選手が心を傾けるスポーツコーチ ヤディ(八所和己) -12ページ目

【コトバの持つ威力】メタ・スポーツマインド_011

大人が子供に言葉で威圧するシーンをよく目にします。スポーツの現場で多く見られます。
例えば、野球。ある少年野球のチームが試合をしていて、サードゴロ。
サードの選手が取ってファーストへ。その送球がショートバウンド。それをファーストが後逸して、
その間に2塁にいたランナーが一気にホームインをしました。そのチームのベンチは一塁側。
監督さんの座っている位置から
サードの守備がまっすぐ見える状況でした。
そのプレーの後、監督さんが放った一言。
「お前がエラーしたのは構えてないからだ。俺は見てたぞ!」
というコトバでした。監督さんが、どのような意図でこのコトバを発したのかは
私にはわかりませんが、これによってサードの選手は萎縮し、失敗したことが
ずっと心に残っているだろうなぁと予測することができました。
その回が終わってベンチに戻ってくると監督はこうも言います。
「お前ら全然声が出ていない。声が。なんで声出さないんだ」
選手たちは何も言いません。
「声出せよ」と監督が続けると
「はい」と声を出しました。笑

スポーツは時には厳しく接することで辛い状況を乗り越えるという
メンタルが鍛えられる、厳しさがなければダメなんだ。
という考えが今も根強く残っていることを確信しましたが、
本当にそうでしょうか?
コトバで威圧し、そのプレッシャーに打ち勝つことが強い選手を
生み出すという理屈は正しいのでしょうか?
正解を求めているのではありません。
例え、構えていなかったことが原因だとしても、
構えなかった選手に何が起きたのか?ということをまず聞いてあげることを
するという選択もるのではないかと考えます。
その上で、本当に構えなかったことが原因だったのか?を検証することができます。
コトバは使い方によっては物凄い強烈な武器となって選手の胸を刺すこともあるのです。
スポーツコーチは言語学を探求することが必要な仕事なのではないかとも考えます。
言語だけでなく非言語でのコミュニケーションをトータルで考えて指導にあたると
より良いコーチングに辿りつけるのではないかと考えます。
どうでしょうか?

【選手主導のチーム】メタ・スポーツマインド_010

小学生だからって、子供扱いしていませんか?
小学生の意図や意思ってとてつもなく尊いものです。

こんなエピソードがあります。

少年野球は、一度入ると、生活習慣の中に「野球」というジャンルが組み込まれることが少なくありません。食事・睡眠・お風呂・歯磨き・野球。同じグループに属するほど生活の一部になることがあたりまえの世界になったりするものです。親はもちろん、それでいいのだという宣言をします。家族ぐるみで野球と向き合います。
野球チームは大人のコーチたちが、親コーチたちが、子供達よりも熱く野球を語り、勝つことを意識するものです。
そして、強いチームほど、勝っても揉めて、負けても揉めるという大の大人がチーム内バトルロワイヤルを展開するのです。
そんな少年野球界で、子供達の友情が産んだエピソードがあります。
そのチームFは、ある大きな大会の決勝戦までこまを進めました。決勝戦の1週間ほど前、Fチームの主将を務めていたM君が
両親にある提案をします。
「決勝戦に休部中のO君をベンチに入れてほしい」
「え?どうして?」
O君は中学受験を控えていたので、受験が終わるまで休部扱いになっていたのです。
「6年生は全員一緒に戦いたいから」
M君の気持ちに応えようと、両親は早速監督さんに相談。監督さんからO君の両親に連絡してもらい、
その日だけ勉強をお休みして、野球に来てくれることとなりました。
そして、決勝戦はO君もユニフォームを着てベンチ入り。
もちろん試合には出られませんが、チームの一員として一緒になって応援をしました。
試合は一進一退。最後は6-5のサヨナラ勝ちで優勝を勝ち取りました。
選手もコーチ陣も大喜び!
そして、表彰式。主将のM君がまたしても父親のところへ。
「優勝旗はO君にもらってほしい」
父親はその言葉を聞いて涙が止まらなくなりました。
そして、
「Mがそうしたいなら、いいと思うよ」
そして、O君が優勝旗を手にしました。
2人にどんな友情があったかどうかは知る由もありません。
だとしても、チーム全員で優勝を分かち合うという思いは
とても素晴らしく、優勝してもしなくても関係なく、
全員で戦えたということで満たされた時間になったんだと思います。
エモーショナルタンクは選手全員が満タンの状態だったと思います。
小学生であっても選手主導でチームを作る。
スポーツにはそんな力があるのです。これがスポーツの価値だと思います。

【序章から喚起的】メタ・スポーツマインド_009

先日、改めてラグビーの価値について考える機会があった。自分の人生を振り返ってみると、意外なことにラグビーという競技がいかに人生に影響を与えているかということに気づかされた。日本において、メジャースポーツと言えば野球とサッカーである。その人口は野球が約270万人、サッカーが約310万人。ラグビーは約10万人。その差は大きい。そして、ラグビー界は閉鎖的である。内側の絆は素晴らしいものがあるが、こと外側にめっぽう弱い。さらに、それでよしとしている風潮すらある。別に知っている人たちだけで盛り上がれば良いのだという感覚も多分にある。そんな中、「ラグビーの価値」を問われて、その発信先を「ラグビー無関係者」と位置付けたときに、一体どんなことが起きるだろうか?領域を侵されたくないと思う人や、話すのは無理。理解が得られないという思いもある。一方で、無意識は活動的になる。「ラグビーの価値」はなんだろう?と動き出したらもう止まらない。人それぞれアウトプットしたくなるものだ。ラグビーはキックオフから喚起的に場面が動く。その神秘的な空気は、感情を揺れ動かすのには十分だ。あっという間にドラマに引き込まれていく。これがラグビーのエヴォカティブな部分とも言える。そこに何が起きているのか?試合前のロッカールームで何かが起きている。グランドに出る時にはすでにストーリーは序章が始まっているのだ。だから喚起的になる。その姿はあのラグビーの起源と言われるラグビー校の少年たちのようである。その歓びこそラグビーの価値である。
楕円球という不規則なボールを蹴る、投げる、持って走る、そして持ってぶつかる。そんなたくさんの選択肢を本能で捌きながら敵の陣地を目指す。一つ一つの判断が、ゲームを左右する。誰かの判断に非言語で反応しながら答えを待つ。答えは出ないことの方が多い。それもまたラグビーの価値である。ゲームをしながら無意識を活性化。それを喚起的に表現していく。ドラマティックに生きる人の人生と同じようなストーリーがある。もっと掘り下げて、その先へと進んでみたい。