野球雲の記念すべき創刊号の特集は

「史上最弱の球団はどこだ!」ということで

3球団を選出しました。

 

ワースト3は

①1955年 大洋ホエールズ

②1961年 近鉄パールス

③1955年 トンボユニオンズ

 

の3球団です。

 

 

2018年9月に「平成30年間史上最弱球団」をえらぶイベントも開催しました。

そして、創刊号から10年

野球雲チャンネルで戦前の最弱球団探しを始めました。

前編が公開されました。力作です。

 

 

野球史のアナザーストーリーを知ることが出来ます。

どうぞよろしくお願いします。

 

史上最弱球団はどこだ!MLB編(ブログバックナンバー)

 

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データ協力篠浦 孝氏

 

 

新田恭一  (慶応義塾大学)

1898(明治31)年9月24日-1986(昭和61)年1月9日

広島県広島市出身

 

(松竹時代の新田恭一)
 

大正5年(1916),第2回全国中等学校優勝野球大会

(夏の甲子園大会。当時は、豊中球場で開催)に、

慶應普通部の右翼手・投手として出場し優勝。

 

翌6年(1917)には、エースピッチャーとして出場した。

大正7~12年(1918~1923)、慶応義塾大学では、

遊撃手以外のすべてのポジションをこなした稀にみる万能選手だった。

専門は投手で、コントロールに優れており、

打率も10シーズン平均.294の好打者であった。

当時は球界の麒麟児といわれた。

 

卒業後は、大毎野球団・都市対抗の東京倶楽部で活躍したり、

銀座でゴルフの洋品店を経営するなどした。

ゴルフでもアマチュア日本一になるなど多才。

当時の日本ではめずらしい野球、

ゴルフの技術に対して優秀な理論を持っていた。

 

戦後、下半身を使った打撃スイングを「新田理論」として

松竹ロビンスの打撃コーチとして、小鶴誠を強打者に育てた。

破壊力のある「水爆打線」の中核としたが、

「新田理論」で活躍した選手が腰を痛めることが増え、

次第に新田恭一の理論が日本野球界では廃れていった。

 

昭和6年(1931)の「ボーク事件」の審判団の一人で、

同じく審判であった三宅大輔と、

明大への通知の有無に関しての論争を繰り広げた。

 

大正9年(1920)シカゴ大学に慶大が日本チームとして

28回目の対戦で初めて勝利した時の投手だった。

そのときの凄さを晩年 

「ええ、日本の野球は向こうよりずーっと下でして、

偶然でしたけど、私がピッチャーで勝たして頂いて、

帰ってから提灯行列やって、銀座なんかが大変賑やかだったのを覚えております。」

と当時を振り返った。

 

大正時代の野球界では

頂点にいた選手のひとり。

戦後のプロ野球では、打撃理論の第一人者であり、

松竹ロビンス-松竹大洋ロビンスー読売ジャイアンツ-近鉄バッファローと

指導者の道も歩いたが、今は新田恭一の野球理論は傍流化しているため、

大正時代の実績をあわせれば、野球殿堂入りしてもいい野球人だが

今では忘れられた野球人でもある。

 

とても残念なことである。

 

 

新田恭一監修「野球の科学」岩波ブックレット

 

 

 

 

 

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■小野三千麿 (慶応義塾大学)    
  1897(明治30)年5月22日-1956(昭和31)年2月2日
 


大正6年(1917)、慶応義塾大学に入学。

一年生の時から投手として頭角を現し、

剛速球と懸架のドロップの変化球で安定した投球術で
大投手の風格を見せた。

当時、大投手内村を擁した一高に勝利した時には

投手として大いなる活躍をした。

卒業後、慶大 OB を中心としたクラブチームである「三田倶楽部」に所属し、

大正11年 ( 1922)年に来日した全米選抜チームに日本人初の勝利投手となった。

 

大正9(1920)年、日本運動協会と同時期に

大阪毎日新聞社が創った

セミプロ球団「大毎野球団」に所属し

大正14(1925)年に毎日新聞創刊1万5千号の記念行事として

渡米した野球団の選手として参加した。

その後、西日本やフィリピン、台湾、中国、韓国などを遠征したが

昭和4(1929)年3月に解散した。
 
その後、毎日新聞記者としては都市対抗野球などのアマチュア野球に貢献し、

大会で活躍したチーム、選手、指導者を「小野賞」として表彰され、

小野三千麿の名を後世に残している。

大正5大投手の1人。

 

