1960(昭和35)年10月2日は
前年最下位で苦しんだ大洋ホエールズが闘将三原脩を監督で初優勝した日だ。

大洋ホエールズは1950(昭和25)年にセパ両リーグに分裂した際
セ・リーグに加入した球団で、親会社はマルハ(現マルハニチロ)。
50年代は打撃力が高い球団で巨人から青田昇、阪神から藤井勇などの
名打者が移籍してきたが、投手力不足や球団生え抜きの選手が育たず
Bクラスに甘んじていた。

そこで、巨人、西鉄で監督をしていた三原脩が西鉄内での場所が
微妙な雰囲気なったという話を聞いた大洋側が招聘。
当初より1年遅れの1960年に大洋ホエールズに就任した。

 




1955(昭和30)年に1位から61ゲーム以上離され最下位を経験し、
一念発起したのか、球団は大補強として
明治大学から5人の新人を獲得、その中に大車輪の活躍をする
秋山登投手、土井淳捕手もいた。彼らが育っていき、三原監督の采配ががっちりあい
6年連続最下位から1960(昭和35)年に見事優勝した。

                 
   


西鉄時代の三原監督は大エース稲尾投手を使いに使い、
打撃陣もベテラン天才打者大下弘、怪童中西 太、強気の豊田泰光と
個性的な選手を擁し、黄金時代を築き上げ
野武士野球と言われる選手の自主性で勝っていった。


大洋ホエールズは秋山登、打者では近藤和彦、桑田武はいたものの
おとなしいイメージのチーム力を投手を前面に立て、
「超二流」と言われるような選手の個性を最大限生かし、
1点差で勝利していく戦い方をしていった。

 


小粒なのに、監督の采配で勝っていく
世間では「三原魔術」と言われ
三原脩野球が完成したような年に思える。

巨人の水原監督は西鉄時代の三原監督に3年連続で日本シリーズで敗れ、
前年の1959年も南海に4連敗を喫し、60年も大洋の三原監督に敗れ、
5年連続で日本シリーズで勝てないことに苛立っていたのか、
10月には写真を執拗に撮ろうとした記者に
暴力を振り、巨人退団のきっかけとなってしまう。
三原監督へのライバル心からくる悔しさも心の奥にはあったであろう。

日本シリーズはパ・リーグを10年ぶりに制した大毎オリオンズと対戦。
戦前はミサイル打線と言われた大毎有利と言われたが、
全て1点差で4連勝日本一となり、予想外の結果に
大毎は西本監督が解任されてしまった。

(大毎オリオンズの物語はまたの機会に・・・)

その後、大洋は横浜ベイスターズになった1998年まで優勝は出来なかったが、
1960年のミラクルな大洋の優勝は21世紀も印象深いペナントレースとして
野球史の中のエポックの一つとなっている。

 

 


ヤクルト時代の三原監督

 

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1903年10月1日。
野球界の中で一番盛り上がるイベント
「ワールドシリーズ」が開幕した。

 

 

記念すべき第1回は
ナショナルリーグの覇者ピッツバーグ・パイレーツ
アメリカンリーグの覇者ボストン・アメリカンズ(現レッドドックス)の間で
戦いが始まった。

ナショナルリーグは1876年に創設、野球界のトップに君臨していた。
そのため、徐々に選手間の年棒や運営にも問題を抱えていた。
20世紀に入って、全米各地にあるプロ野球リーグの一つウエスタンリーグが
アメリカンリーグと名称を変更後、当時の会長バン・ジョンソンが1901年
「メジャーリーグ」宣言をし、ナショナルリーグに対抗するようになった。

ナショナルリーグ本拠地の3都市にもアメリカンリーグは進出し、
ジョンソン会長の革新的な運営方法、選手の引き抜などで
サイ・ヤング、ナポレオン・ラジョイなどのスタープレーヤーも移籍した。

1902年にアメリカンリーグがナショナルリーグは本拠地としている都市の
観客動員数を抜き、ナショナルリーグは無視できなくなり、
アメリカンリーグを「メジャーリーグ」として認め、
1903年に優勝チーム同士で9試合制先に5勝した球団を
メジャーリーグナンバーワンとすることになった。

