2017年12月に野球雲10号で「松竹ロビンス」の特集をしました。

これは、野球雲に執筆して頂いた、堤 哲さんから

「編集長、松竹ロビンスの田村駒治郎氏に会う?」の一言から始まりました。

 

そして、2017年のある夏の日に、野球殿堂博物館で田村駒次郎氏から

現在の田村駒治郎というお名前は3代目で、、

プロ野球のオーナーだったのは父親でもある2代目田村駒治郎ということ。

戦後の法律では、本名の世襲の難しさも聞きながらも、

戦前、戦中、戦後と球団を運営する厳しさでした。

毎年、経費が掛かり、野球が好きでないとオーナーにはなれないことなど、

聞く話、全てが驚きの連続でした。

 

そこで、見せて頂いた写真や資料の凄さに気持ちが高ぶり、

脈拍が上がっていくのがよく分かりました。

 

大東京~ライオン~朝日の選手の写真を見せてもらい

その中に『林安夫』投手の写真が出てきたときには

「林安夫って男前だな~」「思っていたより華奢な身体だ」と思いながらも

年間投球回数541.1回を投げた投手なんだ!としみじみ見てしまった。

 

 

プロ野球の投手記録の世界では必ず話題になる林安夫を知ることは

巨人、阪神、中日など今も残る球団と比べてかなり資料が少なく

特に戦前に消えた球団の選手の写真もかなり少なくめげてしまいます。

野球の歴史の本でも、消えた球団の話はあまり紹介されません。

その上、戦前の泡沫球団は、いつも同じ写真でしか見られなかった。

 

林安夫も記録では語られていても、どのような選手だったのか?

どのような略歴だったのか?も21世紀にはほとんど見られなくなった。

 

そんな、ぼんやりした状態で、クリアな林安夫投手の写真を見た時は

「本当にいた人なんだ」と分けのわからない気持ちにもなりました。

 

林安夫投手の写真をみて、あらためて「松竹ロビンス」特集をやる意義に

拍車がかかったのでした。

 

4月3日は戦火に消えた、年間541.1回を投げた林安夫(朝日軍)の誕生日

 

 

今、野球雲は止まっていますが、

戦前の選手の写真を見たことで、埋れた歴史を何とか発掘したい

そして、改めて顕彰していきたい。という思いは消えていません。

 

写真のノートは

戦地に向かう前、朝日軍のオーナー田村駒治郎夫人に

決意文を書いたものです。

日付は昭和18年11月23日。

胸が締め付けられる思いです。

 

林安夫投手の生きてきた証は、令和の世でも

野球雲の中で生きています。

 

そして、戦争とい大災難の中で

必死に野球をプレーし、今も記録と記憶に生きている

戦前の野球人を掘り起こしたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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横浜DeNAベイスターズの

2021年からの監督に三浦大輔氏が就任しました。

生え抜きの投手としては

秋山登さん以来ということで期待されましたが、

2021年度の成績は最下位に沈んでしまいました。

来期に期待を込めて

あらためて秋山登投手のご紹介をいたします。

 

秋山 登 投手

1934(昭和9)年2月3日~2000(平成12)年8月12日

右投右打 岡山県岡山市出身

 

 

1951(昭和26)年夏の甲子園大会に岡山東高校の投手として出場

中西太にに本塁打を打たれ、高松一高に破れた。

明治大学に進学し島岡監督のもと、戦後初の優勝を含め3度の優勝に貢献

1954(昭和29)年には東大戦において22奪三振を奪った。

大学通算33勝18敗を残し、1956(昭和31)年に大洋ホエールズに入団。

この時に明大五人衆として5人大洋に入団。その一人が

バッテリーを組んだ土井淳だ。

 

1956(昭和31)年の1年目に

58試合、26完投、25勝25敗、379.2回 防御率2.39で新人王を獲得した。

完投数、敗戦数、投球回数、対戦打者、打数、被安打、四死球、失点、自責点は

セ・リーグ1位の記録だった。

 

1957(昭和32)年は65試合、40先発、27完投、

24勝27敗、406.0回、312奪三振、防御率2.50と400回越えの成績を残し、

 

1958、59年も投球回数300回以上を投げた。

そして、勝敗も17勝23敗、14勝22敗と4年連続20敗以上の敗戦数を記録。

 

酷使酷使されても報われないような数字だが、

秋山が入団した1956年から1959年までの大洋は4年連続最下位(6位)

 

