野球雲が日本の野球を変えた100人の中に選んだひとりが

作曲家の古関裕而だ。

 

古関裕而 (こせきゆうじ)

(福島県出身、1909年8月11日~1989年8月18日)

 

1909年、古関裕而は福島県福島市で、

老舗呉服店の次男として生まれました。

幼い頃から音楽に非凡な才能を示し、

小学生の時にはハーモニカや蓄音機に夢中になります。

 

家業を継ぐために商業学校に進学するも、

音楽への情熱は冷めやらず、独学で作曲を学び始めた。

この頃、彼は教会でオルガンを弾くなどして、

西洋音楽の基礎を身につけていきます。

 

1929(昭和4)年、日本人として初めて国際的作曲コンクールに入選し、

それを機会に仙台から東京へ進出。ポピュラー音楽の世界へ飛び込んだ。

 

1930年、古関は日本コロンビア

(現在のコロムビアミュージックエンタテインメント)の専属作曲家となり、

本格的なキャリアをスタートさせる。

 

彼が最初にヒットを飛ばしたのは、

歌手の藤山一郎と組んだ「船頭可愛いや」でした。

これを皮切りに、数々の流行歌を世に送り出し、

作曲家としての地位を確固たるものにしていきます。

 

戦時中は、戦意高揚を目的とした軍歌も多数手がけました。

代表的なものに「露営の歌」「若鷲の歌」などがあり、

当時、兵士や国民の心を鼓舞する重要な役割を果たしました。

しかし、戦後、これらの曲が封印されたことに古関は苦悩したと言われています。

 

終戦後、古関裕而の音楽は、荒廃した日本に再び希望をもたらした。

彼の代表作である「長崎の鐘」(1949年)は、

原子爆弾の悲劇を乗り越え、平和を願う人々の心情を歌い上げ、

大ヒットとなり、ラジオドラマ「君の名は」の主題歌(1952年)は、

ラジオから流れるたびに街中の人々が聴き入ったという逸話が残るほど、

社会現象を巻き起こした。

 

多くの作品の中でも応援歌、行進曲は今もファンが多く、

早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶応義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、

プロ野球でも阪神タイガース「大阪(阪神)タイガースの歌/六甲おろし」、

読売ジャイアンツ「巨人軍の歌(闘魂込めて)」と

ライバル関係の応援歌は有名だ。

 

そして、決定的なのは、

全国高等学校野球選手権大会「栄冠は君に輝く」の大会歌は

多くの野球ファンが口ずさむ国民的歌曲だ。

また、東京オリンピックの「オリンピックマーチ」、

NHK「スポーツショー行進曲」なども

格調高いメロディーは一度は聴いた時あるものだろう。

音楽からスポーツの躍動感を教えてくれた偉大な作曲家だ。

 

 

1989年8月18日、脳梗塞のため聖マリアンナ医科大学病院で80歳で死去。

墓所は妻・金子(1980年没、享年68)と同じ神奈川県川崎市の春秋苑。

 

そして、2020年の春からNHK連続テレビ小説(朝ドラ)に

古関裕而の生涯をモデルにした「エール」が放映され、

再びその音楽と人生に光が当たったのでした。

 

2017年の夏以降、古関裕而さんの故郷などで

「野球殿堂」入りを応援する声が高まっていました。

そしてついに、2023年1月13日、

野球殿堂博物館が特別表彰部門での殿堂入りを発表された。

長年の功績が認められ、ファンにとって嬉しいニュースとなりました。

 

 

 

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野球の長い歴史の中で、

MLB公式戦のプレー中に負った傷が原因で死亡した選手は、

後にも先にもたった一人しかいない。

 

それはクリーブランド・インディアンス(現ガーディアンズ)の
遊撃手、レイ・チャップマン(Ray Chapman)です。

 

1920年8月16日、ポロ・グラウンズでの事故

事故が起きたのは、ニューヨークのアッパー・マンハッタンにあった
ポロ・グラウンズでのニューヨーク・ヤンキース戦で起こった。

 

5回表、インディアンスの攻撃で打席に入ったのがチャップマン。

対するヤンキースの投手は、アンダースローで知られたカール・メイズ。

メイズはシュート投手で、内角を突く強気な投球スタイルを持ち味としていた。
 

メイズが投じた球は打者の頭部近くへ投球した。
チャップマンはベース上に覆いかぶさるような前傾姿勢で構える癖があり、

さらに当時は夕暮れ時で視界が悪かったことに加え、

ボール自体が土やオイルで汚れていて見えにくくなっていた。

 

チャップマンは避ける動作を見せることができないまま、

ボールは彼の左耳の上、こめかみ付近を直撃した。

 