アメリカンリーグ会長バンジョンソンは
ボストン球団に「絶対勝て!」と命令したと言われているが、
そのとおり、アメリカンリーグのボストン・アメリカンズが
5勝3敗で初代チャンピオンになった。

 

1904年のワールドシリーズは、

ナショナル・リーグを制した

ニューヨーク・ジャイアンツが、監督のジョン・マグロ―が

アメリカンリーグとの確執から、

「格下のアメリカン・リーグとの対戦をしない」という男の意地で

ア・リーグのボストン・レッドソックスとのワールドシリーズを戦わなかった。

 

ワールドシリーズは1905年からは第一次世界大戦、第二次世界大戦も開催したが

1904年のジャイアンツ対戦拒否と

1994年選手会ストライキによる中止以外は123年で121回開催した。

 

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ピート・ローズ

(ピーター・エドワード・ローズ・シニア)

1941年4月14日~2024年9月30日

アメリカ合衆国オハイオ州出身

右投両打、外野手、一塁手、三塁手、二塁手。

 

 

安打製造機、チャーリー・ハッスルの愛称で呼ばれ

そして波乱に満ちた野球人生——。

メジャーリーグ史にその名を深く刻んだ

伝説のスイッチヒッターです。

泥臭く駆け抜けた「チャーリー・ハッスル」

1941年、オハイオ州シンシナティに生まれたローズは、

1960年に地元球団のシンシナティ・レッズと契約。

1963年のオープン戦で四球を選んだ際、

一塁へ全力疾走する姿を見たヤンキースのミッキー・マントルと

ホワイティ・フォードから「チャーリー・ハッスル(ハッスル坊や)」と

揶揄されたのが、彼の代名詞の始まりだった。

 

ローズは文字通り120%の闘志をグラウンドで発揮。

身体を深く折り曲げる独特のクラウチングスタイルから安打を量産し、

1963年に打率.273でナショナルリーグ新人王を獲得した。

「ビッグレッドマシン」の象徴として

1970年代、レッズは「ビッグレッドマシン」と呼ばれる黄金期を迎える。

1番打者としてチームを牽引したローズは、

1970年、1975年、1976年のワールドシリーズ優勝に貢献。

1973年には打率.338で3度目の首位打者とリーグMVPを獲得し、

1975年にはワールドシリーズMVPにも輝いた。

 

さらに1978年には、NL歴代1位(MLB歴代3位)となる

44試合連続安打を記録。同年に通算3000本安打も達成した。

その後、フィラデルフィア・フィリーズへ移籍し、

1980年にもチーム史上初のワールドシリーズ制覇をもたらした。

偉大な選手実績と通算記録

ローズの魅力は長打力ではなく、

ボールを芯で捉える圧倒的なミート力と、常に先の塁を狙う積極性にあった。

24年間の現役生活で故障者リスト入りはわずか2回という強靭な肉体を誇り、

数々のMLB歴代最多記録を樹立した。

  • 通算最多安打:4,256本(1985年にタイ・カッブを抜く)

  • 通算最多出場試合数:3,562試合

  • 通算最多打席数:14,053打席

  • 通算最多シングルヒット:3,215本

  • 200安打以上達成:10シーズン

  • オールスター出場:17回(史上唯一、5つの異なるポジションで選出)

  • 主なタイトル:首位打者3回、ゴールドグラブ賞2回(外野手部門)

1984年にはモントリオール・エクスポズで通算4000本安打を達成。

1985年、古巣レッズに選手兼任監督として復帰し、

同年9月11日、ついにタイ・カッブを超える通算4192安打目を左前に放ち、

世界中のファンを熱狂させた。

永久追放と球界復帰、そして伝説へ

1986年に現役を引退し監督に専念したローズでしたが、

1989年、監督在任中の野球賭博疑惑により

MLBから永久追放処分を受けてしまう。

 

