シーズン30勝投手列伝の第1回は

野口二郎投手

 

30勝を3回達成しています。

 

1919年1月6日生まれ
中京商業時代に1937年(昭和12年)夏、
1938年(昭和13年)春の甲子園大会でノーヒット・ノーランを含む
4試合連続完封勝利の選抜大会記録をだして優勝投手。

 



1939年(昭和14年)に東京セネターズに入団し、
1年目からエースとして69試合、38完投、459回を投げ33勝19敗の活躍
翌年1940年(昭和15年)も387回を投げて33勝11敗
防御率は驚異の0.93を記録した。

しかし、最多勝は42勝15敗で巨人のビクトル・スタルヒン投手が獲った。

 

1940(昭和15)年は33勝11敗 387回を投げ防御率は2.04と下がったが、

リームのエースとして君臨した。

しかし、この年も巨人のスタルヒン投手(この年から登録名須田博)が

38勝12敗の成績を残し、最多勝になれなかった。


1941年(昭和16年)は25勝12敗と勝ち星は減ったが、
338回を投げ、防御率は前年より防御率は0.88向上して
鉄腕振りを見せ付けた。

野口投手のハイライトは1942年(昭和17年)のシーズンだろう。
5月23日に完投勝利したあと、翌24日の名古屋戦にも先発し、
今もプロ野球記録として残る延長28回を完投したことは
野球史の中では燦然と輝く。
名古屋軍の西沢道夫投手も28回を投げぬいたのもすごい。

 



1942年は40勝17敗 防御率1.19
完封勝利19は、今も日本プロ野球シーズン記録だ。
投球回数は400回を大いに超え、527.1回にも達した!
40勝も稲尾和久、スタルヒン投手の42勝に次ぐ記録だ。

そして、初の最多勝投手になった。

青田昇は著書の中で
「まるでボールを小石のように投げている」という印象で
澤村栄治のように大きなバックスイングでなく、
小さなモーション、短いインターバルで
ビュッ、ビュッと小気味の良い快速球で投げてくる。
そして、148キロは出ていただろう球速なので
打ちずらかった」と語り、

その上、
戦前投手の中ではナンバーワンのコントロールで
ウオーミングアップでも捕手のミットは
その位置を動かす必要もなく、

野口の「バッターの一番の弱点は、その最も得意とする
ポイントの5センチ上と5センチ下にある。そこを突くのが
打ち取るコツだ」という言葉が印象的だったそうだ。

投手成績は
237勝139敗3447.1回を投げ、防御率は1.96と
通算防御率は2点台を切った驚異の数字。

打者としても主軸を打ち、
規定投球回数と規定打席の両方を満たしたシーズンは
6回もあり、通算安打は830本
 
1946年(昭和21年)には
31試合連続安打のプロ野球記録を残した、好打者だった。

戦後は阪急で活躍し、引退後も長く指導者として活躍した。

20勝以上を6回を記録したものの、

最多勝のタイトルは1回、通算防御率が1.96という記録ながら

防御率1位も2回と少なめなのは、当時の大エースの凄さを物語るものでもある。

 

野口二郎は四兄弟で、4人ともプロ野球に入った。

長男は野口明、次男が二郎、三男は昇(1945年戦死)、四男は渉。

野口四兄弟を基に2017年NHKでドラマが製作された。

「1942年のプレイボール」野口二郎を大賀が演じた。


2007年5月21日死去。

生前にもっと当時の野球うを語ってほしい一人だった。
そして、聞きたかった


写真提供:古書ビブリオ
 

投手成績

 

 

打撃成績

 

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