ウルトラマン・Hの ひとりごと -4ページ目

ウルトラマン・Hの ひとりごと

音楽について語りたくてたまらないんです。



レモンのキッス」は、1962年、ナンシー・シナトラが発表した楽曲です。
作曲者はディック・マニングという人で、原題は「Like I Do」といいます。

米国では、ティディ・ベアーズのカバー曲、「逢ったとたんに一目惚れ」のB面曲として、シングルリリースされました。



日本では、A面とB面が入れ替えられて、邦題「レモンのキッス」がA面曲として、1962年9月にカバーリリースされました。

 

本国米国ではさっぱりヒットしなかった曲なのですが、日本や英国、伊国などで大ヒットしました。(英国では、モーリン・エバンスがカバーしています)


 

日本では、森山加代子さん、ザ・ピーナッツ伊藤アイコさんの競作となりましたが、ザ・ピーナッツが唄ったものが最もヒットしました。

 

日本語の歌詞は、「みナみカズみ」さんというちょっと怪しいお方が訳詞をして、作曲家の川口真さんがアレンジをしています。

何を隠そう、「みナみカズみ」というのは、実は「安井かずみ」さんのことでして、この曲の訳詞をした頃はまだ学生で、このペンネームを使っていたのです。



レモンのキッス」の原曲は、アミルカレ・ポンキエッリが作曲した「時の踊り」という曲です。
この「時の踊り」は、バレー音楽としてはかなり有名な楽曲で、歌劇「ジョコンダ」の中で唄われました。

 

2002年にヒットした小柳ゆきさんの「Lovin' You」という曲、これってまさしく「レモンのキッス」じゃねえ?
そこで調べてみたら、(歌劇ジョコンダより「時の踊り」をモチーフにした)とクレジットされていました。

つまり、著作権の関係で、「レモンのキッス」のカバーということにはしたくなかった、ということなのでしょうか。

プレスリーの、「ラヴ・ミー・テンダー」と「オー・ラ・リー」の関係と同じなんですね。

詰まるところ「レモンのキッス」そのものが大パクリだったということで、音楽業界って何でもアリの世界なんですねえ。



話しが脇道に逸れてしまいました。

だいたい「Like I Do」の原詞には、レモンのレの字も入っていません。

安井かずみさんが、「甘いレモンのキッスよ~♪」という歌詞を入れたので、「レモンのキッス」という邦題がついたのです。

ナンシー・シナトラは、日本で「フルーツ娘」と呼ばれていたように、「イチゴの片想い」や「リンゴのため息」など、フルーツ名が付いたタイトルが多いのですが、この「レモンのキッス」を含めていずれの曲も、原題はフルーツ(果物)とは全く無関係なのです。

 

私の大好きなディズニー・アニメ「ファンタジア」の中でも、この曲が使われていました。
レモンのキッス」じゃなくて、たぶん「時の踊り」がモチーフになっているのでしょうね。




つづく

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ヴィッキー」は、1949年、ギリシャのコルフ島出身のシンガーです。


本名は、「ヴィッキー・ヴァシリキ・レアンドロス・パパサナシュー」といいます。


幼い頃から、音楽家の父に唄と踊りのレッスンを受けました。


9才の時、西独に移住、その後、1964年、「ナイフとフォークとハサミと光」という曲でレコード・デビューを果たしました。 この曲は、独国でスマッシュ・ヒットとなりました。


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1967年、17才の時、ユーロビジョン・ソング・コンテストに、ルクセンブルグ代表として出場、「恋はみずいろ」を唄って第4位入賞を果たしました。


この時、(ユーロビジョンが発見した超新星)といわれて高い評価を受け、世界的に名前が知られることとなりました。


日本でのデビュー・シングルがこの「恋はみずいろ」で、日本でもヒットしたことから、同年初来日を果たしました。


ちなみに、「恋はみずいろ」は、ポール・モーリア楽団のものが、日本では最もヒットしたようです。


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その滞在中に、「待ちくたびれた日曜日」をセカンド・シングルとしてリリース、日本語で歌われたこの曲も、大ヒットしました。


B面には「星空のマサチューセッツ」という、ビージーズの大ヒット曲のカバーが収められています。


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1968年、英国のシンガー、メリー・ホプキンが、ポール・マッカートニーのプロデュースで唄って大ヒットした曲、「悲しき天使」を仏語でカバーしてリリースしました。


この曲は、発売と同時にヒットチャート上位に駆け上がり、ビートルズの「ヘイ・ジュード」を押さえて、10週間連続で第1位を独占しました。


この「悲しき天使」という曲、原曲はロシア民謡なのだそうです。


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この年に「カーザビヤンカ白い家)」をリリース、「ヴィッキー」最大の大ヒットとなりました。


この曲は、オルネラ・バニーロマリザ・サンニアのコンビが、サンレモ音楽祭で唄って第2位に入賞したものです。


同年、2度目の来日をした際、日本語でカバー・リリースしています。


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1970年、3度目の来日で、山上路夫作詞・川口真作曲の「時の流れのように」を来日記念盤としてリリースしました。


