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ウルトラマン・Hの ひとりごと

音楽について語りたくてたまらないんです。



デオダート」は、1943年ブラジルで生まれた、クロスオーバー・キーボード奏者であり、アレンジャーです。

 

1964年にブラジルでデビューした「デオダート」は、1972年、ファーストアルバム「プレリュード」を発表しました。

そのアルバムに収められていた曲で、クラシックの楽曲をジャズ風にアレンジした「ツアラトゥストラはかく語りき」が、大ヒットしたのです。

その当時は、まだ、(クロスオーバー)とか(フュージョン)という単語がなかった時代でしたから、(クラシックとジャズの融合)とかなんとかいってましたかねえ。



ツアラトゥストラはかく語りき」は、リヒャルト・シュトラウスが1896年に作った交響詩です。
元曲は9部構成で出来ており、約33分間連続で演奏されるものです。



映画「2001年宇宙の旅」の導入部に使われていたので、覚えている方も多いと思います。
この映画で使われた楽曲は、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮で、ウィーン・フィル・ハーモニー交響楽団が演奏していました。

ちなみに、格闘家のボブ・サップのテーマ曲でもあります。
あの高校野球の名門PL学園高校の応援曲としても有名でした。

 

デオダート」を知った頃、苦学生だった私は、FM放送をエアチェックすることが最大の音楽情報の根源でした。
そのFM放送で、初めて、「デオダート」の曲を聴いたのでした。

音楽の先生を母に持つ私は、元々クラシック大好き人でして、クラシックの名曲がロックのように、ラテンのように、ジャズのように、アレンジされたものを耳にして、大きな衝撃を受けたのを今も覚えています。
当時エアチェックしたカセットテープは、今も大事に持っています。

この「ツアラトゥストラはかく語りき」のバック演奏者がまた素晴らしく、
キーボードの「デオダート」を中心に、ジョン・トロペイ(ギター)、ロン・カーター(ベース)、ビリー・コブハム(ドラムス)、アイアート・モレイラ(パーカッション)と、錚錚たるメンバーが顔を連ねていました。



1973年にリリースされたセカンドアルバム「デオダート2」では、ジョージ・ガーシュインが1924年に発表した「ラプソディ・イン・ブルー」が取り上げられていました。

この曲は、元々ジャズのリズムを意識して作られたものだけに、「デオダート」は、めっちゃノリノリで演奏しています。



ジョージ・ガーシュインは、脳腫瘍のため、38歳という若さで亡くなっています。

 

他に、ムーディー・ブルースの「サテンの夜」などもカバーしています。

カバー曲だけでなく、「デオダート」の自作の曲も収められていて、どれもノリが良く、なかなかの秀作ぞろいです。



1980年以降は、プロデューサー業に専念するため活動を休止していましたが、2001年に復活して、再びライヴ活動を始めました。
2008年の夏に、来日公演も果たしています。



つづく


アレサ・フランクリン」は、1942年、米国のメンフィス生まれの、女性ソウル・シンガーです。

牧師の父と、ゴスペル歌手の母を持つアレサは、幼い頃から父の教会でゴスペルを唄っていました。

1960年、『ビリー・ホリデイ以来の最高のシンガー』という鳴り物入りでコロンビア・レコードと契約、シングル「Today I Sing The Blues」でデビューを飾りました。

しかし、レコード会社が、彼女をゴスペル歌手ではなく、普通のポップな歌手として売り出したこともあって、彼女の本来持つインパクトを表現することが出来ず、数年間で10枚程度のシングルをリリースするも、セールス的には失敗に終ってしまいました。



1967年、アトランティック・レコードに移籍、プロデューサーのジェリー・ウェクラスが、アレサの才能を見抜き、ゴスペル・フィーリングを前面に押し出す方針を採ったことで、彼女は一躍スターの座へと駆け上ることになります。

移籍第一弾シングル、「Never Loved A Man貴方だけ愛して)」が、いきなり全米チャートのトップ10に入る大ヒットとなりました。

同名のファーストアルバムも大ヒットして、米国南部のソウルシンガーとして、オーティス・レディングと人気を二分するほどの存在となりました。

 

代表曲である「Respect」は、元々オーティスが1965年にレコーディングした彼のオリジナル曲です。

この曲をどうしても唄いたいと、アレサがオーティスに申し出ました。

そして、彼女の唄う「Respect」を聴いて、オーティスは、そのあまりのソウルフルな歌声に脱帽したといいます。

 

Respect」は、、アレサにとって初の全米NO.1ヒット曲となりました。
R&Bの部門では、7週間連続で第1位に輝いています。

この曲の中で、アレサは自らピアノを弾き、バックコーラスには妹のキャロリンが参加していました。

アレサは、この全米NO.1ヒットによって、「クィーン・オブ・ソウル」、「レディ・ソウルソウルの貴婦人)」と呼ばれるようになりました。



ところで、この曲のタイトル「Respect」という単語は、どうも直訳の『尊敬』という意味ではないようです。

♪ ~あんたが外から戻ったら
   あたしにRespectしてちょうだい
   特に ベッドの中では ね!

