長いプロ野球には栄光に包まれた選手や指導者がいる。

しかし、志半ばで野球を断念したり、

戦争によって逝ってしまった野球人もいる。

 

そして、戦争から無事帰還して、新たなプロ野球生活に戻り

活躍を期待されながらも病魔に倒れた選手がいました。

それが、今回ご紹介する

玉腰忠義外野手です。。

 

 

 

玉腰忠義は1920(大正9)年3月15日愛知県生まれ

右投右打の外野手です。

 

愛知商業学校ではセンバツ甲子園にも出場。

1940(昭和15)年黒鷲軍(旧イーグルス・後に大和軍)に入団

中堅外野手として、1941年に規程打数に入る活躍をし兵役。

 

戦後、1947(昭和22)年、金星スターズに入団。

1948(昭和23)年に 打率.286で打撃成績11位に入る成績を残した。

 

身長165センチと小柄だが、負けん気が強く、元投手で肩も強く

外野を浅く守って、ヒットをライトゴロにしたり、セカンドフォースアウトにする

プレーをいつも狙っていたことで、阪急時代は浜崎監督に可愛がられた。

 

金星時代は西沢道夫、杉山悟ら、坪内道則等の中で

巧打者のひとりとして活躍したが、金星の資本が完全に大映スターズになった。

そして、中日ドラゴンズに天知俊一が監督に就任することで

坪内、西沢、杉山が中日に戻ることとなり、

玉腰も誘われたりしたが、本音を表さない性格なのか?

「ほうっておいてください」と少々滅入った感じで春を待った。

そこで、中日球団に兄の新聞記者が口添えで契約金も月給も決まり、

春季合宿に入る直前、阪急の村上氏から

「玉腰君を欲しい。中日に決まったそうですが、ぜひうちに欲しい」

そして、玉腰の本心を聞いたところ

「すみません、すみません、阪急に行きたいと思います。

 理由は一つです。中日に入っても坪内さん、原田(徳光)君、杉山君がいては

  僕は出場できないかもしれません。

僕は阪急に入って、いつも出場したいのです。それが理由です」

 

そして、玉腰は阪急に1949(昭和24)年入団した。

その年は、二塁手宮崎剛と相性が良く、息の合った連係プレーを行い

ヒットで本塁を狙う走者を刺すことが再三あった。

 

1950(昭和25)年

玉腰の身体には結核の病魔が進んでいた。

下痢が続き、誰が見ても衰えはわかったようだ。

 

セ・リーグ、パ・リーグに分立し、

各球団同士で引き抜き、移動があり、

この年の阪急は戦力ダウンが激しかった。

そこで、玉腰は「おれが出なければ」と無理をした。

浜崎監督も休養を進めたが

「なあに、大丈夫」の一言で、玉腰は試合に出た。

小さな身体にふさわしくない先の太いバットを握って

「苦手のピッチャーなんているものか」と胸を張って打席に立っていた。

 

しかし、病魔は進み、

23試合に出場に終わったが、打率は.321を残した。

一宮市から遠くない今伊勢の病院で大手術を受けた。

そして、長き闘病生活に入った。

病院から見える東海道線を見ながら

「あの汽車に乗って巨人の連中も、そして、わが阪急も

東へ西に往き来する」と言って、現役復帰をあきらめなかった。

 

1954(昭和29)年岐阜県揖斐町の病院に移り

2階の一室で「闘病だ。病と闘うんだ」と静かに闘った。

 

しかし、1957(昭和32)年1月13日午後1時30分

郷里の愛知県一宮市の自宅で亡くなった。

約7年に渡る闘病生活の甲斐もなく、

享年38だった。

 

 

 

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1950(昭和25)年

セ・リーグ初の優勝チームは

小西得郎監督率いる松竹ロビンスだった。

本塁打王・打点王の二冠に輝いた小鶴誠を筆頭に、

記録的な猛打を振るった「水爆打線」の凄まじさ。

その戦いぶりは、現在まで記録と記憶にまみれている。

 

 

 

しかし、その栄光は一瞬の花火だった。

わずか2年後の1952年には、勝率2割台という記録的な惨敗を喫し、

球団そのものが消滅の危機に直面していく。

 

■1951年:内紛と怪我、崩壊の予兆

1950年に98勝を挙げ、日本一こそ逃したものの圧倒的な強さを誇った松竹。

しかし、優勝の祝杯の席ですでに「終わりの始まり」は起きていた。

 

