10月6日は中日、ロッテ、大洋、太平洋で
活躍した強打者江藤慎一の生誕日です。
闘志あふれるプレーで、60年代ONに対抗できる打者として
人気のあった選手です。

野球雲3号で ひょんなことから
プライベートエピソードを聞くことができました。
3号からの転載です。

 


野球伝説劇場                   

「江藤慎一とロック歌手の絆」

 

 野球映画の名作、「フィールド・オブ・ドリームス」の

大事なキーワードに「それを作れば、彼は来る」がある。
野球雲も「本を作れば、野球選手が来る」のような気持ちで作っている。

雲プロダクションの一員として、
先日「記憶より記録に残り男
長嶋茂雄」という雑誌の制作に携わり、
個人的に友人の
Sさんが「ご苦労さん&これからも頑張ろう」のような
感じで飲み会を開いてくれた。

小さな会社を経営している方々
4名と、
有楽町のガード下でワイワイガヤガヤ話しているとき、
紅一点の経営者
Tさんに「こんな本を作っているのでよろしく」と
野球雲を見せたところ、
「私、あまり野球は知らないけど、
亡くなったおじさんが野球選手だったんですよ」と言う、


Sさんも超パ・リーグマニアな野球ファン、
二人でいっせいに「誰、誰!」と声を荒げる。

Tさんは何気ない顔で
「江藤慎一っていう人なんですけど、知っています?」
思いがけないビッグ・ネームに
Sさんと目を白黒してしまいながら、

「江藤慎一って・・・、野球殿堂入りしているし、
首位打者
3回とっているし、2000本安打しているし・・・」と
しどろもどろだ。

実は野球雲3号の用意をしながら編集長と
「野球伝説劇場の次の選手がいませんね。
3号は休止ですかね」と
悩んでいたところに、出てきた名前だったので、
冒頭のフィールド・オブ・ドリームスの言葉が
その場でも頭に浮かんだのだった。

 

江藤慎一は1936(昭和11)年106日生まれ、
熊本県出身で、日鉄二瀬から
1959(昭和34)年
中日ドラゴンズに入団。
1年目より主力として活躍、
全試合出場を
1年目から6年連続で出場、
中日に
1969年まで在籍中に首位打者2度獲得し、
王貞治(巨人)の三冠王を阻止した。

その後、水原監督との確執からアンバランスなトレードで

1970年ロッテ・オリオンズに移籍、その翌年、首位打者を獲得。
史上初(
NPBでは江藤と内川聖一の二人だけ)の
両リーグでの首位打者を獲得した。


1971年に江藤のハーフスイングの判定をきっかけに試合が紛糾、
35分間のロッテ側の抗議の末、
審判や
NPB側の試合再開の要求に応じず没収試合となった
2013年現在NPB最後の没収試合)。

この事件がその後の野球人生に影を落としていったように思われる。
その後、大洋ホエールズ、
太平洋クラブライオンズでの監督兼任選手、

1976年にロッテに移籍後、同年引退した。

 

通算成績は18年の現役生活で2084試合、
2057安打、367本塁打、1189打点、
通算打率は2割7分8厘を残した。

残念ながら
200822870歳で亡くなった。
まだ早い死だった。
2010年野球殿堂入りした。

 

Tさんと江藤慎一さんとの関係は、
Tさんのお父さんの妹さんが江藤さんとご結婚され、
おじさんになったとのこと。

江藤さんはイメージそのままで豪快で話を盛ってしまう様な行動で、
誤解されやすいこともあったそうだ。

Tさんは、普段はあまり野球に興味がなかったので、
親戚の冠婚葬祭くらいしか、お会いしなかったらしい。

 

しかし、Tさんは一度だけ江藤さんに頼みごとをしたことがあった。

 

「私の友人が肝臓がんで闘病したのですが、
  友人が大の中日ファンだったこともあり、
  闘病中の友人を励まそうと思い、
  江藤慎一にサインとメッセージを頼んだことがあります。
  江藤慎一は快く承諾してくれ、
 闘病中だった友人はとても喜んでくれました。」

 

 

 

「その友人は、名古屋出身のタレントで『池田貴族』といいます。

『remote(リモート)』というバンドのボーカルとしてデビューし、

解散後は心霊タレントとして活動していました。 

癌の転移で3度の手術・闘病を経て、1999年12月25日に亡くなりました。

 今頃は天国で野球談義に花を咲かせているかもしれませんね(笑)」

 