 

1959(昭和34)年、特別表彰で野球殿堂入りした。

 

 

 

 

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大正名選手列伝 ② 日本初の本塁打王-ベーブ・田中といわれたレジェンド

田中勝雄 (早稲田大学)

1898年7月1日-1995年3月2日

大阪府出身

 

右端が田中勝雄選手

 

大正5年(1916)、市岡中の左翼手として

全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)。

当時は豊中球場で開催)で準優勝。

 

選手が9名しかいなかったため、

決勝戦では急遽経験のないキャッチャーを務めた。

中学時代から、超中学球の強打者と言われていた。

大正7年(1918)早大に入学し、走攻守の三拍子そろった外野手として、

11年(1922)の秋まで活躍した。

 

在学中の通算打率は .371。

そのうち、大正8年(1919)春簿打率は.556

大正 9年(1920)春 .588

大正11年(1922)秋 .524で首位打者に輝いている。

 

放った本塁打は16本。

大正11年春には22試合に7本の本塁打を打った。

当時は、4大学~5大学リーグの時代であったため

東京六大学野球の記録にはならないが、

その並みはずれたパワーは「ベーブ・田中」と呼ばれ、

日本最初のホームランバッターとして名を上げた。

また、がっちりとした体型ながら、足も速かったという。

 

昭和12(1937)年~昭和14(1939)年には

早稲田大学野球部監督

1941(昭和16)年には職業野球朝日軍の代表理事を歴任した。

 

1985(昭和60)年 野球殿堂入り

 

船橋市吉澤野球博物館には

田中勝男さんのバットが展示してりました。

その重さは1.4キロと重量級だったそうです。

 

大正時代の野球情報は今の時代あまり取り上げられませんが、

昭和のプロ野球発足時の指導者、経営陣に深くかかわっている場合があり、

もっと、掘り起こさなければいけないと野球雲は考えています。

 

これからも地道に取り上げていく予定です。

 

 

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大正時代が始まったのは110年前の1912年。

当時は今のようなプロ野球が無く、

早稲田、慶応、明治、法政、立教大学の5大学の選手たちが

野球界の頂点に君臨していた時代だった。

(東京帝国大学加入はギリギリ大正15年)

 

しかし、その人気はすさまじく、今のプロ野球人気以上の

観客動員もあるような熱狂ぶりだった。

 

そんな、大正時代の名選手を紹介していきます。

 

第1回は早稲田大学の谷口五郎投手です。

 

(左が谷口五郎、右が田中勝雄)
 

谷口五郎 (早稲田)1901年1月2日-1980年9月26日)

佐賀県出身

 

大正時代を代表する快速左腕投手。

全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園大会)では、

1920年(大正9)の第6回大会まで朝鮮の学校には

全国大会出場権がなかったため、出場は適わなかったが、

強豪チームといわれていた釜山商業のエースとして活躍した。

 

 

 

 

1920年9月、19才で早稲田に編入試験を受け入学。

1922年の秋季リーグでの早大完全優勝に、エース谷口は大いに貢献した。

当時はまだ早慶戦が中断中だったため、

慶大OBの三田倶楽部と早大OBの稲門倶楽部による三田稲門戦での、

早大新鋭の谷口と三田倶楽部の大投手 小野三千麿の投げ合いは、

ファンを熱狂させ、芝浦球場は超満員で隣接する

テニスコートのスタンドまで観衆で埋め尽くされた。

 

1922年(大正11)秋、三田稲門戦での「逆ワインドアップ(モーション)事件」は、

谷口の投球がボークか否かで球界を騒然とさせたが、

結局その後来日した全米軍のモリアリティ審判によりボークでないと判定された。

 

 

1953(昭和28)年から1957(昭和32)年まで読売ジャイアンツ、

1959(昭和34)年から1963(昭和38)年まで大洋ホエールズで

コーチを歴任。巨人では水原茂、大洋では三原修のもとで活躍した。

 

大正五大投手の一人。1979年野球殿堂入り。

 

 

 

 

 

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野球雲4号の特集「太平洋往来」の
きっかけとなったのは、1950年代に群馬県の少年が
アメリカの野球殿堂にカタログを請求し、
そこに載っているメジャーリーガーたちの住所に
選手のイラストともにファンレターを送り、
そのお礼の手紙郡を見たからです。

 

 

 

1910年代から1960年代までに活躍した

アメリカ野球のレジェンドばかりの写真のリストは以下のレジェンド

トリス・スピーカー
ジョージ・シスラー
エディー・コリンズ
テッド・ウイリアムズ
ジャッキー・ロビンソン
ボブ・フェラー
ヨギ・ベラ・・・・


いやはや、あまりの衝撃に鼻血が出そうでした。

レジェンドたちが、日本の少年に丁寧に返事を返した事実に
かなり痺れてしまいました。



 

トリス・スピーカーは3514本のヒットを打ち、通算打率は.345!