【現場とフロントの致命的な亀裂】 

優勝監督である小西得郎は、フロントとの確執が原因で、

優勝直後にユニフォームを脱ぎます。

小西は「フロントが現場に介入しすぎる」と不満を募らせ、

フロントは「小西は派手好きで統制が取れない」と見ていた。

 指揮官不在の混乱の中、新監督には新田恭一が就任しますが、

この交代劇がチームの求心力を著しく落ちていった。

 

新田恭一監督
 

打線の要主砲・小鶴誠を襲ったのは、前年の激闘の代償である腰痛だった。

「バットを振るだけで激痛が走り、前年のようにボールを叩き潰す感覚がなくなった」
 

小鶴だけでなく、岩本義行ら主力も30代半ばを過ぎ衰えが顕著になる。

1951年、チーム成績は4位へと急落。

前年1位だった打率はリーグ5位まで沈み、もはや「水爆」の威力は失われていた。

 

【「名貸し」の松竹と、奔走する田村駒治郎】

球団名は「松竹」を冠していたが、これは今で言う「ネーミングライツ」に近いものだ。

球団を実質的に支え、資金を出し、

情熱を注いでいたのは繊維商社・田村駒の社長、田村駒治郎だった。 

松竹側は大映のプロ野球進出に対抗して名前を貸していた側面が強く、

興行面(映画館でのファン交流など)には協力的でしたが、

球団経営の赤字を補填する熱意はあまりなかった。

 

1951年、田村駒の経営悪化が表面化します。

朝鮮特需の反動による繊維不況が、熱血オーナー・田村を追い詰めていく。

この年、チームは4位に転落。

オフには、高給取りの真田、岩本義行、大島信雄らを放出せざるを得なく。

これは、生き残るための「身売り」に近い放出劇だった。

 

■1952年:厳しい「勝率3割規定」

主力を失い、運営費も大幅に削減された1952年のロビンスは、

もはやかつての王者ではなかった。
 

【リーグの「お荷物」排除作戦】

この年、セ・リーグ代表者会議である申し合わせがなされます。
「シーズン勝率3割を切った球団には処罰を与える」

奇数球団による日程編成の不都合を解消するため、

下位球団を整理しようという「弱者切り捨て」の論理でした。

ターゲットにされたのは、経営が火の車だった広島カープ、そしてロビンスだった。
 

【泥沼の連敗と、田村オーナーの意地】
 現場は悲惨でした。かつての破壊力は影を潜め、投手陣も崩壊。

負けが込むにつれ、世間からは「近鉄へ身売りか?」という噂が飛びかう。

それでも田村駒治郎は、愛する球団を守るため、

11月には一旦、球団存続を宣言する。

 

しかし、現実は非情でした。最終成績は34勝84敗、勝率.288。 

魔の「勝率3割」に届かず、連盟からの処罰対象となってしまった。

 

年度 順位 勝敗  勝率 備考
1950 1位 98勝35敗  .737 セ・リーグ初代王者、水爆打線
1951 4位 53勝57敗  .482 小西監督辞任、小鶴の不振
1952 7位 34勝84敗  .288 勝率3割を切り、大洋と合併へ

■結末:消えゆく駒鳥(ロビン)の誇り

万策尽きた田村は、ついに大洋ホエールズとの合併を受け入れます。
1953年、チームは「大洋松竹ロビンス」となりますが、
そこに田村の居場所はなかった。

「せめて『ロビンス』の名前だけは残してほしい」

それが、すべてを失った田村の最後の願いだったといいます。
1954年には松竹も経営から撤退し、
チーム名は「大洋ホエールズ」へと一本化された。

 

松竹ロビンスの没落は、一企業のオーナーの情熱だけでは支えきれなかった

「プロ野球草創期の歪み」そのものだった。
映画界の巨頭・松竹という華やかな看板の裏で、
繊維商の田村駒治郎が、愛する球団を守ろうと戦ったが、

時代は変わりつつあった。

 

優勝からわずか2年。

もし、1950年の内紛がなく、田村オーナーの資金力が続いていたら……。

そんな「if」を語りたくなるのも、

松竹ロビンスは個性的で魅力的な球団だった。

 

 

大東京から松竹ロビンスの歴史を、初公開の写真を使って紹介しています。

 

 

 

 

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堀本律雄
1935年1月20日~2012年1月14日

大阪府大阪市出身

右投右打、投手。

 

 

堀本律雄は1935年、大阪府生まれ。

桃山学院高校では3年次の1952年夏、

大阪府大会準決勝まで進むが明星高に敗退。卒業後は立教大学へ進学する。

しかし、当時の立教には同期のエース・東実や

1年下の杉浦忠という不世出の天才がおり、

堀本に登板機会はほとんど巡ってこなかった。

 