 Tさんは日本がバンドブームのきっかけになったTBSテレビの「イカ天」に出演した「リモート」に衝撃を受け、そのボーカリストとして活躍した池田貴族に一目惚れ。

ファンクラブにも入会して応援していたが、だいぶ経ってから

池田貴族と偶然出会い、交流も増えて行ったそうだ。

出会いの連鎖がとても不思議な気がする。

 

 

 

筆者が江藤慎一を見たのは、大洋時代だった。
「この人が闘将江藤慎一か」とファン手帳を見て、
実績を調べたりしたのが最初だった。
太平洋クラブ時代に監督兼任選手になったことも、
当時は「かっこいいな~」と思い、
南海の野村監督と違い熱く熱くチームを
引っ張っているように思えたので、
1年で解任されたのもショックだった。

 

 

 

 

 

野球をもっと知るようになっても、
野球少年をそのまま大きくなったような、
笑顔が子供のように天真爛漫な表情に惹かれていただけに、

Tさんの出会いから、スーパースターの素顔が聞けたのは、
野球文化に対する思いを上げてくれた。

 

野球雲3号「野球伝説劇場」をもとに改編しました。

 

 

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データ協力 日本プロ野球記録

データ協力 たばともクラシックSTATS鑑賞

データ協力篠浦 孝氏

 

 

 

1951(昭和26)年10月4日
巨人の松田清投手がシーズン19連勝した日です。

 

 

松田投手をねぎらう水原監督


松田 清投手はプロ2年目に驚きの活躍をしていた。
前年(1950年)に巨人に入団した松田清は、肩を壊して投手としてではなく
一塁手として入団し、その夏、2軍の試合で好投して投手に戻った。

1951(昭和26)年のシーズン巨人はセ・リーグ最初の覇者を

松竹ロビンスに奪われ、前年の悔しさを取り返すために
万全を期して戦った。打線は与那嶺、千葉、青田、川上、南村の
強力打線はチーム打率は.291という迫力。

投手陣も別所、藤本、中尾、大友と揃っていた。
そのなかに突如2年目のサウスポー松田が加入した。
梅雨時からローテンションに入り、ストレートは見せ球に
ドロップ、カーブを決め球にあれよあれよと連勝していった。

水原監督も貴重な左腕ということで、帯同させたと思うが
強いチームの持っている特徴として、ラッキーボーイが出てくるのだ。
それも、歴史を変えるような選手が・・・。

5月23日の広島戦で敗れてから、連勝連勝で巨人としてシーズン最後の登板の
10月4日にスタルヒン投手が記録した18連勝を破って19連勝を達成し、
1951年のシーズンを終えた

 

翌年もに1勝追加して20連勝を記録した。

 

(松田清19連勝した日のスコア)



結局、防御率1位 2.01 23勝3敗で最多勝、.885で勝率1位
そして新人王も獲得した。

 

 


生活のためにプロの選手になり、謙虚に真面目にやった結果が
松田自身も想像以上の活躍が出来たかもしれない。

しかし、翌年は13勝7敗で活躍できたものの、その後は勝てず
国鉄に移籍、外野手に転向し準レギュラーとして活躍した。
南海ホークスのコーチにもなった。

松田清の名前を知ったのは、アニメ巨人の星だった。
主人公の星飛雄馬が新人連勝して浮かれている場面で、

中尾コーチが松田清19連勝のエピソードを語る物語で
「なかなか渋い回だったな~」と思ったものだ。

松田清の19連勝は現在もセ・リーグ記録で残っている。
2013年楽天の田中将大投手の連勝記録が更新するたびに
松田清の名前が出てきたのが、記録好きにはたまらなかった。

 

松田清 投手通算記録

松田清 打撃通算記録

 

1951年松田清投手 19連勝、そして20連勝まで記録を伸ばした新人王投手

 

 

 

 

 

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野球の歴史には、あの時打っていれば!あのエラーがなければ!
あのプレーが流れを変えた!とか瞬間瞬間のプレーで
野球の勝敗、栄光と挫折が決まってしまう。

長い野球の歴史の中で、一人の選手のスーパープレーが
試合だけでなく、野球の歴史に永遠に語り続けるであろう守備を
紹介したい。

それをしたのは、ニューヨーク・ジャイアンツの外野手
ウィリー・メイズだ。

 

