに十対一であるということ。


そして、これをいわゆる米国流の「民営化」の論理ではない視点で眺めうるロジックの確立が必要であるということ。


このことを今回の認可は示唆してくれているように思える。同時に、新聞に代表されるように、教育」というものについての、この国の民度は、実に低いのだということも。


言い忘れた。サイバー大学を運営する会社は「日本サイバー教育研究所」。サイバー大学のウェブ はすでに立ち上がっている。








Z会と言えば大学受験の通信教育の老舗。そのZ会に社会人向けの講座があった。


放送大学で教育学を学んできたのだが、スクーリングになかなか出られず、修士はとてもとてもといった感じになっていた。放送受講だけは、ラジオで続けている。


大学に通信制はあるのだが、大学院を目指す社会人を対象にした通信教育があるとは知らなかった。

これは、どうやら可能性がありそうだ。


半分仕事の必要で始めた教育関連分野の研究だが、Z会のZ会キャリア開発コース で、心理系専門科目を勉強してみるのは効果ありかもしれないと思っている。臨床心理士養成指定大学院を志望する大学生や社会人が対象の講座だが、教育学畑でも十分通用するはず。


「心理系英語講座」とのセット受講ができるのも魅力。半年かけて、『自習用冊子』、『添削問題冊子』、添削指導のサイクルをリズムをもってこなしていけば、相当に力がつきそうだ。「研究計画書」の講座もあるから、とにかく「大学院レベル」の何かを目指そうと思う者には、不足のない道具がそろっている。「大学院英語基礎」もそのうち取りたくなるだろう。気分はPh.Dだ(笑)。


一方で、WebアプリケーションやEコマースサイトの構築に必須のXMLマスターの資格試験もそろそろ受けようかと思う。教育と心理学とXMLと一見関係なさそうだが、実は大いに繋がっている。


つながりは「仕事の場」という「場」が支えてくれるものだから、学生時代と違って、ひたすら「合格を目指す」という勉強のしかたはできない。いや、しないように心がけている。生意気なことを言うようだが、XMLは仕事の現場で使ってきた。資格は、そのキャリアを明示的に示せるほうが、何かと便利だと感じ始めたから取得しておこうと思う。加えて、どんどん新しいものが出てくる情報技術には、これで卒業ということがない。おさらいと新しい技術の学習を加速するにも資格取得という目標は役立つ。


教育分野の修士を目指したのも、研究者になりたいというよりは、より確実で深みのある仕事を仕上げていきたいと思ったからだ。
実践の現場の刺激と学ぶ喜びの相乗効果を創り出す方法の一つに通信教育というものを位置づけて、仕事を含む日課を組み立てみようか、と思い始めている。


それにしても「添削」、なんとも懐かしい響きだ。同時に、しっかり書き込まれて使い込まれたノートのような、あの充実感も蘇ってくる。

いきなり引用させていただく。

What Comes Next? 次に何がくるか? Problem 問題 What comes next in the following sequence: . . . 59, 53, 47, ? . 次の数列では、次の項(?)に何がくるだろうか?:・・・59, 53, 47, ? . Solution 解答 Possible answers: 41 and 43. 可能な答は:41と43。 If the sequence is arithmetic, the constant difference is 6, and the next term is 41. もしその数列が算数的なきまりになっているとすると、差が6で一定になっているので、次にくる数は41となります。 If the sequence is considered t...続きを読む

実はこれ、日英混淆文に「見える」が、「続きを読む」と対訳式で書かれていたことに気づく。失礼ながら、「見え」から咄嗟に思いついたことを述べさせていただく。


自分が理解できていてまず使えると思えるものと、なんとか存在に触れてはいるが、よくわかっていないと思えるもの。たとえば母国語と外国語。こういう白と黒、○と×を同じ土俵でぶつける勇気というか、つき合わせて遊ぶ遊び心というか、そういうものがもっとあっていい。いや許されていいのではないかと思う。


体系には遊びを許さないものがある。そこを行儀良く遊べるようになれば、数学と国語の連環、連動などは、当然のように受容できるだろう。但し、「すべて言葉、すべて勉強だ」などという、「身も蓋もない一般化」にだけは警戒を要するのだが。かつ、似て非なるものは似て非なるものであるという釘を、決して抜かないように。抜いて見せるのは良いが、正しく打ち直しが効くようにすること。釘抜きと金槌の両方が必携である、ということだ。


近いところで、ダジャレは誰もが遊んでいる。オジンギャクとか言われて、笑おうにも笑えない、ダジャレとさえ言えない、ただ音を掛け合わせただけのものでも、実は効能がある。シャレて見せよう、掛け合わせて見せよう、重ねて見せようという魂胆は、実は全方位学習を駆動するエンジンに近いところにあるもののような気がしている。


「子豚が空を飛んでいる。これがほんとのヘリコブター(林家さんぺい師匠)」


シャレは、意味的には全く関係のないものを、音が同じということだけで、つなぎ合わせてしまう。

一見、なんの役にも立たない。良くできていれば受ける。それだけのことだ。だが、これはどうも全方位学習法の根幹にも繋がることのように思えている。ずっと思っているのだが、理論にはほど遠く、ロジックもなおざりだ。


まったく論理的な連環も、整合性もとれていないが、とりもとりあえず書き付けておく。

数楽者先生が、最近エントリされている日英混淆文による数学問題文 の効果のおおもとにも、きっといま書き付けたようなことが深く関連しているはずだと思えるので。


尊敬する英語学者の一人である宮崎尊先生が注目されている、pidgin English、日本語で?言えば、ちゃんぽん英語の「威力」にも同じエンジンが動いていると思われる。あらためて触れたい。(なお、尊先生のpiding Englishの話を枕にした英語についてのエッセイはTHE SONG GOSE ONのページ からダウンロードできる)。