専ら他校のエースを模した

「練習台」の投手として過ごす日々だったという。1年下には長嶋茂雄もいた。

大学卒業後の1957年、日本通運浦和へ入社。

同年の都市対抗野球では3勝を挙げて準優勝に貢献し、久慈賞を獲得。

社会人日本代表として世界大会やアジア選手権にも出場し、

1959年まで社会人野球の第一線で活躍を続けた。

 

1960年、25歳で読売ジャイアンツに入団。

背番号は20。すでに投手として完成されていた。

前年の主軸だった藤田元司らが故障で離脱する中、

堀本はサイドスローからの小気味よい投球で一躍エースの座に就く。

  • 1960年の成績:69登板、26完投、29勝18敗、364.2回、防御率2.00

    • 最多勝、新人王、沢村賞を獲得。

    • 大洋・秋山登とタイトルを分け合う活躍で、
        巨人が優勝していればMVPの筆頭候補であった。

    • 沢村賞と新人王を同時受賞は史上初。

堀本はクイックモーションの達人だった。
正捕手・森昌彦とのバッテリーで、
1960年からの3年間で阻止率.706という驚異的な数字を残した。
1960年6月1日の大洋戦では、5回の盗塁企図をすべて刺すという記録を残す。

対戦相手には「堀本の時は無理して走るな」という指示が出るほど、

走者にとって脅威の存在だった。

 

◎日本シリーズでの激闘と「酷使」の代償

2年目の1961年、前年の酷使がたたり11勝と成績を落とすが、

南海ホークスとの日本シリーズでは真価を発揮した。

第4戦では右膝に打球を受けながらも3失点完投勝利。

最終第6戦でも好投し、シリーズ通算2勝を挙げて最優秀投手賞を受賞、

チームの日本一に大きく貢献した。

しかし、当時の「使える投手は潰れるまで使う」という時代で、

堀本のピークは事実上、この最初の2年間に凝縮されることとなった。

後に中日の権藤博が連投を重ねた際、

堀本が記者に放った「権藤、権藤、雨、権藤」という言葉は、

自身が酷使で短命に終わった経験から出た同情と警鐘の入り混じったものだ。

◎奔放な性格と川上監督との確執

堀本は野球の実力だけでなく、その性格も破天荒だった。

立教の後輩である長嶋茂雄に対し、

巨人の若手時代に「おい、シゲ!タバコ買って来いや」と

使い走りさせたエピソードや、登板前日に石原裕次郎邸で朝まで飲み明かし、

水原茂監督に大目玉を食らった逸話など、酒と夜の街にまつわる話が多い。

 

遠慮なく物言う性格は、

1961年から指揮を執った川上哲治監督とは反りが合わなかった。

1962年に7勝に終わるとトレード要員となり、

1963年に柳田利夫との交換で大毎オリオンズへ移籍する。

◎移籍、引退、そして指導者として

移籍初年度の1963年、パ・リーグで15勝を挙げ意地を見せるが、

翌1964年は1勝。1965年、30歳の若さで現役を引退した。

引退後は大洋や日本ハム、台湾の統一ライオンズでコーチを歴任。

特に1977年の大洋コーチ時代、

サイドスローへの転向を命じられていた新人の遠藤一彦に対し、

「上から投げろ」と進言し、ビールを飲んで

食欲を増進させるよう指導して増量を促した。

後の大エース・遠藤は、この堀本の助言がなければ短命に終わっていたと深く感謝している。

 

晩年はラジオ解説者や日刊ゲンダイの評論家として活動。

長嶋茂雄の先輩として、忖度のない巨人批評を続けた数少ない人物だった。

2012年1月14日、肺炎のため死去。享年76。

 

 

 
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1月13日【1944年】は大洋ホエールズ、読売ジャイアンツで活躍した

松原 誠内野手の生誕日です。

 

松原 誠

埼玉県飯能市出身

右投右打、内野手。

 

飯能高校卒業後、1962(昭和37)年に大洋ホエールズに入団。

当初は捕手として入団した。しかし、翌年一塁手に転向したが、

1965(昭和40)年、近藤和彦が外野に回り、一塁のレギュラーとなった。

しかし、1967(昭和42)年にディック・スチュワートが一塁手として入団。

当時、四番を打っていた桑田武内野手と併用されながら、

三塁も守り、打撃は安定した成績を残した。

 

1971(昭和46)年に再び一塁手としてチームを牽引、

1966年から1980年まで二けた本塁打を打ち、

大洋ホエールズの4番打者として長く活躍。

14年連続100安打以上も記録した。

武士のような、精悍な顔立ちが渋く、

大洋ホエールズファン以外にも人気があった。

 