                           秋山の勝敗を抜いた場合

1956年 130試合43勝87敗6分 .3308   18勝62敗 .225

1957年 130試合52勝74敗4分 .4154   28勝47敗 .373

1958年 130試合51勝73敗6分 .4154   34勝50敗 .425

1959年 130試合49勝77敗4分 .3923   35勝55敗 .388

 

と秋山投手が加入しても総合力が悲惨な状況だった。しかし、

1954年が32勝96敗2分 勝率.2500、

1955年は31勝99敗0分 勝率  .2385 と

2割台で超最弱の成績から1割以上上げたのは秋山投手のおかげだろう。

 

1955(昭和30)年大洋ホーエルズは最弱か?球団最少得点を考える。

 

細身の体ながら、酷使されたがここまで投げられたのは

鋼のような筋肉質でしなやか動きが出来たらしい。

同時期の杉浦忠(南海)と同じような下手投げに思われるが

杉浦投手は手首をあげ、秋山投手は手首を寝かせたフォームだった。

 

速球もさることながら、カミソリシュートと呼ばれるシュートボールで

内角に切り込んでくる変化球が大きな武器だった。

 

1960(昭和35)年、三原修監督のもと

大洋ホエールズは初優勝し、先発、リリーフに活躍

21勝10敗と大きく勝ち越し、防御率1.75で防御率1位のタイトルを取った。

そして、唯一のMVPとベストナインにも選ばれる。

 

最下位で苦しんだ大洋ホエールズが闘将三原脩を監督で優勝した日

 

1961(昭和36)年以降は完投数も減り、ロングリリーフとして

大洋ホエールズのAクラス入りに貢献し、1962(昭和37)年には

キャリアハイの26勝12敗で阪神と優勝争いをした。

 

しかし、さすがの秋山も長い間の酷使がたたり

1967(昭和42)年引退した。

 

通算193勝171敗 200勝まで7勝、

2993.0回と3000回まであと7回と惜しい記録だったが、

もっと強い球団だったら250勝はいったかもしれないと思われる。

しかし、大洋ホエールズに入団したからこそ193勝まで行ったかもしれない。

そこは、よく判らないが、2004年に野球殿堂りしたことで

野球史に大きな足跡を評価されたが、やはり亡くなってからの

殿堂入りは残念でならない。

 

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内村祐之 (一高)

1897年11月12日-1980年9月17日

東京都出身

 

思想家内村鑑三の子供として誕生、一高に進み

早慶野球に遅れを取っていた明治時代の強豪一高を

再び大正時代に復活させた豪腕左腕投手。

 

1918(大正7)年に内村を擁した一高は久しぶりに黄金時代を向かえ、

同年、三高を倒しいよいよ早慶戦に挑み、

明治39年以来、どちらかに勝っても、どちらかに負けていた状態を打破、

春の慶応戦では17奪三振の好投で勝利し早慶を破った。

 

上段左から二人目が内村投手(一高)

 

その後は大学教授、病院長も兼任し医学界へも貢献した。

大正五大投手の一人。

 

1962(昭和37)年第3代プロ野球コミッショナーに就任して、

各球団のオーナーたちに「もの言うコミッショナー」として活躍、

しかし、各球団の自己繁栄しか考えないやり方に絶望したといわれている。

また、野球関連書の翻訳にも腕をふるい野球文化の発展にも貢献した。

 

「野球王タイカップ自伝」「大リーグ生活66年コニーマック自伝」など

古の野球人の伝記翻訳は多くの野球趣味人に影響を与えた。

 

(コミッショナー時代の内村祐之)

 

学生時代から野球界に貢献し、コミッショナーにもなったが

プロ野球界に絶望、絶縁し、かたくなに野球殿堂入りを拒んだ。

 

没後1983年特別表彰で野球殿堂入りした。

 

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渡辺大陸 (明治大学)

1901年7月8日-1955年12月11日

右投右打 兵庫県出身

 

 

1920(大正9)年、明治大学に入学後、剛速球投手として活躍。

しかし球は速いがコントロールが悪く四死球が多い投手であったが、

出来のよい日は三振の山を築く怪投手振りを発揮した。

渡辺大陸が投手になって、悲願の早稲田、慶応に勝ち越したが

法政に負け越し、優勝にはならなかった。

 

その後入学手続きの不備で進級問題が起こり、

1923(大正12)年6月に急遽退学した。

(21世紀の現代なら大問題になっていたかも?)

