不要な誤解を招かないよう、言っておくが
一つばかり下方に書いた記事は
健常者礼賛歌では、ない。
植物人間も、生物である。
不能者も、手足の無いものも、しゃべれぬものも、
人間は人間である。
ただ、
ロボットは
生物でないゆえに、人間ではないだけだ。
あるいは、
これは
恐れか?メカニック達への。
否、
忠告だ。
不要な誤解を招かないよう、言っておくが
一つばかり下方に書いた記事は
健常者礼賛歌では、ない。
植物人間も、生物である。
不能者も、手足の無いものも、しゃべれぬものも、
人間は人間である。
ただ、
ロボットは
生物でないゆえに、人間ではないだけだ。
あるいは、
これは
恐れか?メカニック達への。
否、
忠告だ。
そもそも
生物ですらないものが
人間であるわけがない。
いかに、
絵がかけようと
いかに、
熟達した技巧を身に着けようと
それは
機能だ。
ロボットに
視床下部はあるか?
脳下垂体はあるか?
ホルモンの分泌は可能か?
精巣はあるか?
クリタリスはあるか?
生殖能力はあるか?
性欲はあるか?
あるいは
フェティシズムはあるか?
支配欲はあるか?
他者への抗い難い征服欲はあるか?
倒錯した欲望を、お前たちはいつになったら獲得できると思っている?
セックスすらできないくせに。
人工の合成タンパク質の陰茎と陰部を戴いたところで、どうせ
混合されるのは、バンクからもらった他人様の精細胞と卵子だろうが。
貴様らにそもそも性はあるか
初潮はあるか
精通はあるか
閉経はあるか
不能はあるか
そんなものさえもっていなくて
たかだかチェスがひとよりうまくうてるくらいで
よくも人間に近づいていたつもりなものだ。
生き物ですらないのに。
人間は、動物だ。
動物は、生物だ。
よって
生物でないものは
人間ではない。
人間の必要十分条件を残らず獲得できる日が来るまで
-もっとも、そんな日は永劫訪れるわけがないが-
せいぜい
生殖プログラムが組まれるのを待っているがいい。
貴様らに、歓交の苦痛はあるか。
出産の愉悦と陣痛はあるか。
おまえたちは
リボ核酸を自分たちの中で合成し、配列し、
それを分かち合い、他人の手を借りずに多様化し
一族を作って、家系図を描けるか。
系譜ではない。
プロトタイプと実用機の関係ではない。
番いを繋いだ先に、また兄弟ができ、
他の連れ合いと親戚になって
何千
何万年と続く
家族の軌跡を、記録できるか。
他人と、他の一族と融合し、分裂し、殺し合い、和解し、妥協し、
産み、増やし、地に満ちることができるか
なんのプログラムも燃料も電気も借りずに。
複製機も使わずに
一切
まるはだかで、砂漠に投げ出されて
その果てに
増殖のために生殖可能か?
そんなこともできない者達が
地を従わせて支配できるわけが無い。
何一つとして、
従属させることなど不可能であるのだ。
「こころ」があれば人間か?
知能があれば、ニンゲンか?
そんなものがあるのは、
超高性能コンピューターというやつだろう。
忘れてはいないか、もう一度、言おうか。
生物でないものが
人間であるわけがない。
コーランは、
教典
である以前に、
芸術で、あった。
井筒訳の、
挑戦的な、意図と思索をこめた口語訳が
それを、教えてくれた。
藤本訳は、
それに比べると、
若干、一般向けで、わかりやすくなって、テキスト(教科書)調であるため、
原典
というよりも、
解説書
としてついつい扱ってしまいそうになるが、
それでも、美しさがある。
滑らかさ、とも言えるかもしれない。
井筒訳の、荒削りな芸術性
藤本訳の、なめらかな、解釈。
翻訳解禁ののち、
このふたつしか、今のところコーランの日本語訳が存在せず、
聖書にくらべ圧倒的に知名度が低いのは、
翻訳版普及時期の遅さのせいだけではない。
英語やラテン語の、
「教科書」の和訳は、比較的、可能な作業であっても
ひとつの、高度な計算のもとの、
まさに、イスラム絵画の幾何学のような、
緻密な構成の、芸術作品の、作風を、損なわずに
トランスレイトするというのは、
比較してみれば
いうなれば
木星に3日で行くほうが、
まだ易しいくらいのことではないか?