これにより野球殿堂入りの資格も失ってしまった。

しかし、球団やファンからは一定の人気を誇り。

2016年にはレッズの殿堂入りを果たし、背番号「14」は永久欠番。

2017年には本拠地に象徴的なヘッドスライディング姿の銅像が建立された。

 

2024年9月30日、83歳で死去。

 

死後の2025年5月、

メジャーリーグ機構により永久追放が解除され、

ついに殿堂入りの資格が回復した。

 

グラウンドを誰よりも泥臭く、全力で駆け抜けた「安打製造機」。

彼が打ち立てた4,256安打の凄さは、

これからも語り続けていくレジェンドだ。

 

通算成績(1963-1986)24年

3562試合 14053打数 2165得点 4256安打

756二塁打、135三塁打、160本塁打、5752塁打

1314打点、198盗塁、1566四球、1143三振、

打率.303 OPS.784

 

 

 

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野球の歴史には、あの時打っていれば!あのエラーがなければ!
あのプレーが流れを変えた!とか瞬間瞬間のプレーで
野球の勝敗、栄光と挫折が決まってしまう。

長い野球の歴史の中で、一人の選手のスーパープレーが
試合だけでなく、野球の歴史に永遠に語り続けるであろう守備を
紹介したい。

それをしたのは、ニューヨーク・ジャイアンツの外野手
ウィリー・メイズだ。

 

 

 


1950年ジャイアンツと契約、入団すぐ頭角を現し
1951年公式戦デビューし121試合、20本塁打、68打点
打率.274で新人王に輝いたが、1952年途中から1953年は朝鮮戦争に従軍、


ジャイアンツの監督レオ・ドロッチャー監督は
「メイズほど、攻走守の三拍子揃った選手は珍しい。
  彼こそ我がジャイアンツの宝」と語り、


兵役に行った際には
 「メイズがいれば我がジャイアンツは優勝、いなければBクラス」と
野球雑誌で語った。


そして、メイズのいないジャイアンツの成績は振るわず
1954年メイズが復帰したシーズンに優勝をしたのだった。

そして、チームの若き救世主がシーズン最後で大きな仕事をした。
1954年のワールド・シリーズはジャイアンツとクリーブランド・インディアンズ
インディアンズは154試合で111勝をあげア・リーグ最多勝利数を更新し、
戦前の予想は俄然インディアンズだった。

第1戦、試合は2対2のまま
延長戦に突入し、10回の表インディアンズの攻撃
無死1.2塁で長打の左打者ビック・ワーツ外野手を迎えた。
ドン・リドル投手のカウント2ボール、1ストライクのあとの4球目を打つと
打球はセンター深く伸びていき、誰もが抜けると思った。

メイズはそれを追っかけ背走、背走、背走し続け

 

 

 


 

 

 

 

後ろ向きのままキャッチ!!

 

 

Catch
 

 

即座に返球したため、二塁走者がタッチアップで三塁に行っただけで、
ジャイアンツはこのピンチを脱した。

そして10回裏ジャイアンツは
ダスティー・ローズ外野手がサヨナラ3ランホームランを放ち
5対2で勝利!!

その勢いのまま、戦前の予想を覆し、ジャイアンツはなんと
4連勝でワールドシリーズを制覇してしまった。

メイズのスーパーープレイは
「ザ・キャッチ (The Catch)」と言われ
ワールドシリーズ最高の守備として今も語り続かれている。

ウイリー・メイズは本塁打王4回、盗塁王4回
ゴールドグラブ賞12回と長打、走力、守備力と万能選手として
メージャーリーグ史上最高の「コンプリートプレーヤー」と称されている。

ウイリー・メイズ「The Catch」と言われたスーパープレーの動画

 

 


スタッツ提供:広尾 晃氏

 

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坪内道則(道典) 外野手 

右投右打

(1914年4月7日-1997年9月17日) 愛媛県出身

 

選手歴:大東京(1936-1944)-ライオン軍-朝日軍

ゴールドスター(1946-1948)

中日ドラゴンズ(1949-1951)

