権藤博 投手

1938年12月2日佐賀県出身

 

権藤博氏が2019年の野球殿堂入りを果たした。

 

選手としても指導者としても大きな実績を残し、

今なお、プロ野球界に貢献している。

 

権藤博投手は

1961(昭和36)年社会人野球ブリジストンタイヤから

中日ドラゴンズに入団。当時の農人監督から絶大な信頼から

杉下茂投手から引き継いだ背番号20を背負い、

新人の年から、大エースとして中日ドラゴンズを背負った。

そして、終わってみれば69試合に登板。

35勝19敗の成績で最多勝、最優秀防御率、新人王、沢村賞

ベストナインを受賞した。

 

投球回数は429.1回を投げたが、これはセ・リーグの最高記録として

今も記録として残しているが、これからは永遠に破られない記録の一つだ。

その酷使ぶりに、「権藤、権藤、雨、権藤」と言われ、

今も、忙しすぎることや、過労死寸前に思われるような

働きすぎを伝える言葉として使われている。

 

下の表は1961年権藤博投手の軌跡だ。

凄まじいの一言だ。

 

1961(昭和36)年の全登板

 

表の読み方・・・左から

・シズ登・・・シーズンでの登板目
・通算登・・・初登板からの登板目
・チム試・・・シーズンでのチーム試合目
・登間・・・・登板日から次の登板日までの間日数(中○日の表現)
  連投は登板日の次の日が登板日
  D連はダブルヘッダーにおいて第一、第二試合での連投
・月日・・・・登板した月日
・相手・・・・対戦したチーム
・ダブル・・・複数試合の順番
  ①、②は第一・第二試合、表裏・チームとも両方全く同じ試合。
  △1、△2は、第一・第二試合、表裏が違ったり、チームが違ったりと変則的な試合。
・球場・・・・登板した球場
・対戦先投・・先発時の相手チーム先発投手
・登結果・・・左側の”先”は先発登板、数字は○番手での登板
       右側の”完”は完投、”降”は途中降板、”封”は完投して失点なく0点に      

      抑えた試合(0点完投引分けでも使用)、”了”はリリーフして、試合最後まで投げた登板
・勝敗・・・・○は勝ち投手、●は敗戦投手、Sはセーブ(セーブが未規定年の場合は、

       独自に印付け、Hはホールド(ホールドが未規定年の場合は、独自に印付け)       

       背景がベージュはチームが勝利、深緑はチームが敗戦
・回・・・・・投球イニング数、背景が黄色はQS(クオリティスタート、回が6以上かつ       

      自責点が3以下の場合に色付け)桃色はHQS(ハイクオリティスタート、       

      回が7以上かつ自責点が2以下の場合に色付け)
・投数・・・・試合での投球数
・打者・・・・試合での対戦打者数
・被安・・・・試合での被安打数
・奪三・・・・試合での奪三振数
・四死・・・・試合での四球数と死球数を合わせた数
・失点・・・・試合での失点
・自責点・・・試合での自責点
・被本選手・・試合で本塁打を打たれた選手、複数の場合選手名の右に数字

 

 

1962(昭和37)年の全登板

 

1962(昭和37)年も30勝17敗の成績で最多勝を獲得した。

デビューから2年連続30勝以上というのは、権藤博投手しか記録していない。

しかし、前年の酷使の影響で、防御率は1.70から2.33に落ちた。

しかし、それでも362.1回を投げ、61試合登板した。

翌年も45試合、220.2回を投げたが球威がだいぶ落ち、10勝12敗

4年目には6勝11敗と並以下の投手になり、彼の投手人生は終わった、

3年で75勝48敗 1012.1回を投げぬいた権藤投手は

100勝は届かなかったが、あまりにも大きな足跡を残した。

 

自分の酷使や当時の未熟なトレーニング方法を振り返り

「肩は消耗品」という思想で、その後のコーチ、監督としての実績も残した。

 

BBM2006カード

 

権藤博 通算投手成績

 

権藤博 通算打撃成績

 

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