 

 


1950年ジャイアンツと契約、入団すぐ頭角を現し
1951年公式戦デビューし121試合、20本塁打、68打点
打率.274で新人王に輝いたが、1952年途中から1953年は朝鮮戦争に従軍、


ジャイアンツの監督レオ・ドロッチャー監督は
「メイズほど、攻走守の三拍子揃った選手は珍しい。
  彼こそ我がジャイアンツの宝」と語り、


兵役に行った際には
 「メイズがいれば我がジャイアンツは優勝、いなければBクラス」と
野球雑誌で語った。


そして、メイズのいないジャイアンツの成績は振るわず
1954年メイズが復帰したシーズンに優勝をしたのだった。

そして、チームの若き救世主がシーズン最後で大きな仕事をした。
1954年のワールド・シリーズはジャイアンツとクリーブランド・インディアンズ
インディアンズは154試合で111勝をあげア・リーグ最多勝利数を更新し、
戦前の予想は俄然インディアンズだった。

第1戦、試合は2対2のまま
延長戦に突入し、10回の表インディアンズの攻撃
無死1.2塁で長打の左打者ビック・ワーツ外野手を迎えた。
ドン・リドル投手のカウント2ボール、1ストライクのあとの4球目を打つと
打球はセンター深く伸びていき、誰もが抜けると思った。

メイズはそれを追っかけ背走、背走、背走し続け

 

 


 

 

 

 

後ろ向きのままキャッチ!!

 

 

Catch
 

 

即座に返球したため、二塁走者がタッチアップで三塁に行っただけで、
ジャイアンツはこのピンチを脱した。

そして10回裏ジャイアンツは
ダスティー・ローズ外野手がサヨナラ3ランホームランを放ち
5対2で勝利!!

その勢いのまま、戦前の予想を覆し、ジャイアンツはなんと
4連勝でワールドシリーズを制覇してしまった。

メイズのスーパーープレイは
「ザ・キャッチ (The Catch)」と言われ
ワールドシリーズ最高の守備として今も語り続かれている。

ウイリー・メイズは本塁打王4回、盗塁王4回
ゴールドグラブ賞12回と長打、走力、守備力と万能選手として
メージャーリーグ史上最高の「コンプリートプレーヤー」と称されている。

ウイリー・メイズ「The Catch」と言われたスーパープレーの動画

 

ウイリー・メイズのリファレンス

 

 


スタッツ提供:広尾 晃氏

 

 

 

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2014年のブログに加筆、修正しました。

 

9月28日は南海ホークス 50年代前半のエース

  柚木 進投手を思う日(生誕日)

1920-1997

 



9月28日は戦後、別所 昭投手が1949年に巨人に引き抜かれてから
南海ホークスのエースとして活躍した、柚木 進投手の生誕日です(1920年)。

柚木投手は1948年に入団して、いきなり19勝をして
別所、中谷に次ぐ先発投手として活躍した。

広島呉市出身、甲子園大会に3回出場し
法政大学でもエースとして活躍した。
野球エリートの道を進んでいたが、戦争でシベリアに抑留され、
強制労働の試練を受けた。

南海ホークスがパ・リーグに加入したあとの
黄金時代のエースとして、安定した投球で
最優秀防御率を1951,52年と連続で受賞。

1948年から1954年まで13勝以上を記録、通算勝率も.654と
レベルの高い投手だった。
柚木投手を語るとき必ず出てくるのは
19勝を4度記録しているのに、結局20勝を超えることができなかった事。

しかし、戦争の後遺症で腰を痛めているので、
鶴岡監督も安定した投球をさせるために、無理をせず起用したかもしれない。
投球回もこの当時のエースとして200回超え2回というのも少ないし珍しい。

学生時代は速球投手として活躍したが、南海時代はコントロール抜群の
変化球投手だった。そして、奪三振1位の記録を持っているのは特筆ものだ。
当時の南海ホークスは100万ドルの内野陣と言われた鉄壁の布陣、
変化球を中心に打たせて取る投球にファンにもアピールできただろう。

 

南海ホークスは別所-柚木-杉浦とエースの系譜の中で

1年でクラッシュした投手も多い。

そんな南海ホークスの投手陣として、

大エースにはならなかったが、時代によって2番手投手としての

安定感が1950年代の南海ホークスの強さの隠し味だったかもしれない。

背番号は「21」
1958年に入団した杉浦 忠に引き継がれ南海のエースナンバーとして君臨する。
引退後も南海ホークスのコーチ、スカウト、二軍監督を歴任した。

野球殿堂入りしていないのが不思議ですが、
通算成績が弱いということなのだろうか?