 

立教大学を中退後、1936年大東京軍に参加、

秋からレギュラーとして1番もしくは3番を打った。

センターの守備は定評があり、大東京時代の本拠地洲崎球場では、

柔らかい足場を利用しても

ダイビングキャッチはファンの歓声を浴びた。

 

足も速く1941(昭和16)年、1942(昭和17)年と盗塁王に輝く。

戦前は大東京、ライオン、朝日と9年間チームの中核として活躍、

1944年(昭和19)年は監督兼任としてチームを牽引した。

当時の選手としては珍しく一度も戦争に取られなかった。

 

1946(昭和21)年ゴールドスターの監督兼任選手として復帰し、

打率.316で打撃5位の活躍をした。

翌年は連盟から「野球名人」として

阪神若林忠志と共に選ばれるもチームは最下位に、

1948(昭和23)年は助監督兼任となり、ベストナインにも選ばれる。

 

1949(昭和24)年中日ドラゴンズへ移籍、中日でも助監督兼任で活躍し、

1951(昭和26)年監督兼任もその年引退。

デビューから引退の年まで規定打席(打数)に達した選手でもあり、

最後の試合でも1番センターの定位置だった。

 

三振が少なく1946(昭和21)年はわずか6個。

シーズン100試合出場選手の中では今もシーズン最少の記録もある一方、

死球が多く1946年から引退する1951年まで6年連続死球王だった。

 

1948(昭和23)年9月12日の南海ホークス線で

プロ野球初の1000試合出場。

同年9月28日急映フライヤーズ戦で

史上初1000本安打を記録した。

 

 

 

また、1947(昭和22)年に25試合連続安打の記録を作り、

当時は日本記録として騒がれた。

後に1946年に野口二郎選手が

31試合連続安打を記録していたのが判明し、

幻の日本一に終わってしまったが、

野球記録を注目させることのきっかけを作った。

 

引退後は中日、ロッテで指導者として活躍、

最後は1986年まで中日の寮長も兼任し。

1992年に野球殿堂入りをした。

 

 

 

 

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プロ野球トラブル史でもう二度と出ないのではないか?と

思われる「放棄試合」

今回は戦後のドタバタ時に起こった笑うに笑えない物でした。

 

プロ野球は終戦後、すぐにプロ野球再開に動き、
1946年にはリーグ戦を再開した。

しかし、戦後初のペナントレースは物資不足、交通インフラの整備不足等
戦争の傷跡が深い時代だったので、通信インフラは郵便がメインだった。
プロ野球初の放棄試合はそんな時代だったからこそ起きた事故だったかもしれない。

1946(昭和21)年9月27日
西宮球場ではゴールドスター対セネターズ12回戦が行われる予定だった。
球場は2,000人のファンが東京から来たセネターズの突如現れた
ホームランバッター大下弘、慶大選手時代から人気のあった飯島滋弥の
バッティング練習を見ようと駆けつけていた。

試合は1時開始予定、なかなかセネターズの選手が来ない・・・。
セネターズの宿舎は西宮から電車で15分の宝塚にとった。
前夜から降り続いていた雨は、西宮球場にも翌日朝10時過ぎまで降っていた。


雨が上がったのは午前11時すぎ、ゴールドスターの打撃練習が11時30分頃から
始まったものの「セネターズの選手がいない」と関係者たちが心配になり、
宝塚の宿舎に電話した。なかなか繋がらない電話をかけ続け
やっとつながり聞けば
「宿舎のまわりはずっと雨が降り続いていたので、選手は中止と思い込み
 遊びに行ってしまった」という。

試合をやるとわかったセネターズ側は宿舎に残っている選手が
急いで西宮球場にかけつけてもベンチにいるの4、5人しかいない。
遊びに行っている選手に招集しようにも、当時の通信事情では不可能、
時間は刻々と過ぎていく・・・・。


金政球審はどうにもならない状態を連盟幹部と相談、
「午後1時30分試合開始」と決め、選手は集まる気がしない。
午後1時すぎ、ゴールドスターの選手は守備につき
1時27分、とうとう球審はしびれを切らし、
「放棄試合」を宣告した。