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1972年、再びユーロビジョン・コンテストに出場し、「想い出に生きる」を唄って見事優勝を果たしました。


このヒットで「ヴィッキー」は、ヨーロッパを代表するシンガーとして世界中から認められました。


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同年、4度目の来日も果たしていて、イバ・ザニッキ作曲の「恋の川」を、片桐和子さんの訳詩で、記念盤としてカバー・リリースしています。


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この後、「ヴィッキー」は、名前を「ヴィッキー・レアンドロス」と変えて、アイドル路線からの脱皮を図っています。


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ところで、「ヴィッキー」の曲に、「白い十字架」というのがあります。


これは、ヘンリー・アーランドが作った曲に、万里村ゆき子さんが歌詞をつけたもので、日本語バージョンのレコードしかリリースされていません。


日本でしか発売されていない特殊なレコードなのです。



ヴィッキー」は、2006年、ギリシャの港町ピレウスの副市長に就任、政治家としても活躍しました。


60才を超える今も、ヨーロッパを中心に、音楽活動を精力的に続けています。







つづく



ジェームス・バートン」は、1939年ルイジアナ州ダバリーで生まれた、偉大なギタリストです。
といっても、ピンとこない方がいるかもしれません。

1969年から1977年まで、「エルヴィス・プレスリー」のステージで、リードギターを弾いていたのが、「ジェームス・バートン」なのです。

 

ジェームス・バートン」は、12才で初めてギターを手にして、14才の時には既にプロのギタリストとして活動を始めていました。

15才の時、デイル・ホーキンスのバックバンドを務め、ホーキンスと共作した楽曲「スージーQ」の大ヒットで、彼の印象的なギター・ワークは、一躍注目を浴びることになりました。

 

カントリーのテイストと、ロックのフィーリングを併せ持った「ジェームス・バートン」の演奏スタイルは、カントリーバック・オーエンスマール・ハガードロックバッファロー・スプリングフィールドモンキーズポップスではコニー・フランシスナンシー・シナトラなど、多様なジャンルの数多くのアーティストのレコーディングに引っ張りだこになりました。

1961年リリースの、リッキー・ネルソンの「ハロー・メリー・ルー」のギターを弾いているのも、「ジェームス・バートン」なのです。

 

1969年、エルヴィス・プレスリーの厚い信頼を得て、彼のバックバンドのバンドリーダーに任命されました。

ロックンロール、R&B、カントリー、ゴスペル、ブルースと、オールマイティーな彼のギター・スタイルは、エルヴィスの右腕になるにふさわしい大役だったといえます。



エルヴィス
のステージで、エルヴィスの間合いを見ながら、エルヴィスとアイ・コンタクトを交わす彼のステージングは、「エルヴィス・オン・ステージ」の映画の中で観られます。

ジェームス・バートン」は、「ミスター・テレキャスター」と呼ばれていました。



ステージでは、ペイズリー柄の69年製テレキャスターを、主に使用していました。
彼は、この同じモデルのテレキャスを数十本所有していて、ステージ映えするこのギターを、エルヴィスも大変お気に入りだったそうです。

 

また、スタジオでは、53年製テレキャスターを常に使用していました。

 

彼は、バンジョー用の金属フィンガーピックを用いるチキン・ピッキング奏法を得意としており、彼のトレードマークになっていました。

 

また、ドブロ・ギターも名人級の凄腕で、「ミスター・ドブロ」とも呼ばれていました。

ジェームス・バートン」は、今でいう「ライトゲージ弦」の発明者といえます。

彼は、チョーキングを多用することから、元々太い巻き弦であったエレキギターの第3弦を、巻き弦ではないプレーン弦に張り替えて、容易にチョーキングができるようにしていました。

これが元になって、今では一般的になった「ライトゲージ弦」が生まれたのでした。

2001年、彼の音楽界への多大な功績が認められて、ロックンロールの殿堂入りを果たしています。



つづく


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ジェリー・ウォレス」は、1928年生まれの米国のカントリー・シンガーです。


1970年に流れた「MANDOM」のTV-CMといえば、お分かりの方も多いと思います。


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チャールス・ブロンソンが、あごに片手を当てて、「ん~ん マンダム!」と呟くあれです。


このCMは、日本で最初にハリウッドスターを起用したもので、特に中学、高校生の男の子達には、抜群のインパクトがありました。


(丸坊主が定番だった当時の中高生には、必要なかったかも・・・)


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化粧品「MANDOM」を発売したのは、「丹頂株式会社」という会社で、1970年7月に発売した男性化粧品「MANDOM」のシリーズ(10品目)の大ヒットで、翌年4月から「(株)マンダム」に社名を変更しています。


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このCMのバックに流れていたのが、「ジェリー・ウォレス」の唄う「マンダム~男の世界」という曲でした。


原曲は、タイトルを「ラヴァーズ・オブ・ザ・ワールド」といって、日本だけでシングル発売されて、大ヒットとなりました。


1970年のオリコン年間チャートで、第20位にランクインしています。


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日本では「一発屋」だと思われがちな「ジェリー・ウォレス」ですが、彼は、1960年~1980年にかけて、カントリーミュージックの部門で、何と35曲もの楽曲をチャートにランクインさせた、超大物シンガーなのです。