そして、792本の二塁打を打ち、この記録は今もMLB記録という凄さ!

そして、大正2年の日米野球で来日!当時の日本の野球ファンに

豪打を見せつけました。



 

ボブ・フェラーはインディアンズ一筋18年

火の玉投手といわれ、1938年から剛速球で

奪三振王として266勝162敗を記録、

第2次世界大戦で3年の兵役についてなかったら

300勝はいっていたかもしれない大投手です。



 

テッド・ウイリアムズは言わずととしれた打撃の神様。

1941年に.406で首位打者になったが、これを最後に

MLBでは4割を打った打者はいない。

 

ジャッキー・ロビンソン

MLB初の黒人だリーガーとして、ドジャースに入団。

様々な困難を乗り越え、人種の壁を破ったパイオニアとして

もっともMLBに影響を与えた一人かもしれない。

背番号42は、全球団で永久欠番だ。

 

こちらのサインは、野球殿堂博物館で保存されたそうだ。

まだまだ、野球のお宝は、ふとしたところにあるかもしれない。

 

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今回は日米野球の裏面史、

1925年にアメリカからやってきた女子野球チームの

日本滞在の悲劇を97年経った今に再度ご紹介いたします。

 

 

今はなき、荒川区尾久球場での
米国女子野球チームと日本大学野球部との
記念写真を偶然入手。
試合は大正14年10月23日に行われて、
日大が6-0で勝利した。

 

 

アメリカから来た女子野球チームは、
フィラデルフィア・ボビーズという。
日本に来たことさえ、あまり知られていないが、
現在は佐山和夫の「日本野球裏面史」に詳しい。

 

 

写真のサインはこのチームを率いた
元大リーガーのエディー・エインスミスと
アール・ハミルトンのものと思われる。

 

 

 

また、写真最後列の真ん中あたりの背の高い女性が
日本からアメリカに帰る船上で高波にさらわれ、
行方不明になった女性投手レオナ・カーンズかもしれない。
(日本野球裏面史のカバー写真がレオナ・カーンズ投手)

 

 

 

尾久球場は現在の都電荒川線・荒川遊園駅の
荒川遊園と反対側の住宅地になっている辺りにあった。

下町風情の残る荒川遊園周辺も、球場側の住宅地は
大きめの区画で整備されていて、なんとなく、
球場を解体したあとに、住宅街になったのだか?と
推理できる。集合写真の奥に当時の架線と電気線の
大きな鉄柱が見えるので路線から
そんな遠くない場所に球場があったように思える。

 

 

ちなみに尾久球場は東京帝国大学野球部が
主に使用していたそうだ。

 


野球殿堂入りしている。中野武二が尾久球場建設と運営に
関わっていたと言われている。

 

尾久球場での記念写真は、来日して最初の試合だったので
ボビーズとしては、負けたものの、明るい笑顔で写っている。
その後、興行的に失敗し、
米国に帰ることが困難な
状態になるとは夢にも思わなかっただろう。

 

 

現在、女子プロ野球も行われているが、今から
97年前に日本にやってきた女子野球チームが船で来たこと。
そして、荒川区には東京スタジアムと尾久球場という
野球史に燦然と輝く野球遺跡があったことを、
もっと知らしめて欲しいと思う。

 

 

 

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1988年野球殿堂特別表彰に永田雅一氏が選出された。

 

 

早かったのか?遅かったのか?

