篠塚和典(篠塚利夫)

1957年7月16日生まれ

千葉県銚子市出身(東京都豊島区生まれ)

右投左打、二塁手。

 

 

篠塚利夫の非凡さは、すでに高校時代から際立っていた。
名門・銚子商業でエース土屋正勝氏と共に1974年夏の甲子園を制覇した際、
篠塚はある「こだわり」を持って打席に立っていた。

この大会から高校野球では金属バットが導入されたが、

篠塚は「プロに進んだ時のために」と、あえて木製バットを選んだ。

周囲が金属の反発力で飛距離を伸ばす中、
芯で捉える技術を磨き続け、木製で2本の本塁打を放つ。
このエピソードこそ、後の「打撃職人・篠塚」の原点ではないだろうか。

しかし、前途洋々に見えた彼を病魔が襲う。

 

夏の優勝直後に湿性肋膜炎を患い、3か月の入院生活。
野球生命の危機に立たされたが、諦めなかった。

病室のベッドで仰向けになり、
天井に向かって延々とボールを投げ続けることで、
指先の感覚を研ぎ澄ませ、肘の出し方を体に覚え込ませた。
この「静寂の中の特訓」が、
後に内角球を鮮やかに捌く独特の肘の使い方へと繋がっていった。

 

1981年:1厘差の惜敗が「天才」を覚醒させた。

 

プロ入り後、長嶋茂雄監督に見初められ、
地獄の伊東キャンプを経て頭角を現した篠塚が、

最初の絶頂期を迎えたのが1981年であった。

 

この年、彼はキャリアハイとなる打率.357を記録。
阪神の藤田平にわずか「1厘」及ばず、首位打者を逃した。
しかし、このシーズンで見せた「広角に打ち分ける技術」と
「追い込まれてからの粘り」は、セ・リーグ全体の驚異となる。

中畑清、原辰徳らと共に構成された内野陣は鉄壁を誇り、
8年ぶりの日本一に大きく貢献した。

 

1984年・1987年:二度の首位打者と「中距離砲」としての存在感

初めて首位打者のタイトルを手にしたのは1984年。
打率.334、そしてリーグ最多の35二塁打を記録。

彼のバッティングの最大の特徴は、単なるシングルヒットの量産ではなく、
「ライナーで間を抜く」中距離打者としての鋭さにあった。
巨人の強力なクリーンナップの中で3番を任され、
長打力が求められる場面でも自分の形を崩さず、
芸術的なバットコントロールで長打を量産した。

 

そして1987年、二度目の首位打者を獲得。
この年は広島の正田耕三と「打率.333」で並ぶという
NPB史上二度目の記録となった。

特筆すべきは、篠塚が腰痛という持病を抱えながら、
ここぞという場面で集中力を発揮し続けたことだ。
この年の日本シリーズ(対西武)では、敗退したものの
打率.409という驚異的な数字を残し、敢闘賞を受賞。
大舞台になればなるほど、その打撃は冴え渡った。

後世に与えた影響

篠塚の打撃は、後進の打者たちにとっても「究極の教科書」となった。

 彼が愛用した細身でヘッドの重みを活かすバットは、
イチローがほとんど形を変えずに使用したことで知られている。

また、立浪和義や石井琢朗も、

篠塚の打撃フォームや用具に多大な影響を受けたと語っている。

 

篠塚のバッティングの真髄は、「準備の美学」にあります。
1993年、ヤクルトの新人 伊藤智仁投手が神がかり的な投球を見せていた試合。
ベンチでじっと観察していた篠塚は、代打の準備中も
「誰もがスライダーにやられている」と分析。
打席に入ると、あえて間を取って相手の熱を奪い、
初球の高速スライダーを右中間スタンドへ運んだ。

「来た球を、あるべき場所に運ぶ」。


このシンプルかつ究極のスタイルこそが、
通算打率.304を誇る篠塚和典という打者の本質なのだ。

 

 

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今回の伝説のシーズン30勝投手列伝は

中日ドラゴンズのエース、
そして、日本で初めてフォークボールを投げた。と

言われている杉下茂投手です。

 

杉下茂投手は

1952(昭和27)年

61試合、25完投、6完封、32勝14敗 勝率.696、
355.2回 、160奪三振、防御率2.33

 

1954(昭和29)年

63試合、27完投、7完封、32勝12敗  勝率.727、
395.1回、273奪三振、防御率1.39

 

以上のように2回シーズン30勝投手を達成しています。

 

杉下茂は1925(大正14)年東京府(現 東京都)生まれ

明治大学専門部を卒業して、中日ドラゴンズに入団した。

学生時代に恩師天知俊一から「フォークボール」の存在を知る。

 

