クレイジーJPOP -4ページ目

失意の中の勇気

 今日楽しみにしていたイベントに行けなくなった。仕事のせい。何もすることが無いのに時間拘束にあった。ここ数週間の忙しさに対抗するささやかな楽しみを失った気分。
 家では、昨日録画してもらった「歌の大辞テン」最後の3時間スペシャルを見た。年間のトップ10特集だったので、どれもメジャーな歌ばかり。この番組が始まったばかりの頃はいったいどれだけの昭和の名曲を聴けるのだろう、とワクワクしたものだ。実際、この番組で知った曲で、今は自分のお気に入りになっているものは数多い。


 だけど、歌も食べ物と同じように好みが変わる。本当に嫌いだった歌というのが、じつは売れていることに対するあまのじゃくな気分が原因だったり、好きだった歌に対して冷めきっているということもままある。そういうバイオリズムに乗りながら10年という時間を通り過ぎた。
 今では、詞の味わいがまるで違う。フォークソングには日本の風情を感じるし、10代の頃はわからなかった社会との葛藤を歌った作品に共感したりする。そして、今一番共感できるのもやっぱり大黒摩季なんだ。
 10年前も心理的にはかなり苦しかったけど、今もだいぶ苦しい。それは苦しさというよりも未来に対する不安という面が大きいけれど。その気分を代弁し、なおかつそれを乗り越えようとしている彼女の詞は、今の僕をとても勇気づけてくれる。
 大人になったらセルフコントロールがうまくなるかと思っていたけど、それは違った。むしろ、へたになったような気がする。そんな時、自分の外側から心に働きかけてきてくれる歌をたくさん持っているのは幸せだ。

飽食時代のJPOP

はじめてCDを買った時のことを覚えている。中学3年生の時、渡辺美里ファンだった私は3000円をにぎりしめて、9thアルバム「BIG WAVE」を買った。それから、1、2ヶ月そのアルバムを繰り返し聴き続けた。
 当時のこづかいは3000円だったので、ちょうどアルバム1枚買ったら空になってしまう。所有しているCDが少ないので当然同じものを繰り返して聴くしかない。その環境を楽しむために私は考えた。
 初めて買ったアルバムには13曲入っている。ああ、そうか、全部歌えるようになったら次のCDを買えばいいんだ、って思った。


 あれから10年経つ。CDを集め続けた結果、シングルアルバム合わせて1500枚くらいになり、もう全部は歌えない。それどころか聴いてないアルバムが部屋にたくさん転がっていて、気づかずに踏んづけてしまうようなことすらあった。顔をしかめる人もいうかもしれないが、私にとってとても幸福な時代だった。
 しかし、さすがに集め過ぎたという感はある。これらをまた10年くらいかけて一生聴きたい歌と封印する歌を選び分けていく作業に移ろうかと思う。それがやっぱり楽しいことなのだ。量に飽きたら、次は質ですよね、やっぱり。

聴いてしまうし、書いてしまう。

わああ、大黒摩季だあ。ということで、仕事を終わるのがかなり遅くなり妙なハイテンションで大黒摩季を聴いております。今週の前半はかなり鬱な状態におちいっていて、ほとんど廃人のつもりで職場に向かっていたのに。
 思えば、10年前も今日死ぬか、明日死ぬか、くらいの極限状態で、JPOPを聴いては思いとどまる、という生活を繰り返していました。いや、今は死のうとはなかなか考えませんが。
 あの頃よりはメンタル面で強くなったかな、とも思うのですが、強くなることと鈍くなることって似ていますよね。そこが少し不服だったりします。でも、心が弱くなった時は感性が鋭くなるので、バランスがとれるのかも。そういう状態の時こそJPOPの詞が自分に語りかけてくれていることに気づくし、そういう詞を書いてくれる人に感謝したいと思うのです。ああ、言葉が走ってる。
 最近は聴きたかったJPOPはほぼ押さえたつもりなので、ありがたみ、というのが薄れていたのですが、こういう時に聴き直すと、今までに覚えのない詞を見つけたりして、やっぱり自分の一番の宝物はJPOPだということを思い出すのです。そして、そのついでにこうやってぐちゃぐちゃと文章をつづってしまうのです。
 自分ではただ好き勝手書いているだけなんですが、やっぱり見てくれている人がいると思うと、いつのまにかなにか書いてしまっているわけです。

アフォリズムとしてのJPOP

 JPOPをなんのために聞くのか考えたことがあるだろうか?別に意味付けなんか必要ないジャン、とも思うが、たまには考えてみよう。なぜならば、それが書く材料になるから。さらにいえば、書くということは屁理屈の連続だからである。
 子供の頃は短絡思考、大人になったら常識思考では面白い文章というのはいつまで経っても書けない。面白いことを書くには面白い屁理屈、いい言葉でいえば、アイデアが必要なのだ。