 



その後、
「グラウンドに駆け込んできたセネターズの横沢三郎監督は
メンバー表を片手にヒラヒラさせながら青くなって立っていた。」
(ゴールドスター監督 坪内道則監督談)

 

 

 

大下選手は遊びに行ってしまったのだろうな~(笑)

 

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9月26日(1980年)は大正時代に早稲田大学野球部で

活躍した名投手で、戦後は巨人軍初の専任コーチとしても

野球界に貢献した、谷口五郎氏の命日です。


『本当にね、天下を取ったような気持ちでしたよ。』


「逆ワインドアップ(モーション)事件」後

来日した全米軍のモリアリティ審判によりボークでないと

判定された時の感想より

(吉澤野球博物館インタビューテープから)

 

●谷口五郎(岩瀬五郎)
1901(明治34)年1月2日~1980(昭和55)年9月26日
佐賀県出身

大正時代を代表する快速左腕投手。

 

 

【釜山商業から満鉄時代】

強豪チームといわれていた釜山商業のエースとして活躍。

 

当時は在外中学校に全国大会出場権がなかったため、

夏の甲子園大会の出場は適わなかった。

卒業後は南満州鉄道株式会社(満鉄)に入社するが、

1920年9月、19才で早稲田大学に編入試験を受け入学。

 

【米国遠征】

早稲田大学入学直後の10月に、新人ながら明大との決勝戦に登板し、

8-0の日没コールドゲームで完投勝利を収める。

翌1921年(大正10)第4回早大米国遠征に参加し、

メンバーの松本終吉・有田富士夫両投手が病に倒れた後、

ほとんど一人で全試合を投げ通した。

 

この遠征は4ヶ月(3月27日から7月29日)という長期遠征となったが、

その中で5月18日のシカゴ大学戦は、

先発した谷口は肩の苦痛を訴えていたが、

交代する投手がいないという壮絶な状態の中、

シカゴ大学に初の勝利をあげた。

 

在留邦人の歓喜の中、米国人までスタンドをおりて

喜びの握手を求めたと部史にある。

対戦成績は、15勝23敗。

 

実質投手1人という状況の中で、遠征中に飛躍的に技術力を上げた。

 

【三田稲門戦】

この年の秋季リーグ、翌1922年の秋季リーグでの早大完全優勝に、
エース谷口は大いに貢献した。

 

当時はまだ早慶戦が中断中だったため、

慶大OBの三田倶楽部と早大OBの稲門倶楽部による

対三田稲門戦での、
早大新鋭の谷口と三田倶楽部の大投手「小野三千麿」との投げ合いは、
ファンを熱狂させ、芝浦球場は超満員で隣接する

テニスコートのスタンドまで観衆で埋め尽くされた。

1922年(大正11)秋、

三田稲門戦での「逆ワインドアップ(モーション)事件」は、

谷口の投球がボークか否かで球界を騒然とさせた。

その後、来日した全米軍のモリアリティ審判により

ボークでないと判定された。

 

トップのコメントはその時のもの。

 

【入隊からその後】

1923年(大正12)、久留米の歩兵第56連隊に入営し、翌年除隊。

その後、大連に戻って、銭沙取引所(両替店)に勤め、

大連実業団に参加。

 

1928(昭和3)都市対抗野球に出場し、快投を続け、

決勝戦で東京クラブの新田恭一(慶大卒)と息詰まる投手戦を繰り広げ、

自ら適時打を放ち1-0で優勝を決めた。

 

当時、岩瀬と改姓していたが、

早大時代の彼を知る多くのファンが声援を送った。

1951年(昭和26)、福島県の常磐炭鉱野球チームの監督を務めた。

1953年(昭和28)巨人軍の投手コーチ、

その後大洋の投手コーチに就任し、若手の育成に尽力した。

1979(昭和54)、野球殿堂入り。

 

 