元々プロ野球の世界に入る気もなかったが、

天知が中日の監督になることによって、杉下も中日に入団した。

1949(昭和24)年にデビュー、
翌年1950(昭和25)年に27勝15敗の成績で

一気に中日のエースに台頭。

 

そのシーズンオフに小西得郎を団長に川上哲治、藤村冨美男、小鶴誠とともに

サンフランシスコ・シールズのキャンプに参加。

当初、打撃投手のようにこき使われたことに憤慨し、

フォークボールを投げ、シールズの選手たちから三振を奪い、

オドール監督から評価され、そのままアメリカに残る寸前まで来た。

そのキャンプが自信になり、1950年から6年連続23勝以上の成績につながる。

 

 

1952年は巨人の別所投手が33勝したため、惜しくも最多勝は逃すものの、

1954(昭和29)年は杉下投手のプロ野球人生のハイライトとなった。

その年、中日は天知が監督に復帰、打倒巨人、優勝目指して

杉下投手と西沢道夫内野手を中心にシーズンを迎え、

杉下は鬼神のように投げぬいた。

結果、セ・パ分立後初の投手五冠王の成績で

巨人を抑え、初優勝の大きな原動力となった。

巨人の4番、川上哲治は「捕手が取れないボールが打てるかい」と言って

杉下のフォークボールにお手上げ状態だった。

 

日本シリーズでも初優勝の西鉄の

大下、中西、豊田を擁する強力打線に対しても完全に抑え、

中日ドラゴンズは日本シリーズでも優勝。杉下は6試合を投げMVPに輝いた。

 

杉下のフォークは「どこに行くかわからない」という変化球で

大きな手で、ボールを挟み、回転しないで落ちていく。

140キロは出ていた杉下のフォークはナックルボールのような

摩訶不思議な変化をしていたという。

 

引退後も巨人をはじめ多くの投手を育て、

日本球界に多大なる貢献をした。

 

 

数年前、杉下さんを取材する幸運に恵まれ、

様々な質問をしたが、90歳を超える年齢とは思えない

堂々とした話しぶりに感動したものだ。

 

 

沢村賞を3回(1951年、1952年、1954年)

 

最多勝2回(1951年、1954年)

1985年に野球殿堂入り

 

 

 

2023年6月23日死去

 

杉下茂 投手通算成績

 

杉下茂通算打撃成績 

打者としても結構打っています!

 

伝説の30勝投手列伝 ヴィクトル・スタルヒン投手

伝説の30勝投手列伝 野口二郎投手

伝説の30勝投手列伝 藤本英雄投手

驚愕!30勝投手列伝!~前説~30人の全リスト

球団別最後の30勝投手はだれ!!

 

 

 

 

 

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川崎徳次 

1921年5月7日~2006年4月25日

佐賀県鳥栖町(現在の鳥栖市)生まれ。

投手、外野手

 

 

幼い頃から野球に親しみ、旧制龍谷中学から久留米商業学校へ進学し、エースとして活躍。

卒業後は満州(中国東北部)に渡り、撫順炭鉱の野球部で腕を磨いた後、

1940年、南海軍(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団した。

 

南海時代、川崎は右の本格派投手として台頭。

鈴木惣太郎から「球界一の速さ」と評された。

1941年には46試合に登板し、12勝を挙げた。

続く1942年も15勝をマークし、順調に成績を伸ばしていたが、

戦局の悪化に伴い一時野球界を離れることになる。

1942年に召集され、ビルマで終戦を迎えた。

 

終戦後、プロ野球が再開すると、川崎は東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)に移籍。

ここでキャリアの大きな転機が訪れる。

投球フォームをスリークオータに改造し再起を図った。

1947年に24勝を記録、翌年の1948年には27勝を挙げリーグ最多勝を獲得。

巨人のエースとして名を馳せた。

 

この年、彼はプロ野球史に残る「一球敗戦投手」という珍記録も残している。

5月29日の中日戦、リリーフで登板した初球を杉山悟にサヨナラ本塁打され、

プロ野球史上初の「一球敗戦投手」になった。

 

 

また、1949年4月26日の対大映戦(金沢兼六園球場)では、

投手でありながら打撃でも大暴れ。

8被本塁打、13失点をしながら

3本塁打を含む4安打9打点という離れ業を演じ、

自ら5勝目を完投勝利を収めるという「投打で一人舞台」とも言える試合を演じた。

1試合被本塁打8本は現在もプロ野球記録だ。

 

 

 