打撃以上に守備が素晴らしく、

タコ足のように、股を大きく開いて、体操の開脚のように

野手からの送球を捕球する姿にプロの守備の凄さを感じたファンは数多く、

今も「松原の一塁の守備は素晴らしかった!」との声は多い。

その素晴らしさは、「戦前の中河美芳、戦後の松原誠」といわれた。
しかし、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)は

王貞治が独占していた時代でもあり、

全盛期は、まさに巨人のV9時代と重なった。
 

一塁手として、また打撃部門のライバルとして、

常に目の前に立ちはだかったのが王貞治だった。 

1977年には34本塁打、110打点というキャリアハイの成績を残したが、

打点王は124打点の王貞治に阻まれました。

 しかし、後に松原氏は、王氏の「人の3倍練習する」という覚悟を知り、

「負けるべくして負けた」と納得しています。

この謙虚さと向上心が、2000安打という記録が達成できたのかもしれない。

松原の勝負強さを物語るのが、記録達成時の華やかだ。

通算1000安打、1500安打、そして1980年の2000安打達成時、

そのすべてを「本塁打」で達成した。

これはプロ野球史上でも稀有な記録だ。 

また、1980年にはスタメンから外れる悔しさを味わいながらも、

代打として「7打席連続安打」という日本記録を樹立。

広島の守護神・江夏豊氏から放った逆転スリーランは語り草だ。

 

2095安打、405二塁打、331本塁打の強打者も

ベストナイン、ゴールデングラブ賞は長嶋茂雄、王貞治の

高い壁に超えることが出来なかった

大洋ホエールズも優勝しなかったので、高レベルの選手にもかかわらず

タイトルには全くと言っていいほど縁がなかった。

 

主な記録

通算2,095安打(2000本安打達成)、331本塁打、1,180打点、打率.276

シーズン45二塁打(セ・リーグタイ記録)、15年連続二桁本塁打、

8年連続20本塁打(球団記録)、2試合にまたがる4打席連続本塁打(日本タイ記録)

 

松原誠氏も野球殿堂入りする資格は十分にあると思われる。

ベテランズ委員会を作って、埋もれた名選手を顕彰してほしい。

 

 

 

 

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1月12日は
日本初の300勝投手ヴィクトル・スタルヒン投手の命日です。
【1957年 享年40歳】



戦前は澤村栄治投手とともに
ベーブ・ルースを中心とした全米選抜チームと対戦し、
その後東京ジャイアンツ創設時から活躍した。

戦前の巨人軍での活躍は
澤村栄治が兵役に取られた後から
超人的な活躍で大いに貢献し、
1936年から1944年の短期間で199勝を記録した。
1939年にはシーズン日本記録の42勝をあげ、
通算完封数83とともに、神の領域といえるような記録を持つ。

 



1916年にロシアで生まれ、親族に王族がいたため
革命軍に迫害され、1925年家族とともに日本へ亡命。
北海道旭川で無国籍ロシア人として生活していくことになった。

旧制中学野球では早くも豪腕投手として名を広めたが、
父親がおこしてしまった殺人事件で、大学進学をあきらめた。

1934年の全米選抜チームと戦うために、中学を中退して上京。
その裏には無国籍状態、父親の犯罪歴をたてに恫喝され
巨人軍発足にも参加せざる得ない状況だったとも言われている。

プロ野球では華麗なる活躍で人気を博したが、
戦時中は『須田博』と登録名を変えさせられ、
プライベートでは苦渋をなめていた。

戦後、進駐軍の通訳として働いていたところ
偶然、巨人時代の監督藤本定義と出会い
プロ野球(パシフィック球団)に復帰した。
通訳といっても、日本で育っていたため英語は話せなかったらしい。

戦後の活躍は、戦前の剛速球と違い
技術を使いかわすピッチングでトンボユニオンズに在籍し、

トンボ・ユニオンズで日本球界史上初の300勝投手になった。


1955年を最後に引退。

 


ユニオンズ時代のユニフォームと道具類


通算303勝176敗 防御率2.09 完封数83の素晴らしい記録を残した。

 

 

 

 

 

 


しかし、引退後1年と少しの1957年1月12日、
自ら運転しているところ
東急玉川線と激突、交通事故で亡くなった。

その死には、いまだ不可解な点があり、
事故なのか、自殺なのか謎が残っている。
生涯無国籍だった。

野球で生活を支え、野球しかなかったスタルヒンには
野球のない人生設計に対して落としどころが出来なかったかもしれない。

1960年野球殿堂競技者、最初の表彰者でもある。



スタルヒンのあまりにも早い死は、
プロ野球選手のセカンドキャリア問題に対して
考える歴史のひとつだと思ってしまう。

伝説のシーズン30勝投手列伝③ 日本初の300勝投手ヴィクトル・スタルヒン投手

 

