そろそろ、着水の時間だ。
方位は?
風は?
角度は?
そして
ご機嫌は?
パーフェクトではないが、
まんざらでもないよ。
そろそろ、着水の時間だ。
方位は?
風は?
角度は?
そして
ご機嫌は?
パーフェクトではないが、
まんざらでもないよ。
ただいま
ただいま
ただいま
だたいま。
そういったときに、
誰かが私に
おかえりなさいを
言ってもらえることを、前提に、
いってらっしゃいを言ってもらえる
ひびの
よしなしの
くりかえし。
その、
黄金の、
いや、まるで
削りたての翡翠の原石のような、
朴訥な日々の、幸いさ。
いってらっしゃい
おかえりなさい
嗚呼、
それらは
なんて
How Sweet the Sounds.
AMAZING
GRACE.
はるか天上に捜さなくとも、
くすしきめぐみは、ここに。
それに気づくために、
花束のような、笑顔を、今日も。
朝日に、添えて。
さて、
いい加減逡巡ばかり繰り返していないで、
ノブでもひねってみましょうか。
ねえ?
『ただいま』
を
いうために、
そのためだけに
それを目指して
いってきます。
きょうも、つぶれた革靴に、3Eの幅広の足を、詰め込んで。
かばんは、
カラのままで。
えがおで
いつもどおりに。
揺 れ 、 惑 え
さすれば
その、さきに
ひかり、あり。
そうだ
旅行の準備をしよう。
トランクの中身のことじゃない。
私が、あたかもどこにもいっていないかのように
わざと、カーテンを開けておいて、
洗濯物を、部屋のなかに干しておいて(無論、下着なぞ干すわけがないが、私の男物なら差し支えない)、
トリックをしかけよう。
私はどこにでもいる。
ここにいるが
何処かにも行っている。
全ては、同時進行。
そのための手妻を、
さあ
仕込もうか。
そこには一片の予感もなく、光もなく、希望もなく、
さしたる慰めもなければ慈雨もなかった。
だが
朝だけが、あった。
たとえ、土砂降りでも、
曇りでも。
あさだけが、
回転して近づいてくる。
地軸が気ままに、躍るままに。
太陽にひきつけられて、
なされるがままに、この、あたたかい黒の海の揺りかごで、
輪舞するがままに、
温度を、
変えながら。
まどろめ
今は境界線で、気ままに、遊歩していればいい。
さすれば
さして待たずして、
かならず、目覚めが訪れる。
朝は
朝(あした)というものは
順に確実にこの扉をノックする。
そして開かれるのだ。
あの向かいの、白壁の照り返しをうけて。
まばゆさは
ゆるぎない実感となって、
私の
拳を
固く、する。
平衡感覚を保とう。
そう、ここは理科室の教卓に置かれた、上皿天秤。
わたしは、その支柱。
私は、揺れない。
皿の上には、いないから。
皿を支える腕の
そのさらに軸にある、
揺るがない、柱だから。
もし私がキラウエアなら
静かに
だが
確実に
噴火するのだろうか。
憤怒によって、噴出すのではない。
ただ、だらだらと垂れ流して
止められないのだ、時に、
衝動
あるいは、
インナーユニバースの
衝撃、クエーサー、イグニッション、
もしくは、
何がしかの
ストリームのような、
沸き立つ、何かが。
それは、怒りに起因することもあるが、
そうではないことの方が、多い。
何がきっかけなのだろう?
この、
脳味噌か何かの中の、暴れ馬ぶりは。
笑いたい。
私は今、笑いたい。
微笑わせて、ほしい。
いや、だがしかしやはり、
誤魔化してつくり笑いするよりも、
そうだ
砕いてしまおう。
さあ、拳に力を込めて、
爽快に
痛快に。
お気の召すまま向くままに、
さあさあ、
いけ。
友人が言った。
「納得できないことがある」
私は言った。
「それは、何か?」
友人は応えた。
「春節に間に合わない。帰国の飛行機のフライトが遅れる。2週間前の天気予報のせいで。」
私は聞いた。
「では、到着はいつになったのだ。」
友人は嘆いた。
「2月3日の、夜。」
私は、尋ねた。
「ならば、春節最後の2月4日に、辛うじて間に合うではないか」
しかし、友人はやはりなげいた。
「それでも、その日が終われば、次の日からは、仕事始めだ」
すなわち、
春節期間という、祭の空気そのものに浸っていたかった。
そして、それは、1日などでは到底たりないというわけなのだ、中国の人々にとっては。
昨今、私も含め、
この国では、寝正月が一般的だ。
初詣は、儀礼と習慣以上の意味はない。
おそらく、正月に帰国できなくて嘆く日本人は、休みがもらえなかったビジネスマンか、
親戚に会えないことを残念に感じる人情家だろう。
なぜなら、この国の三が日には、
正月は、あっても
春節は、ない。
イベントは、あっても
祭は、ない。
これが
なにがしかの、違いというのだろうか。
国境を、異にするものの。
あるいは、大陸と、島の。
そんなステレオタイプな言葉で解析できるか、
はなはだ疑問ではあるところだが。
ニンゲンの、違いだろう。恐らくは。
集団の性質の違いであり、
国、民族、国境、地理条件、
それは
集団・組織に影響するものの、
どこか、
後付にも聞こえる。
『大陸だから、このような民族』
『騎馬民族だから、荒々しい』
それはいかにも、
あとからとってつけた
仮設スタジオのように、もろくはかない議論に聞こえてならない。
集団なのだ、ひとつの。
民族、国家、それは
集団に、面倒くさい、かつどこか不適切で不協和音な響きを、
無理やり当て嵌めたボキャビルのように、
考える。
春節、
正月、
それは
漢民族と
大和民族の相違では、なく、
ある集団と
他の集団の
性質の違いの現れ、であるだけではないだろうか。
そうであれば、
世の中が少しは、何か違って見える気もするが、
同時に、
結局のところ、本当は、結論は煮え切らないものに、なりそうだ。
いや
どうなのだろう。
実に、
悩むところだ。
この『煮え切らない』曖昧な、感覚、
結句のない詩のような世界で、
それを、覚えておいた方がいい、
そんな、気がする。
答、解答、正解、結論、
わかりやすいものなど、ごくわずかにしか存在しない。
文化や民族、国家に関する考察でも、
それは
いつまでも
『煮え切らない』ままのものであるような、
そんな、気がする。