鈍い打球音が場内に響き渡り、

メイズ投手は「ボールがバットのグリップ付近に

   当たって内野に転がった」と勘違いして一塁へトスしたほどだった。

しかし、その音は骨折の音であり、

チャップマンは倒れ込み、頭部から血を流していた。

 

意識を取り戻したチャップマンは

自力でベンチへ歩いて戻ろうとしましたが、

倒れ込み、そのまま病院へ搬送。

頭蓋骨折の緊急手術が行われたものの、

翌8月17日朝、29歳の若さで息を引き取りました。

事件が野球界にもたらしたルール改定

この悲劇は野球界に大きな衝撃を与え、

全面と競技ルールの両面で迅速な改革が進められました。

  1. ボールの衛生・視認性の改善(「スピットボール」の禁止)
    当時は1個のボールを黒ずんで汚れるまで使い続けるのが普通だった。
    しかし事故以降、審判員は汚れたボールを
    即座に新品へ交換することが義務付けられ、
    唾液や油脂を塗って変化させる「スピットボール」等の不正投球は全面的に禁止された。
     

  2. ヘルメット着用への足がかり
    チャップマンの死後、頭部保護の重要性が議論された。
    全打者への打者用ヘルメット着用がMLBで
    完全義務化されるまでには1950年代〜70年代まで時間を要することになるが、
    この事故が安全防具開発の原点となった出来事だろう。

現代野球における死球リスクと投手の高速化

チャップマンの時代から100年以上が経過した現代、
野球のルールや防具は劇的に進化しました。
打者は強固なヘルメットやエルボーガード、フットガードを身につけて打席に立つ。

しかしその一方で、「投手の球速向上」という新たなリスクが出てきたように思える。

  • 160km/h(100mph)超の常態化
    バイオメカニクスやトレーニングの進化により、
    かつては極稀だった160km/h超のストレートや、
    140km/h台後半で鋭く曲がる変化球(スプリームやスイーパー)を投げる投手が急増。
     

  • 反応時間の限界
    160km/hのボールが投手の領域から
    ホームベースに到達するまでの時間は約0.38〜0.4秒程度しかない。
    打者がボール軌道を認識し、
    危険を感じて身をひるがえす反応スピードの限界を超えている。
     

  • 怪我の悪化・増大
    防具でカバーされていない手首、指先、顔面、肘の隙間などに
    球速150〜160km/hのボールが直撃すれば、
    骨折や長期離脱につながるケースが後を絶たない。
    近年ではエルボーガードやフェースガードの装着率が上がっていますが、
    それでも死球による怪我の増加は各球団の頭を悩ませる大きな課題だ。

レイ・チャップマンの悲劇は、
「打者の安全を守ること」が野球というスポーツの成り立ちにおいて
いかに不可欠であるかを教えてくれた。
 

球速が上がり、投打の技術向上スピードが著しい現代だからこそ、
100年以上前の悲劇を教訓として語り継ぎ、
防具の改良やルールの整備といった「安全への配慮」を止めない姿勢が
今後も必要になっている。

安心して、野球を観る環境は

今後も様々な課題を与えていくだろう。

 

 

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ベーブルース:野球の神様、その偉大な足跡

 

1948年8月16日は、野球界の頂点に君臨した「野球の神様」、

史上最高のプレーヤーと称されるベーブ・ルースの命日です。

 

 

日本でも子どもの伝記シリーズの書籍にもなり、

多くの人々に愛されてきました。

 

彼の偉大な足跡は、野球というスポーツがある限り、

永遠に語り継がれることでしょう。

 

ベーブ・ルースが生まれたのは1895年2月6日。

 

本名はジョージ・ハーマン・ルース、

幼少期のルースは、ボルチモアの貧しい家庭に育ち、

素行の悪さからたびたび問題を起こしていた。

7歳のとき、彼は更生のためにカトリック系の少年施設

「セント・メアリー工業学校」に入れられます。

 

この学校で、ルースは野球と出会いました。

特にマティアス神父は彼の才能を見抜き、

投球や打撃の指導に熱心に取り組みました。

ルースはめきめきと頭角を現し、

施設の野球チームでエース投手兼主砲として活躍をした。

 

ルースの才能は地元のプロ球団スカウトの目に留まり、

1914年、マイナーリーグのボルチモア・オリオールズと契約。

 

このとき、チームメイトたちがオーナー兼監督のジャック・ダンに

息子のようにかわいがられている彼を見て、

「ジャックの新しい子(Babe)」と呼び始めたことが、

後の愛称「ベーブ・ルース」の由来となった。

 

その後、ボストン・レッドソックスの目に留まり、

同年中にメジャーリーグ昇格を果たし、伝説への第一歩を踏み出した。

 

ベーブ・ルースの彼の生涯成績を見れば、その凄さがすぐに理解できます。

 