元祖鉄腕! ヴィクトル・スタルヒン

 

 

 

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青田 昇

1924年11月22日~1997年11月4日

兵庫県出身 右投右打

外野手

 

 

少年時代は柔道をやっていたが、

高等小学校では柔道部がなかったから野球をはじめる。

旧制滝川中学では同級で別所昭(後の南海、巨人)がいた。

当初投手だったが外野手に転向。

 

1941(昭和16)年秋、滝川中学は神宮大会に出場。

その時、巨人の藤本定義監督と水原茂、中島治康が

エース別所昭を見に来ていた。

そして、滝川中学の監督は巨人に在籍した前川八郎だった。

 

しかし、別所は故障中で試合には出なかったが、その試合には

青田が出場していた。

その、プレーぶりを見ていた中島治康が前川監督に

「あの、センターを巨人にくれないか?卒業したら必ず入団させてくれ」と

言ったそうだ。

 

そして、甲子園めざしてがんばったが、戦争の影響で中止となり、

野球で身を立てたいと考えた青田は中退し、

1942(昭和17)年7月17歳で巨人に入団した。

 

入団時は水原茂、川上哲治ともに出征していたため、

すぐに主力を打ち、秋には.381の高打率、

1942年を通して規定打席不足ながら.355の高打率で終えた。

1943(昭和18)年は本塁打0ながら42打点で打点王を獲得。

ここで、翌年、巨人を退団して陸軍航空隊に入隊。

 

戦後、すぐに阪急軍に入団。

野口二郎とクリーンナップを打った。

「じゃじゃ馬」のニックネームはこの頃つけられた。

戦後の最初のホームラン打者大下弘の影響から

1947(昭和23)年に巨人に復帰。

川上の前を打つ3番打者として、巨人第二期黄金時代に

多大な貢献をした。

 

1953(昭和28)年大洋松竹(洋松)ロビンスに移籍。

これは、年棒交渉に毎年難航する青田にさじを投げた

巨人フロントがトレードに出したことらしい。

 

一時不調な時代もあったが、

1954,年1956年,1957年と3回本塁打王を獲得。

通算で5回の本塁打王に輝いた。

 

1950年代の最高の長距離打者として

通算本塁打ランニングでも1956年に藤村冨美男を抜いて、

NPB1位に抜き出て、1959年に通算265本で終わった後も

1963年山内一弘に抜かれるまで、8年間通算本塁打王者を守った。

 

 

最後は阪急で現役を終え、阪神、阪急、大洋で

コーチを務め、多くの打者を育て

1980年に長嶋巨人で久しぶりにコーチに戻った直後

謎のスキャンダルで退団。

その後は腫れ物を触るような感じで、現場には戻れず

辛口評論家として活躍した。

 

しかし、「じゃじゃ馬」というニックネームだけあって

熱狂的ファンとそうでない人たちと別れたのか?

実績の割に野球殿堂は遅れに遅れ、

死後12年経った2009年に殿堂入りした。

 

戦後の大下弘を筆頭に、本塁打ブームに乗り、

当時の野球ファンに夢を与え、ざっくばらんな人柄で

今もなおその個性に惹かれる野球ファンは多い。

 

青田昇 通算打撃成績

 

青田昇 全成績 (日本プロ野球記録)

 

 

野球雲チャンネルで青田さんを紹介しました。

 

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水島新司

1939年4月10日~2022年1月10日

東京都出身

漫画家

 

水島新司以前の野球漫画は、『巨人の星』に代表されるような、

超人的な魔球や精神論を強調する「スポ根」作品が主流だった。

しかし、水島は実際の野球における配球の妙、

ルールの盲点を突く戦略、そして選手個々の身体的特徴や

癖を緻密に描写するリアリズムを持ち込んだ。

 

『ドカベン』では、主人公・山田太郎をはじめとする

個性豊かなキャラクターたちが、高校野球を舞台に極めて技術的な攻防を繰り広げた。

 

水島新司の作品がプロ野球界に与えた影響は、

単なる「人気漫画」の枠を大きく超えていたと思う。

1973年から41年間にわたり連載された『あぶさん』は、

実在のプロ野球界を舞台にした大河ドラマのようだった。

 

主人公・景浦安武は、当時の南海ホークスに入団し、

野村克也、王貞治、門田博光といった

実在のスター選手や監督と一緒に活躍する。

その描写は、選手たちからも

「水島先生に描かれることは一流の証」と称されるほどの信頼を得ていた。

 

