松竹ロビンスを調べると監督も選手も個性的すぎて驚きます。

 

 

当初、調べ始めた頃は

田村駒次郎オーナ一は一流が好きで、

チームより選手がいい成績を残すと喜ぶ傾向が見られます。

後々歴史に残る選手が続出し、それもどちらかというとアウトロー気味。

チームの出入りが激しく、荒っぽいイメージがありました。

 

 

監督も含め殿堂入りしているのが多いのですが

チームに収まる監督のカラーが見えにくく

寄せ集めの球団に思えました。

 

大東京からロビンスの17年間で一番長く在籍したのが

坪内道則選手。

 

しかし、坪内さんでさえ、大東京のカラーが見えない。

どちらかというと中日ドラゴンズ。

 

ネーミングライツをしたり、新しい企画を考える

チャレンジ性は見られるのですが、

田村駒次郎オーナーは商売人としてのプロ野球を考えるのだけど

それを上手くシステムを使い切っていない。

しかし、今の価値観では表現しきれない何かがある。

今の時代では受け入れられないオーナー、運営かも知れないが

考え方としては理解できる部分があるのが面白いところです。

 

大東京からライオン軍より朝日軍つ時代が進むと

投手陣が厚くなる。

しかし、大エースは生まれるけど、2番手3番手が生まれない。

 

 

真田重蔵投手を代表に、唯我独尊的なお山の大将が入ってきて

少し成績を残していっては去っていく・・・。

あまり、カラーが出来ないままに去っていく。

 

それでも戦争中になっても田村駒治郎は球団を持ち続けるほど

野球が好きなオーナーは当時としても珍しいのではないか?

 

戦後、パシフィック軍として再スタートしたが、

主な朝日軍のメンバーは橋本三郎を中心

にゴールドスター(金星)を作ってしまった。

そこに、オーナーと選手たちの温度差をみると、

戦後は個人で球団を持てる時代ではなくなった。

金星も大塚アスレチックスが入ったり、

最後は大映スターズとして永田雅一が手に入れる。

 

 

田村駒治郎と永田雅一は野球界の二大ワンマンオーナーとして名を残している。

なおかつ、一番ややこしいビジネスをしていたような感じがします。

その頃巨人は「紳士タレ」として、八百長や不正を排除して、

職業野球のステータスを上げていく行動をする時代になってきて、

法人としてのプロ野球、戦後の民主主義の中のプロ野球は

この2人を疎ましい存在と考えてくるのではないか?と思うくらい

追い込まれていく。

 

そして、その間に必ず鈴木龍二が暗躍しているように思えてしまう。

 

最終的には鈴木龍二はプロ野球を救った人だではあるけど、

1980年代、江川事件まではセ・リーグに君臨してしていました。

鈴木龍二は

大きな意味でプロ野球をそのように残していくか?

と言うことを考えていたのではないか?

正力松太郎という人はプロ野球を作り、

二リーグにした貢献は大きいけれど、

正力松太郎のもとで実際切り盛りしたのは鈴木龍二だった。

 

新聞社で政治家と話していた鈴木龍二にとって

田村駒次郎の個人商店の運営には我慢できなかったのかもしれない。

そして、時代も個人で切り盛りしているような運営に

ついていけなくなったかもしれない。

 

大東京から松竹ロビンスへ行く道のりは

時代の変化に付いていけない経営が消滅球団としての

歴史になっていた気がします。

 

 

 

 

 

 

 

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データ協力 篠浦孝氏

 

木塚 忠助

1924(大正13)年4月23日~1987(昭和62)年12月16日

佐賀県唐津市出身 右投右打

 

佐賀の唐津中学で野球をはじめ、

鉄道省門司鉄道局に就職し、三塁手として俊足、強打、強肩の

三拍子そろった選手として「門鉄の赤鬼」として

グランドで暴れまくった!!