1949年シーズン終了後、

川崎は新設チーム・西鉄クリッパース(後の西鉄ライオンズ)へ移籍する。

ここでもエース格として重責を担い、チームの成長に貢献。

とくに1953年には24勝8敗、防御率1.98という堂々たる成績を収め、

パ・リーグ最優秀防御率とベストナイン(投手部門)を受賞した。

この年は肘の不調が回復、新たにナックルボール使い

緩急の差でベテランの味を出した。

 

晩年、チームが若手中心に生まれ変わる中で、川崎はコーチ兼任選手となり、

稲尾和久ら若手の指導にも尽力。1957年、静かに現役生活に幕を下ろした。

プロ通算188勝156敗、防御率2.53という堂々たる数字を残しての引退だった。

 

引退後は西鉄ライオンズの監督に就任。

現役時代同様、チームの礎を築きながら、後進の育成に心血を注いだ。

また、解説者や飲食店経営者としても活動し、野球界に広く貢献。

 

西鉄ライオンズでは主将を務め、1951年三原監督を招聘を提案して、

三原監督実現のために動いた。


2006年4月25日、84歳でその生涯を閉じた。

 

テンポの良いピッチング、打撃でも見せた勝負強さ、

そして数々の名勝負と珍記録。

川崎徳次は、戦前から戦後にかけての日本プロ野球を支えた、

まさに「職人型」投手の代表格だった。

 

川崎徳次は戦争が無ければ200勝を越えた実力と、

頼まれれば、粋を感じて動き、

戦後の巨人でもエース級の活躍をし、

西鉄ライオンズを成長させるための運営をこなし、

巨人、西鉄と常勝球団を作った、功労者にも関わらず

野球殿堂入りしていないのは、不思議でならない。

 

投手成績

 

打撃成績

 

 

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浜崎 真二

1901(明治34)年12月10日~1981(昭和56)年5月6日

広島県呉市出身

左投左打

 

5月6日は浜崎真二の命日です。

 

 

広島県呉市は戦艦大和を製造した海軍の街のため、

戦前は軍港として栄え、そこから、スポールも盛んとなり

野球に関しても浜崎の後に、藤村冨美男や鶴岡一人も輩出している。

 

浜崎はスポーツ文化都市、呉で野球を始めた。

旧制広島商業では甲子園に出場したが、

悪友と学校をさぼったりした事で中退し、呉海軍工廠に半年間就職のあと、

悪友と一緒に神戸商業に入学した。

そこで、野球の才能が開花し、左腕エースで4番という位置で

甲子園大会に出場したものの、和歌山商業に破れしたが

準優勝を飾り、1922年関西のクラブチーム「ダイヤモンド倶楽部」に所属し、

日本最初のプロ野球チーム「芝浦協会」を相手に永井武夫投手とふたりで

完封に抑えた。1923年慶応義塾大学に入学、すぐに主戦選手として活躍。

 

1927(昭和2)年、早慶戦が復活しても早稲田に勝てなかった慶應だったが、

この年、浜崎が2試合連続で完封して早稲田を倒し、

慶応黄金時代の足掛かりを作った。

 

そして、1931(昭和6)年、1934(昭和9)年のアメリカ大リーグ選抜との

日本チーム選抜に選ばれ、ルー・ゲーリッグ、ベーブ・ルースと対戦した。

 

日米野球のあと、中国満州へ渡り、満州映画に入社。

満州映画内のスポーツ振興の仕事をしていたが終戦。

1947(昭和22)年日本に引き揚げてきた。

 

後楽園球場で野球観戦をしていた浜崎に

偶然、阪急球団社長の村上実に声を掛けられ、阪急に入団。

投手兼監督として1947年6月23日に西村正夫の後任として付いた。

 

阪急監督として1947年から1953年までの7年間で

最高勝率は1947年の.526.最高順位は1949年の2位だった。

1950(昭和25)年のセ・パ分立の時は、選手の引き抜き合戦では

選手引き抜きに失敗し、逆に主力選手が移籍し苦しんだ。

そして、1953年優勝を責任を取り阪急監督を辞任した。

 

しかし、永田雅一パ・リーグ総裁よる、8球団化構想により

新球団、高橋ユニオンズ監督に就任。

他球団から均等に選手を供給してくれる話を信じて引き受けたが

始まると、球団としては扱いにくいベテランや未知数の選手ばかりで

浜崎監督は落胆したらしい。

 

それでも、1954年のシーズンは最下位の下馬評の中

8球団中6位と健闘した。

しかし、1955(昭和30)年トンボユニオンズとしてスタートしたシーズンは

35勝89敗、勝率.282と最下位となり悲惨な成績だった。

そんな、笛吹けど踊らずに嫌気がさしたのか?