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彼の最大のヒット曲は、1972年リリースの「If You Leave Me Tonight I'll Cry」で、ビルボードチャートの第1位になりました。


ところで、「カントリーミュージック」というと、日本式でいうところの「民謡」にあたるものです。


で、日本でカントリー・シンガーというと、知名度の点で、他のジャンルのミュージシャン達に比べると、どうしても劣ってしまうわけです。


そんな状況の中で、「ジェリー・ウォレス」というとんでもない大物カントリー・シンガーの曲をCMに使った「丹頂株式会社」は、勇気があったというか、見る目があったということでしょうか。


社運を賭けた大勝負であったことには違いありません。


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CMで流れた「ん~ん マンダム!」の一言は、1970年の秋に日本で大流行しました。


当時、「流行語大賞」なるものがあったなら、大賞を受賞していたかもしれません。


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男性化粧品「MANDOM」の大ヒットによって、「チャールズ・ブロンソン」の知名度も、一気に上昇したのはいうまでもありません。



ジェリー・ウォレス」は、2008年5月、心不全のために他界しています。





つづく

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フィル・スペクター」、本名「ハーヴェイ・フィリップ・スペクター」は、米国の音楽プロデューサーです。


1958年、バンド「テディ・ベアーズ」を結成、自作曲の「くよくよするなよ」でデビューを飾りました。


そのB面に収められていた「会ったとたんに一目ぼれ」が、何を間違えたか、全米チャート第1位という大ヒットを記録してしまいました。


気をよくした彼は、その後、アルバムや数枚のシングルをリリースしますが、散々な結果に終ってしまいます。


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そこで、彼は、音楽プロデューサーとしての活動に目覚め、1961年、フィレス・レコードを設立しました。


そして、「クリスタルズ」、「ダーレン・ラヴ」、「ロネッツ」、「ライチャス・ブラザース」などのミュージシャンをプロデュースしました。


中でも、彼を一躍有名にしたのが、「ロネッツ」の唄った「ビー・マイ・ベイビー」の大ヒットでした。


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フィル・スペクター」の作り出す音楽は、「ウォール・オブ・サウンド音の壁)」と呼ばれました。


これは、数多くのスタジオミュージシャンを使って、ボーカルやコーラス、ギター、ピアノなど、各パートごとのテイクを複数録音して、それらを何回も重ねて再録音していく、いわゆるオーバーダビング(多重録音)という方法で、分厚い音を作り上げていくもので、当時としては超画期的な制作方法でした。


現代では簡単に出来る当たり前の方法ですが、この当時の未熟な録音技術を持ってこれをやり遂げたということは、時間と労力をどれだけ費やしたのか、まさに想像を絶するものがあります。


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しかし、1960年代後半になってくると、ポピュラー音楽界は、大きな変貌を迎えます。


それは、ロックの時代の幕開けです。


スタジオワークで作成された完ぺきな音よりも、バンドのライヴ演奏による生の音を重視するという動きでした。


そのため、「フィル・スペクター」の音楽的存在感は次第に薄れていき、1966年にはフィレス・レコードは消滅してしまいました。


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1966年、「ビートルズ」が、ライブのステージではスタジオでの録音の音を再現するのは難しいとの理由で、コンサート活動をやめてしまいました。


そこで、「フィル・スペクター」の再登場となりました。


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ビートルズ」のスタジオにウォール・オブ・サウンドを持ち込み、アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が完成しました。


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1970年に発表されたアルバム「レット・イット・ビー」も、「フィル・スペクター」がプロデュースしています。


この後、「ビートルズ」は解散してしまいますが、ジョンジョージは、「フィル・スペクター」の手腕に惚れ込み、ソロアルバムの作成に彼をプロデューサーとして起用しました。

ジョンの「イマジン」、ジョージの「オールシングス・マスト・パス」は、彼のサウンドが随所に生かされています。


ちなみに、ポールは彼の存在に不満を持っていたそうで、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」にストリングスやコーラスを重ね録りしたことに激怒したといいます。


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フィル・スペクター」は、他に「ア・クリスマス・ギフト・フォー・ユー」というアルバムを1963年にリリースしています。


定番のクリスマスソングが、ウォール・オブ・サウンド一色にデコレーションされていて、彼の手掛けた「クリスタルズ」や「ロネッツ」などのフィル・ファミリー達が、クリスマスソングを唄っています。


なかなか楽しいアルバムに仕上がっていると思います。(一聴の価値ありです)




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さて、実は、「フィル・スペクター」は、2003年2月に、ロサンゼルスの自宅で、ラト・クラークソンという女性を銃で射殺した罪で、懲役19年の刑を受けて、現在刑務所に服役中なのです。


現在は、昔の面影が無いほど、様相が変わってしまっています。


まさしく「フィル・スペクター」は、天才狂気が同居していたのですね。





つづく