1997年10月22日死去

 




写真:古書ビブリオ提供

 

 

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大正時代の最強打者と言われている

井口新次郎氏は野球殿堂入りしているが、

21世紀なってからはあまり語られない伝説の野球人だ。

 

井口新次郎

 

1904年6月7日~1985年9月24日

和歌山県出身 

 

2024年は生誕120年

9月24日は命日でもあります。

 

和歌山中学(現 桐蔭高校)の投手兼遊撃手。

大正10年(1921年)の第7回甲子園大会で優勝の中心となり、

その強さは1試合平均18点以上、

総得点数75のすさまじい破壊力を持ったチームであった。

井口も個人記録として持つ大会最多得点16得点が

夏の甲子園大会記録として現在も燦然と輝いている。

翌11年(1922年)の第8回大会では、主将で四番打者、

全試合完投の投手として優勝の立役者となる。

 

 

大正12年に早稲田大学に入学し、1年から不動の四番打者として活躍した。

同年春の早明第3回戦で、明大の名投手 湯浅禎夫は、

満塁時に井口に敬遠の四球策をとる。

この時のことは、大正12年「野球界」8月号に、

『・・・此際、四球で山崎(三塁走者)を送り出しても

 井口に四球を呈すると云ふことは策の得たるものであった。』と書かれている。

いかに井口が強打者であったかを物語るエピソードである。

卒業後は、学生野球のOBのスター選手を集めた大毎野球団で活躍し、

その後毎日新聞社に入社し、高校野球などに健筆をふるった。

平成10年に野球殿堂入り。

 

井口新次郎氏をインタビューからのエピソード

 

和歌山中学は、夏の甲子園第一回大会(大正10年)から

第14回大会まで連続出場した強豪チーム。

井口選手の在学した時代には、今では考えられないことだが、

新聞社が斡旋して、早大・慶大・法大・大毎などと対戦したり、

摂政宮(後の昭和天皇)が試合を観戦するようなチームだったという。

 

鳴尾球場での大会様子

 

大正10年第7回大会(鳴尾球場)のエピソードで

決勝戦の京都一商戦で京都一商のエース

竹内愛一投手が捻挫をしてしまったため

和歌山中に一日延期を申し出た。

 

当時の朝日新聞社は当事者同士での話し合いを持たせたが

和歌山中の矢部監督がはねつけたため、

延期されず、順当に決勝戦は行われた。

 

両校の監督が早稲田大学の先輩後輩の関係で決めたという、

草創期の大会ならではのエピソードだが

井口は

「あの時、試合延長をしていたら甲子園大会の前例が出来て、

 雨以外の延期もあったかもしれなかったね。」と語っている。

 

 和歌山中は進学校だったため、井口も

「神戸商高(現 神戸大)に行くはずだった・・・。

 神戸商高のナニかの具合悪かったというのを聞いたのは、4月の2日か3日・・・

 自分は一浪するつもりだったですよ・・・ところが親父がね、

『お前、東京の早稲田に行けや』というわけで・・・」   

 

こうして、早大の強打者 井口が誕生する。1年でレギュラー入りし、

2試合目からは4番打者に抜擢されるという

プレッシャーについて尋ねられた井口は、

「いやー、憶えていないねぇ。しかし、憶えてないがね、

学校へ行って練習やってみてね・・・

こいつはおれより上やなぁ、と感じたのは誰もいなかったなあ」と笑った。

実力とともに太めの体から滲み出る愛すべき人柄とで、

常に井口は観衆の人気者だったという。

 

打撃スタイルも豪快で大正15年に打った

六大学野球リーグ戦の63.64.65号目の

ホームランは当時の飛びにくいボールとしては

一人の選手が連続で打ったことで強打者の風格を見せている。

そのときのバットは275匁の重さのバットだったそうだ。

(275匁は1.03キロくらい)

 

井口は

「当時、プロ野球があったら、もっと練習したかもしれないなぁ。」と

 大学野球時代後期に目標が無くなった喪失感も言葉にしていた。

 