トラキア
それは
心臓
拍動そのもの。
よい、曲です。
歌詞は、わからなくとも。
このフレーズは、そこここで引用されていてもなんら不思議はない気もする。
だがしかし、
何故か、キリスト教の教典・教義や世界観が引用されることはあっても
コーランの言葉はそれほど、広がっていない。
不可思議に尽きる。
なお、題名の句の挿入されている節の全文は、以下の通り。
枕草子の序段のように暗誦するに値する、
そんな、美しいことばにも、見える。
----「牝牛」メディナ啓示、全286節、おそらく22節より、『偶像崇拝の禁止』----
アラーこそは汝らのために
大地を置いて、敷床となし、
蒼穹を頭上に、建立し、
蒼穹から雨を下して様々の果実みのらせ、
それをもって汝らの日々の養いとなし給ふた御方。
されば、
偶像のたぐいを、
それと知りつつアラーとひとしなみに崇めたつことなかれ。
もし、
万に一つ汝らにして、
我らが僕、預言の使いムハンマドに下した
天上からの啓せられた言葉に、
疑念を抱きたりおるならば
まずは、我らが天啓に匹敵うべき、紛いものの天の知らせを
ひとくだり、
さあ
ここに、
出してみよ。
アラーのほかなる異教の神たるものを、
汝らの証人として、ここに
喚び出だして見るがいい、
もし汝らの言葉が、
本当だとでもいうのならば。
しかし、
もしも、それができないというのならば
-だがしかしながら、そのような滑稽な魔術は真実不可能であるが-
そのときは、
おそれるがよい。
畏れよ。
人間と石をもえしろに、
罰当たりどものためにしつらえられた、
地獄の、劫火を。
----------------------------------
※なおここでいう、「石」とは、石で作られた偶像のこと。
この節では、偶像崇拝するものは、偶像ごと罰せられることを忠告しているようにも見える。
もうひとつ、おわりに、
信心なき人々への警告のような句を、紹介。
-----同じく、「牝牛」 14節、偽りをのべ『目算どおりに行かなかったもの』-----
彼らは、
信心ある人々のまえにおいては
「アラーに讃えあれ」
と、もっともらしく述べ伝え、
悪魔の前にひとたび還るやいなや
その舌先の乾かぬうちに
「吾らは味方、そちらに加勢する者であり、先ほどは、信者と少し戯れてきただけ」
と訴える。
アラーは、
彼らをこそ、愚弄したまへる。
実に巧みに、罰を下し給ふ。
そして
彼らの、
頑なな不信を一層ますます頑なとなし給ひ、
彼らを、不信の渦中であてもなくその場を幾度となく、
うろたえ廻らしめし給ふ。
彼らは、
御導きを、売りとばし
その代金で
迷妄を、買い込んだ人々。
そして算術を誤った者たち。
目算どおりには、行かなかったのだ。
(以下略)
-------------------------------
岩波文庫の井筒訳に、かなりアレンジを加えてみました。
なお「目算どおりには行かなかった」は、
アラビア商人の間の言葉。
商家の、ムハンマドらしいといえば、らしい。
さあ、
ここにいだしてみよ。
ほかなる、神々
それを崇め、畏敬してやまないというのならば
畏れよ。
人間と石を燃料にしつらえられた、
天からの劫火を。
自分と、隣の連れ合いと、
この箱舟さえのこればよい。
さあ、
着火せよ
火矢を放とう。
地上の、
土塊どもに向けて。
そう、総てがつちくれだ。
火がなければ、流せばいい。
泥人形など、何度でも、神話の再来の如くに
全て。
-------------------------------
アニメーション作品、「交響詩篇エウレカセブン」の2次創作の中で、
主人公が暴発する場面を書いたことがありました。
そのときは、ノアの箱舟がベースであったけれど、
コーラン、メディナ啓示の1節「牝牛」の
偶像崇拝禁止の文句もまた、
結構、よいのではないかと、
在庫から引き出して、料理してみたしだい。
だから、カテゴリがここは、調理室。
そして、原典はカテゴリ「在庫管理」。
明朝、記事として取り上げるやも。
ちなみに、
どのあたりがどうエウレカセブンなのかというと
「ほかなる神々」→type THE END
「人間と石」→周囲の人と街全て
「地上の土塊とも」→ハードドラックの典型的グッドトリップにより、
周囲の人間が、粘土人形に見える主人公
自分のための、メモです。
どこかに、その2次創作とやらの本体が、別館にあります。
探すのも、
週末のひとつの過ごし方かもしれません。
もしも
気まぐれにも
見つけたいとでも思ったならば。
やあやあ、随分暗ぼったい話が多いじゃないか。
これは難儀だな、
キミには見えないのか?