と、唄っているところから、
女に生まれた喜びを与えて』とか、『あたしをうんと悦ばせて』というような、そんな意味が含まれているようですね。



さて、アレサは他にも、キャロル・キングの「Natural Woman」、バート・バカラックの「I Say A Little Prayer」、サイモン&ガーファンクルの「明日にかける橋」などをカバーしていますが、アレサが唄うと、どんな曲もソウルの名曲になってしまうから不思議です。

1972年には、「Amazing Grace至上の愛)」というゴスペル中心のアルバムも発表しています。

 

グラミー賞は20回受賞しており、女性としてはアリソン・クラウスの21回に次ぐ受賞記録です。

また、1987年には、女性アーティスト初のロックの殿堂入りも果たしました。

ローリングストーン誌が選ぶ”歴史上最も偉大なシンガー”において、第1位にも選ばれました。

 

アレサ・フランクリン」は、2003年に発表したアルバム「So Damn Happy」を最後に、一応、引退宣言をしました。

が、いつの間にかそれを撤回、ライヴなど精力的な活動を続けました。

 

今年で御歳70歳を迎える「アレサ・フランクリン」、ちょっと太目になりましたが、まだまだ元気なソウルおばさんです。


つづく


シェリー・フェブレー」は、1944年カリフォルニア州サンタモニカに生まれました。
本名は、「ミッシェル・アン・マリー・フェブレー」、3才の頃から映画やTVドラマで子役として活躍していました。
現代版芦田愛菜ちゃんといったところでしょうか。



人気に火が点いたのが、1958年から放映されたTVのホームコメディドラマ「うちのママは世界一」でした。

このドラマの挿入歌として唄われたのが、「ジョニー・エンジェル」です。



彼女のアイドル的な人気に便乗する形で企画された番組の挿入歌でしたが、人前で唄うことが大の苦手だった彼女は、この歌を唄うことを一度は断りました。
しかし、プロデューサーの指示で渋々了承したのでした。

この時、レコーディングに集められたメンバーは、錚錚たるミュージシャンばかりで、ギターにグレン・キャンベル、ドラムスにハル・ブレイン、そして、コーラスには、あのダーレン・ラヴブロッサムズのメンバーが参加していました。



『あたしが何でこんな小娘のバックコーラスなの?』、ダーレン・ラヴは、きっとそう思ったに違いありません。



そうしてレコーディングされた「シェリー・フェブレー」のデビューシングル、「ジョニー・エンジェル」でしたが、1962年に発売されるや、あれよあれよという間にヒットチャートを駆け上がり、見事全米第1位に輝く大ヒットとなったのでした。

同年、日本では、森山加代子さん、ザ・ピーナッツ伊東ゆかりさんの3組がカバーして競作となりました。

 

日本で発売された「シェリー・フェブレー」のシングルは、ジャケットの写真が彼女とは全く関係のない、ちょっと色っぽいお姉さんの写真が使用されていました。
当時の少年達は、彼女が18才だったとはとても思えなかったことでしょうね。



ちなみに、1955年~1963年までのアメリカンポップス黄金時代の中で、本業女優が歌手として出したレコードが、全米NO.1に輝いた曲は、たった2曲しかないそうです。
ひとつは、1957年発売の、デビー・レイノルズの「Tammy(タミー)」、そしてもうひとつが、この「ジョニー・エンジェル」なんです。



彼女が歌手(?)として活躍したのは、ほんの2年足らずです。
発表した楽曲も、そんなにたくさんはありません。

アルバムは、ファーストの「Shelley!」とセカンドの「The Things We Did Last Summer」の2枚だけ。

数曲のオリジナル曲の他は、古いヒット曲を60年代風にアレンジしたカバー曲がほとんどです。

 

アルバムの中には、「ジョニー・ラヴズ・ミー」という「ジョニー・エンジェル」の続編と思われる曲も収められています。

面白いところでは、「ジョニー・ゲット・アングリー」という曲、
これはジョニー・サマーズが1962年に唄って全米第7位になったヒット曲ですが、何故か日本でだけシングル盤が発売されています。

森山加代子さんや伊東ゆかりさんのカバー曲も、同時にリリースされていました。

日本人受けするメロディーなのかも知れませんね。
私も好きな1曲ですね。(私も日本人でした)

 

元々人前で唄うことが好きではなかった「シェリー・フェブレー」は、たった2年の歌手業に終止符を打って、1964年、本業の女優に戻ってしまいました。

映画では、エルヴィス・プレスリーハーマンズ・ハーミッツなどと共演もしています。



シェリー・フェブレー」のソフトで甘い、囁くように唄う歌声は、私の心をいつも和ませてくれます。



つづく


そんなヒロシに騙されて」は、1983年、サザンオールスターズが発表した楽曲です。

作ったのはリーダーの桑田佳祐さんで、サザンの6枚目のアルバム「綺麗(KiRei)」に収められています。

 