 

 

1948(昭和23)年、南海ホークスに入団。

その才能は、すぐに発揮した。

それまでの日本の遊撃手の概念を変えた肩の強さ、

三塁手の股間を抜かれた打球に追いつき、

逆シングルで捕れば、そこから矢のような送球で

打者を仕留める守備に野球ファンは驚いた。

 

三遊間を組んだ、鶴岡一人(当時は山本一人)は

木塚の守備範囲の広さと華麗な動作に驚嘆し、

「私が知る銭のとれる選手第1号」と言わせた。

 

打撃は長打はないが、2年目の1949年に3割を打ち、

堅実な打撃を見せた。そして、それ以上に盗塁の多さが特筆もので

1949年から1952年まで4年連続盗塁王で55個以上を記録した。

そして、盗塁成功率も85.5%の高さを誇った。

1950年の78盗塁は史上5位の数字だ。

 

戦後、南海ホークスの大躍進、常勝チームを作った選手のひとりで

主に遊撃手として2番を打ち、

一塁飯田徳治、二塁 山本一人、三塁蔭山和夫等と共に

百万ドルの内野陣と呼ばれた。

 

木塚の「バカ肩」のエピソードとして

三塁守備位置から一塁送球をスタンドに直接投げ込んだ!という

エラーも観客は木塚の強肩に対して喜んだという。

 

通算盗塁479個は歴代4位の数字だが、

盗塁成功率は.808の高率で、

南海の後輩、広瀬叔功が596盗塁で.829に続く2位の成績。

400盗塁上で8割越えは木塚と広瀬の二人だけの記録だ。

 

日本の遊撃手のすばしっこくて、1.2番を打ち

塁上を駆け巡る好打者というイメージは木塚と阪神の吉田義男の

成功によるかもしれない。

 

1956(昭和31)年近鉄パールスに移籍。

これは南海ホークスの財政事情でピークを過ぎた高額年棒の選手を

保てない結果だったが、当時の雑誌では

木塚の移籍は大きな話題になって、

弱小球団近鉄を変えるコーチ兼任選手として期待されたが、

思うような成績を残せなかった。

 

1959年引退。

 

通算1216本、通算打率.262と数字では評価されないように思えるが

門鉄時代の人気ぶりに、ベストナインに7回も選出され、

戦後プロ野球人気に大いに貢献し、南海黄金時代の

代表的な選手としてもっと評価されてもいい選手のひとりで

野球殿堂入りしていないのは、残念でならない。

 

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2017年12月に発売された野球雲10号は

消えた球団シリーズ第3弾として

「松竹ロビンス」を特集しました。

 

三代目田村駒次郎氏と奇跡的な出会いによって、

それも、奇跡的な資料、写真を見せていただいた結果

編集、発行でkした特集でした。

 

そして、松竹ロビンス特集にあたり

編集メモというかノートがあります。

そこから、現在のプロ野球、社会では

どのような位置だったのか?考えてみました。

 

◎大東京軍創設について

鈴木龍二氏が40歳まで新聞記者で野球に全く関係なかったのに、

大東京に関わり変わっていった。

そこで小西得郎を監督として球団に加入させたが、

鈴木、小西は同じ歳で

後々色々な人脈を連れてくる重要な2人が

大東京軍で出会ったのがおもしろい。

 

小西得郎監督

 

◎プロ野球創設時の関係
 

大東京は弱い球団ではあるけど、思っている以上に重要な球団だ。

元々の発生の時点で関西に阪神があって、

名古屋に名古屋軍ができて要するに新聞社のライバル、

愛知新聞と名古屋新聞があり、正力は名古屋軍を誘った。

 

地方に球団をできたときに、

東京は巨人だけでは寂しいので、セネターズをつくった。

 

本当は鈴木龍二と小西得郎がいて、

野球史の中でキーパーソンとなる人物が

今となっては非主流の球団からの出現が面白い。

 

鈴木龍二は野球を知らない。小西得郎はモラルを知らない。

小西は面白すぎる人生で、傍系としての存在がとても大きい。

 

プロ野球の主流派が正力松太郎の巨人だったり、

関西だったら阪神、甲子園球場、後楽園球場だったりする。

その中で傍流としての大東京も面白い。

大東京から松竹までの流れはとても魅力的です。

 