逆モーション(ワインドアップ)事件


1922年(大正11)10月1日、三田稲門戦1回戦で、

早大現役投手の谷口は、かねてから工夫を重ねていた

逆モーションを使う。

 

普通のピッチング開始前は、腕を前方から回転させるのだが、

谷口は後方から前方に回転させた。

三田側は困惑し、「ボーク」と抗議したが、

主審蘆田公平は、「ボークにあらず」とし、

谷口はそのまま逆モーションの投球を続け、

延長10回、稲門が2対1で勝利する。

 

10月9日の2回戦、投手はまたも小野対谷口。

逆モーション見たさの観客も集まり、超満員の芝浦球場で、

谷口はまたこの逆モーションを使用した。

険悪なムードの中、エキサイトした谷口と三田の高浜益雄選手の間に

いさかいが起こり、谷口は一時ダッグアウトに引き上げるなど

後味の悪い試合となった。

 

谷口は、早大野球部の安部磯雄部長から、約1か月の謹慎を命じられ、

逆モーションはボークか否かで、三田軍の人々の「ボーク説」、

稲門軍の人々の「非ボーク説」を中心に、新聞誌上の公開論争となり、

当時の野球界にかつてない疑問を投げかけた。

 

その後、10月末に来日した全米軍のモリアリティ審判により

「ボークにあらず」と判定されて解決した。

 

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以上は

船橋市中山にあった吉澤野球博物館で

コンテンツ事業の手伝いを野球雲がしていた関係で

当時開催していた「谷口五郎展」からの引用です。

 

現在、吉澤野球博物館は船橋市の船橋アリーナ内に展示室として

明治時代から戦前の野球を中心に展開しています。

 

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1936(昭和11)年9月25日に

巨人軍の澤村栄治投手が日本プロ野球初の

ノーヒット・ノーランを達成した。

 

 

澤村は京都商業を中退して、1934(昭和9)年日米野球の全日本軍投手として参加。

米国選抜軍にはベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス等

当時の大リーグでもトップクラスのメンバーがそろい、

日本軍は0勝16敗と惨敗だったが、その中で11月20日草薙球場での

澤村はルー・ゲーリッグ本塁打1本に抑え、惜しくも0対1で敗れたものの

この1試合が今も名勝負として澤村の名声を上げた試合となった。

 

全日本チームの中で17歳の澤村はあともう少しのところでベーブルースや
ルー・ゲーリッグのいる打線を完璧に抑え勝利するところであったが、
惜しくもゲーリッグの本塁打を打たれ、0対1で惜敗したのは有名な話。

しかし、その後「スクールボーイサワムラ」として
大リーグにも名声が伝えられた澤村は2度目の米国遠征をした後
1936(昭和11)年秋から巨人はリーグ戦に参加したものの、
調子は上がらず、むしろ目的を失ったような内容になっていた。

米国遠征でも10勝10敗、防御率は4.96というチーム投手陣最低の数字、
帰国後も燃え尽きたのか、日本の未熟な野球に対して傲慢な気持ちが
あったのかもしれなかった。

藤本監督はチームに喝を入れるために今では伝説の茂林寺での合宿を敢行
新人選手を中心に猛特訓をし、どこか冷めた目で練習をしていた澤村たちの
プロ根性を目覚めさしたのだった。

ここで、澤村は速球、変化球に磨きをかけて
秋の甲子園大会に臨み、9月18日の第1戦の金鯱戦では
3安打11奪三振の完封勝利(4対0)、
23日の阪急戦でも2点を失うものの11奪三振の完投勝利(4対2)

そして、9月25日中1日で先発のマウンドに立った。
相手は打線好調の大阪タイガース、先発は若林忠史、投手戦の気配だ。
速球も、得意変化球のドロップも好調で
4つの四球を出すものの、適当にばらけていたのが良かったのか
タイガース打線は三振と凡打を打っていくだけ。

結局、好調を持続して澤村栄治は日本初の無得点無安打試合を達成した。
(1対0)