次第に指揮官としての情熱を失い、現場放棄もあった。

その中で、スタルヒン投手の300勝達成させることが

浜崎監督のモチベーションとなった。

 

 

1955年9月4日対大映戦でスタルヒン投手が300勝を達成し

安心したのかシーズン途中、9月19日に退任した。

 

スタルヒン投手の300勝達成記念写真

後列右が浜崎真二

 

野球評論家、臨時コーチをしながらの年月が続いたが、

1963(昭和38)年国鉄スワローズ監督に就任。

これは、国鉄に資本参加として産経新聞社が参加したが

不穏な雰囲気を払拭するために呼ばれ、

前監督砂押邦信がコーチとやりづらいところを

金田正一、豊田泰光、宮本敏雄、飯田徳治などの

個性は選手をまとめ。最下位から4位に上げ

打撃向上に努めたが、国鉄監督は1963年の1年で辞任した。

 

 

現場を離れてから、歯に衣着せぬ物言いから

「球界のご意見番」「球界彦三」と言われ人気を博した。

 

浜崎真二で今も語られるのは、

プロ野球選手としては身長が低いという話だ。

公称 156センチとなっているが、本当は150センチギリギリだったとか、

それ以下かもしれない。との伝説があったが、

小さな体で左腕エースとして活躍し、日米野球にも出場したことで

才能にあふれた野球人であったのだろう。

 

また、1947年に阪急に入団した時は45歳ということで

日本プロ野球選手史上最年長入団の記録を今も保持している。

そして、1950年5月7日阪急対東急4回戦に2番手投手として登板

2.2回を投げ、阪急が逆転したため勝利投手となった。

この時は48歳10か月での勝利投手は長く日本記録であったが、

2012年4月に山本昌投手(中日)が49歳0か月で64年間記録だった。

(現在はパ・リーグ記録)

 

1950年11月5日は毎日湯浅監督と「余興」という事で

シーズンの話題作りで先発 浜崎-湯浅で投げ合ったが敗戦投手となった。

当時としては大正時代から昭和初期の東京六大学野球で活躍した

名投手二人の投げ合いに、野球マニアにとっては

たまらない光景だったかもしれない。

 

晩年まで辛口評論と毒舌で、球界ご意見番として活躍

1978(昭和53)年に野球殿堂入りした。

 

浜崎真二監督成績

 

 

 

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田宮謙次郎

(たみや けんじろう、1928年2月11日 - 2010年5月5日)

茨城県下館市(現・筑西市)出身

左投左打、投手、外野手。

 

選手としての特徴

◎投手から打者へ転向、首位打者獲得

日本大学在学中は投打にわたって活躍。

1949年に大阪タイガース(現・阪神タイガース)に投手として入団し、

1年目には11勝を挙げるなど活躍した。

 

1950年3月16日の対国鉄スワローズ戦では

9回二死まで1人の走者も出さなかったが、

27人目の打者の中村栄の打球が藤村富美男の判断ミスにより内野安打となり、

日本初の完全試合どころかノーヒットノーランも逃す結果となってしまった。

投手としてはこの「完全試合未遂」が最後の勝利となった。

 

そして、肩を痛めたこともあり、4年目の1952年に打者へ転向。

打者に転向後、その才能を開花させた。

俊足巧打の外野手として頭角を現し、

1958年には打率.320でセ・リーグ首位打者を獲得。

長嶋茂雄(打率.305 2位)の三冠王を阻止した。

 

「ミサイル打線」の一角として活躍

1959年には10年選手制度を利用して

毎日大映オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)へ移籍。

阪神から大毎への移籍は、阪神のお家騒動のひとつかもしれないが、

10年選手に対する、阪神の姿勢に不信感を持ち移籍が決定した。

当初、近鉄に移籍と言われていたが、大毎のスカウト青木一三の強い勧誘もあり

東京出身でもあったため、大毎に移籍した。

 

そして「ミサイル打線」と呼ばれた強力打線の一角を担い、

リーグ2位の.317を打ち、1960年にはリーグ優勝に貢献した。

日本シリーズでは第3戦から4番を打ち、敢闘選手賞を受賞した。

 

 

高いアベレージと選球眼

1961年にリーグ3位の.328

1962年も打率.308を残したが。

しかし、1963年本堂保次監督から冷遇され引退。

 

現役15年間で7度の3割打率を記録。

1488試合、4807打数1427安打 642得点

通算打率.297、106本塁打、597打点の成績を残した。

また、選球眼にも優れ、多くの四球を選び、阪神時代は3.5番

大毎時代は1.2番を打ち器用な打者でもあった。

 

