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和歌を学ぶ「歌塾」
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作品掲載
2021年8月分掲載
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五十首御歌の中に夕月
まだくれぬ空の光とみる程にしられで月のかげになりぬる
伏見院
玉葉和歌集秋下631
訳や語釈、これまでの解説は
昨日までの記事を
お読みくださいね。
「の」や「ぞ」など、
述部を連体形で受けるべき
助詞が
その前になくとも
述部を連体形にすることで、
詠嘆を表し余韻を持たせる
効果を狙った、
という歌もあります。
が、同時に、
京極派和歌に一定数見られる
それらは
単なるミスや
音数合わせである場合も
多いように感じられます。
それが現代短歌であれば
「はい、ミスですね」
「はい、
ほかを工夫する努力をせず
安易な音数合わせに
逃げたのですね」
と判断できるのですが、
京極派の皆さんや
建礼門院右京大夫、
和泉式部など
個性的であるとはいえ
私たちよりはよほど
文語ネイティブに近い人たちが
どの程度
そうしたミスをするだろうか、
と考えると……。
私には
その判断材料が少ないです。
ただ、いま挙げた
和泉式部、建礼門院右京大夫、
京極派歌人には
述部を連体形にすべき助詞が
その前にない場合でも
連体形で結んだ歌例
がまあまあある、
それは事実です。
和泉式部、建礼門院右京大夫、
京極派歌人の共通点は、
とても雑に表すと、
伝統的に
歌として美しいとされてきた
あれこれの約束事を
着実に守ることより
自分の心を率直に表すことを
優先させたがる、
または優先すべきだと考える、
という点。
(これはとても雑な表現なので、
厳密にはそうでない面もありますよ)
そういう姿勢で歌に臨むと、
おのずと
文法的に「ん? 」という点は
増えがちになりますよね。
詠歌上の信念として
文法その他約束事が
最優先ではない、
ということですから。
先に書いたように
伏見院詠「まだくれぬ」も、
私の今年の訳は正しくなく、
2016年の訳のほうが
伏見院の制作意図に近かった
可能性はあります。
つまり、
作者は
「月が光になった」ではなく
「月の光に変わった」
を意味したかったのだ、
つまり「の」は主格ではなく
連体格を表す「の」だったのだ、
それはそれとして
結句は連体形にして
余韻を持たせたかったので
こうしたのだ、
述部を連体形にすべき語は
前にないけれど、
これは余韻を持たせるために
そうしたのであって
文法ミスではない、
という可能性が、あります。
また、同時に、
「月が光になった」ではなく
「月の光に変わった」
を意味したかったのだ、
つまり「の」は主格ではなく
連体格を表す「の」だったのだ、
それはそれとして
述部の連体形は
ミス、ないし音数合わせであり、
余韻を持たせるための意図は
特になかったのだ、
という可能性も、
他の京極派和歌例を見るかぎり
ゼロではないのだよなあ……。
どちらかというと、
文法に忠実に訳そうとした
私の訳より、
この2者のどちらかが
伏見院の制作意図に近かった
気もするのだよなあ……。
本当はこの記事で
終えるつもりだったのですが、
終わりません。また明日。
まだくれぬ空の光とみる程にしられで月のかげになりぬる
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