捕手中山武から「無得点無安打」のことを言われても
澤村はピンと来なかったらしいが、打者データをとりながら
勝つためだけに投げていたようだ。
(才能だけで野球をしていないのが凄い。)

この試合をきっかけにタイガースは「打倒!澤村」に燃え
名勝負を繰り広げていく。
一人の天才が歴史を変え、作っていく日だった。

 

 

澤村栄治は1944年東シナ海で戦争の犠牲となった。
プロ野球人としての10年間は、野球界にとって計り知れない影響を
いまも与え続けている。

 

 

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9月24日(1985年)は

大正時代最強打者!井口 新次郎が亡くなった日です。

 

 

大正時代の最強打者と言われている

井口新次郎氏は野球殿堂入りしているが、

21世紀なってからはあまり語られない伝説の野球人だ。

 

井口新次郎

 

1904年6月7日~1985年9月24日

 

和歌山中学(現 桐蔭高校)の投手兼遊撃手。

大正10年(1921年)の第7回甲子園大会で優勝の中心となり、

その強さは1試合平均18点以上、総得点数75のすさまじい破壊力を持ったチームであった。

井口も個人記録として持つ大会最多得点16得点が

夏の甲子園大会記録として現在も燦然と輝いている。

翌11年(1922年)の第8回大会では、主将で四番打者、

全試合完投の投手として優勝の立役者となる。

 

 

大正12年に早稲田大学に入学し、1年から不動の四番打者として活躍した。

同年春の早明第3回戦で、明大の名投手 湯浅禎夫は、

満塁時に井口に敬遠の四球策をとる。

この時のことは、大正12年「野球界」8月号に、

『・・・此際、四球で山崎(三塁走者)を送り出しても

 井口に四球を呈すると云ふことは策の得たるものであった。』と書かれている。

いかに井口が強打者であったかを物語るエピソードである。

卒業後は、学生野球のOBのスター選手を集めた大毎野球団で活躍し、

その後毎日新聞社に入社し、高校野球などに健筆をふるった。

平成10年に野球殿堂入り。

 

井口新次郎氏をインタビューからのエピソード

 

和歌山中学は、夏の甲子園第一回大会(大正10年)から

第14回大会まで連続出場した強豪チーム。

井口選手の在学した時代には、今では考えられないことだが、

新聞社が斡旋して、早大・慶大・法大・大毎などと対戦したり、

摂政宮(後の昭和天皇)が試合を観戦するようなチームだったという。

 

鳴尾球場での大会様子

 

大正10年第7回大会(鳴尾球場)のエピソードで

決勝戦の京都一商戦で京都一商のエース

竹内愛一投手が捻挫をしてしまったため

和歌山中に一日延期を申し出た。

 

当時の朝日新聞社は当事者同士での話し合いを持たせたが

和歌山中の矢部監督がはねつけたため、

延期されず、順当に決勝戦は行われた。

 

両校の監督が早稲田大学の先輩後輩の関係で決めたという、

草創期の大会ならではのエピソードだが

井口は

「あの時、試合延長をしていたら甲子園大会の前例が出来て、

 雨以外の延期もあったかもしれなかったね。」と語っている。

 

 和歌山中は進学校だったため、井口も

「神戸商高(現 神戸大)に行くはずだった・・・。

 神戸商高のナニかの具合悪かったというのを聞いたのは、4月の2日か3日・・・

 自分は一浪するつもりだったですよ・・・ところが親父がね、

『お前、東京の早稲田に行けや』というわけで・・・」   

 

こうして、早大の強打者 井口が誕生する。1年でレギュラー入りし、

2試合目からは4番打者に抜擢されるというプレッシャーについて尋ねられた井口は、

「いやー、憶えていないねぇ。しかし、憶えてないがね、学校へ行って練習やってみてね・・・

   こいつはおれより上やなぁ、と感じたのは誰もいなかったなあ」と笑った。

実力とともに太めの体から滲み出る愛すべき人柄とで、

常に井口は観衆の人気者だったという。

 