この時代は、現在でいう「スモール・ベースボール」が主流でした。

ヒットでランナーが出ると、

盗塁、犠打、エンドランなどの技術を駆使して得点を重ね、

強力な投手陣で勝利をつかむのが王道だったのです。

 

ルースは投手としてボストン・レッドソックスに入団し、

1915年から1917年の3年間で65勝

防御率2.02という素晴らしい成績を残しました。

一方で、打撃力も傑出しており、

この3年間で打率.302、ホームラン9本、長打率.462を記録。

登板しない日は一塁手として出場し、人気はうなぎ上りでした。

しかし、当時のレッドソックスは資金繰りが悪く、

主力が育つと金銭トレードで放出されることが常だった。

そのため、打撃の弱いチームにおいて、ルースの打撃の比重は高まっていきます。

 

1918年、ルースは投手として13勝7敗、

防御率2.22という成績を残しながら、

打者としてもホームラン11本でホームラン王に輝いた。

1シーズン「10勝、10本塁打」を記録。

大谷翔平が記録するまで、唯一の記録だった。

 

当時はボールが飛ばない時代で、

ホームランの価値は今ほど見出されていませんでしたが、

投手として投球しながら95試合の出場でこの記録を達成したのは、

特筆すべきことです。

 

1919年になると、ルースの活躍はさらに凄みを増します。

彼は打撃に専念するようになり、

前年の3倍近い29本ものホームランを放ち、2度目のホームラン王を獲得。

当時の2位が10本だったことを考えると、その圧倒的な差が分かります。

 

この年のレッドソックスのチーム本塁打が33本、

アメリカンリーグ全体で240本だったことを考えると、

ルースがリーグ全体の12%ものホームランを一人で打ったことになります。

野球ファンは、ルースが「時代を変えている」と驚きと羨望の眼差しを向けました。

 

しかし、資金難に苦しむレッドソックスは、多額のトレードマネーと引き換えに、

ルースをヤンキースをトレードに出します。

このトレードが、レッドソックスの長い低迷期

「バンビーノの呪い」の始まりでした。

 

ヤンキースに移籍したルースは、まさに鬼神のごとく打ちまくります。

移籍初年度の1920年には、

打率.376、ホームラン54本、打点137という驚異的な数字を残しました。

チーム本塁打115本の47%を一人で叩き出し、

リーグ全体の14.6%を占めるという、常識破りの活躍を見せ、

その才能を誰もが認めざるを得ませんでした。

 

 

ルースは、投手として通算94勝を挙げ、打者としても通算714本塁打

通算打率.342、通算安打2873本、通算打点2214、通算長打率.690など、

数々の記録と人々の記憶に残る伝説を築き上げました。

彼は、野球をするために生まれてきたアスリートであり、

エンターテイナーでもありました。

 

1934年11月に日米野球のメンバーとして来日。

全国12都市18試合をこなし、

ルースは打率.413,13本塁打は大会1位の成績を残した。

 

(当時の読売新聞の記事から)

 

1936年引退。

その年、アメリカ野球殿堂の最初の5人に選ばれた。

 

1947年4月27日、ヤンキー・スタジアムで

「ベーブ・ルース・デー」が開催され、

病身のルースは6万人の観衆に感謝のスピーチをしました。

彼は後にベーブ・ルース財団を設立し、チャリティー活動を行います。

翌1948年6月13日には、

ヤンキー・スタジアム開場25周年イベントに参加し、

背番号「3」の永久欠番が指定された。

この日のルースの姿を捉えた写真は、

ピューリッツァー賞を受賞しています。

 

 

1948年8月16日、

ルースはがんのため、53歳でニューヨーク市内の病院で亡くなった。

 

投打の枠を超えたまさに「野球の神様」、それがベーブ・ルースなのです。

彼がこの世を去ってから78年、

MLB史上最高の選手の一人という彼の名誉は決して揺らぐことはありません。

 

 


 

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8月15日は終戦記念日です。

1945(昭和20)年8月15日に

太平洋戦争が終わり、この日を境に日本は大きく変わっていきました。

 

1934(昭和9)年にプロ野球が誕生し、そのつかの間

日本は戦争へ突き進んでいきました。

そして、多くの人々が戦争で亡くなり,

野球人の中にも、犠牲になった方々がいました。

 

東京ドームの北側にその戦争で亡くなられた方々の

名前が刻まれた鎮魂の碑があります。

当初は後楽園球場脇にあった野球体育博物館の建物横にありましたが、

後楽園球場から東京ドームに建替えたために

殿堂博物館より離れた場所になりました。

 

 

東京ドーム施設の搬入搬出口付近にあるため、

一瞬見逃しそうになりますが、静かに佇んでいます。

 

野球殿堂博物館/鎮魂の碑 

野球殿堂博物館HP↑

 

 

鎮魂の碑にあるお名前は御覧の通りです。

 

 