 

豪放磊落な性格は、年をとってからも変わらなかったらしい。

「博物館においでになった井口さんを駅までお送りしたのですが、

改札を抜けて一度も振り返ることなくホームへ向かわれました。

あの人らしいと思いましたよ。」と

館長はあこがれのスター選手だった井口のことを懐かしそうに語った。

 

 

   *インタビュー日:1981年6月25日  井口氏72歳

 

*船橋市にあった旧吉澤野球博物館には明治から昭和初期の学生野球で活躍した

名選手の肉声テープがあった。その中身は今では忘れられてしまった、

伝説の野球人が当時の野球スタイルや出来事を鮮明に語っている。

その、貴重なインタビューは当時の吉澤館長が丹念に収録したものだ。

博物館のコンテンツ制作を野球雲スタッフがお手伝いしたものを再掲いたします。

 

吉澤野球博物館資料展示室HP

 

生前、吉澤野球博物館館長 吉澤善吉氏は

「一番好きな選手は、井口新次郎でしたね」と

90歳過ぎた頃も懐かしく言われていた。

 

 

 

 

 

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データ協力篠浦 孝氏

 

 

9月23日は阪急一筋の左腕投手

梶本隆夫 投手の命日です。

(1935年4月8日~2006年9月23日)

岐阜県多治見市出身

 

右 梶本隆夫投手 左中西太

 

多治見工業高校でエースとして活躍、

惜しくも甲子園出場は叶わなかったが、

中日、巨人からの誘いを受け、1954年阪急ブレーブスに入団。

契約金は一番低い阪急を選んだのは母親の考えから

「高い契約金をもらって成功しなかった場合」を考えての結論だった。

左腕から繰り出す剛速球で1年目から活躍

55登板17完投、2完封

20勝12敗 309.1回を投げ、奪三振228,防御率2.73を記録。

しかし、新人王は南海の宅和本司に破れた。(26章9敗。防御率1.58)

 

その後、1956年28勝17敗、57年に24勝16敗と

1962年まで11勝以上をあげ、米田哲也投手の右腕と共に、

灰色の時代の阪急を支えた。

勝つことより、投球の内容を重視する投球であり、

身体も丈夫で肩やひじを一度も故障せずに、現役を終えた。

 

様々な記録も達成し、200勝も大きく超える254勝を挙げたが、

敗戦数が255と、200勝投手の中で唯一の負け越し投手としても有名。

254勝255敗と一つの負け越しという記録が、

梶本の苦労と彼のキャラクターもあり、

何となく悲壮感というより、梶本ならしょうがない・・・。と思わせる。

 

 

 

 

 

 

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プロ野球でこれから見られない、もしくは、してはいけないものに
「放棄試合」があると思う。


今は「放棄試合」は厳禁という規定があるのも、
プロである以上、天候不良や不慮の事故での試合中止はともかく
観客のためにも最後まで試合をすることが前提になったのではないか。
そして、その厳禁となったきっかけの「放棄試合」が
1967年9月23日甲子園、阪神対大洋戦ででおこった。

 


出典:スポーツニッポン阪神タイガースの歩みより


1回表、大洋はいきなり3点を取り、なお2死満塁と阪神を攻めていた。
打者は投手の森中千香良、阪神の投手はバッキー。
2ストライクノーボールのカウントから3球目を投げた。

森中は「攻撃が長くてイライラしていた。早く投げたいのもあって
打つ気もなかった」というように、あっけなくナックルボールを空振り三振。

キャッチャーの和田はそれをワンバウンドで捕球した。
ここで、和田が三塁封殺のためのホームベースを踏むか、
打者森中にタッチするか、一塁へ投げフォースアウトをしないと
「アウト」にならないのだが、和田はマウンドに珠を転がして
ベンチに戻ってしまった。


これを見た一塁コーチは「アウトじゃないから一塁へ走れ!」
大洋ベンチは「走れ!」「走れ!」と一斉に声をかけ、
三塁ランナーの松原が4点目のホームイン、森中も一塁に進んだ。

ここでタイムがかかり、大谷主審が阪神ベンチの藤本監督に
 「いまはスリーストライクのジェスチャーであり、
     アウトの成立は認めていないだから、インプレーであった。