数楽者先生の試みは、英語で数学を学ぶという、最近少しずつ試みられ始めている堅実な方法論に基づかれての事だと思う。

それを確認もせず、こういうコメントをさせていただくことをご寛恕願いたい。また、英語で数学を学ぶことにも、ここで述べたことは無関係ではない。


掛ける×はmultiplyであり、乗法はmultiplicationであり、英語ではn×mをn times m つまり 「n 回の m」と言うのであり、割るとは、divideであり、分数はfractionであり、ということを知るだけでも、自分がやっている操作の行為としての意味、イメージがひらけることはあるのだ。割り算と分数は、実は別物であることが、英語では一目瞭然であったりする。


これは英語ペラペラになろうという昨今の英語熱?とは全く別物である。思考と言語の関係というテーマだ。で、このテーマはチャンポンな状態であればあるほど、冴えるのである。


(続く) メモ

 

重要なのは実は「道具」ということなのだが。


「暗記」に寄せて言えば、「手続き的記憶」と道具性。

簡単な例が、自転車の乗り方。一度覚えると忘れない。身体的記憶とも言う。

からだで覚えるわけだ。水泳よりシンプルだ。補助する人以外、最近の交通マナーの悪さをなんとかしたいというのはおくとして、自転車教習所が存在しないのを見てもわかる。水泳教室はあっても。


だがどちらも一度覚えれば、忘れることはない。

さて、これを「暗記」と呼ぶだろうか? あるいは、何度も乗ること、何度も泳ぐことが楽しいだろうか?

つまり同じことを繰り返して面白いだろうか? 自転車に乗ること、泳ぐことは、競技やレジャーのことを度外視すれば、それは「実用性」なので、別に面白くもなんともなくたってそれで十分なわけだ。


数学における「暗記」に少し接近するには、「九九」が一番わかりやすい。

これについては誰もが、「暗記」であると言ってはばからないだろう。


「暗算」とも言うが、この「暗」と、「暗記」の「暗」は異なる暗である。

暗算は暗黙に計算する、つまり紙も鉛筆も電卓も使わずに、暗黙的に計算するから暗算である(これは「暗黙知」と「形式知」の例題にもなる)。


暗算はあとでよくトレース(自己観測)してみると、かなりビジュアル的な操作であることがわかってくるはずだが、この暗算の視覚性の初期起動イナーシャを付与するのが「九九」である。


自己観測する余裕など小学生のわれわれにはない-幸いなことに-なので、「歌うように」覚えていく。

これは間違いなく「暗記」である。


さて、「なぜそうなるのか」を問うことも理解することもせず覚えることを「暗記」ということにする。

これはまあ一般的な解釈だろうから、まったく問題ない。理解に暗いまま記憶する、意味に暗いまま記憶するから暗記なのだろう。


ところで、「いんいちがいち」がなぜそうなのか、ということと、「にににんがし」もっと簡単に「いんにがに」がなぜそうなのか、を問うこと、もしくは理解することとは、まったく次元が違うことに気づかれるだろうか。


1×2=2は理解しやすい。1が2回と読替えてもいいし。だが、1×1=1は、1=1とどう異なるのか。

ビジュアルにはまったく同じである。静止している。動かしたくなるところを止めなければ、1×1=1の理解は破綻すると言ってもいい。

同じ暗記=九九のなかに、はやくも数学基礎論な問いを押し込めと言われれば、このように成立してしまう。


「暗記」=とにかく覚えろ

「理解」=意味をわかったうえで、覚えろ。というよりも、わかれば自ずと記憶できる


九九はそもそも、わかった上で覚える、というわけにはいかない代物である ことに注意しよう。

なおかつ、この暗記は、現代数学の展開にまで通じる「暗記」である。

数学の基礎には暗記がある。暗記こそが数学の基礎である!


などとアジルつもりは毛頭ない。

問題は、「理解して、解くことができるまで、先に進んでは行けない」という暗黙の精神主義? にあったのではないか。そこで反語的に「暗記」という宣戦布告キャッチコピーを掲げざるを得ないという、日本的? な事情があったのだろうということ。


これは「操作」である、ということをきちんと宣言して教える教育が日本には不足したのではないか、ということ。それをとりあえず「精神主義」とわかったようなわからないような語で呼んでみただけのこと。

こういう傾向は、いまはどうかしらない、高校以上で顕著であったように思う。


なかなか、標題の本のディティールに入れない。

実に深いのだ、この問題は。


数学基礎論と、その神秘主義と、半端な数学者もしくは「教育者」の権威主義と。三つどもえの戦いだからだ。


閑話休題


暗記について、数学とはまったく異なる分野の例。

HTMLのタグをみんなどうやって覚えているだろうか?

たとえば<a></a>。これはアンカーの頭文字だ。錨を投げ下ろすようにリンクをはるので。

<href>。これはhyperreferenceをつづめている。<p>はパラグラフ、つまり段落。

すべての要素名を英語のフルスペルで理解して覚えるように勧めている。

他人のコードを読むときも、<p>とくれば、頭のなかではパラグラフと読んでいる。

プログラミング言語についても事情は同じだ。


これは「理解」の諸相の例題である。

深まるばかりが理解ではない。理解は制御される必要がある。

さらに、深みにはまっても、いつでも制御的に戻ってこれること

これが理解の極意だろう。そこには当然、暗記が含まれている。


(続く)


八杉 満利子, 林 晋
お話・数学基礎論―数学では必ず正しい結論に到達できるか?
和田 秀樹
数学は暗記だ―受かる青チャートの使い方