2007年には、現実のソフトバンクホークスにおいて、

景浦の背番号「90」が準永久欠番的な扱いを受けるという、

架空のキャラクターが現実の球団文化に影響を与えてもいる。

 

『野球狂の詩』では、日本初の女性プロ野球選手である水原勇気を登場させ、

プロ野球の制度や性別の壁、そしてクローザーという役割を描いた。

さらに『球道くん』『一球さん』といった作品群を通じて、

少年野球からプロに至るまでのピラミッド構造を、

「水島新司 野球ワールド」として繋ぎ合わせる作業も行い、

手塚治虫の「スター制度」を独自に展開した感じにも思える。

 

水島新司の作品は、現実の野球玄番にとっても技術的なヒントになったり、

精神的な支柱にもなったと思われる。

 

 

 
40代以上の野球ファンであれば、かなり影響を与えた漫画家であろう。
野球雲9号「日本の野球を変えた100人」にも読者の方々から投票が多かった。
 
 

通常は「ドカベン」「あぶさん」「野球狂の詩」などが

紹介されるだろうが、他にも名作はたくさんある。

「光の小次郎」「ストッパー」「一球さん」など

様々なキャラクターと設定が面白い作品がある。

 

あれほど、プロ野球界にもコラボレーションをしていた

水島新司さんだったが、ある時期からピタっと交流が止まってしまった。

2004年のプロ野球再編騒動の頃、

プロ野球も権利ビジネスが注目され、

漫画やゲームの中で気軽に野球選手や球団名が使えなくなり

野球漫画が激減し、架空の球団で活躍するものなどで

プロ野球の選手を憶える媒体が減ってしまった。

 

スポーツと言えば野球だった時代から、

様々な競技が広がっていったこともあり、

少年少女たちが野球を選ばなくなっていたことで

野球人気の低下という話があるが、

気軽に野球選手を漫画で見られなくなったのも大きいと思う。

 

ドカベンで高校野球の面白さ、

野球狂の詩でプロ野球の内面を

あぶさんで個性的なパ・リーグを紹介と

野球の魅力を漫画を通して広げていった功績は

200勝投手、2000本安打を打った選手に匹敵する。

いや、それ以上かもしれない。

 

難しい問題はあるかもしれないが

是非、野球殿堂入りをして欲しい。

 

 

 

 

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新田恭一  (慶応義塾大学)

1898(明治31)年9月24日-1986(昭和61)年1月9日

広島県広島市出身

 

 

(松竹時代の新田恭一)
 

大正5年(1916),第2回全国中等学校優勝野球大会

(夏の甲子園大会。当時は、豊中球場で開催)に、

慶應普通部の右翼手・投手として出場し優勝。

 

翌6年(1917)には、エースピッチャーとして出場した。

大正7~12年(1918~1923)、慶応義塾大学では、

遊撃手以外のすべてのポジションをこなした稀にみる万能選手だった。

専門は投手で、コントロールに優れており、

打率も10シーズン平均.294の好打者であった。

当時は球界の麒麟児といわれた。
 

新田恭一の大正時代トピックス

  • 1919年:年一回の一高戦で決勝点となる三塁打を放ち、
    前年の雪辱を果たす。

  • 1920年:来日したアメリカの職業野球チームに対し、
    日本の投手陣が打ち込まれる中、
    新田のみが互角に渡り合い接戦を演じた。
    同年秋には打率.333で首位打者。

  • 1922年:慶應がシカゴ大学に
    28回目の対戦で初めて勝利した時の投手となる。
    シカゴ大学は1910年の初来日以降、早慶相手に27戦無敗。
    また、同年には選抜チームとして来日した
    大リーグ相手にもスピットボールを武器に健闘した。

  • 1923年:主将を務め、小野三千麿、森秀雄らと
    慶應野球部の黄金時代を築く。
    捕手がいなかったため、自らマスクをかぶり、
    新人投手の育成にあたった。
    この頃、針金マスクから現在の捕手マスクを
    大学で初めて使用したと言われている。

 

卒業後は、大毎野球団・都市対抗の東京倶楽部で活躍したり、

銀座でゴルフの洋品店を経営するなどした。

ゴルフでもアマチュア日本一になるなど多才。

当時の日本ではめずらしい野球、

ゴルフの技術に対して優秀な理論を持っていた。

 

戦後、下半身を使った打撃スイングを「新田理論」として

松竹ロビンスの打撃コーチとして、小鶴誠を強打者に育てた。

破壊力のある「水爆打線」の中核としたが、

「新田理論」で活躍した選手が腰を痛めることが増え、

次第に新田恭一の理論が日本野球界では廃れていった。

 