白壁に反射する、痛いほどの南中の輝き
青と白のけぶる雲を、織り、混ぜ込んだ、ひかるそら
くうきに溶け出す、かぜ。
久しぶりに、そとにでてみようか。
そして、賭けよう。
天気予報するんだ。
今度こそ、当たる
明日は
明日も
空も
私も
よい天気。
当たったら、
何欲しい?
・・・・・おや、それもまた
難しい話だ。
私の両手で負えるものではないだろうからね
そんな
大きな、瞬く流れ星の河だなんて。
バックアップ、そんなものが完全だと保障しきれるのか?
いいか、私は耐えられない、耐えられないのだよ。
前々から何度も何度でも何度にも分けてきちんと整頓して順序だてて
ほうら、あの角の花壇よりも美しく
論理だてて説明しているではないか。
これは、私の一種の、そう、例えば
生肉に触れたあとに石鹸で手を何万回も洗わなければ気のすまない潔癖症な婦人や
靴の裏の香りに見せられて地べたを這い蹲るフェティシズムの奴隷達などといった
そういう、ある特異な悪癖などたちと同類のものであると
わかりきっている。
私も、わたしに幾度となく話を持ちかけ、丁寧に対話し、念入りに会談を積み上げてきた。
そのすえの結果なのだ
それをふまえた結論なのだ。
いいだろう、忘れてしまったなら思い出すまで、覚えるまで繰り返してあげよう。
知っているか?Rememberは「思い出す」という意味と「覚える」という言葉の両方をさすのだよ。
耳があるなら、聞くが良い。
私は
何かが、どこか遠い場所や、足元のマットの裏に隠れてしまうことは何一つ気にしない。
だがしかし
まるまる、真ッ平らにならされて、何もかも消されて取り壊されてならされて、釘一つ落ちていない跡地に
もう一度、同じ家を建てよ。
築材ならば、あらかじめ同じものを材木屋に注文しておけばいいではないか
などと言われ様ものなら、
そう、
強迫に追われるのだ、おいたてられるのだ、あの路地裏か何かに。
その路地裏は、一見行き止まりかのようにも見える壁を登って、また眩しい世界に帰ることも、
もし望むなら実に容易だろう。
だが、私は望まない。
もし、
建築屋に、一つ一つ丁寧に注文をつけて、何一つ欠ける事のないように注文をつけたとて
すべてに応対する、誠実な商売人がいうようか。
特に、私のような
「屋根裏の埃と大黒柱のカビと、床下の白アリの巣も残して欲しい。
総て、同じものを用意するように」
などと、喧しい注文を、何度も何度も五月蠅く言いつけてくる、そんなメランコリックな客など
そうだ、リップサービスで応じればいい。
あとは、こちらのやりやすいように手配すればいい。
そういうものなのだ、完全な保管も保存もありえないのだ。
だから私は、
このうすっぺらい電子の箱のデリートに
恐怖する。
しかしながら、かといって、
落として失くした、
もしくは
あの川の向こう側に、石ころと一緒に
投げ捨ててしまった青春なり財布なり携帯通信端末なりは、2度と決して、何があろうとも
また再び
拾い、あいまみえることなど、ないのである。
これは、不可逆な現象なのである。
偶然手にしたもを失うことはあろうとも
自ら放棄したものは、たとえ戻ってくることがあったとしても前のままの姿ではない。
ならば、
そう、ズボンのポケットに縫いとめておけば良いのである。
落としたくないものは、穴から万に一つでも滑り去ることなど赦さぬように、繋ぎとめて磔にしてしまえばよい
今すぐに、そのデニムを脱いで、下着の裏側に、針と糸とセロハンと瞬間接着剤なり何なり、
好きな素材で好きなように、貼り付けてしまえばよい。
財布も、もう蝦蟇口が開かぬよう、鉄を灼いて溶接してしまえばよい。
そうした場合、中のものを取り出せなくなることを懸念する心配性もあるだろう。
だが、案ずることはない。
失うのでは、ないのだから。
紛失と、埋蔵は
地球と月ほどに
近くにありながら、決定的に隔たりのあるものである。
どんなに
太陽よりも近くとも
惑星と衛星の間には、厚さ38万キロメートルの暖かい暗闇の壁が鎮座しているではないか。
「失くすこと」と、
「隠くすこと」は、
そのような関係であってほしいものだ。
さて探し物は、なんですか?