この様に見ていると、ほとんど没年月日が不明なことに

心が痛みます。

 

戦争は何もかもが壊れてしまい、不幸になることが

よく理解できます。

 

 

東京ドームへ遊びに行ったときは

是非、野球殿堂博物館と鎮魂の碑へ

訪ねてみてください。

 

下記は以前、野球雲ブログで紹介した

戦火で消えた野球人です。

ご参照ください。

 

豪打!景浦 将~一途な超二刀流、澤村栄治のライバル

 

鬼頭数雄~川上哲治と熾烈な首位打者争いをし制し、戦火に消えた名選手。

 

★永井武夫 就任直後に解任された大東京の監督。

 

林安夫投手~20歳で32勝541.1回を投げた大投手

 

 

 

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豊田 泰光

1935年2月12日~2016年8月14日

茨城県久慈郡出身

右投右打、内野手。

 

水戸商から西鉄ライオンズへ
 

豊田泰光は1935年2月12日、茨城県に生まれた。
茨城県立水戸商業高等学校では遊撃手として活躍し、
1952年の夏の甲子園大会では開会式で選手宣誓を務めるなど、
当時から注目を集める存在だった。

 

高校卒業後の1953年、三原脩監督率いる西鉄ライオンズに入団。

豊田は1年目から遊撃手レギュラーの座を掴み取り、

高卒新人としては異例の27本塁打を放って新人王を獲得した。

この「高卒新人27本塁打」の記録は、1986年に清原和博が破るまで、

33年間にわたり日本プロ野球の高卒新人記録として残った。

 

「流線型打線」の中心と日本シリーズ3連覇

 

2年目の1954年には2番打者に定着し、

チーム初のパ・リーグ優勝に貢献します。

三原監督が提唱した、打順の流れを重視する「流線型打線」において、

豊田は中西太、大下弘ら強打者へと繋ぐ、

あるいは自ら還す極めて重要な役割を担った。

豪快な打撃の一方で、入団から5年連続で

20盗塁以上を記録する俊足も兼ね備えていた。

 

豊田のキャリアで大きなものは、

1956年から1958年にかけての読売ジャイアンツとの日本シリーズ3連覇だ

 

  • 1956年:シーズン打率.325を記録して首位打者を獲得。
    同年の日本シリーズでは、巨人を相手に大暴れし、
    チームを初の日本一へ導くとともに日本シリーズMVP(最高殊勲選手)に輝いた。

  • 1958年:西鉄は巨人に3連敗を喫し絶体絶命の窮地に立たされるが、
    そこから神がかった好投を続けた
    「鉄腕」稲尾和久らとともに猛反撃を展開。
    豊田もクリーンアップの一角として大舞台での強さを発揮し、
    奇跡の4連勝での逆転3連覇を達成した。

三原監督の教えもあり、移動中の汽車では「三国志」などの愛読書を手放さない知性派の一面もありました。グラウンド内外で圧倒的な存在感を放った豊田は、西鉄に在籍した10年間でベストナインに6回選出されるなど、パ・リーグを代表するスーパースターとなりました。

 

 

国鉄への移籍と現役引退

1962年、西鉄のプレイングコーチに就任したものの、
球団上層部との確執などを背景に、
同年オフに国鉄スワローズへ電撃トレードされた。
九州のファンは、この看板選手の流出に激しく憤ったと言われている。

 

セ・リーグへ移籍した1963年も、
20本塁打、打率.292を記録して健在ぶりを示した。
しかし、その後は肘の故障に苦しみ、出場機会を減らしていった。
それでも1968年には「2試合連続代打サヨナラ本塁打」という
プロ野球史上初の快挙を達成するなど、
全盛期と変わらぬ勝負強さでファンを沸かせた。
そして1969年、惜しまれつつも現役を引退した。

 

野球評論家としての活躍と晩年

引退後は近鉄バファローズの打撃コーチを経て、
本格的に野球解説者・評論家としての活躍が始まった。

日本経済新聞のコラム「チェンジアップ」や、
週刊ベースボールの連載「オレが許さん!」など、
歯に衣着せぬ鋭い視点からの辛口評論で、
球界の「ご意見番」として長く親しまれた。

その言葉の根底には、常に野球への深い愛情と、
自らが経験した戦後プロ野球への誇り、
そしてグラウンドで戦う選手へのリスペクトがあった。

2006年には、これまでの功績が称えられ
野球殿堂入り(特別表彰)を果たす。
その後も健筆を振るっていましたが、
2016年8月14日、誤嚥性肺炎のため81歳でこの世を去りました。

豊田泰光は主役も脇役もこなせた野球選手として、

引退後も言いたいことを言える、数少ない野球評論家として

野球文化を大切されていた印象があります。

 

もう少し、豊田泰光野球論を聴きたかった・・・・。

 

 

 

 

 