その流れの中に田村駒治郎が1937(昭和12)年に登場する。

田村駒は道楽者で大阪の繊維会社の御曹司というキャラクターが、

大東京軍を道楽球団として完成したように思える。

 

だから、勝敗も去ることながら個性的で面白いという、

サイドストーリーが中心として語られる球団のひとつだ。

過去にプロ野球史の中には

強い球団以上に弱い球団があった。

 

弱いチームと言うにも種類があって、悲惨で弱い球団。

話題を振りまきながら動いていくどこか気になる球団。

選手も坪内道則、水谷則一、鬼頭数雄、林安夫、真田重蔵・・・

 

 

選手としても偏りがあって、

少なくともエリートと言われた選手は少なかった。

それが一つの魅力で、戦前はそれなりに人気があったようだ。

 

そして、ライオン、朝日軍、松竹と変わってきたけど

スポンサーが変わっただけで、球団の性質が変わったわけではない。

ブランドとして確立されないのが今となっては悲しい。

今後も球団の興亡史は取り上げて行きたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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1946年10月2日~2011年4月21日

東京都足立区出身

右投右打

 

修徳高校で1964(昭和39)年第46回夏の甲子園大会に出場。

1965年東京オリオンズに入団。

球団から30番以降なら好きな番号を選んでも良いと言われ

46回夏の甲子園出場した縁で、背番号「46」を選んだ。

 

当時としては大きな背番号を背負って、

速球とキレっ切れのスライダーでエースの階段を上がっていく。

二枚目で人気もあり、3年目の1967年に14勝を挙げ

1968,69,70年と3年連続20勝以上をあげた。

そして、荒川区にある東京スタジアムを本拠地にしていたからか

「下町のエース」としてロッテのエースとして君臨。

1969年8月16日に阪急相手にノーヒット・ノーランを達成。

 

1970年に25勝8敗で最多勝を獲得、チームも10年ぶりの優勝に貢献した。

1971年アリゾナキャンプのオープン戦で

当時のサンフランシスコ・ジャイアンツ相手に10回を投げ、

ウイリー・メイズやウイリー・マッコービーの強打者を抑えた。

その快投でMLB球団から誘われたらしい。

 

1972(昭和47)年に背番号18に変更。

1973年に21勝10敗で2度目の最多勝とベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。

1974年に金田監督のもと、ロッテは優勝したがその時は9勝で終わり、

日本シリーズもエースの活躍とはいかなかったが、

1975年15勝、1976年10勝をあげたが、

1977年以降は長年の酷使のためか故障がちで、

1982年に引退するまでの6年間は9勝しか挙げられず

175勝129敗で終わり、残念ながら200勝は達成できなかった。

 

1970年代は成田文男投手のスライダー、

木樽正明投手のシュート、村田兆治投手のフォークボールの変化球と

速球でパ・リーグで存在感があった投手陣だった。

 

野村克也は「最高のスライダーを投げたのは成田。

真っ直ぐのスピードでピュッと曲がる。魔球の一種や」と言っていた。

 

また、打撃もよく

通算15本塁打しており、1969年にはシーズン5本を打った。

そのうえ、投手で史上二人だけの満塁本塁打を2本打っている。

もし、セ・リーグにいたら、堀内恒夫投手のような人気を得ただろう。

 

 

 

 

2011年4月21日病気のため死去。

64歳の若さだった。

 

ロッテの球団史の中でも

大きな足跡を残した大投手のひとりだ。

 

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永井武雄 1904-1938 年4月19日

兵庫県出身

 

球歴 大東京軍(1936)

4月19日は

NPB草創期のオリジナル球団

大東京軍の初代監督

永井武雄の命日です。

 

 

神戸市立第一神港商業から慶應義塾大学、

全大阪や東京倶楽部を経て、大東京創立と共に選手兼任監督に就任した。

 

大学時代は投手、外野手として活躍し、

1931(昭和6)年の日米野球に参加。

1936(昭和11)年の練習試合では一塁手としてプレーした。

 