渡辺大陸の後、マウンドを守ったのが湯浅禎夫だった。

 

1931(昭和6)年台北交通団で都市対抗野球準優勝に貢献し、

戦後は1950(昭和25)年に初代大洋ホエールズの監督として1年間のみ就任した。

監督としては1950年の1年だけだが、セ・リーグに加盟した

新球団のなかでは5位の最高位、

69勝68敗と唯一勝ち越した。

 

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大正時代の最強打者と言われている

井口新次郎氏は野球殿堂入りしているが、

21世紀なってからはあまり語られない伝説の野球人だ。

 

井口新次郎

 

1904年6月7日~1985年9月24日

和歌山県出身 

 

和歌山中学(現 桐蔭高校)の投手兼遊撃手。

大正10年(1921年)の第7回甲子園大会で優勝の中心となり、

その強さは1試合平均18点以上、

総得点数75のすさまじい破壊力を持ったチームであった。

井口も個人記録として持つ大会最多得点16得点が

夏の甲子園大会記録として現在も燦然と輝いている。

翌11年(1922年)の第8回大会では、主将で四番打者、

全試合完投の投手として優勝の立役者となる。

 

 

大正12年に早稲田大学に入学し、1年から不動の四番打者として活躍した。

同年春の早明第3回戦で、明大の名投手 湯浅禎夫は、

満塁時に井口に敬遠の四球策をとる。

この時のことは、大正12年「野球界」8月号に、

『・・・此際、四球で山崎(三塁走者)を送り出しても

 井口に四球を呈すると云ふことは策の得たるものであった。』と書かれている。

いかに井口が強打者であったかを物語るエピソードである。

卒業後は、学生野球のOBのスター選手を集めた大毎野球団で活躍し、

その後毎日新聞社に入社し、高校野球などに健筆をふるった。

平成10年に野球殿堂入り。

 

井口新次郎氏をインタビューからのエピソード

 

和歌山中学は、夏の甲子園第一回大会(大正10年)から

第14回大会まで連続出場した強豪チーム。

井口選手の在学した時代には、今では考えられないことだが、

新聞社が斡旋して、早大・慶大・法大・大毎などと対戦したり、

摂政宮(後の昭和天皇)が試合を観戦するようなチームだったという。

 

鳴尾球場での大会様子

 

大正10年第7回大会(鳴尾球場)のエピソードで

決勝戦の京都一商戦で京都一商のエース

竹内愛一投手が捻挫をしてしまったため

和歌山中に一日延期を申し出た。

 

当時の朝日新聞社は当事者同士での話し合いを持たせたが

和歌山中の矢部監督がはねつけたため、

延期されず、順当に決勝戦は行われた。

 

両校の監督が早稲田大学の先輩後輩の関係で決めたという、

草創期の大会ならではのエピソードだが

井口は

「あの時、試合延長をしていたら甲子園大会の前例が出来て、

 雨以外の延期もあったかもしれなかったね。」と語っている。

 

 和歌山中は進学校だったため、井口も

「神戸商高(現 神戸大)に行くはずだった・・・。

 神戸商高のナニかの具合悪かったというのを聞いたのは、4月の2日か3日・・・

 自分は一浪するつもりだったですよ・・・ところが親父がね、

『お前、東京の早稲田に行けや』というわけで・・・」   

 

こうして、早大の強打者 井口が誕生する。1年でレギュラー入りし、

2試合目からは4番打者に抜擢されるという

プレッシャーについて尋ねられた井口は、

「いやー、憶えていないねぇ。しかし、憶えてないがね、

学校へ行って練習やってみてね・・・

こいつはおれより上やなぁ、と感じたのは誰もいなかったなあ」と笑った。

実力とともに太めの体から滲み出る愛すべき人柄とで、

常に井口は観衆の人気者だったという。

 

打撃スタイルも豪快で大正15年に打った

六大学野球リーグ戦の63.64.65号目の

ホームランは当時の飛びにくいボールとしては

一人の選手が連続で打ったことで強打者の風格を見せている。

そのときのバットは275匁の重さのバットだったそうだ。

(275匁は1.03キロくらい)

 

井口は

「当時、プロ野球があったら、もっと練習したかもしれないなぁ。」と

 大学野球時代後期に目標が無くなった喪失感も言葉にしていた。

 

 

豪放磊落な性格は、年をとってからも変わらなかったらしい。

「博物館においでになった井口さんを駅までお送りしたのですが、

改札を抜けて一度も振り返ることなくホームへ向かわれました。

あの人らしいと思いましたよ。」と

館長はあこがれのスター選手だった井口のことを懐かしそうに語った。

 