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ミッキー・チャールズ・マントル

1931年10月20日~1995年8月13日

アメリカ合衆国オクラホマ州出身

右投両打、外野手

 

1931年にオクラホマ州スパビナウで生まれ、

フィラデルフィア・アスレチックスの捕手ミッキー・カクレーンに

ちなんで名付けられた。

 

父マットはセミプロの投手で、

マントルにスイッチヒッターとしての英才教育を施した。

これにより、後にヤンキースに入団した際、

監督のケーシー・ステンゲルのプラトーン・システム

(対戦相手の投手の利き腕によって打者を使い分けるシステム)においても

常時出場できる基礎が築かれた。

 

その頃ヤンキースは、

中心打者ジョー・ディマジオの後継者を探しており1949年に契約。

入団時、マントルは小柄ながらも強烈な打球を放つ遊撃手だった。

1950年にマイナーで好成績を残した後、1951年にメジャーキャンプに招集され、

ステンゲル監督の指示で外野手にコンバートされます。

これは、俊足と強肩を活かすための判断の結果だった。

 

1951年4月17日、背番号6を着けてメジャーデビューを果たす。

しかし、当初は「ディマジオの後継者」という

プレッシャーとメジャーの壁にぶつかり、

スランプに陥ってマイナー降格をしてしまう。

 

この時、父マットの叱咤激励により野球を続ける決意を固め、

再びメジャー昇格を果たした。

 

再昇格後、背番号を引退まで使用することになる「7」に変更した。

この年、チームのリーグ3連覇に貢献しますが、

ワールドシリーズで膝の靭帯を断裂する大怪我を負い、

その後の選手生活を悩ませることになる。

 

1952年、前年に引退したディマジオに代わり中堅手に転向し、

オールスターゲームに初選出。

打率.311、23本塁打、87打点を記録し、

チームのリーグ4連覇とワールドシリーズ制覇に貢献した。

その後もチームは好調を維持し、

1953年にはリーグ5連覇、ワールドシリーズ5連覇を果した。

 

1956年はマントルのキャリアにおいて最も輝かしい年となった。

打率.353、52本塁打、130打点を記録し、

スイッチヒッターとしては史上唯一となる三冠王を達成。

MVPも満票で受賞した。

 

この年のワールドシリーズでは

ドン・ラーセンの完全試合を援護する本塁打を放つなど活躍し、

チームを3年ぶりのワールドチャンピオンに導いた。

 

1957年にはキャリアハイの打率.365を記録し、2年連続のMVPを受賞。

 

マントルは、その超特大本塁打でも知られていた。

1953年のグリフィス・スタジアムでの本塁打は、

推定飛距離が171.8m(565フィート)とされ、

テープメジャーショット」という言葉を生み出した。

また、1960年には推定195m(640フィート)の本塁打を放ち、

ギネスブックに「史上最長本塁打」として掲載された。

 

1960年、打点王を獲得したロジャー・マリスとのコンビは「MM砲」と呼ばれ、

1961年にはベーブ・ルースのシーズン60本塁打記録更新に挑む。

 

マントル(右)とマリス

 

結果的にマリスが61本塁打を記録したが、

マントルもキャリアハイの54本塁打を放ち、

2人合計の本塁打数115は現在も破られていない。

しかし、この頃からマントルは怪我に悩まされるようになる。

 

1963年にはフェンスに激突して左足を骨折し、出場試合数が減少。

1964年にはワールドシリーズでセントルイス・カージナルスと対戦し、

これが最後のシリーズ出場となった。

この年限りで引退すればよかったと後に語っており、

怪我と肉体的な衰えが選手生活を蝕んでいった。

 

1967年には通算500号本塁打を達成。

ヤンキースが低迷する中で明るい話題となる。

最後のシーズンとなった1968年は自己最低の打率に終わり、

翌1969年シーズン前に現役引退を表明。

怪我との戦いではありましたが、ヤンキース一筋の野球人生を終えた。

引退と同時に背番号「7」は永久欠番に指定された。

 

1974年には資格取得1年目でアメリカ野球殿堂入りを果たした。

スイッチヒッターとしての通算536本塁打は、今なおMLB史上最多記録であり、

ワールドシリーズ通算18本塁打、40打点もMLB記録として残っている。

 

「怪我がなければ史上最高の打者になっていただろう」と評されている。

 

私生活では、父や祖父が若くして亡くなったことから早世の家系だと思い込み、

恐怖を紛らわすために飲酒に走りました。

この習慣が選手生活と寿命を縮めたとされている。

 

1994年に肝臓癌と診断され、翌1995年8月13日に63歳で死去。

死の直前には「私のようにはならないでほしい」という言葉を残し、

その波乱に満ちた生涯を閉じた。

 

