伝説の30勝投手列伝

第2回は藤本英雄投手です。

藤本投手は入団2年目に34勝11敗を記録。

戦前7人目、戦前最後の30勝投手です。

 

藤本英雄 右投右打

1918(大正7)年5月10日-1997(平成9)年4月26日

朝鮮・釜山出身

 

 

 

旧制下関商業時代の1935(昭和10)年春と1937(昭和12)年春の甲子園大会に出場

その後、明治大学に進学。

そこでは4年間で通算34勝をあげる活躍で

東京六大学野球の頂点として大人気の選手だった。

通算34勝は明治大学野球部の通算勝利数として今もトップだ。

 

1942(昭和17)年9月に巨人軍に入団する。

 

1942(昭和17)年の巨人軍は4連覇を目指して戦っていたが、

前年の1941(昭和16)年に始まった太平洋戦争のため

主要選手が徴兵され、選手の層は薄くなっていく、

その上、エースのビクトル・スタルヒン投手が故障がちのため、

藤本定義監督はやりくりに苦労していた。

 

そこに、1940(昭和15)年秋、1942(昭和17)年春の優勝投手の

藤本英雄が学徒繰り上げ卒業で、ギリギリで戦っていた巨人軍に

天才投手が入団するのだ。

 

9月27日

藤本英雄はデビューするが、

その前に読売新聞で大々的に藤本デビューを発表したから

戦前の観客動員のとしては驚異的な16,942人を記録。

戦争がはじまり、娯楽が減っていく中としても

当時は4,000人から5,000人前後なので藤本人気は凄まじかった。

 

この頃のペナントレースは

春、夏、秋と分かれていたので、

9月27日と今ではだいぶ遅いと思われるが、

藤本が入団後の残り試合数は11月18日までに27試合あった。

 

しかし、その27試合の中で

藤本は14試合に登板、半分以上登板!

12先発、9完投、4完封、10勝0敗、防御率0.81という記録を残した。

 

翌、1943(昭和18)年の藤本のシーズンは

破天荒な記録のオンパレードとなった。
5月22日対中日戦でノーヒット・ノーラン
9月には62回連続無失点の記録を達成。
 
56登板、46先発、39完投、19完封、34勝11敗、勝率.756
432.2回を投げ、253奪三振、防御率は驚異の0.73!!
藤本の活躍によって、巨人軍は5連覇を飾った。
ちなみに試合数は84試合だった。(54勝23敗1分)
 
最多勝、防御率一位、最高勝率、最多奪三振と最多完封を入れた
投手五冠王を達成した。
 
その後、25歳で巨人の監督なり、
野球に対して厳しい時代に藤本は巨人軍、職業野球に多大な貢献をした。
 
戦後、1946(昭和21)年、巨人軍でプロ野球に復活。
戦後初の防御率一位のタイトルを獲得(2.11)。
その後も安定した活躍をするものの、給与のトラブルで中日に移籍、
1年で巨人に復帰したが、故障がちになり、一時は打者転向も考えた。
 
1948(昭和23)年、多摩川で練習中に、
肩を壊して二軍で調整していた宇野光男内野手とキャッチボールをしていた
藤本に「おい、ふーやん、今のボールは何や?妙な回転で、パット右へ切れたぞ」と
言われたものの、藤本はカーブを投げたわけではなく、
ストレートを投げていたつもりだったが、たまに、また右に流れるボールになる。
そのうち、流れるボールの握りもわかってきた。
それが、藤本再起の魔球「スライダー」の誕生だった。
 
 
戦前の剛速球は影を潜めたが、
藤本はコントロールも良く、巨人軍の野手たちも
リズムよく守れたらしく、野手との呼吸があい、失点が少なかったのかもしれない。
 
1949(昭和24)年に24勝7敗で見事に復活。
防御率1位も獲得(1.94)した。
そして、1950(昭和25)年に藤本の野球人生で最大のクライマックスが訪れる。
それは6月28日に起こった。
 