大東京軍としては永井を監督に据えた理由の一つに、

慶應義塾大学出身の野球人、宮武三郎、山下実等の

名選手を入団させるためにと思われるが、

永井はその予算を接待で使ってしまう。

結局、一番欲しかった宮武三郎、山下実等は阪急に入団。

 

その上、4月5日に行われた東京瓦斯との試合で大敗したことが、

球団代表の鈴木龍二の逆鱗に触れ、開幕を待たずに解任された。

 

その後1938(昭和13)年に応召され、中国にて戦死。35歳の若さだった。

後に鈴木は、開幕を待たずして解任したことを

後悔している旨の文章を『鈴木龍二回顧録』に書いている。

 

後任監督の伊藤勝三が2勝27敗3分、

勝率.069の成績しか残せなかったことを考えると、

解任の判断は間違いだったのだろう。

(野球雲10号 監督列伝 来栖章記)

 

それにしても、永井武雄だけでなく

戦前の大学野球で名声をあげた選手たちの

武勇伝はとてつもなく「大人の行動」ではない。

彼の監督としての行動には疑問を感じるのだ。

 

大東京軍が用意した予算を、ぶっちゃけ飲み食いに使ったわけで

結果は考えない、無責任さは解雇されるのはある意味仕方ない。

永井は解雇通告も「あ。そうですか」という感じで

球団を未練なく去っていったようだ。

自分には東京六大学のスターというプライドがあったのかもしれない。

しかし、日中戦争で早くの戦死は、何とも言えないむなしさが残る。

1試合でも公式戦を戦っていたら、もっと違う名声があったように思える。

参加した野球人も当時の職業野球への未来を

あまり深く思いもよらなかったのだろう。

 

大東京軍はライオン軍、朝日軍と球団名が変わり

戦後は太平(パシフィック)-大陽-松竹ロビンスと続き、

1952年を最後に大洋ホエールズと合併し、

実質、傍流球団として野球史に名を残した。

 

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朝日軍時代の広田修三(左)

広田-坪内道則-伊勢川真澄

 

野球の記録の中で打撃成績を見ていくのは

シーズン中だろうが、シーズンオフだろうが楽しいものです。

その中で打撃の基本は打率の成績です。

僅差を争った首位争いもいいし、独走状態の打者に憧れたり

本塁打や打点のような積み重ねではなく、

増えたり、減ったり、数字を見ていくのは日々の変化がおもしろいです。

 

現在のプロ野球が1936年に始まり

2023年までのシーズンで様々なバットレースがありましたが、

記録を見ていくと、首位打者で最高打率は

1986年阪神タイガースのランディー・バース選手の.389です。

その反対、首位打者で最低打率は.286 です。

2割台の首位打者は後にも先にも1942年だけです。

1942年巨人の呉波外野手で、1943年から阪神へ移籍

呉波は呉昌征として戦後は大阪(阪神)、毎日オリオンズで

人間機関車というニックネームで活躍した台湾出身の名選手です。

 

毎日時代の呉昌征

 

1942年の記録↓

 

 

1942年は前年から始まった太平洋戦争が長期化していき

野球の道具が悪くなっていき、特にボールは史上最悪の品質だった時代のため、

打っても打っても飛ばない時代であり、その分投手の成績が上がった年でした。

そんな、ボールが飛ばない時代に呉波は.286と低打率ですが

2位は岩本義行.274、3位中島治康.261と名打者が軒並み苦しんでいた。

 

1942年のリーグ打率が.197では致しかたない。

規定打数に入った選手は35人。2割以上が23人。

あとの12人が1割台・・・・。

 

その中で最低打率者が

朝日軍の広田修三内野手兼捕手だ。

341打数42安打 打率.123

そんな打率でも105試合と全試合出場。

 

広田修三は名古屋金鯱軍創設時に期待の捕手として入団。

その後、大阪タイガースに移籍。捕手として期待されたが

どうも打撃が得意ではないようだ。

そして、出場機会を求めて1940(昭和15)年朝日軍に移籍

自己最高の86試合、捕手として76試合出場した。

しかし、翌年から一塁が主な守備位置になり、

打率も35試合ながら.235を打ち、いよいよ打撃向上か?と思われたが

1942(昭和17)年は一塁手として.123とあまりにも低すぎた。

この.123は規定打数、規定打席に達した選手の中では

最低打率でもある。

しかし、1942年の朝日軍は

名投手 林安夫を擁して、戦前最高位の4位を記録した。

 