 

   *インタビュー日:1981年6月25日  井口氏72歳

 

*船橋市にあった旧吉澤野球博物館には明治から昭和初期の学生野球で活躍した

名選手の肉声テープがあった。その中身は今では忘れられてしまった、

伝説の野球人が当時の野球スタイルや出来事を鮮明に語っている。

その、貴重なインタビューは当時の吉澤館長が丹念に収録したものだ。

博物館のコンテンツ制作を野球雲スタッフがお手伝いしたものを再掲いたします。

 

吉澤野球博物館資料展示室HP

 

生前、吉澤野球博物館館長 吉澤善吉氏は

「一番好きな選手は、井口新次郎でしたね」と

90歳過ぎた頃も懐かしく言われていた。

 

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竹内愛一 (明治大学)

1903-1972 京都府出身

 

大正11年~14年に活躍した投手。

 


(朝日軍監督時代の竹内愛一)

 

1921年京都一商で全国中等学校優勝大会で

最後体調不良のため惜しくも和歌山中学に破れ準優勝。

その後、早稲田大学に入学、谷口五郎の後のエースとして君臨。

1925(大正15)年19年ぶりの早慶戦復活試合の先発、完封試合をした。

 

大正五大投手の一人。1941(昭和16)年に朝日軍の監督としてプロ球界入り、

現在もプロ野球記録の1シーズン最高投球回数(541.1回)の保持者

林安夫投手をプロ野球の世界へ導き、大投手に育てた。

 

朝日軍の監督時代は、宿舎で着流しスタイルで

選手たちに酒の酌をさせたり、かなり自由奔放な野球人だった模様で、

プロ野球草創からから活躍し、日本初の1000本安打を達成した

坪内道則は自伝の中で、あまり良い印象の良くない監督のように読める。

 

戦後も活躍を期待された、中部日本軍の監督

幻のプロ野球球団東京カッブスの監督になるも

酒豪のためのトラブルから、選手たちから信頼を得られず

その才能を発揮できなかった。

その後は評論家として、野球雑誌等で健筆をふるっていた。

 

 

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湯浅禎夫 (明治大学)

(1902年10月2日-1958年1月5日)

右投右打 鳥取県米子市

 

 

1920(大正9)年米子中学から明治大学に入学、

渡辺大陸投手の控えとしていたが、渡辺が退学後、一気にエースに君臨。

1923(大正12)年の明治大学初優勝に大きく貢献し、

六大学リーグとなった1925(大正14)年にはノーヒット・ノーランを

2度記録するなど怒涛の活躍をした。

 

シーズン109奪三振は未だリーグ記録として残っっている。

宿敵シカゴ大学も2試合完封勝利を収めた。

小野三千麿、谷口五郎と並ぶ大正三大投手の一人。

 

その後、セミプロチーム「大毎球団」でも活躍し、

毎日新聞社で硬派な野球記事を書いていた。

戦後1950年パリーグ毎日オリオンズの総監督として、

リーグ優勝に導き、日本シリーズ最初の優勝監督となった。

 

(1951年右端が湯浅禎夫監督)
 

1952(昭和27)年に平和台事件の責任をとり辞任。

湯浅禎夫~平和台事件がすべての栄光から転落してしまった野球人

 

輝ける球歴にもかかわらず野球殿堂入りしていないのは、

この事件の影響が影を引いていると思われる。至極残念な事だ。

 

 

 

 

 

 

 

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新田恭一  (慶応義塾大学)

1898(明治31)年9月24日-1986(昭和61)年1月9日

広島県広島市出身

 

(松竹時代の新田恭一)
 

大正5年(1916),第2回全国中等学校優勝野球大会

(夏の甲子園大会。当時は、豊中球場で開催)に、

慶應普通部の右翼手・投手として出場し優勝。

 

翌6年(1917)には、エースピッチャーとして出場した。

大正7~12年(1918~1923)、慶応義塾大学では、

遊撃手以外のすべてのポジションをこなした稀にみる万能選手だった。

専門は投手で、コントロールに優れており、

打率も10シーズン平均.294の好打者であった。

当時は球界の麒麟児といわれた。

 

卒業後は、大毎野球団・都市対抗の東京倶楽部で活躍したり、

銀座でゴルフの洋品店を経営するなどした。

ゴルフでもアマチュア日本一になるなど多才。

当時の日本ではめずらしい野球、

ゴルフの技術に対して優秀な理論を持っていた。

 