昭和6年(1931)の「ボーク事件」の審判団の一人で、

同じく審判であった三宅大輔と、

明大への通知の有無に関しての論争を繰り広げた。

 

大正9年(1920)シカゴ大学に慶大が日本チームとして

28回目の対戦で初めて勝利した時の投手だった。

そのときの凄さを晩年 

「ええ、日本の野球は向こうよりずーっと下でして、

偶然でしたけど、私がピッチャーで勝たして頂いて、

帰ってから提灯行列やって、
    銀座なんかが大変賑やかだったのを覚えております。」

と当時を振り返った。

 

大正時代の野球界では

頂点にいた選手のひとり。

戦後のプロ野球では、打撃理論の第一人者であり、

松竹ロビンス-松竹大洋ロビンスー読売ジャイアンツ-近鉄バファローと

指導者の道も歩いた。

新田は自身の理論をプロ野球界で実践した。

 

下記は彼のプロ野球での指導者時代をまとめてみました。

  • 1949年(昭和24年)頃:下半身を使った
    ダウンスイングを理論的根拠とした「新田理論」を提唱し、
    松竹ロビンスの打撃コーチとして小鶴誠を指導。
    小鶴は1950年に161打点、376塁打などを記録し、
    この打法は「ゴルフ・スイング」と呼ばれて流行語となった。
    この理論は合理的打法として評価されたが、
    一方で、小鶴や三村勲など新田理論を取り入れた選手が
    腰を痛め選手寿命を縮めるケースが増え、
    次第に日本野球界では傍流化していった。

  • 1950年(昭和25年):松竹ロビンスの臨時コーチとして
    水爆打線を擁したチームのセントラル・リーグ優勝に貢献。

  • 1951年(昭和26年):松竹ロビンスの監督に就任。
    しかし、理論派でありながら監督としては不適格とされ、同年4位に終わった。

  • 1952年(昭和27年):チームは最下位に沈み、
    勝率3割を下回ったためリーグの処罰対象となり、球団は翌年大洋と合併し消滅。

  • 1953年(昭和28年):合併した大洋の二軍監督に就任。

  • 1954年(昭和29年):巨人が初めてコーチ制を採用した際、
    読売ジャイアンツの二軍コーチに就任した。
    水原茂監督より先輩であるため、水原のリーダーシップについて懸念されたようだ。

  • 1957年(昭和32年):二軍監督を務め、
    同年オフに水原監督や川上助監督と技術論で対立し、
    水原監督の退陣騒動の一因となったとされている。

  • 1960年(昭和35年):近鉄バファローのヘッドコーチに就任。
    1961年に技術顧問となり退団。

  • 1976年(昭和51年):ヤクルトでアドバイザーを務め、
    船田和英の打撃を指導し、船田は同年カムバック賞を受賞。

  • 1978年(昭和53年):ヤクルト初優勝時に、
    広岡達朗監督の要請で臨時コーチを務めた。

上記のように長く新田理論は評価されているのがわかるが、

今は新田恭一の野球理論は傍流化しているため、

大正時代の実績をあわせれば、野球殿堂入りしてもいい野球人だが

今では忘れられた野球人でもある。

 

とても残念なことである。


晩年は一人、横浜の貸家に住まわれていたそうだ。

吉澤野球博物館には新田恭一最晩年の音声が残されている。

 

新田恭一監修「野球の科学」岩波ブックレット

 

 

 

 
 

 

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大島信雄

1921年10月2日~2005年1月8日

愛知県一宮市出身

左投左打、投手。

 

 

1936年、旧制岐阜商業学校に入学し、

1年生ながら夏の甲子園でベンチ入りした。

登板機会はなかったものの全国制覇を経験した。

2年時からはマウンドに上がり、

野村清(のちにプロ入り)との投手2枚看板として活躍する。

 

大島の名前が全国に轟いたのは、

最上級生となった1940年の選抜大会である。

エース兼4番打者として出場、

初戦から決勝までの4試合すべてを完封勝利で飾った。

決勝では、強豪・京都商業の神田武夫との投げ合いを2-0で制し優勝に導いた。

■慶應義塾大学と「最後の早慶戦」

1941年に慶應義塾大学へ進学し、

東京六大学リーグでもエース兼主砲として頭角を現した。

しかし、戦況の悪化によりリーグ戦は中断を余儀なくされる。

1943年10月13日、学徒出陣を前に開催された

「出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)」には、5番・右翼手として出場。

 