 

今回、偶然広田選手の写真を発見できたので

無理やり気味に広田修三選手を紹介しました。

 

これからも戦前、戦中、戦後1950年代の

埋もれた選手を紹介したいお思います。

 

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南村侑広(不可止)
1917年4月17日~1990年4月17日
大阪府出身 右投右打
 
旧制市岡中学を卒業後早稲田大学に進学し
東京六大学リーグで2度(1938年春季、39年春季)首位打者を獲得。
一塁、二塁、三塁を守れるマルチプレーヤーだった。
 
卒業後、三井信託銀行へ入社。
1950(昭和25)年セ・パ両リーグに分立した際、
セ・リーグの新球団西日本パイレーツの小島利男監督から
(早稲田大学の先輩)誘われ、銀行の職を捨てプロの世界へ飛び込んだ。
その時、33歳!契約金はそんなに貰っていなかったらしいが、
「とにかく、野球がやりたかった」という。
 
 
西日本パイレーツでは33歳の新人として開幕戦を一塁3番で出場、
4月26日対松竹ロビンス戦では三塁4番で出場。
安定した打撃を見せてき、終わってみれば
規定打席不足ながら、96試合11本塁打55打点、打率.300を打った。
 
しかし、混乱、対立の二リーグ分立はリーグにでも混乱を起こし
西日本パイレーツは巨人から受けた仕打ちに怒り
セ・リーグ脱退という行動でパ・リーグ西鉄クリッパースと吸収合併。
選手争奪戦が起こり、巨人か西鉄かとなったが、
経営不安の西日本は夏以降給与未払い等があり、
南村は巨人を選んだ。
 
 
1951(昭和26)年、巨人に入団。
黒バットを抱えて、6番ライトでレギュラーとして活躍
千葉茂、青田昇、川上哲治と並ぶ大打者にも引けを取らぬ
渋いバッティング優勝に貢献。
第2期黄金時代に貢献した。
 
そして、南村の野球人生のハイライトは
1951年南海との日本シリーズでの活躍だ。
 
第1戦 先制本塁打を含む3打数3安打、
第2戦も3打数3安打で、2試合で10割。
第3戦も4打数2安打で 10打数8安打の8割!
その後2試合で6打数1安打だったが、
5試合通算16打数9安打、打率.563を打ち
日本シリーズMVPに選ばれる活躍で
巨人初の日本シリーズ優勝に貢献した。
 
1952(昭和27)、1953(昭和28)年はベストナインに選ばれる活躍。
1956(昭和31)年に現役を8年、40歳で引退した。
 
短い期間だったが、戦後、二リーグ制になった
プロ野球界で代表される好打者であり、脇役にも主役にもなれる
存在感を持った選手だった。
 
しかし、1950年に西鉄と南村争奪戦をやった巨人は
1956年のオフ広岡達郎の披露宴で「契約解除」を伝える
非常な通知をした。
 

 

 

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別当 薫

1920年8月23日~1999年4月16日

兵庫県西宮市出身

右投右打 外野手

 

旧制甲陽中学時代はエースで4番。

甲子園大会に3回に出場。卒業後慶應義塾大学へ進学。

東京六大学通算35試合出場、133打数47安打、打率.353、1本塁打。

 

1942(昭和17)の春季リーグで

当時史上最高打率の.500を打ち首位打者に輝いた。

1943(昭和18)年10月16日に行われた出陣学徒壮行試合

最後の早慶戦)では慶大の4番・センターとして出場。

 

戦後、慶大を繰り上げ卒業後、

1947(昭和22)年にノンプロチームに入団、

同年に中学時代からのファンだった大阪タイガースへ入団。

 