引退後は、中日ドラゴンズ、東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)で

コーチ・監督を歴任。また、野球解説者としても活躍した。

故郷の下館市(現・筑西市)では市議会議員を1期務めた。

2002年には野球殿堂入り。

 

田宮謙次郎は、投手としての才能も持ちながら、

打者に転向して首位打者を獲得するなど、

非凡な野球センスを発揮した名選手として今も顕彰されている。

歯に衣着せぬ率直な物言いも、解説者として人気を博した。

 

阪神タイガースのOB会会長や、野球大会を主催するなど

野球文化のために積極的に動いていたことは忘れてはいけない。

 

2010年5月5日、82歳没。

 

打撃通算成績

投手通算成績

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野球というスポーツが日本にやってきたのは

いつ頃でしょうか?

 

アメリカからベースボールが渡来したのは明治5年(1872年)頃

現在の東大の前身のさらに前身開成学校で

はじめて行われたといわれています。

 

(詳細割愛)

 

 

今では老若男女ベースボールというより当たり前のように

 

野球

 

というと思われますが、いつごろから「野球」という訳語が現れたのか?

 

それは中馬 庚(ちゅうま かなえ)という人物が

1894年にベースボールの教則本を

執筆中にBall in the fieldというフレーズをもとに訳したものです。

 

 

もちろん、日本の野球殿堂入りしています。↓

 

 

 

 

その後、時間はかかりましたが、

今では「野球」というのは当たり前のように使われています。

では、その前はどのような訳語を使っていたのでしょうか?

 

1885年(明治18年)3月に発売された

『西洋戸外遊戯法』には

 

 打球鬼ごっこ

 

と、なんとも微妙な訳名で登場しています。

それ以前にはベースを直訳して「塁球」というのもありました。

他にも「基球」「玉遊び」なども現れましたがすぐ消えたみたいです。

 

「打球鬼ごっこ」は確かにニュアンス的はわかるけど、

明治の硬派な時代に「可愛すぎる!」という理由で浸透はせず、

ベースボール略して地方では「ボール」と呼ばれていたそうです。

東海から関西にかけては「ベース」といっていました。

 

マクドナルドをマックというかマクドと言うかの違いみたいなもでしょうか?

 

その後、明治27年ごろの新聞には「庭球」という訳語での記事もあります。

ちなみにテニスを「基球」と呼んでいる。

また、当時のエリート学校「三高」(現京都大学の前身)では

三角形の底辺(BASE)からとって

「底球」と呼んでいたらしいが、全国的な広がりにはならなかったらしい。

そこで、「野球」なんですが、その訳語を命名したときのエピソードがあります。

これは、明治の名投手

 

青井鉞男  (あおい よきお)の回想です

 

 

 

それは明治27年の秋、

練習の鬼であった青井投手が一校宿舎の片隅で

得意の「千本振り」をやっていると中馬が息を弾ませやってきて

「青井!よい訳を見つけたぞ!! 

     -Ball In the Field-野球でどうだ!!!」

これはまさにイメージぴったり!とうことで回りにいた選手も賛成で

これで、ベースボールの訳語「野球」が決まった。と言うことを

青井投手が生前言っていた話しだそうです。

 

ということで『野球』と言うタイトルで教則本が発表され、

ファーストベースも1塁、セカンドベースも2塁・・と発表されました。

一方で、野球と言う言葉の名付け親は

俳人であり、近代文学に多大な影響を与え続けている

正岡 子規がつけた!という説もありましたが、

今では否定されています。

 

正岡 子規 も野球殿堂入りしています。↓

 

 

 

とにかく、中馬 

「この訳語は俺の中でもストライクだ!絶対いける!」と思ったのでしょう。

無事出版され、今では野球以外の訳語を考えられない感じがします。

 

 

中馬 庚は鹿児島出身です。

明治の野球振興に活躍し、

その後1906年(明治39年)故郷の鹿児島第二中学校の教頭に就任、

1909年(明治42年)新潟県糸魚川中学校校長に就任、

次いで新潟、大館、徳島の校長を歴任、

1917年(大正6年)教職を離れ、1932年(昭和7年)に逝去。

 

校長時代は生徒にかなり尊敬されていた人物で、

数多く逸話が残っているそうです。

しかし、世渡りはあまり上手でなく、鹿児島人が言うところの

「ぼっけもん」というキャラクターだったそうです。

 




 

 

参考文献:日本野球創世記 君島一郎著 ベースボールマガジン社刊

 

