I.教科書としてのウェブ(承前)


 もちろん冒頭の例は、公教育・家庭教育など教育・学習のすべてを覆うものとは言えない。また、熱いうちに打った鉄を精錬し、精製していく構造をウェブはまだ持っていない。しかしIT関連のベンチャーが、日本でもそこそこに成功し得ているのは、こうした学習環境を自前で築ける環境が存在するからだ。プログラミングを教科としては教えていない普通科高校の生徒たちが、「パソコン甲子園」の上位に進出し始めたのも、その一つの証左である(彼らのなかにはウェブを活用した独学・独習、自学自習の方法がしっかりと蓄積されているはずだ)。ウェブは世界百科事典であり、学習のための道具の萬屋である。アクセスさえできれば、誰に対しても、「全ての」情報、「全て」の知識を与えうる世界大百科知識ベースであり、「ある適切な構造を持つインタフェース」が与えられれば、それはあらゆる分野の「教科書」として十二分に機能しうる巨大なポテンシャルを有している。
 一方、現に日本の教育現場で用いられている日本の教科書はどうだろう? 薄すぎる。
それ以上に、新学習指導要領は興味をもって勉強しようと思う者がいる可能性を無視し、その対象を表示すること(ディスプレイ)さえしない、まるで焚書坑儒のような愚行を犯した。「そんなもの要らない」と思う者は、そもそも見向きもしない。だからこそ、全ての最高の知識と情報は全て、ありったけ、ディスプレイしておくべきなのだ。誰にも一つは興味をそそるものがある。表示されていさえすれば。それこそが「機会均等」というものではないのか。食べたいと思う者がいるかもしれない。食べたくない者は無理しなくてよい。しかし意欲した者には、ファシリテーションを提供する。道をつけていく手助けをする。ここでようやくにして「教育」の名に値する者の出番となるのではないか。そのような柔軟な、「オンデマンドなシステム(学習意欲を起動する機会は遍在する)」であるべきだろう。教育というものは。
 「万人のための教育」などまやかしである。いわんや意欲ある学習者の学習意欲に対して、その意欲を圧殺することを義務付けるような義務教育など不要である。そのような焚書坑儒を勧める学習指導要領などは、直ちに打ち捨てるべきである。機会均等とは、手にしたいと思った者が、思い立ったときに、即座にいつでもその内容へのイントロデュースを得ることができ、可能なかぎりその世界を極めていく理路と機会を封鎖しないことではないのか? そして、それでなくても「薄い教科書」を、さらに薄めるような悪行を働いた新学習指導要領の対極にあるのがウェブなのである。
薄めるのが好きな指導要領を反面教師として言うなら、情報は思いっきり最高のものを惜しまず与える「厚い」ものであるべきである。教科書は一千頁あって良い。それができるのはいまのところわが国ではウェブしかない。