 打撃スタイルも豪快で大正15年に打った六大学野球リーグ戦の63.64.65号目の

 ホームランは当時の飛びにくいボールとしては一人の選手が連続で打ったことで

 強打者の風格を見せている。そのときのバットは275匁の重さのバットだったそうだ。

 

井口は

「当時、プロ野球があったら、もっと練習したかもしれないなぁ。」と

 大学野球時代後期に目標が無くなった喪失感も言葉にしていた。

 

 

豪放磊落な性格は、年をとってからも変わらなかったらしい。

「博物館においでになった井口さんを駅までお送りしたのですが、

改札を抜けて一度も振り返ることなくホームへ向かわれました。

あの人らしいと思いましたよ。」と

館長はあこがれのスター選手だった井口のことを懐かしそうに語った。

 

 

   *インタビュー日:1981年6月25日  井口氏72歳

 

*船橋市にあった旧吉澤野球博物館には明治から昭和初期の学生野球で活躍した

名選手の肉声テープがあった。その中身は今では忘れられてしまった、

伝説の野球人が当時の野球スタイルや出来事を鮮明に語っている。

その、貴重なインタビューは当時の吉澤館長が丹念に収録したものだ。

博物館のコンテンツ制作を野球雲スタッフがお手伝いしたものを再掲いたします。

 

吉澤野球博物館資料展示室HP

 

 

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野球雲はいつも古い野球とその周辺文化について書いています。

 

 

 

9月24日は戦後のマンガブームの中

伝説の「トキワ荘」に集まる漫画家の

リーダー的存在だった寺田ひろおの命日です。

 

「背番号0」の紹介

 

 

漫画家・寺田ヒロオは、伝説的な「トキワ荘」のリーダー格として、

そして自身の野球経験を活かした数々の名作を生み出した事でも知られている。

 

自身も学生時代から社会人野球の投手として活躍した寺田は、

1953年に漫画家を目指して上京し、トキワ荘へ入居した。

向かいの部屋に住んでいた手塚治虫をはじめ、

藤子不二雄Ⓐ、赤塚不二夫ら多くの才能ある後輩たちの良き兄貴分として、

私生活から創作活動まで面倒を見る頼もしい存在だった。

特に藤子不二雄Ⓐの自伝的漫画『まんが道』では、理想的な先輩として描かれている。

 

彼の創作活動の中心にあったのは、やはり野球漫画でした。

1956年から連載した『背番号0』や、

週刊少年サンデー創刊号から連載された『スポーツマン金太郎』は、

当時の少年たちを熱狂させ、寺田の代表作となりました。

あらすじは、ヒーロー金太郎が読売ジャイアンツに入団し、

強肩を活かしたピッチャーとして活躍する物語。

 

金太郎が単調な投球に悩む中、

怪我をきっかけに習得したカーブで大リーグの強豪チームに挑み、

活躍する物語が描かれている。

また、桃太郎が引退から復帰したり、

王貞治、長嶋茂雄、金田正一といった実在選手との夢の対決が繰り広げられたりする

特に、試合の場面に中継アナウンサーのコメントを挿入するという、

当時としては画期的な手法を導入したことで知られている。

 

1960年には『スポーツマン金太郎』で第1回講談社児童まんが賞を受賞した。

 

しかし、漫画業界が週刊誌の隆盛と共にスピードを上げ、

劇画がブームとなると、寺田は正統派児童漫画への信念から

時流と合わなくなっていく。

 

創作ペースについていけなくなり、

安易な劇画ブームを批判する言動も目立つようになっていった。

やがて、寺田は週刊誌の連載から撤退し、

1973年には漫画家としての活動を完全に引退。

 

引退後はトキワ荘の仲間たちとの交流も絶ち、寡作な生活を送る。

自身の健康問題が原因であったことも示唆されているが、

晩年、仲間たちとの最後の宴会を開いた後、

「もう思い残すことは無い」と語ったというエピソードが残されている。

 

寺田ヒロオは、日本の野球漫画に革新をもたらした功績と共に、

トキワ荘を象徴する存在として、日本漫画に殿堂があれば

確実に殿堂入り知る一人だ。

 

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