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昭和には野球の記録の本が

児童書にもなっていた。

そんな、記録の本で、すごい記録として

イラスト入りで紹介されたものを紹介します。

 

1971年のロッテオリオンズは、前年10年ぶりのリーグ優勝をし、

この年も江藤慎一も首位打者を獲得する好調さで、

4月は7勝7敗と5割の成績だったが、5月1日、2日と不調東映相手に

2連勝しスタートダッシュの遅れを取り返していた。

 

一方、東映フライヤーズは4月を2勝12敗と悲惨な戦い、

前日まで9連敗と元気がない。もちろん最下位独走中だ。

そして迎えた5月3日。

 

そんな東映にとっても容赦ない、

8回が終わって6対1でロッテがだいぶ有利、

10連敗は目前と、大多数のファンは思っていただろう。

東映の田宮謙次郎監督は40代前半なのに、チームの不調に

白髪も増えてきた様子だった。

 

しかし、野球は何が起こるかわからない。

 

9回表、東映は大杉勝男のソロ本塁打を打ち4点差、

しかし、すでにツーアウト!10連敗は目前。

だが、ロッテ側に小さな綻びが生まれる。

ツーアウトランナー無しで安打と四球で一、二塁、

代打、末永のショートゴロで万事休す!

と誰もが思った瞬間、ショート広瀬から

山崎二塁手に送球、しかし、ここで山崎が捕球ミス。、

しかし、アウトの判定。

すぐに東映ベンチの抗議があり、ロッテベンチは引き下がった

東映が連敗中とロッテが早く試合を終わらせたかったからかわからないが

試合は続き、なんと、二者連続ヒットとエラーなどで5点を入れ、

6対6の同点になった。
9回裏ロッテはあっさり無得点。

何となく、ロッテベンチは嫌な気分になっただろう。

東映ベンチは「今日は違うかも」と思ったかもしれない。

 

そして、10回表、東映の攻撃。

9回の勢いを見せ、ツーアウト満塁まで攻める!攻める!

ここで、9番投手皆川に代わって、唯一ベンチに残っていた

作道烝(さくどう・すすむ)を代打に起用。

いつもより、気合を入れた作道は甘く入ったインコースを

見事にスタンドに入れた満塁本塁打を放った。

10対6と逆転した。

 

こうなると、東映強力打線はイケイケで調子に乗った。

つづく、1番大下剛史がレフトへ2号ソロ本塁打、

2番大橋穰がやはりレフトへ5号ソロ!そして、3番張本勲が狙って6号ソロ、

最後は4番大杉勝男が9回に続き2本目の6号ソロ本塁打で

8点を入れる猛攻!!

決して広くはない東京スタジアムとはいえ、乗った打線の凄さを観客は見た。

 

10回裏ロッテは2点を獲ったものの、焼け石に水状態。

江藤慎一は3本の本塁打を打ったが、目立たなくなってしまった。

10回表の5者連続本塁打は今も日本記録として残っている。

この試合は両チームで12本塁打となった。

 

しかし、9回表の失策が無ければ

こんな壮大な逆転劇とドラマは見られなかったでしょう。

野球の面白さと怖さを見えてくれた試合でした。

 

 

 

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1995年5月2日野茂英雄投手のMLBデビューした。

これは単なる「一選手の移籍」ではなく、

日本の野球界が鎖国を解いたような、歴史的な転換点だった。

 

野茂はなぜ、どのような経緯で
1995年5月2日のマウンドに立つことになったのだろうか?

改めて振り返ってみる。

 

 

 

■  近鉄バファローズでの栄光と「壁」

 

1990年、8球団競合の末に近鉄に入団した野茂英雄は、
1年目から最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率のタイトルを独占し、
沢村賞とMVPに輝くという衝撃的なデビューを飾った。

しかし、4年連続最多勝という圧倒的な実績の一方で、
チーム内では摩擦が生じていた。
特に1993年に就任した鈴木啓示監督との確執は有名だ。
「トルネード投法」という独特のフォームを修正しようとする指導陣や、
過酷な投げ込みを美徳とする調整法に対し、
独自の理論を持つ野茂投手は強く反発。
1994年には肩の故障もあり、球団との溝は決定的なものとなった。

 

■ 制度の盲点を突いた「任意引退」

当時の日本球界には、現在のようなポスティングシステムや
自由なFA移籍の権利(当時は10年必要)はなかった。
海外移籍など「夢のまた夢」とされていた時代でもあった。

