イースター休みも終わり、再びデュッセルドルフでの仕事が始まりました。
今オペラハウスでは今週末に初演となるドニゼッティのオペラ「ドン パスカル」や再演となるプッチーニの「トスカ」のリハが行われています。トスカはブラウンシュバイクで何度も弾いたので、余裕を持って臨むことができそうです。
 
イースター休みの終わりは親友のサラのいるニュルンベルクに滞在し、劇場で練習させてもらったり、上映中のオペラを見に行ったりしていました。
 
4日目にはニュルンベルクバスで2時間の位置にある大都市ミュンヒェンへ行き一泊したのですが、この時なんと天気は雪!!つい先日のぽかぽか日和は何処へやら、この極端な気候変動はドイツあるあるです。
 
2人でどうしても見に行きたかったところ、それはミュンヘンから電車とバスを乗り継いですぐのダッハウ強制収容所です。
 
 
強制収容所、Konzentrationslagerは通称KZ(カーツェット)と呼ばれていて、ドイツやポーランドなど負の遺産として残してあるところがいくつかあります。
 
↑吹雪いている中、モニュメント前にて
 
日本でも一番有名、悪名高きアウシュヴィッツKZはポーランドにあります。ダッハウのそれは、ナチスの政権下にて一番初めに造られ、終戦までの12年もの間機能していた比較的大きなKZということもあり、ヨーロッパ各地から社会見学の生徒、学生たちも沢山訪れていました。
 
囚人たちが寝泊まりしていたバラックの部分はナチス政権の崩壊、終戦とともに全て取り壊されていましたが、後世に伝えるため再建築されている部分があり、解説のオーディオを耳に当てながら回って行きました。
 
 
一番死者が増えた終戦間際には定員オーバーも甚だしく、200人ようのバラックに2000人もの人々が詰め込まれていたらしく、真の地獄絵図を想像できます。
栄養不足、不衛生がたたり、解放されてもなおチフスなど伝染病などで命を落とす囚人も後を絶たなかったそうです。
 
 
こちらは外界への逃げ場を遮断するための監視塔や電気網の張ってある囲いの部分です。
 
 
当時は水も流れていて、逃げるのをさらに困難にしています。辛く苦しい時間を終わらせるため、わざと銃殺されにいったり網に当たりして命を終わらせる人も多かったとか、、。
 
膨大な敷地の奥には焼却場やガス室もあり、こちらは再建築とかかれていないので当時のまま残されているのではないかと推測します。
 
 
当時囚人として捉えられた多くの罪なき人々の普段の立ち入りは禁止されていました。
動けなくなるまで極限化で働かされ、使えないと判断されるとあちら送り、という事ですね。
 
 
 
当時人々はガス室、という存在を知らせれずシャワー室という名目で入れられていました。
この重苦しく閉塞的な部屋を後にした時から、サラも私も同時に吐き気がしてきました。。ショボーン
 
その後は資料室へ行きこれまた当時の詳細を読んでいったり、写真や映像で見たりするとさらなる衝撃でしたが、ドイツにいるなら知っておくべき事実が膨大な数残されています。
 
最後の方で、当時16歳でKZに連れて来られ20歳で生涯を終えた少年が母に当てて書いた詩を見つけ、とても哀しくなりました。
 
特に初めの、
「ママ、僕はもう戻れない、神様が僕にそういったんだ。
魂の感情のない地獄というものを僕は体験したよ。
僕が何をしたというの、ママ、、、」という文はもう、、えーん
 
こんな身も心も引き裂かれ死んでいった人々が600万人以上。初めは「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」としてニュルンベルクで公布されたユダヤ人迫害の強化が、まさかこんな惨劇をもたらすとは、人間はこと特定の環境下においてどこまでも残酷になれる生き物だと思います。
 
とーっても重い気持ちで出てきた後は人懐こい猫ちゃんがお出迎え。
 
ミュンヘンに戻り、美しい市庁舎を眺め、ニュルンベルク、そしてデュッセルドルフへと戻りました。
 
いつまでも綺麗な物ばかり見ていたらだめだなぁと、いつか勇気を出してアウシュヴィッツにも足を運びたいと思います。
 
 
おまけてへぺろ
 
デュッセルドルフのNordparkという公園の中にある、日本からの寄与による庭に咲く桜です。
 
 
この花はドイツ語で
Vergissmeinnicht(フェアギスマインニヒト)、「私を忘れないで」という花です。これ聞いたときは、何て名だと、小峠っぽく叫びそうになりました。その、あまりにストレートで。
日本だと忘れな草(勿忘草)でしょうか、さすが日本語はやんわり、品がありますw
ちなみにvergiss mich nicht というのが文法的に正しいのでは、と思われる方、実はmeinと来るのは古いドイツ語で今でゆうmichだそうです。
こんなに小さく可憐な花だったんですね〜。