戦後、下半身を使った打撃スイングを「新田理論」として

松竹ロビンスの打撃コーチとして、小鶴誠を強打者に育てた。

破壊力のある「水爆打線」の中核としたが、

「新田理論」で活躍した選手が腰を痛めることが増え、

次第に新田恭一の理論が日本野球界では廃れていった。

 

昭和6年(1931)の「ボーク事件」の審判団の一人で、

同じく審判であった三宅大輔と、

明大への通知の有無に関しての論争を繰り広げた。

 

大正9年(1920)シカゴ大学に慶大が日本チームとして

28回目の対戦で初めて勝利した時の投手だった。

そのときの凄さを晩年 

「ええ、日本の野球は向こうよりずーっと下でして、

偶然でしたけど、私がピッチャーで勝たして頂いて、

帰ってから提灯行列やって、銀座なんかが大変賑やかだったのを覚えております。」

と当時を振り返った。

 

大正時代の野球界では

頂点にいた選手のひとり。

戦後のプロ野球では、打撃理論の第一人者であり、

松竹ロビンス-松竹大洋ロビンスー読売ジャイアンツ-近鉄バッファローと

指導者の道も歩いたが、今は新田恭一の野球理論は傍流化しているため、

大正時代の実績をあわせれば、野球殿堂入りしてもいい野球人だが

今では忘れられた野球人でもある。

 

とても残念なことである。

 

 

新田恭一監修「野球の科学」岩波ブックレット

 

 

 

 

 

 

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■小野三千麿 (慶応義塾大学)    
  1897(明治30)年5月22日-1956(昭和31)年2月2日
 


大正6年(1917)、慶応義塾大学に入学。

一年生の時から投手として頭角を現し、

剛速球と懸架のドロップの変化球で安定した投球術で
大投手の風格を見せた。

当時、大投手内村を擁した一高に勝利した時には

投手として大いなる活躍をした。

卒業後、慶大 OB を中心としたクラブチームである「三田倶楽部」に所属し、

大正11年 ( 1922)年に来日した全米選抜チームに日本人初の勝利投手となった。

 

大正9(1920)年、日本運動協会と同時期に

大阪毎日新聞社が創った

セミプロ球団「大毎野球団」に所属し

大正14(1925)年に毎日新聞創刊1万5千号の記念行事として

渡米した野球団の選手として参加した。

その後、西日本やフィリピン、台湾、中国、韓国などを遠征したが

昭和4(1929)年3月に解散した。
 
その後、毎日新聞記者としては都市対抗野球などのアマチュア野球に貢献し、

大会で活躍したチーム、選手、指導者を「小野賞」として表彰され、

小野三千麿の名を後世に残している。

大正5大投手の1人。

 

 

1959(昭和34)年、特別表彰で野球殿堂入りした。

 

 

 

 

 

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 田中勝雄 (早稲田大学)

1898年7月1日-1995年3月2日

大阪府出身

 

右端が田中勝雄選手

 

大正5年(1916)、市岡中の左翼手として

全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)。

当時は豊中球場で開催)で準優勝。

 

選手が9名しかいなかったため、

決勝戦では急遽経験のないキャッチャーを務めた。

中学時代から、超中学球の強打者と言われていた。

大正7年(1918)早大に入学し、走攻守の三拍子そろった外野手として、

11年(1922)の秋まで活躍した。

 

在学中の通算打率は .371。

そのうち、大正8年(1919)春簿打率は.556

大正 9年(1920)春 .588

大正11年(1922)秋 .524で首位打者に輝いている。

 

放った本塁打は16本。

大正11年春には22試合に7本の本塁打を打った。

当時は、4大学~5大学リーグの時代であったため

東京六大学野球の記録にはならないが、

その並みはずれたパワーは「ベーブ・田中」と呼ばれ、

日本最初のホームランバッターとして名を上げた。

また、がっちりとした体型ながら、足も速かったという。

 

昭和12(1937)年~昭和14(1939)年には

早稲田大学野球部監督

1941(昭和16)年には職業野球朝日軍の代表理事を歴任した。

 

1985(昭和60)年 野球殿堂入り

 

船橋市吉澤野球博物館には

田中勝男さんのバットが展示してりました。

その重さは1.4キロと重量級だったそうです。

 

大正時代の野球情報は今の時代あまり取り上げられませんが、

昭和のプロ野球発足時の指導者、経営陣に深くかかわっている場合があり、

もっと、掘り起こさなければいけないと野球雲は考えています。

 

これからも地道に取り上げていく予定です。

 

 

 

 

 

 

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