ここで野茂投手と代理人のドン・野村氏が繰り出したのが、
「任意引退」というウルトラCだった。

  • 仕組み: 日本で任意引退すれば、国内の他球団ではプレーできないが、
    「海外球団との契約を禁止する規約がない」という制度の盲点を突いた。

この強行突破に対し、当時の日本球界やメディアは
「わがまま」「裏切り者」と猛烈にバッシングしまくった。
しかし野茂は「もし通用しなかったら、

二度と日本の土は踏まない」というほどの覚悟だった。

■ 背水の陣と「マイナー契約」

1995年2月、ロサンゼルス・ドジャースとの契約が発表された。
しかし、その条件は驚くべきものでした。

  • 年俸: 近鉄時代の1億4000万円から、わずか980万円へ激減。

  • 立場: マイナー契約からのスタート。

当時はMLB史上最長のストライキが続いており、
シーズン開幕も危ぶまれる不安定な状況だった。
そんな中、彼は名門ドジャースのキャンプで黙々と投げ続け、
実力で開幕ロースター(メジャー枠)を勝ち取った。

■ 1995年5月2日、野茂英雄、衝撃のデビュー!

そして迎えた1995年5月2日(日本時間3日)。

サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行われたジャイアンツ戦で、
野茂英雄はついにメジャー初登板を果たした。

  • 投球内容: 5回 1安打 無失点 7奪三振。

  • 衝撃: 全米が初めて目にする「トルネード投法」に、
    現地のファンや打者は度肝を抜かれた。

この試合に勝敗はつきませんでしたが、野茂投手の快投は、
ストライキで野球離れが進んでいたアメリカのファンを呼び戻すきっかけ(NOMOマニア)となり、
同時に「日本人選手はメジャーで通用しない」という偏見を粉々に打ち砕いた。

 

もし野茂投手がこの日、打ち込まれていたら、
その後のイチローや大谷翔平の活躍はもっと先の話になっていたかもしれない。
野茂投手のデビューは、日本のプロ野球選手に「世界」という選択肢を物理的に、
そして精神的に与えた瞬間だったのだ。

 

昭和の野球を引きずっていた

プロ野球経営陣、指導者、メディアにも大きな影響を与え、

2004年球界再編への流れも、野茂英雄がMLBで成功したことで

日本プロ野球を激変したことになったかもしれない。

 

2014年野茂英雄は野球殿堂入りした。

 

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1916年5月1日が誕生日の

ヴィクトル・スタルヒン投手です。

 

1916年5月1日~1957年1月12日

ロシア帝国出身

右投右打、投手。

 

30勝以上を2回記録したスタルヒン投手は

1939(昭和14)年に42勝15敗 防御率1.73

1940(昭和15)年に39勝12敗 防御率0.97

 

2年間で81勝!!

1939年にはシーズン42勝は稲尾投手と並び日本最高記録だ。 

通算完封数83も日本記録で、ともに、神の領域といえるような記録だ。

 

 

 

大映スターズ時代のスタルヒン(古書ビブリオ提供) 

 

戦前は澤村栄治投手とともに ベーブ・ルースを

中心とした全米選抜チームと対戦し、 

その後東京ジャイアンツ創設時から活躍した。 

 

戦前の巨人軍での活躍は、澤村栄治が兵役に取られた後から

 超人的な活躍で大いに貢献し、 

1936年から1944年の短期間で199勝を記録した。 

 

 1916年5月1日にロシアで生まれ、親族に王族がいたため 革命軍に迫害され、

1925年家族とともに日本へ亡命。 

北海道旭川で無国籍白系ロシア人として生活していくことになった。 

旧制中学野球では早くも豪腕投手として名を広めたが、 

父親がおこしてしまった殺人事件で、大学進学をあきらめた。 

 

1934年の全米選抜チームと戦うために、中学を中退して上京。 

その裏には無国籍状態、父親の犯罪歴をたてに恫喝され 

巨人軍発足にも参加せざる得ない状況だったとも言われている。 

 

プロ野球では華麗なる活躍で人気を博したが、 

戦時中は『須田博』と登録名を変えさせられ、

プライベートでは苦渋をなめていた。

その須田博の名前で1940年のシーズンは39勝で最多勝のタイトル獲った。

 

戦争末期には軽井沢で「敵性国民」として軽井沢に軟禁される。

 

 戦後、進駐軍の通訳として働いていたところ 偶然、

巨人時代の監督藤本定義と出会い 

プロ野球(パシフィック球団)に復帰した。 

通訳といっても、日本で育っていたため英語は話せなかったらしい。 

 

戦後の活躍は、戦前の剛速球と違い 技術を使いかわすピッチングで

トンボユニオンズに在籍した 1955年を最後に引退。 

 