楽曲のタイトルは、メンバーの原由子さんが命名しました。

アルバムの中でも、原由子さんがリードボーカルで唄っています。



この曲、高田みづえさんとグループのジューシィ・フルーツがカバーしました。

高田みづえさんは、この曲でオリコン第6位となり、「私はピアノ」以来7年ぶりにトップ10入りを果たしました。
私はピアノ」も桑田佳祐さんの曲でしたね。



原由子さんは、この「そんなヒロシに騙されて」を、さらっと流すように唄っているのに対して、高田みづえさんは、ちょっと演歌っぽい節回しで唄っています。

ジューシィ・フルーツは、グループサウンド風にアレンジしていました。

 

高田みづえさんといえば、TV番組「君こそスターだ!」で第18代グランドチャンピオンになり、「硝子坂」でデビューしましたね。

1985年、当時大関の若嶋津さんと結婚して芸能界を引退、松ケ根部屋のおかみさんとして、相撲部屋を切り盛りしています。



さて、「そんなヒロシに騙されて」は、『テケテケテケ・・・』とヴェンチャーズ風のエレキサウンドがとても印象的です。
全編に流れるギターの音も、エフェクターを通してないような生音です。

イントロ部分は、ディレク&ドミノスの「いとしのレイラ」を少し意識しているのでしょうか。

 

曲のタイトルにもなっている「ヒロシ」とは、サザンのドラムス担当の松田弘さんのことを指しているのだそうです。

勉強はからっきしダメだけれど、踊りとナンパはとびっきり上手という、ダメガキを絵に描いたような男なのですが、そんなヒロシに可愛い女の娘が騙されちゃうんですね。

でも、歌詞の内容と松田弘さんとは、全くの無関係とのことでした。(当たり前ですね)

そんなヒロシに騙されて」は、我がバンドのレパートリーの1曲でもあります。
大事にしたい1曲ですね。



つづく


可愛い名前の付いた米国のバンド、「POCO」は、底抜けに明るく楽しいカントリー・ロック・バンドです。

メンバーは、1968年に解散したバッファロー・スプリングフィールドの元メンバーの、「リッチー・フューレイ」と「ジム・メッシーナ」を中心に、「ラスティ・ヤング」、「ジョージ・グランサム」、「ランディー・マイズナー」の5人編成です。

バンド結成当時は「POGO」と名乗っていましたが、人気コミック誌のキャラクターと同じ名前ということでクレームが発生、後に「POCO」と改名しました。

1968年にロサンゼルスで、デビュー・ライヴを行いました。
このライヴを観た各レコード会社が、契約に殺到したといいます。



1969年、デビュー・アルバム「ピッキン・アップ・ザ・ピーシーズ」をリリースしましたが、予想に反してセールスは、10万枚程度しか延びず、アルバム・チャートも63位までしか上昇しませんでした。
しかし、内容的には上々の仕上がりのアルバムになっていると思います。

 

解散したバッファロー・スプリングフィールドには、スティーブン・スティルスニール・ヤングが加入していたことから、「クロスビー・スティルス・ナッシュ・&・ヤング」と何かと比較されることが多かったことが、チャート上昇を妨げた原因だったかも知れません。

この「CSN&Y」はどちらかというと、今でいう「TOTO」と同じで、いろんな個性を持つソロ・アーティストが集まって出来た、いうところのセッション・バンドです。
TOTOはスタジオ・ミュージシャンの集まりだったかな?)

一方、「POCO」は、いわゆるところの純粋なカントリー・ロック・バンドなのです。
 


少しずつ人気も出始めて、さあこれからという1970年、「ジム・メッシーナ」が、「ロギンス&メッシーナ」結成のため脱退、後任に「ポール・コットン」が加入しました。

続けて、「ランディ・マイズナー」が、「イーグルス」加入のため脱退、後任に「ティモシー・シュミット」が加入しています。

1973年、バンドの中心人物だった「リッチー・フューレイ」までもが、新バンド結成のため脱退して、「POCO」は事実上の解散をしてしまいます。

 

バンド自体は残っていたのですが、結成当時のコンセプトを完全に失ってしまった「POCO」は、その後、全く別のロック・バンドへと変身してしまいました。

 

1969~1974年までの「POCO」の軌跡を集大成したベスト・アルバムがCD化されたと聞きましたが、嬉しい限りです。



個人的には、1971年のライヴ・アルバム「LIVE POCO」がお気に入りです。
中でものっけに演奏される「C’mon (カモン)」が、何とも軽快でノリがいいですね。

私の中では、「POCO」は、伝説のバンドになりました。


つづく