      試合を続行するために守備につくように。」と伝えた。
ところが藤本監督は
  「それは、おかしい。スリーアウトといったじゃないか。
   だから和田がタッチをあきらめてベンチの戻ったのだ」
と抗議。

それに対して、大谷主審はその抗議を受け入れなかったため
一塁ベンチ前でコーチ陣とともに激しく食い下がり、
藤本監督は激高して大谷主審の胸をつく暴行を働いた。
大谷主審は藤本監督に退場コールをし、藤本監督はロッカールームに消えた。


本来は和田が基本のプレーを忘れたボンヘッドなのだが
「下手くそな審判より、自分の選手を信じる」とした
明治生まれの藤本監督と大谷審判の意地がぶつかった感じとなった。

阪神ベンチは監督退場後試合再開の意思は持っていたが
かなりアタマに血が上っていた大谷主審はホームベースに立ち
阪神選手がベンチから出てこない様子をみると、1分後に
右手を上げて「ゲームセット」を宣言して、阪神の放棄試合となった。
記録上 大洋が9対0で勝利したこととなる。

 



プロ野球史上9試合目の放棄試合。セ・リーグで2試合目であり
セ・リーグ最後の放棄試合となった。
主役の一人藤本監督はプロ野球の放棄試合10試合のうち
5試合に関わるという、めぐり合わせを持っている。

 

大映スターズ時代の藤本監督

 

 

野球雲11号は今回のブログの主人公藤本監督が在籍していた

大映スターズ特集です!👇のストアからご購入できます。

 

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9月22日は 戦前イーグルスで活躍した
 亀田 忠(テッド亀田)投手の命日です。


(1912年9月8日~1976年9月22日、昭和51年)

右投右打

 

 


戦前黎明期のプロ野球は職業野球と言われ、
現在のプロ野球に比べ、断然低いステータスで苦労も耐えなかったようです。
その中で数々の名投手は存在していました。

亀田忠はその中でも個性的な投手で、特に記録好きの野球マニアなら
当たり前に知っている投手の一人なのです。

ハワイ、オアフ島出身、ハワイ朝日在籍中は阪神で活躍した捕手
カイザー田中とバッテリーを組み、ハワイのウォルター・ジョンソン
「ビッグ・トレイン」という相性で他のチームから恐れられ、
剛速球と沈む球を武器にタイガースの若林忠史が斡旋し日本球界入りした。

スリークオーター気味の右腕から繰り出すボールは重く、
奪三振の山を築き、1940(昭和15)年に

戦前のシーズン奪三振記録297を記録した。
その反面、コントロールが悪く、三振か四球かという破天荒な投球だった。

1938(昭和13)年イーグルスに入団、すぐに大エースの働きをし、
1938年春のシーズンでは登板、完投、完封、投球回、奪三振はリーグ1位、
そして与四死球もリーグ1位、奪三振数137、与四死球143が三振を上回った。
被安打より多く、三振か四死球かという荒っぽい投球。

与四死球は1939(昭和14)年280個、40年273個とリーグ1位
この記録は未だ破られていない記録で、これからも破られない記録の一つだろう。

反面、荒れ球とバッキー・ハリスとのバッテリーは名物でもあった。
1940年3月18日のライオン戦ではノーヒット・ノーランを達成。
この時も9個の四死球を与えていた。
1941(昭和16)年4月14日の阪神戦でも2度目のノーヒット・ノーラン。

戦前で2度のノーヒット・ノーランを達成したのは澤村栄治(3回 巨人)、
石田光彦(阪急)、中尾輝三(巨人)、亀田 忠(イーグルス、黒鷲の4人。
プロ野球80年の歴史でも藤本英雄(巨人)、真田重蔵(太陽、阪神)、
金田正一(国鉄)、外木場義郎(3回、広島)、鈴木啓示(近鉄)を加えて
合計9人だけの偉大な記録だ。

投げ方が小気味良く、負担がかかりにくかったのか
1938年春秋で357.1回
1939年は371回、1940年に至っては456.2回も投げている。
その上コントロールが悪かったので球数はかなりのものと思われる。

他にも1安打試合10回、2安打試合9回、3安打試合10回と
打たれない投手としての記録もすごい。
1939年8月3日の金鯱戦では10四死球を出し、
初回に押し出しの1点を与えたものの、ノーヒットで9回を投げ
結局2対1で勝利投手という珍記録も持っている。