2401試合、8102打数、1677得点、2415安打

344二塁打、72三塁打、536本塁打、4511塁打、1509打点

153盗塁、1733四球、打率.298 

 

首位打者:1回(1956年)
本塁打王:4回(1955年、1956年、1958年、1960年)
打点王:1回(1956年)

 

 

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秋山 登 

1934(昭和9)年2月3日~2000(平成12)年8月12日

岡山県岡山市出身

右投右打、投手。

 


 

1951(昭和26)年夏の甲子園大会に岡山東高校の投手として出場

中西太にに本塁打を打たれ、高松一高に破れた。

明治大学に進学し島岡監督のもと、戦後初の優勝を含め3度の優勝に貢献

1954(昭和29)年には東大戦において22奪三振を奪った。

大学通算33勝18敗を残し、1956(昭和31)年に大洋ホエールズに入団。

この時に明大五人衆として5人大洋に入団。その一人が

バッテリーを組んだ土井淳だ。

 

1956(昭和31)年の1年目に

58試合、26完投、25勝25敗、379.2回 防御率2.39で新人王を獲得した。

完投数、敗戦数、投球回数、対戦打者、打数、被安打、四死球、失点、自責点は

セ・リーグ1位の記録だった。

 

1957(昭和32)年は65試合、40先発、27完投、

24勝27敗、406.0回、312奪三振、防御率2.50と400回越えの成績を残し、

 

1958、59年も投球回数300回以上を投げた。

そして、勝敗も17勝23敗、14勝22敗と4年連続20敗以上の敗戦数を記録。

 

酷使酷使されても報われないような数字だが、

秋山が入団した1956年から1959年までの大洋は4年連続最下位(6位)

 

                     秋山の勝敗を抜いた場合

1956年 130試合43勝87敗6分 .3308   18勝62敗 .225

1957年 130試合52勝74敗4分 .4154   28勝47敗 .373

1958年 130試合51勝73敗6分 .4154   34勝50敗 .425

1959年 130試合49勝77敗4分 .3923   35勝55敗 .388

 

と秋山投手が加入しても総合力が悲惨な状況だった。しかし、

1954年が32勝96敗2分 勝率.2500、

1955年は31勝99敗0分 勝率  .2385 と

2割台で超最弱の成績から1割以上上げたのは秋山投手のおかげだろう。

 

1955(昭和30)年大洋ホーエルズは最弱か?球団最少得点を考える。

 

細身の体ながら、酷使されたがここまで投げられたのは

鋼のような筋肉質でしなやか動きが出来たらしい。

同時期の杉浦忠(南海)と同じような下手投げに思われるが

杉浦投手は手首をあげ、秋山投手は手首を寝かせたフォームだった。

 

速球もさることながら、カミソリシュートと呼ばれるシュートボールで

内角に切り込んでくる変化球が大きな武器だった。

 

1960(昭和35)年、三原修監督のもと

大洋ホエールズは初優勝し、先発、リリーフに活躍

21勝10敗と大きく勝ち越し、防御率1.75で防御率1位のタイトルを取った。

そして、唯一のMVPとベストナインにも選ばれる。

 

最下位で苦しんだ大洋ホエールズが闘将三原脩を監督で優勝した日

 

1961(昭和36)年以降は完投数も減り、ロングリリーフとして

大洋ホエールズのAクラス入りに貢献し、1962(昭和37)年には

キャリアハイの26勝12敗で阪神と優勝争いをした。

 

しかし、さすがの秋山も長い間の酷使がたたり

1967(昭和42)年引退した。

 

通算193勝171敗 200勝まで7勝、

2993.0回と3000回まであと7回と惜しい記録だったが、

もっと強い球団だったら250勝はいったかもしれないと思われる。

しかし、大洋ホエールズに入団したからこそ193勝まで行ったかもしれない。

 

秋山は、1975年から2年間、大洋ホエールズの監督を務めた。

球団初の生え抜き監督として期待されたが、

藤田元司投手コーチとの合議制など指揮権が曖昧な体制と、

投打のアンバランスによりチームは低迷。

2年目には最下位に沈み、指揮権を剥奪されてシーズン終了後に辞任した。

 

しかし、球団オーナー中部謙吉の評価は高く、2軍監督に就任。

近い将来の再登板が期待されたが、中部オーナーの死去により実現しなかった。

 

2000年8月12日、呼吸不全のため66歳で死去。

 

2004年、野球殿堂入り。

 

 

 

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稲葉 光雄

1948年10月2日~2012年8月11日

静岡県清水市出身

右投右打、投手

 

5歳の頃、兄とのソフトボールがきっかけでボールを握った。
清水工業高校2年で投手に転向。
卒業後は日本軽金属へ進み、1968年のドラフト会議で
広島東洋カープから6位指名を受ける。
しかし、20歳という若さと会社側の引き留めもあり、この時は入団を固辞した。