しかし、パ・リーグ初代総裁となり、東京スタジアムを建設し

長い間、プロ野球界運営にいた人物としては

やっと野球殿堂入りしたという感想だ。

 

野球選手に個性が無くなった。」という話が
いつの時代にも出てくるが、
それは個性という価値観が、時代とともに変わっているからだと思う。
それでも、時代を超えた個性を持った人物はいた。
 

1934年にベーブルースが来日して85年となる。、
それをきっかけに現在のプロ野球ができた。
黎明期に球団を持つ企業は、挑戦者のように思えるが,
今よりオーナーの権力が強かったから、会社同士の意地も
あってプロ野球に参戦したとも考えられる。

そんな、プロ野球のオーナー列伝のセンターは
なんといっても「永田雅一」ではないだろうか?

大映映画の創設に関わり、1947年社長に就任後
戦後の映画全盛時にプロ野球に参画した。
大映スターズから始まり、自らパ・リーグのために
合併や新球団創設などを繰り返した。

ワンマンという言葉は彼のためにあるくらいの専制政治で、
映画、球団を引っ張っていった。
そして、パ・リーグ総裁就任時に、
パ・リーグ人気のために球界再編や勝率の悪いチームには罰金等の
システムを作り、大映スターズが罰金を払いこともあった。

最後はロッテオリオンズの社長だったが、
本業の大映がテレビブームに乗り遅れ、坂を転がるように経営不振となり
1971年に球界を去った。

1970年に優勝したときは、ファンが球場になだれ込み
一番最初に胴上げをされ、号泣していた。


(千葉ロッテマリーンズ球団50年史より)


巨人に対しては終生ライバル意識が強く、
東京球場で巨人が公式戦をやることを断っていたと言われている。

1959年の歴史的天覧試合では毎日-西鉄の試合も検討されていたが
結局は巨人-阪神戦とセ・リーグに譲り、天皇陛下への説明を
パ・リーグ中澤会長が受け持つことで折り合いをつけたらしいが、
そのことを永田はずっと意地として持っていたのかもしれない。

今も永田雅一の評価は功罪の振り幅多く、評価も分かれている。
しかし、当時にはプロ野球という世界には必要だった個性だったと思う。

今日は永田雅一の命日です。(1985年)
 

10月7日 永田雅一 涙の胴上げ!(1970年ロッテオリオンズ優勝)

 

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10月20日は阪神タイガース、

大洋ホエールズ(現DeNA ベイスターズ)の創設時に
参加し、プロ野球第1号の本塁打を打った

名選手 藤井 勇の生誕日です(1916年)。


大洋ホエールズ監督時代

 

藤井勇

1916年10月20日~1986年2月7日

鳥取県鳥取市出身 左投左打 外野手


1934(昭和9)年

ベーブ・ルースが来日した時の大リーグ選抜チームを迎え撃つために
「株式会社大日本東京野球倶楽部」が結成された。
それが、現在の読売ジャイアンツ(巨人軍)になっています。

巨人軍の正力松太郎は
甲子園球場を持っている阪神電鉄に職業野球に参加を要請、、

阪神電鉄は
大阪タイガースを1935年に結成し、
阪神創設時に入団した選手に藤井勇がいた。

鳥取一中時代は4番打者として甲子園大会に3度出場し、
沢村栄治率いる京都商業を破っている。
プロの世界でも、沢村を打ち込んでいる。

左投げ左打ちで主に外野と一塁を守った。
打順は1番か2番、その上長打力もあったので、
俗に言う「いやらしいバッター」だったかもしれない。

1936(昭和11)年春、初の公式戦が始まった。
大阪タイガース、名古屋軍(現中日)、阪急(現オリックス)、
大東京、セネタース、金鯱軍の6球団が参加。
(巨人は2回目の渡米で不参加)

4月29日から5月5日甲子園球場で連盟主催の試合の
6日目、5月4日セネタース戦
藤井はこの日2番レフトで出場、
5回、野口明投手から打った打球は左中間を抜け、
一気にホームまで駆け抜けた。

プロ野球第1号本塁打はランニングホームランだった。

このシリーズで藤井は5試合で19打数10安打、打率 .553
二塁打3本、本塁打1本を記録し首位打者となった。
そしてシリーズ15試合で唯一の本塁打が藤井のものだった。