 

打撃もよく、1939年には打率.277、本塁打5本を打った。

所属球団のイーグルスの本塁打数が20本なので、25%を

亀田投手が打つ長打力で4番を打つ試合もあり

通常は5-7番を打っていた。


延長14回を投げて20奪三振の参考記録ももち、
戦前の投手記録を豪快に作り上げた、歴史に残る投手だったが
1941年6月日米関係が悪化してきたため、4年足らずの活動で
ハワイに帰っていった。

ハワイから日系野球人のなかでも個性的でどこかゆるい感じが
当時の世相の中で光り輝いたような感じがします。そして、
野球雲的には野球殿堂入りしないといけない伝説の選手です。

1938-1941(4年)
179試合 113完投 21完封
65勝78敗 1298投球回 898与四死球 827奪三振
防御率 2.41

 

 

 

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データ協力 日本プロ野球記録

データ協力 たばともクラシックSTATS鑑賞

データ協力篠浦 孝氏

 

記録的には平凡な成績でも、強烈な記憶として語り継がれているプロ選手が

日米共にいると思いますが、これから紹介する選手は

ちょっとしたミスが、100年以上もの間語り続かれ、

伝説、いや神話化して言った話をご紹介します。

 

選手の名前は

 

フレッド・マークル

 

 


フレッド・マークル

 

1888年12月20日ウィスコンシン州で生まれ、

1907年に当時メジャー最強のチーム

名将 ジョン・マグロー率いる『ニューヨーク・ジャイアンツ』に入団。

1916年までジャイアンツの在籍し、

1926年にコーチ兼任としてヤンキースに在籍し引退した。

 

 

そんな、自分の野球人生の未来を夢見たマークル選手が、

「こんなことになるなんて」思っていたであろう『事件』は

 

1908年9月22日に起こりました。

 

この年のジャイアンツにとって

1905年以来のペナントを獲得する絶好のチャンスが来ました。

エースのクリスティ・マシューソン

この年生涯最高の勝ち星37勝11敗を残すように

最高の年であり、もうひとりの鉄腕ジョニー・マギニティ

現役最後のシーズンを向かえ

後の俳優になった、外野手マイク・ドンリンも生涯2番目の成績で、

中軸を打ち投手中心とした

スモール・ベースボールのバランスの取れたチームでした。

 

 

そして、もうひとつ20世紀初頭の

ナショナル・リーグの最強チームのひとつ、

ジャイアンツからの覇権を奪い、1906,1907年と二連覇中の

『シカゴ・カブス』とのマッチレース状態になっていたのです。

 

この日、ジャイアンツはエース、クリスティ・マシューソン

カブスはサウスポーのジャック・ファイスター投手戦となり、

9回裏ジャイアンツの攻撃前までに1対1の同点でした。

 

ジャイアンツは先頭の4番

サイ・セイムア(打率.267ながら打点はチーム2位の92打点)は

二塁ゴロで一死、

続く5番アート・デブリン(レギュラー三塁手)がシングル・ヒットで出塁、

 

次の6番ムース・マコーミック(規定打席未満ながら

.打率 302の好打者)は内野ゴロで2塁フォースアウト、

一塁走者がマコーミックになり、続く打者は7番フレッド・マークル

 

右バッターであった彼はきれいにライト前ヒットに流し打ち、

マコーミックは一気に三塁へ走った。

 

ツーアウト一塁、三塁のサヨナラのチャンス・・。

 

次打者はこの年、ジャイアンツにやって来た24才の遊撃手の巧打者

8番アル・ブライトウェル

彼の打った打球は二塁上を超えるヒットを放ち

マコーミックはサヨナラホームを踏んだのでした。

 

ここまではシーズン中何度も見る感動の光景だが、

そこからマークルの悲劇、

天国から地獄の話が始まる。

 

サヨナラになった瞬間、ポログラウンドに集まった熱狂的ジャイアンツファンが

グランドに降りてしまい、大混乱に陥り、マークルは当時習慣化していたように

二塁ベースを踏まずベンチに引き上げたしまった。

 

それを見た、カブスの名二塁手ジョニー・エバースは野球を良く知っていた。

彼はすかさず、野手から送球を要求し二塁にベースタッチした。

 