1970年の都市対抗野球では大昭和製紙の補強選手として登板し、

チームの優勝に大きく貢献する。

同年のドラフト2位で中日ドラゴンズに入団した。

 

 

中日時代

 

プロの投手としては決して恵まれた体格ではなかったが、
キレのある直球とスピンの効いた落差の大きいカーブを武器にした。
 1年目の1971年8月25日、後楽園球場での巨人戦。
延長11回裏から救援登板し、4イニングを無失点に抑えてプロ初勝利。

この年は6勝0敗の好成績を残した。 

 

翌1972年は開幕から連勝を重ね、
4月に初黒星を喫するまでデビュー以来9連勝を記録。
シーズン通算20勝11敗を挙げ、エース級の働きを見せた。
特に巨人戦には6勝3敗と強く、「巨人キラー」の異名をとる。
 だが、その後の道は平坦ではなかった。

1973年は6勝12敗と負け越し、
1974年には肘の故障もあって4勝にとどまる。
同年のロッテとの日本シリーズ第4戦に先発したものの、
4回途中3失点で降板。球威の低下とともに成績は伸び悩んだ。

 

 

阪急時代からその後

 

1976年オフ、3対4の大型トレードにより阪急ブレーブスへ移籍。
(戸田善紀・森本潔・大石弥太郎・小松健二 ⇔ 島谷金二・稲葉光雄・大隅正人)

上田利治監督のもと、1977年に17勝6敗、
防御率2.45の好成績を収め、最高勝率のタイトルを獲得する。
阪急のパ・リーグ3連覇を支え、
巨人との日本シリーズ第4戦でも先発して5回1失点と試合を作り、
チームの3年連続日本一に寄与した。

1978年も10勝5敗を記録。
9月11日、西京極球場での近鉄との首位攻防戦では1失点完投勝ちを収め、
鈴木啓示の連続試合完投勝利記録を10でストップさせた。

 

阪急時代は先発陣の柱として

1978年、1979年、1981年にも2桁勝利を記録している。
1983年に登板機会が急減すると、1984年に阪神タイガースへ移籍。
一軍登板のないまま、同年限りでユニフォームを脱いだ。

 

引退後は解説者を務めた後、古巣・中日や日本ハムで投手コーチを歴任。
若手育成の手腕は高く評価され、中日のリーグ連覇にも貢献した。

理論派として現場に立ち続けたが、2012年8月11日、
ナゴヤドームでの広島戦の最中に体調不良を訴え病院へ搬送。
脳内出血のため、63歳で亡くなった。
 

小柄な身体から投じる鋭いカーブで巨人を打ち取り、

移籍先の阪急でも見事な復活劇を果たした稲葉光雄。

華やかさよりも質実剛健な投げっぷりで
昭和のプロ野球を彩った投手だった。

 

実働14年間で385試合に登板、104勝 102敗 6セーブ、防御率 3.65

 

 

 

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ルイス・ブードローLouis "Lou" Boudreau)

1917年7月17日~2001年8月10日

アメリカ合衆国イリノイ州、

右投右打、遊撃手、監督

 

 

ルー・ブードローは、1938年にクリーブランド・インディアンスに入団し、

1948年には選手兼任監督として

ワールドシリーズ制覇を達成した球史に残る人物である。

彼の名を不朽のものとしたのは、

1946年に考案された革新的な守備シフト「ブードロー・シフト」だ。

 

ブードロー・シフトの考案

 

この独創的な戦術は、

1946年7月14日の対ボストン・レッドソックス戦で初めて採用された。

相手打者は、当時メジャーリーグを代表する強打者であり、

極端なプルヒッターとして知られるテッド・ウィリアムズ。

 

ブードローは、ウィリアムズの打球方向をデータに基づいて分析し、

その傾向を封じるための大胆な布陣を敷いた。

 

具体的には、投手、捕手、三塁手、左翼手を除くすべての野手、

すなわち一塁手、二塁手、遊撃手、右翼手を、

打球が集中する右翼方向へと配置転換させた。

内野の二塁手と遊撃手は一塁ベースと二塁ベースの間、

外野手は通常よりも右寄りに位置取ることで、

ウィリアムズの強烈な打球を網の目のように待ち構えた。

 

シフトの戦術的意義と影響

 

ブードロー・シフトは、

ウィリアムズの打球を効果的に封じ込めることに成功した。

この成功は、相手打者の打撃傾向を科学的に分析し、

守備陣を最適化するという、現代の「データ野球」の礎となった。

 

 

このシフトの有効性を目の当たりにした他球団も追随し、

その後の野球戦術に大きな影響を与えた。

 

日本プロ野球においても、

読売ジャイアンツの王貞治選手を封じるために考案された「王シフト」は、

ブードロー・シフトが原型とされている。

これは、特定の強打者に対する守備戦術として、

国境を越えて応用されるに至った例だ。

 