終戦後、再開されたリーグ戦においても

大島は慶大のエースとして君臨した。

加藤進とバッテリーを組み、1946年と1947年の春季リーグ連覇に貢献。

投打にわたる活躍は、戦後復興期の六大学野球を代表する選手だった。

■松竹ロビンス入団と1950年セ・リーグ優勝

1947年の秋に繰り上げ卒業後、滋賀県の大塚産業を経て、

1950年のセ・パ両リーグ分立に際して松竹ロビンスへ入団した。

プロ入り時の年齢は29歳と、当時としても異例の遅いスタートであった。

 

プロ1年目から左腕からの速球と縦のカーブを武器に

20勝4敗という驚異的な成績を収める。

セ・リーグ初代の最優秀防御率、最高勝率、

そして史上最年長となる29歳での新人王を獲得し、

松竹のリーグ優勝に多大なる貢献を果たした。

 

同年に行われた第1回日本シリーズでは、

プロ野球の新たな歴史を告げる第1球を投じている。

日本シリーズ第1戦は12回を完投したが2-3で敗戦投手

第4戦に登板、5対3で完投し勝利投手。

第6戦を3回から登板、延長11回に打たれサヨナラ負けし、敗戦投手。

通算1勝2敗だったが、エース真田が調子悪い中、投げぬいた。
現代なら敢闘賞モノの活躍だった。

■名古屋ドラゴンズへの移籍と日本一

1952年、球団の経営状況悪化に伴い、

名古屋ドラゴンズ(現:中日)へ移籍。

移籍後も2年連続で2桁勝利を挙げるなど、投手陣の主軸を担った。

1954年には、西鉄ライオンズとの日本シリーズに登板。

さらにこのシリーズでは優れた打力を買われ、

外野手や代打としても出場し、球団史上初の日本一達成を支えた。

1955年、故障の影響もあり、この年限りで現役を引退した。

 

■指導者・解説者としての晩年

引退後は、野球解説者として活動する傍ら、

多くの少年野球向け教本を執筆した。


 

指導者としては、1969年から1971年まで中日の一軍投手コーチを務め、

松本幸行や渋谷幸春といった後の主力投手を育成した。

晩年も野球に対する情熱は衰えず、

80歳を過ぎてからもシアトルまで足を運び、

後輩であるイチローのプレーを観戦するなど精力的に活動を続けた。

2005年1月8日、肺炎のため83歳で亡くなった。

 

大島信雄が1950年に樹立した「29歳での新人王」という記録は、

半世紀以上が経過した現在もプロ野球史上最年長記録として保持されている。

 

 

 

大島信雄から長嶋茂雄、張本勲までの10年間の新人王受賞者を解説。

 

大島投手が大活躍した松竹ロビンス特集号。消えた球団シリーズ第3弾!

 

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榎本健一

1904年10月11日~1970年1月7日

東京府(東京都)出身


1月7日は日本の喜劇王、エノケンこと榎本健一の命日。

 


 

榎本健一は、昭和を代表する喜劇俳優、歌手。

「エノケン」の愛称で親しまれ、「日本の喜劇王」として一世を風靡した。
浅草オペラで初舞台を踏んだ後、軽快な動きと独特のハイトーンボイス、
そして卓越したギャグセンスで人気を確立。
1930年代には劇団「ピエル・ブリヤント」を率い、
演劇のみならず映画界でも数多くのヒット作を生み出した。
 

野球との縁も深く、無類の野球好きとして知られていた。
私生活では熱烈な巨人ファンであり、
自身の喜劇の中にも野球のユニフォームやバットを用いた演出を積極的に取り入れ、
お茶の間に野球の楽しさを広める一翼を担った。
 

戦後は病により右足を切断するという困難に見舞われたが、
義足を用いて舞台に復帰。死の直前まで芸に打ち込む姿勢を貫いた。
1970年、65歳で死去。その喜劇手法やサービス精神は、
現在に至るまで日本のエンタメ界に多大な影響を与え続けている。

 

野球好きの榎本健一でも有名なもので
1948年公開の映画「エノケンのホームラン王」がある。
1リーグ時代の巨人に入団して活躍する内容。

 



セリフ棒読みの三原監督、川上選手等が微笑ましい。
そして野球雲的には貴重な映画。

 

球団のマスコットとして巨人軍に入団した

エノケンの活躍?を描くコメディ映画。

 

巨人は三原監督、川上哲治が中心だが、

青田昇、中尾輝三投手も演技をしているのがすごい。

 

1948(昭和23)年の後楽園球場と巨人の選手たちの動く姿に

物語以上に野球マニアには楽しくなってしまう。

 

戦争が終わって3年しか経っていないので、

東京の景色も貴重です。

 

 

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