1年目の1948(昭和23)年はオープン戦8試合で7本塁打を放ち、

公式戦でも6月半ばまで首位打者を走っていた。

しかし、盗塁で滑り込む際に左足を骨折して3ヶ月戦列を離れた。

後半戦には復帰録したが、規定打席に52足りなかった首位打者jにはならなかった。

 

1949(昭和24)年。今も語り継がれている「ダイナマイト打線」で

3番別当、4番藤村冨美男を中心に

とてつもない破壊力でで打率.322、39本塁打、126打点を記録した。

 

1950(昭和25)年、2リーグ分立時

多くの阪神選手と共にパ・リーグ新球団

毎日オリオンズに移籍。

 

そこでも打率.335、43本塁打、105打点を記録。

パ・リーグ初の本塁打王、打点王に輝き

毎日オリオンズ優勝に大いに貢献し、MVPにも選ばれた。

同時にトリプルスリーも記録、打って、走って大活躍だった。

 

ただ、人望と人気があった別当は

1952(昭和27)年の「平和台事件」によって

兼任監督となり、現役1本とはいかず、

中途半端な数字になってしまったのは残念だった。

湯浅禎夫~平和台事件がすべての栄光から転落してしまった野球人~

 

↡ 野球雲チャンネル

 

スマートな体型に眼鏡をかけた強打者。

別当薫は大下弘と違ったセンセーショ ナルな登場をした。

甲陽中から慶応義塾 大学に進んでからも、

光の当たる場所を 歩き続け、戦後大阪タイガーズに入団し、

すぐに藤村富美男と二枚看板。

 

野球選手 というより役者のイメージだ。

優しい男 が激しい走塁や強烈な打球を放つその姿に女性ファンも燃えた。

 

 野球に対して大いなる熱さを 持っているが、

表に出さない情熱が都会的だ。

毎日に移籍する際も、 若林忠志に一任する姿勢もそうだ。

 

毎日に入団後も、大阪時代と同じ ように本塁打を打ち、

ヒットで出 塁すれば、果敢に走塁をし、トリ プルスリーを達成する。

初代ミス ターオリオンズの誕生だ。

 

別当の 都会的雰囲気が毎日オリオンズの イメージを決めたのも過言ではな い。

 現役生活は短かったもの通算3割を 超え、

監督になっても優勝はなかったが 

1000勝を達成出来たのは別当のス マートなイメージと

選手を育てる寛容さ を持っていたからに違いない。

 

1999 年4月16日死去(享年 78 歳)

1988年 野球殿堂入り。
 

 

 

 

 

 

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野球界、スポーツの世界を超え、社会に大きな影響を与えた

ジャッキー・ロビンソンがブルックリン・ドジャースで

1947年4月15日にメジャーに昇格された。

 

ジャッキー・ロビンソンのプレーや行いは

今では多くの人々に伝わっている。

メジャーリーグ初の黒人選手と言われたりもしているが、

正確には違う。

 

アフリカ系アメリカ人選手は1884年にモーゼス・フリート・ウォーカーが先だが

その後、大リーグは人種差別のリーグとして63年間の長きにわたり

白人以外は大リーグでプレーできなかった。

 

入団前のオーナー会議ではドジャースに対して

フィリーズやカージナルスはロビンソン排除を強硬に主張したが、

当時のチャンドラーコミッショナーはドジャースとロビンソンを支持し、

フリック・フォードナショナルリーグ会長は、

対戦拒否をしたら出場停止処分を課す命を出した。

 

ジャッキー・ロビンソンは

1年目にしっかり結果を出し、この年から制定された新人王に選ばれる

成績は打率.297、本塁打12本、49打点、29盗塁だった。

ジャッキーロビンソンの成功により、他球団も黒人選手を入団させた。

 

ドジャースの会長ブランチ・・リッチーは経営者として、大リーグの発展に貢献した。

カージナルス時代はGMとしてマイナーチームをファームチームとして構築。

今のマイナー組織の整備をした。

 