見つけやすいものなんです、それでも
どういうわけだか見つからない。
それは
落っことしたから?
それとも
どこに置いたか、忘れているだけだから?
さあ
ユメの中へ。
※※※
だがひとつだけ、ここに救いが、あるかもしれない。
うっかり、
とっておこうと思ったのに、
つい自動販売機に投入してしまった10円玉。
次の、次の日くらいに、
きっぷ売り場で釣り銭を受け取れば、
意外と、
そこにある、などということも、よくある話。
思わぬところで、
あえるときも、あるだろう。
紛失、
それは、随分恐ろしいが、
だが、
人生は
捨てる物も
落とす物も
失くす物も
そして
拾う物も
やたらと、多い。
光ありき
地に満ちよ、地を従わせよ。
海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を
支配せよ。
--------『旧約聖書』より-----
ああ、本当に、せめて我ら(アッラーを指す)の秘力が、彼らの頭上に伸びたその時にでも、
彼らが、こころの低い人間になってくれさえしていたら。
だが、彼らの心は石のようにかたかった。
シャイターンの詐りで、彼らには
なんとなく、じぶんのしていることが立派な行為のように、思われていたのだ。
かくて、
彼らが
せっかくの警告を、忘れ果てたとき、
我らは、
まず
あらゆる物の門扉を
彼らに
大きく開け放ってやっておいて
現し世の、せつなの快楽と享楽と自由たるものの使徒を遣わせ、存分に
愉しみに耽け浸らせ、
そのうえで、
すばらしい、実に素晴らしい悦楽の中で
自在に恣に手足投げ出し
泳ぎ、騒ぎまわって大喜びしているところを
不意に
捉えて
捕まえてやった。
すると、たちまち、
深き淵に陥落したという。
こうして、
不義の徒は、
その
最後の生き残りまで
きれいに
切 り 落 と さ れ て し ま っ た 。
万有のあるじ、
アッラーに
讃 え あ れ 。
見よ、
我らは
これほどまでに、手をかえ品を変え、 神 兆 を示そうというのに
彼らは、それでも背き去る。
-----『コーラン』井筒訳:岩波文庫179頁
「家畜」メッカ啓示、全165節より---
※多少加筆あり。
※また文中「彼ら」は、ムハンマド以外の預言者のこと
慈悲深く
慈愛あまねき
アッラーの、御名において・・・・・・・・・・・
讃えあれ、
アッラー、よろずよのあるじ
慈悲深く
慈愛あまねき御神
裁きの審判、その日を主宰さるる御方
汝をこそ、我らはあがめまつる。
汝にこそ、救いをもとめまつる。
願わくば
我らを導きて
誤りなき道を辿らしめ給へ
汝の御怒りを蒙る者、踏 み 迷 う 者 ら
それらの道ではなく
汝の嘉したまふ人々への道を
歩 ま し め 給 へ 。
---------『コーラン』:「開扉」メッカ啓示、全7節----