 さて、話を戻して、なぜ聞くのか考えた。これは中学生の頃からずっと変わっていない。本を読むのと同じように、勉強するのと同じように、そこから人生におけるなにかを学びとるために聴いていた。単純に、聴いていると気持ちいい、というのもある。
 これは各人の聴き方次第だが、私は詞とメロディーの調和が一番大事だと考えている。気持ちいいメロディーはありすぎて選びきれないが、そこにどんな詞がのせてあるか、またどんなのり方をしているか、という視点で見れば、ずいぶんと絞り込むことができる。

 また話ズレたね。まあ、そういうわけで、人生についていろいろ教えてくれるんだろうと思って10年間聴きっ放しだった。「人生で必要なことはすべてJPOPで学んだ」なんてことは言わないが、たしかにいろいろ教えてはくれた。
 でもね、人間ってそれほど変わらないんだ。例えば、宇多田ヒカルが「Wait&See」っていう歌で使ってる一節。これは自分で探してほしいんだけど、10代でよくそんなフレーズ思いつくなあ、って感心していたら、なんと聖書の一節だったんだよね。これには驚いたよ。聖書の内容が現代でも生きるんだあ、ってね。巷にあふれてる成功法則というのも大部分は聖書が原典らしいのですよ。
 ってことは、いつまで経っても、人間って存在はそれほど変化してないってことでしょ。それでも、JPOPをアフォリズムとして聴き続けてしまうんだよね。それはたぶん、同じ内容を表現するにもいくつもの書き方があるからだと思う。ああ、こんな書き方あったんだ、って驚いたり感心したり、あるいはあざけったりできる。そういう意味では日本語って表現がいっぱいあっていいよね。だから、JPOPはいい、ってお話でした。

目覚ましJPOP

 高校生くらいから朝の目覚ましは時計とJPOPを併用するようになった。当時はCDをあまり多く持っていなかったし、同じCDを繰り返し聴くのが習慣だった。だから、明日は何の曲で目覚めようか、なんてことは考える必要がなかった。
 でも、今は違う。シングルアルバム併せて1500枚くらいになってしまった今となっては翌朝の1曲を選ぶだけで大仕事になってしまうのである。それにまだ聴いたことないアルバムがそちこちにあったりする。
 そして、その聴き慣れないアルバムで目覚めると1日中どうもふるわないのだ。やはり朝の目覚めの1曲は非常に重要ってことだろう。何度も寝直したくなってしまう春は特に気をつけないといけない。
 とかく目覚めは聴き慣れたものに限る。今朝は浜崎あゆみの「I am…」かなんかで目覚めた。これはたしか4thアルバムで、発売された時は大学卒業間近だったなあ、ととりとめもないことが浮かんでは消えていった。人間の頭ってスイッチを切るとどんどん思考があいまいになっていく。
 春はスイッチが切れやすいので気をつけよう。

カラオケってカバーだ。

 先日、大学のサークル仲間でカラオケに行ってきた。今までの人生でどれくらいカラオケに行ったのか数えたことはないが、すでに飽きるくらいにはなった。なんでそんなに好きなのかはよくわからない。
 一度くらいカラオケボックス浸りで何日暮らせるのかチャレンジしてみたいなあ、とは思ってる。が、それで、本に載ってる歌を歌い尽くしたら、歌が嫌いになってしまうかもしれない(笑)だから、この夢はしばらくとっておく。
 カラオケに行って、いつも思うのはあいつが歌うあの曲を聴きたい、ってことだ。はじめていっしょに行った時に歌っていたものだったり、何度いっしょに行ってもその歌ばかり、とか、そういう記憶が積もってきた頃にまたその歌を聴けるとうれしい。何度もカラオケボックスに行ったおかげでそういうかたちの人と歌が、次々と自分の心の中に思い出として集まってきた。
 この記憶のひとつひとつがカバー曲なんだと思う。プロが歌うと著作権の問題がいろいろあるけど、好きな歌を好きなように歌うってのがカバーの原点。歌は聴くだけじゃなくて歌うためのものだから。

ホラー系JPOPって

 うーん、そういうジャンルって存在しないのかな。1日に「着信アリ」を見てきたんだけど、あのティントンティントン、ティントンティントンとかいう着信音がけっこうクセになっちまいました。
 映画のブログはたくさんあるから、わざわざ映画の話は書かないですけど、JPOPにはホラーって無いですよね。まあ、中島みゆきの歌詞とかでときどきこわーっていうのがあったり、平松愛理の「部屋とYシャツと私」みたいなちょっと不気味かも、ってのがせいぜいかと。
 あ、聖飢魔Ⅱの「蝋人形の館」とかはどうよ。「オマエも蝋人形にしてやろうか」とかセリフ入ってるやつ。どう考えても江戸川乱歩なノリだなあ、こりゃ。
 小説や映画にはホラーがあるのになんでJPOPにはないのか。不思議ですねえ。(って誰も思ってないか)もし、なにか例があれば教えていただきたいですが。