そして、1942年にドジャースのGMとして迎えられる。

1944年にランディスコミッショナー(黒人選手受け入れに消極的だった)が亡くなると、

黒人選手を受け皿を作り出し、

いよいよ、1947年のジャッキー・ロビンソンの入団へこぎつけた。

背景にはブルックリンという土地柄、中流的な黒人家庭に向けてのマーケティング、

そして、選手供給の不安からの開拓も考えていた。

 

しかし、奥底には当時のアメリカの極端な人種差別に対する嫌悪感があったと思われる。

 

1947年の4月15日に

ジャッキー・ロビンソンがデビューできなかったら、

今ある、MLB繁栄はなかっただろう。

そして、日本人選手もMLBで活躍できなかったと思われる。

 

デビュー50年目の1997年4月15日、

ジャッキー・ロビンソンの背番号「42」は

全球団で永久欠番になっている。

 

 

2013年に公開された

ジャッキー・ロビンソンの伝記映画

「42」世界を変えた男は

野球映画公開から3日で

2730万ドル(約27億円)を売り上げて

野球映画史上最高のオープニング記録を打ち立てた。

機会があれば是非鑑賞をおすすめします。

 

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データ協力 日本プロ野球記録

データ協力 たばともクラシックSTATS鑑賞

データ協力 篠浦孝氏

 

 

 

左から杉浦清、天地俊一監督、坪内道則助監督兼任

 

1950(昭和25)年のプロ野球は

8球団からセ・リーグ8球団、パ・リーグ7球団の計15球団と

倍増近くになったことで、野球選手のランクの差や

前年から採用されたラビットボールと呼ばれた「飛ぶボール」の影響で

ホームラン狂時代となった。

 

セ・リーグの覇者、松竹ロビンスの打線は「水爆打線」と言われ

その打棒で、中盤から一気にぶっちぎり勝率.737という高率で優勝した。

水爆打線の破壊力は凄すぎる~記録から見る松竹ロビンス1950年

 

しかし、セ・リーグ上位3球団は松竹ロビンスに負けない打線でもあった。

1950年の中日ドラゴンズも中々な打線です。

 

 

      打率  本塁打    打点    盗塁    順位
8 坪内道則 .288 7 57 28 21
9 原田徳光 .306 13 79 30 12
3 西沢道夫 .311 46 135 4 10
7 杉山  悟 .241 21 63 19 52
5 杉浦 清 .296 26 96 13 16
2 野口 明 .271 18 73 3 35
6 松本和雄 .258 1 52 29 39
4 国枝利通 .272 3 58 39 34
             
投手 杉下 茂 .269 3 15    
  服部受弘 .275 0 18    

 

上は1950年は開幕戦のオーダーです。

投手は杉下茂 27勝15敗、服部受弘 21勝7敗の成績を残しています。

 

8人が規定打数に入っているのは

松竹、中日、大阪の3球団。長打力が高い球団です。

中日のチーム打率は松竹の.2869、本塁打179に負けますが

打率.2739、本塁打144本はリーグ2位でした。

 

(NPBサイトから引用)

 

1950年中日打線の核となる打者は

西沢道夫一塁手です。

本塁打と打点は別格なのがわかります。

小鶴誠、岩本義行(松竹)、藤村冨美男(大阪)

青田昇(巨人)と並ぶ超強打者です。

 

そこに草創期から活躍している

坪内道則が1番を打ち、2番に好打者原田徳光、

4番に伸び盛りの杉山悟が入り、

 

5番に中日監督だった杉浦清が選手に戻って

キャリアハイの成績を残した。

 

6番に鉄腕野口二郎の兄、野口明がこちらもキャリアハイの成績。

 

7番に3年目の松本和雄が29盗塁の俊足を生かし

 

8番、国枝利通が39盗塁の機動力で繋いでいった。

 

(NPBサイトから引用)

 

1950年のセ・リーグ打撃成績には10位に西沢道夫氏しか入っていません。

しかし、チーム成績2位を残したのは杉下茂のような大エースの存在はありますが、

各打者のバランスの良さがあったかもしれません。

 

水爆打線の破壊力にはかないませんが、

西沢道夫を中心に安定した得点力を持った「良い打線」です。

 

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