私は、臨床心理士の、あるいは精神療法の仕事として、客観的現実(そんなものがあるかどうかはしらないが)はともかくとして、主観的には少しでも幸せを感じられるように、お手伝いするということがあると信じている

大金持ちにしても、主観的には幸せでないのかもしれない

彼らが金にしがみつき、相続にしがみつき、弱者に冷たいのも、やはり主観的には不幸で、猜疑心も強くて、金がないと幸せでない、金がないと人間など離れていくという体験世界にいるからではないかと思う

それはそれでかわいそうなのだが、そのせいで貧乏な人がよけいに貧乏をさせられているのでは、不幸の連鎖になるので、彼らにもっと主観的な幸せを味わってほしい

たとえば、大金持ちの年老いた男性が、貧乏人に変装して飲み屋で自分の信念を語っていたら、金がなさそうなのに、愛されたという経験をすれば、きっと金に対する執着もずいぶん緩むだろう

日本は金持ち向けのカウンセリングが、事実上ないから、彼らが主観的な幸せを信じることができず、よけいに格差社会がひどくなっているのかもしれない

税制を改正すると同時に、金持ち向けのカウンセリングがもっと充実したらと思うことはある

ただ、そうはいっても、あまりに客観的現実がひどく、あす食べるコメもないというような人に幸せを感じさせるのは困難である

生活保護というのは、スプーン一杯の幸せでも感じられるレベルのものであってほしい

食べられて、雨風が防げるぎりぎりのレベルというのでは、精神療法家がどんなにがんばっても幸せを感じさせるのは難しい

生活保護が受けられない人もいるのもひどい話だ

働いているのに生活保護以下の収入と言うのもおかしな話で、もし貯金がないのなら、受ける資格はある

主観的な幸せを感じられるようになるには、最低限の生活保障はやはり必要だろう

マズローの欲望階層説ではないが、飢えている人間には飢えをしのがせてあげないと、それ以上の欲望はなかなかうまれてこないし、それ以上の幸せを求める気にはならない

おにぎり一つ食べれるのが、最高の幸せというのが(金持ちでそういう人はいるかもしれないが)、本当の幸せとはいえないだろう。人間は野生動物ではない

以前は、まじめに論議されたが、今は否定的に考えられることの多いものに、アファーマティブ・アクションというものがある

格差是正のための逆差別ということなのだが、効果云々とか、文字通りにそうしろということはないが、その精神は大切なものだと思っている

成績順でとっていくと、貧しくて教育機会の少ない黒人が結果的に不利になるというので、考えられた制度だが、その精神はいろいろなところに援用できる

私は仕事がら、貧しい人や生活保護の人もたくさん見ているが、生活保護の人は精神障害を抱えていたり、その実家が荒れていたりで、貧困以外の不幸を抱えていることが多い

怠惰で働かない人や、アルコール依存の人などもいるだろうが、そこに陥る過程で、不幸な生い立ちやトラウマがあることも多い

つまり、お金だけで幸せになれないところがあることが多い

貧しい人は愛にあふれていて、逆に幸せだというのは、多くの場合、幻想である

もともとはそうであっても、貧困がぎすぎすした人間関係、家族関係を作ってしまうこともある

せめてお金くらいはなんとかしてあげたらどうかと思うし、むしろ今より増額してあげて、ほんの少しの幸せを月に一度くらい経験させてあげてはどうかと思う

生活保護以下の暮らしをしているワーキングプアの人も生活保護の申請をすればいい

私が相続税100%というとひどいことを言うように思われがちだが、被相続者のほうは、小さいころからちやほやされ、豊かな暮らしをしていて、教育の機会に恵まれ(それなのに勉強をしない、努力をしないアホもいる。貧困者の怠惰は断罪されるが、親の財産をあてにする怠惰な人間は断罪されない。もちろん、前者は公的な扶助を受けるから税金泥棒と言いたいのかもしれないが、後者の人がちゃんと働けば相当額の税金を納めることができるはずだから、その損失も実際は大きい)、就職にも苦労せず、親の会社に入れば特別扱いを受け、生前贈与の代わりに、毎年、その手の高額収入を得て、親が死んだ場合、相続財産が入らなくても蓄財ができていることが多い

相続税を100%にしたって、実は、全然、一般の人より恵まれている

世間知らずのきれいごとの道徳論のように思われるかもしれないが、アファーマティブアクションの精神は今の日本にこそ大切だと思うし、所得の再分配は、もちろん経済学的にも必要と思うが、もう少し一般の人に想像力のようなものをもってほしい