ブードローは、選手としても卓越した実績を残している。

1942年には24歳という史上最年少で選手兼任監督に就任し、

1944年には首位打者、1948年にはMVPを獲得するなど、

攻守にわたってチームを牽引した。

 

特に遊撃手としては、1940年から1948年の間に

8度のリーグ守備率1位を記録しており、

その堅実な守備は高く評価されている。

 

1970年にはアメリカ野球殿堂入りを果たし、

彼の功績を称え、インディアンスは背番号「5」を永久欠番とした。

 

2001年8月10日、イリノイ州の自宅で84歳で死去。

 

成績1938年~1952年(15年)

1646試合、6029打数、861得点、1779安打、385二塁打、66三塁打、

68本塁打、2500塁打、789打点、51盗塁、164犠打、830四死球、309三振、

打率.295、出塁率.380

 

 

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飯島 滋弥

1918年10月11日~1970年8月9日

千葉県出身 右投右打

一塁手、外野手

 

 

旧制千葉中学時代に1935年、36年に夏の甲子園に出場。

その後、慶應義塾大学へ入学し、一塁手として4番を打つ活躍をした。

この頃の慶応は百万ドルの内野陣と言われるほど人気があった。

打撃は中学時代から「しゃくり打ちで、プロでも直らなかった」と

本人が語っていたように、アッパー気味のようだった。

 

戦争には目が悪く、右ひざが悪かったため招集されず、

終戦間際には、戦後の野球復興を予想して体力をつけて準備した。

そんな思いと行動の早さが、周りからは変人扱いされた模様。

 

1946(昭和21)年、横沢三郎等が設立した

セネタースに加入。大下弘、白木義一郎投手と共に

戦後プロ野球復興の中にデビューし、

1年目からレギュラー一塁手として3番大下の後の4番を打ち

打率.312 (7位)、本塁打12本(2位)、57打点を成績を残した。

打率はチーム1位、本塁打、打点は大下弘に次いで2位だった。

 

 

1947年セネタースが東急に買収されてから、

飯島の個性的な性格なのか、気難しいのか?

球団とぶつかり、成績が低迷した。

1948年7月の東急フライヤーズを解雇され

金星スターズに入団したが、リーグの決まりで公式戦には出場できなかった。

 

1949年大映スターズでは5番、6番を打ち

打率.293、25本塁打で、小鶴誠、大岡虎雄の打撃陣に

引けを取らぬ活躍ぶりだった。

 

1950(昭和25)年大映スターズはパ・リーグに加入し、

小鶴、大岡、金山等の赤嶺軍団が松竹ロビンスに移籍して

戦力ダウンがあったが、飯島は4番を打ち

打率.322、27本塁打、77打点と打撃三部門チームリーダーとして

リーグ3位の成績に貢献した。

 

1951(昭和26)年10月5日 対阪急戦で

飯島は球史に残る記録を作った。

1回表 阪急先発投手阿部八郎投手から

四球、安打、安打のあと打席に立った飯島は

フルカウントの後ファールフライを打ち上げたが、

阪急山下捕手が落球、

そのあとの7球目をレフトへ満塁本塁打を放つ!

 

 

2打席目はレフトフライ、3打席目は四球で出塁し

7回の4打席目を迎えた。

投手は鉄腕野口二郎投手、

そして、ランナーは1.2塁にいたところを

飯島のすくい上げた打球はレフトスタンドに3ランホームラン!

しかし、この日の大映打線は野口を攻めまくる。

なんと、打者一巡して飯島は打席に入り、

またもやフルカウントから野口投手の球をフルスイング!

これもレフトスタンドに飛び込む満塁本塁打を放ち、

1イニング2本塁打7打点、そして1試合11打点の

驚異の記録を作り上げた。

翌日の最終戦で1打点をあげたので、合計12打点。

この年85試合の出場で飯島の打点が63だったので、

2割弱の打点を最後の2試合で稼いだ。

 

 

1952(昭和27)年も好調が安定した打撃で、

119試合、411打数138安打 13本塁打、59打点

打率.3357で首位打者を獲得し、四死球も78とリーグ1位で

出塁率.447とこちらもリーグ1位とリーグ唯一の4割越えだった。

 

しかし、翌年から燃え尽きたように成績が落ちだし、

1954年(昭和29)年を最後に大映スターズを移籍し

1955年南海ホークスを最後に現役を引退した。

 

1967(昭和42)年東映フライヤーズで一軍コーチに就任、

大杉勝男に「月に向かって打て!」という

野球名言集の筆頭になるような名言を残した。

 

1970年8月9日、胃がんのため惜しくも51歳の若さで亡くなった。

 

千葉野球殿堂があれば殿堂入りできる名選手のひとりです。

 

 

 

 

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