篠塚和典(篠塚利夫)
1957年7月16日生まれ
千葉県銚子市出身(東京都豊島区生まれ)
右投左打、二塁手。
篠塚利夫の非凡さは、すでに高校時代から際立っていた。
名門・銚子商業でエース土屋正勝氏と共に1974年夏の甲子園を制覇した際、
篠塚はある「こだわり」を持って打席に立っていた。
この大会から高校野球では金属バットが導入されたが、
篠塚は「プロに進んだ時のために」と、あえて木製バットを選んだ。
周囲が金属の反発力で飛距離を伸ばす中、
芯で捉える技術を磨き続け、木製で2本の本塁打を放つ。
このエピソードこそ、後の「打撃職人・篠塚」の原点ではないだろうか。
しかし、前途洋々に見えた彼を病魔が襲う。
夏の優勝直後に湿性肋膜炎を患い、3か月の入院生活。
野球生命の危機に立たされたが、諦めなかった。
病室のベッドで仰向けになり、
天井に向かって延々とボールを投げ続けることで、
指先の感覚を研ぎ澄ませ、肘の出し方を体に覚え込ませた。
この「静寂の中の特訓」が、
後に内角球を鮮やかに捌く独特の肘の使い方へと繋がっていった。
1981年:1厘差の惜敗が「天才」を覚醒させた。
プロ入り後、長嶋茂雄監督に見初められ、
地獄の伊東キャンプを経て頭角を現した篠塚が、
最初の絶頂期を迎えたのが1981年であった。
この年、彼はキャリアハイとなる打率.357を記録。
阪神の藤田平にわずか「1厘」及ばず、首位打者を逃した。
しかし、このシーズンで見せた「広角に打ち分ける技術」と
「追い込まれてからの粘り」は、セ・リーグ全体の驚異となる。
中畑清、原辰徳らと共に構成された内野陣は鉄壁を誇り、
8年ぶりの日本一に大きく貢献した。
1984年・1987年:二度の首位打者と「中距離砲」としての存在感
初めて首位打者のタイトルを手にしたのは1984年。
打率.334、そしてリーグ最多の35二塁打を記録。
彼のバッティングの最大の特徴は、単なるシングルヒットの量産ではなく、
「ライナーで間を抜く」中距離打者としての鋭さにあった。
巨人の強力なクリーンナップの中で3番を任され、
長打力が求められる場面でも自分の形を崩さず、
芸術的なバットコントロールで長打を量産した。
そして1987年、二度目の首位打者を獲得。
この年は広島の正田耕三と「打率.333」で並ぶという
NPB史上二度目の記録となった。
特筆すべきは、篠塚が腰痛という持病を抱えながら、
ここぞという場面で集中力を発揮し続けたことだ。
この年の日本シリーズ(対西武)では、敗退したものの
打率.409という驚異的な数字を残し、敢闘賞を受賞。
大舞台になればなるほど、その打撃は冴え渡った。
後世に与えた影響
篠塚の打撃は、後進の打者たちにとっても「究極の教科書」となった。
彼が愛用した細身でヘッドの重みを活かすバットは、
イチローがほとんど形を変えずに使用したことで知られている。
また、立浪和義や石井琢朗も、
篠塚の打撃フォームや用具に多大な影響を受けたと語っている。
篠塚のバッティングの真髄は、「準備の美学」にあります。
1993年、ヤクルトの新人 伊藤智仁投手が神がかり的な投球を見せていた試合。
ベンチでじっと観察していた篠塚は、代打の準備中も
「誰もがスライダーにやられている」と分析。
打席に入ると、あえて間を取って相手の熱を奪い、
初球の高速スライダーを右中間スタンドへ運んだ。
「来た球を、あるべき場所に運ぶ」。
このシンプルかつ究極のスタイルこそが、
通算打率.304を誇る篠塚和典という打者の本質なのだ。
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