藤井の後は、3番松木、4番景浦、5番藤村と
クリーンナップ全員が野球殿堂入りしている迫力の打線!
その中で大当たりは藤井のセンスの良さもわかる。

タイトルには恵まれなかったが、出塁率が3割7分以上を5回、
1937年春の49得点は2シーズン制の最高記録だ。

徴兵されたことで戦前は4シーズンだが、
戦前のタイガース黄金時代を作った。

背番号は11番、戦前はいろは順で決めていたので「11」
その後、村山実投手が付けて永久欠番になった。

戦後は1946年パシフィックで復帰、しかし、名選手が故の
阪神との二重契約問題もあったが、1950年セ・リーグ分立時に
大洋ホエールズに移籍、チームの4番として
1950(昭和25)年は .327 34本塁打 122打点と大活躍し、
その後、1958年まで主軸として活躍、
実働17年だが戦争がなければ21年にも及ぶ。

1955年に選手兼任監督になったが、セ・リーグ記録の最低勝率、最多敗戦
31勝99敗 2割3分8厘を記録、1年で辞任したが、弱すぎた原因のひとつに
4番の藤井勇がレギュラーになれなかったことがあった。
(3番青田昇以外はかなり厳しい戦力だった)

その後は大毎、阪神コーチに就任し野球界に貢献した。

通算1487試合、5387打数 1482安打 146本塁打 764打点 打率.275
戦前は343試合 1029打数 284安打 .276


安定した打力と実績を考えたら
野球殿堂入りしていなくてはいけない野球人のひとりだろう。

 

 

 

 

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個人的で申し訳ないですが、
一番好きな選手が中日ドラゴンズの谷沢健一選手でした。

何しろ、引っ張っても、流しても
フォロースローが美しく、長打も打てるのが頼もしかった。

 

1980年に復活の首位打者を獲得した時は

毎日、ヒットの数を記録し、中日の勝率を

上回る勢いでヒットを打ち続ける姿に

唯一の希望を抱いていた。

谷沢さんと初めてお会いした時のスナップ‼

谷沢健一選手は

早稲田大学時代から史上屈指の左打者として
1969年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。
1970年に新人王を受賞。

中日の中軸打者として、1974年20年ぶりのセ・リーグ優勝時の
主力選手としても活躍した。

1972年から1975年まで2割9分台を打ちながら
もう少しで3割に到達しない谷沢は、ある時巨人の王貞治と食事をした。
「どうしたら、3割を打てるようになるでしょうか?」と聞いたところ、
「3割を狙うのでなく、3割5分を目指さないと3割は打てない」と言われ、
目標を高く持つことを意識し、背番号を「14」から「41」(良い番号)に変え、
気持ちが吹っ切れたのか?1976年は打ちまくった。

 




この年、日本ハムから巨人に移籍した安打製造機張本 勲が
王貞治、若松勉(ヤクルト)、J.ホプキンス(広島)と谷沢が加わり
3割6分代で首位打者を争っていた。

夏を過ぎ、張本と若松が首位を争い9月末現在、

張本 461打数 163安打 .35357
若松 434打数 153安打 .35253
谷沢 448打数 151安打 .33705

残りの試合で張本を抜くには、5割以上を打たなければならず、
普通に考えれば奇跡、張本と若松の争いだと誰もが思ったが、
谷沢はその奇跡をやっていくのだ。

10月1日から10月21日まで張本は52打数19安打 .365と普通にすごかったが、
谷沢は48打数25安打 .521 と超人的打率で打ちまくり、
.3548で張本の.3547を1毛差で抜いたが、
四捨五入だったので、細かく見れば.35483対.35477と6糸差とミクロな戦いだった。

この記録が史上僅差の首位打者に谷沢はなった。
一方張本は小鶴誠が1950年に記録した打率を
1毛差で抜いて史上最高の2位打率者となった。

 

1976年セ・リーグ打撃成績(NPBホームページ引用)

 



張本は翌年1977年も首位打者争いをしたが、1976年の3位若松に
首位打者を取られ、史上二人目のセパ両リーグ首位打者の栄冠はならなかった。

谷沢は1978年アキレス腱痛で、野球生命を絶たれるかと思われたが
1980年奇跡のカムバックで.369の高打率で2度目の首位打者を獲得。
その後は本塁打も増え、4番としても活躍、2000本安打も達成した。

張本、若松、谷沢と2000本安打超えをした打者たちの
首位打者争いは今思っても豪華な争いだった。

谷沢が首位打者が決まったヒットを打った瞬間バンザイをしながら
一塁に駆け込んだ姿は今も記憶に残っている。

 

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10.19と言えば、川崎球場でのロッテ-近鉄の
死闘が有名ですが、その陰に隠れがちな話題をご紹介しました。

 

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