場所は青森市営球場
対戦相手は西日本パイレーツ。
梅雨のシーズン、北海道から東北へ上っていく遠征らしく
6月26日の試合は札幌円山球場で一日置いて青森で試合だった。
藤本は「青森での登板はない」と思って、
札幌から青森の青函連絡船でマージャンに興じていたが、
先発予定の多田投手がカニの食べ過ぎで登板回避。
急遽、藤本が青森のマウンドに上がった。
 
立ち上がりは、強烈なライナーが飛び、不安定だったが
徐々にギアがあがり、終わってみれば
日本プロ野球史上初の完全試合を達成した。
 
 
西日本打線は藤本のスライダーを狙っていたそうだが、
藤本はその裏をかいて内角2種類のシュートで組み立てたのが成功した。
 
1950(昭和25)年も藤本はエースとしての活躍をし、
49登板39完投(リーグ1位)、26勝14敗、防御率2.44を残した。
打者としても素晴らしく、この年は7本塁打を記録。
今も投手のシーズン本塁打記録として残っている。
先の野口二郎投手に劣らない二刀流選手のひとりだ。
 
その後、1955年まで現役を続け
200勝87敗 防御率1.90を残した。
通算防御率の1点台は藤本を入れて4人いるが
3人が30勝以上経験者だ。
 
藤本英雄の通算防御率1.90はアンタッチャブル・レコードの一つかもしれない。
 
藤本英雄 投手成績
 
藤本英雄 打撃成績
 
1976(昭和51)年野球殿堂入り
 

*********************************

野球雲チャンネルやっています!(Youtube)

 

野球雲はいつも古い野球とその周辺文化について書いています。
取材の裏話、泣く泣くカットした話、貴重な資料……
さらにディープな野球劇場はこちら↓
野球雲無料オンラインマガジン

 

データ協力 日本プロ野球記録

データ協力 たばともクラシックSTATS鑑賞

データ協力 篠浦孝氏

写真協力:古書ビブリオ

 

伝説のシーズン30勝投手列伝 ⑯ 大友 工~軟式出身 サイドスローの速球投手

伝説のシーズン30勝投手列伝⑮~別所毅彦 通算310勝タフネス剛腕投手
伝説のシーズン30勝投手列伝⑭ 真田重蔵~「懸河のドロップ」で39勝を挙げた二刀流大投手
伝説のシーズン30勝投手列伝 ⑬ 林安夫投手~20歳で32勝541.1回を投げた大投手
伝説のシーズン30勝投手列伝⑫ 皆川睦男投手~2番手投手が最後の30勝投手となる。

伝説のシーズン30勝投手列伝 ⑪ 小山正明~精密機械と言われた30勝300勝投手。

伝説のシーズン30勝投手列伝⑩ 稲尾和久投手④~ 日本記録!1961(昭和36)年の42勝達成。

伝説のシーズン30勝投手列伝⑩ 稲尾和久投手③~神様、仏様、稲尾様 1958年 33勝10敗 

伝説のシーズン30勝投手列伝⑩ 稲尾和久投手②~鉄腕になった2年目、1957年35勝6敗 

伝説のシーズン30勝投手列伝 ⑩ 稲尾和久投手~神様、仏様、稲尾様 日本最高の投手 Part ①

伝説のシーズン30勝投手列伝⑨ 小野正一投手

伝説のシーズン30勝投手列伝⑧杉浦忠投手

伝説のシーズン30勝投手列伝⑦白木義一郎投手

伝説のシーズン30勝投手列伝⑥土橋正幸投手

伝説のシーズン30勝投手列伝⑤権藤博投手

伝説のシーズン30勝投手列伝④杉下 茂投手

伝説のシーズン30勝投手列伝 ③ ヴィクトル・スタルヒン投手

伝説のシーズン30勝投手列伝 ② 藤本英雄投手

伝説のシーズン30勝投手列伝① 野口二郎投手

驚愕!30勝投手列伝!~前説~30人の全リスト

球団別最後の30勝投手はだれ!!