通算303勝176敗 防御率2.09 完封数83の素晴らしい記録を残した。 

しかし、引退後1年と少しの1957年1月12日、 

自ら運転しているところ 東急玉川線と激突、交通事故で亡くなった。

その死には、いまだ不可解な点があり、

 事故なのか、自殺なのか謎が残っている。 

生涯無国籍だった。

 

 野球で生活を支え、野球しかなかったスタルヒンには 

野球のない人生設計に対して、

落としどころが出来なかったかもしれない。 

 

1960年野球殿堂競技者、最初の表彰者でもある。 

スタルヒンのあまりにも早い死は、

プロ野球選手のセカンドキャリア問題に対して、

考える歴史のひとつだと思ってしまう。

 

戦前、戦中、戦後と時代に翻弄されたスタルヒンだが、

日本にプロ野球がある限り

澤村栄治とともに伝説の選手として顕彰続けられる選手だろう。

 

 

  

トンボ時代のスタルヒン投手のユニフォーム他

 

ヴィクトル・スタルヒン投手成績

 

ヴィクトル・スタルヒン打撃成績

 

 

 

 

 

 

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      写真協力:古書ビブリオ

 

1992(平成4)年4月30日に

突然その訃報が入ってきた。

 

あの、大杉勝男が亡くなったのだった。

プロ野球ニュースで流れたその訃報は今も鮮明に残っている。

 

 

大杉勝男

1945年3月5日~1992年4月30日

岡山県に生まれる。

右投右打、一塁手。

 

兄に憧れ、野球を始めたが、その兄は白血病で亡くなった。

その後、関西高校に入学し甲子園を目指したものの、

経済的な理由で軟式野球に転向。

高校卒業後は「丸井」の野球部に入り、都市対抗野球で活躍するものの解散。

その丸井の監督だった先輩の助言で、東映フライヤーズ入団テストを受け、

テストでは力を発揮できなかったが、当時のコーチ藤村冨美男が水原監督に

「東映が獲らないのなら、阪神に推薦する」という言葉に

水原監督が入団を認めた。

 

3年目に飯島滋弥コーチから

「月に向かって打て」という伝説的な助言により打撃開眼。

1967(昭和42)年にフル出場する活躍を見せた。

その後は本塁打王、打点王のタイトルを各2回獲得。

1970(昭和45)年の15犠飛は今も日本記録だ。

 

東映は日拓、そして日本ハムにオーナー会社が変わり

東映色を払拭するために1975(昭和50)年、セ・リーグのヤクルトスワローズに移籍。

1978(昭和53)年のヤクルト初優勝に大きく貢献し、

阪急との日本シリーズでは第7戦足立投手から打った本塁打を

当時の上田監督が「ファールだ!」と執拗に抗議し、1時間19分も中断した。

結局は本塁打となったものの、大杉はその中断に怒り、

8回裏山田久志投手から文句なしの本塁打を放った。

 

見かけは武骨な感じで、短気だったのか、

グランド上で乱闘の有名な武勇伝もあった。

 

しかし、その武勇伝の割に愛嬌があり、自直な性格、

どこか憎めない個性があった。

当時の一流選手の中でもファンをとても大事にしたエピソードも数ある。

1983(昭和58)年6月10日、史上初の両リーグ1000本安打を達成。

8月8日には両リーグ1000試合も達成。

 

両リーグ200本塁打も残り1本に迫ったが、

持病の不整脈の悪化、夫人の入院などもあり

1983年限りで引退。

最後のシーズンも21本も本塁打を打ち、余力を残した感じだった。

 

「最後に、わがまま気ままなお願いですが、

あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、

この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、

これにすぐる喜びはございません

という名言を引退試合に残した。

 

しかし、大杉としては引退するつもりはなかったが、

当時の武上監督との確執があり、ヤクルトでの現役生活を

断念せざる得なかったという裏話もある。

 

 

 

引退後はフジテレビの「プロ野球ニュース」で解説者として

愛嬌のある解説で人気を博した。

1990(平成)2年、横浜大洋ホエールズに打撃コーチに就任。

しかし、翌年癌が見つかり退団した。

 

そして、1992年4月30日に死去

47歳という若すぎる死だった。

 

当時のプロ野球ニュースで訃報のニュースを

司会の中井美穂と解説の大矢明彦が号泣しながら

伝えていたのを今も憶えている。

 

みんなに愛される強打者だった。

 

 

大杉勝男マルチヒット・猛打賞リスト

 

 

大杉勝男は誰と本塁打を打ったか!?

 

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