そして、主審ハンク・オディはアウトを宣告、

同点のまま延長戦といきたい所でしたが、

ジャイアンツ側も怒り心頭で、ベース・タッチしたボールは別のもので

本当にゲームで使ったボールはジョー・マギニティーがレフトスタンド深く投げ入れ、

カブス側が新しいボールを渡したので、サヨナラ勝ちだと主張しました。

 

しかし、主審のハンク・オディマークルの二塁封殺を認め、

マコーミックの得点を無効にした。

20世紀初頭の球場には放送施設もモニターもあるわけ無いので、

観客の乱入で事態は収拾がつかない状態になった。

 

カブスは、ホームチームであるジャイアンツが

観客の整理などの管理体制が出来ず

試合続行が不可能なので。没収試合を主張。

 

マグロー監督はランナーが帰った瞬間でサヨナラゲームと両者引き下がらず、

両者の板ばさみとなったナショナル・リーグ理事会は

この9月22日の試合をドローゲームとし、後に再試合の決定をした。

 

そして、再試合は両チーム同率でペナントレースが終わり、プレーオフとして

10月8日ポログラウンドで行われ、4対2でシカゴ・カブスが勝利し、

ナショナル・リーグ3連覇を達成したのでした。

 

この結果、「マークルのあのボーンヘッドが無ければ

ジャイアンツはペナントを取れていた筈だ!」

 

「ルールも知らずにプレーしている愚か者だ!」と非難され

 

フレッド・マークル

記録より記憶に残る選手となり、苦しみ続けることになるのです。

 

 

 

これが100年前におこった

メジャー・リーグの歴史の中でもっとも有名なボーン・ヘッド

『THE MERKLE BONER』の話しです。

 

 

【エピソード 1】

 

この話しには伏線があり、カブスの二塁手エバースはルールに詳しく、

数週間前の試合でもこれと同じようなゲームを体験し、審判も

ハンク・オディでしたが、このときはエバースの主張を退けました。

 

エバースはルールどおりに行っていたので、

ベースに振れることなくフィールドに走ることが

一般的なプレーでしたが、何とかアピールプレーとしての可能性に

気を配っていたようです。

 

その後、このルールは誰でも知ることになりました。

 

 

【エピソード 2】

 

ジャイアンツのマグロー監督は、最後まで

マークルをかばい、1916年までレギュラーとして使い続けました。

むしろ、ナショナルリーグの首脳陣や審判団を一生許さなかったといわれています。

 

マークルも一生ついてきた汚名を言い訳もせず、引退後も穏やかに過ごしたそうです。

1956年死去

 

【エピソード 3】

 

彼は1913年(大正2年)12月、マークル

マグローが率いる世界周遊野球チームの一員として日本に来日し、

芝区の三田球場で行われたエキシビション・ゲームでレフトの場外に

大きなホームランを放っている。

 

打球は三田球場のレフト場外の芝区と麻布区の境界だった古川を超え、

このホームランは「芝から麻布まで飛んだホームラン」として、

その後の日本の野球史の中で記憶に残るものとなった。

野球界(大正3年)の記事から


大正2年来日の大リーガーの記事

 

 

 

 

 

データ協力 日本プロ野球記録

データ協力 たばともクラシックSTATS鑑賞

データ協力篠浦 孝氏

1996年9月20日に若き星野仙一監督の

熱血を超えた暴言事件があった日です。




現役時代の実績もさる事ながら、中日、阪神、楽天の3球団で
監督としての実績は現役以上で、戦後生まれ1000勝を達成し、
リーグ優勝4回、日本シリーズ優勝1回の名監督となった。

現役時代は退場経験がないのに、監督時代は6回経験している。
2度目の中日監督時代、1996年(復帰1年目)9月21日に星野監督は
試合中の退場よりも、激しい言葉を審判にぶっつけた!

東京ドームで行われた巨人戦終了後、星野監督は思うところがったのか?
引きあげてくる審判団を待っていた。そして上本審判に
「誰に頼まれた。公平にやれ!」と暴言を吐き、審判団ともみ合ってしまった。
その上、田中審判を蹴ってしまう暴行も働き問題となった。

翌9月21日、セ・リーグは星野監督に厳重警告と制裁金100万円の処分をした。

闘将と言われる星野仙一監督ですが、中日時代の抗議は
若さもあったのか、かなりのものでした。
特に巨人戦の抗議激しさは、今でも記憶に残っているところです。

 

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