 さて、それじゃ、少しばかり理由を考えてみましょうか。ホラーそのものに人気がない?→それは違う。他のメディアのコンテンツ人気を見れば、明らか。スティーブン・キングは人気だし、映画もホラーは欠かせませんから。
 では、怖い詞がうまくメロディーにのらない?→そんなことないような気がする。例えば、ホラー映画に使われているメロディーに詞をのせてみたらどうだろう。あ、これは実験してみる必要があるかも。
 ホラーJPOPを聴きたい人が少ない?→なんだかこれが理由のように思えるけど、本当にそうか?これだけ趣味が多様化してくれば、そういう嗜好の持ち主が増えて突如として、ヒットすることも考えられそうだが。
 今存在しない理由はわからなくても、日本的なおどろおどろしさを持ったJPOPという分野が現れてもいいのではないか、と思ったのだった。

耳元の音楽

 耳にイヤホンを突っ込んで音楽を聴いている人ってけっこういる。そういう人を見かけて、疑問を抱くようになったのはいつからだろう。なんでそこまでして音楽聴く必要あるんだろう。家で聴けばええやん、と思う。着うたに関しても同様。
 そりゃね、私にだって、1秒でも長くJPOPを聴いていたいんだ、っていう気持ちの時はありましたよ。でも、10年くらい経つと、しょうじき聞きすぎはいかんよなあ、て思う時が来るものです。その時が来るまではガンガン聴いていいとは思いますが。
 うまいものでも食い過ぎは良くないのです。それはつまり、自分の五感、感じる力を低下させてしまうことにつながっていくわけですよ。中学生の頃は大人って鈍いなあ、と思っていたけど、今の自分ってやっぱり鈍くなったと思うもの。
 ただ、鈍くなったからといって悲しい気分に浸るのではなく、たまにその感性を思い出すことによって、心が脱皮できるような気がする。そういう作業を繰り返して年をとっていくのは決して悪いことじゃないと思う。

精神的食事としてのJPOP

 まあ月並みな表現かと思うが、歌というのは精神的食事の意味合いが強い。ある時期には本物の食事よりも満腹感を与えてくれる。そんな時期がかれこれ10年続いた。今はそういった精神的な飢えはだいぶ軽減されたものの、今度は過食症にかかっているようなのだ。

 ブックオフに行っては、「お、これも100円か」と買い込み、それほど考えることもなく、財布にお金があるといつのまにか、新品のCDに換わっている。そんなことがいくらでもあった。まあ、これでもかなり買わなくなった方なので、最後に新品で買ったのは数ヶ月前のことだったような気がする。
 結局のところ、どんなにいい歌を聴いても満たされないというのは自分の中になにか問題を抱えているってことだろうね。10年前から歌われていることはそれほど変化していないから。

 それでも、JPOPを聴くとうれしいのは、その詞を書いた人のアイデアの面白さであったり、個性的な声であったり、単にきもちいいメロディーが原因だ。 ちなみに今聴いてるのはラヴサイケデリコ。フランス文学を勉強していた頃はこのアンニュイな感じが心をとろかしてくれたものだが、今は逆につらい。わりと勤勉に働いているせいなのか。当時は「やる気ね~」という言葉を褒め言葉として用いていたのに、困ったことだ。
 今気づいたんだけど、「Last Smile」って意外に前向きな詞なんじゃないか、「ただひたむきな明日への Step up」とかいう部分あるしな。JPOPは普通の飯と違って、こういうふうに何度も咀嚼できるってのもいいとこだよ。牛みたいだけどさ。

TERUっぽい角度

 ASKAの「晴天を誉めるなら夕暮れを待て」というわけわかめなタイトルの歌のなかに「ついでのような角度で」とかいう歌詞があったような気がする。あの歌を聴いて以来、角度という言葉に関してフェティシズムすら感じるようになった。
 で、今日は金曜日なのでビデオに撮ったMステを見ていたら、気になる映像が。それはあのWANDSの上杉昇が体を弓のように反りながら歌っている姿だった。しかも、WANDSはメンバー交代を繰り返しながら10年も活動していたらしい。話が逸れた。
 その上杉さんの角度とGLAYのTERUの体ののけぞらせ方が似ているように思えてならないのだ。安倍なつみの盗作騒動もあったし、「パクり」という言葉も一般的になった今、パフォーマンスのマネだってあっていい!まあ、問題は多々あるが、模倣というか、マネというか、そういうものがたくさん生まれる時代になったことは認めるしかない。
 いやー、しかし、どう考えても意図的じゃない相似点ないんだから、人ってどこかで誰かに影響を与えているもんなんだなあ、とかってに納得しました。