つれづれフォト・日記 -14ページ目

持続可能な発展のための自然環境

今週の金曜日、通勤途中の高台からの冨士、

朝8時30分、くっきりと見えた。

冨士はやっぱり雪化粧がいい。

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昨日、今日と二日間、放送大学の面接授業受けてきた。

「持続可能な発展のための自然環境」というテーマで、

自然保護について学んできた。12時間、みっちり。

東南アジアのマングローブの再生の取り組み、

日本のマータイこと、横浜国大の宮脇先生の3000万本の

植樹運動、刺激的でした。

身近なところで、自分なりの運動を始めたいもの。

意欲に火がついて、煙が出始めました。

昼休み、センター近くを散策。食事をモスバーガーでとり、

街中を流れる大岡川の桜の紅葉を見る。

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弘明寺商店街を流れるが、川沿いの堤や橋の上の

休憩場所に、多くの人がゆったりと座ったり、

にこやかに談笑したり。優しいいい人たちが住んでいる

街のようだ。江戸、明治と門前町で発展してきたようで、

今も、自分たちの街を誇りに生きているようだ。

東京巣鴨のとげぬき地蔵通りを思い出す。

講義の疲れも、かなり癒された。


児童養護施設の現状

朝はよく晴れていたのですが、午後からは雲の厚い暗い

曇天に変わり、今日の日本を取り巻く国際状況のよう。

浜ちゃんレポ-トきました。政局に流されず、

国民生活に根ざした活動やってますね。

さすが、庶民の代表浜ちゃんです。

参議院選挙の直後、教育カウンセラーをされている横浜在住の

ご婦人からお手紙をいただきました。

「児童養護施設を一度訪問し、子どもたちのおかれている

厳しい現状を見て欲しい」というご要望でした。

関係者のご協力で、9月29日、お手紙を頂いた方とともに

箱根の恵明学園を訪問させていただきました。

複雑な家庭環境や虐待の中で学園での生活をスタートした子どもたち。

ちょうど校長先生自身が放課後の取り出し教育の補習をされていました。
普段はおとなしい小さな女の子が急に大人顔負けの「暴言」を吐くことも。

こころの傷がなせる業(わざ)でしょうか。

全国569の児童養護施設で3万人を超える児童が

日常生活を送っています。その半数が児童虐待を受けており、

この20年間で知的障がいや発達障がいをかかえる

子どもたちの比率が3倍になり、23.4%に上っています。

その反面、指導員及び保育士の配置基準はこの34年間改定されておらず、現場から悲鳴があがっていました。

早速、10月8日に菅内閣に質問主意書を提出。10月19日に、

配置基準の改定について検討する旨の回答を引き出し、

ご相談者から「子どもたちの顔が浮かび涙が溢れました」との

メールを頂きました。

皆様の「声の届く政治」、浜田まさよし、一歩ずつ進めます。

▼浜田まさよしPC用ウェブサイト、

これからも精力的に更新してまいります!
http://www.hamada-m.com/

丹沢の自然保護

念願の丹沢研修に行ってきた。昨年は文化祭と重なり、今年は行けた。

仲間も一緒だったので、4っの目で見る事ができた。丹沢の動物や森を

守る為の活動や工夫について多くを学んだ。丹沢には、狐、狸、しか、

ツキノワグマ、熊鷹などが暮らしている。江戸時代の初期までは、

人里近い平地で暮らしていた狐、狸、しかたちは、人間に追われて、

山で暮らさざるを得なくなった。丹沢の人たちは、行政を動かし、

動物と人間が共に暮らせる森林作りを目指している。

このような取り組みは、神奈川が先駆を走る。

我がふるさとの誇りである。貴重な写真をもとにいくつかの

取り組みを紹介していきたい。

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鹿の糞。鹿に下草を食べられてしまうと、森の土の保水力が失われ、

森が荒れる。そこで

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鹿が入れないゾ-ンを設け植生を保護。鹿が食べられるゾ-ンも残し、

共生を目指す。

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鹿が食べない松風草(右)と大葉麻殻(左)周りは全て

食べられて土が露出。
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動物の移動を妨げない獣道付き擁壁とスリット堰堤

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上は左右に土止めの壁。間に獣道。下はスリットなので、

魚や動物が移動できる。大きな石や流木は止まる。


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最後はモノレ-ル。森の整備や調査のために道を作ると

山を傷めるので、機材、木材、人間を乗せて急峻な坂を

短時間で登る。

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珍しいキウイの実。これが台湾からオ-ストラリアに渡り

改良されて日本に戻ってきた。小さいがキウイの味がする。

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最後に紅葉と清流。心洗われる景色。

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平城京遷都の時代は?

放送大学面接授業で「続日本紀」と「万葉集」を読む。

平城京遷都の流れとそこで働く人たちのことをある程度知ることができた。


大化の改新を実現することに功績のあった中臣鎌足が、藤原氏の姓を賜ったのは、669年10月15日鎌足が没した前日のことであった。

藤原鎌足として世を去った鎌足の後継者が、藤原不比等であった。


この藤原不比等こそ、平城京遷都の提唱者であり、強力に推進する実力者であった。何のために遷都を実行しようとしたのか。


それは、自らの権力基盤を確立し、不動のものとすることが目的であった。藤原京の近くを故郷とする大伴氏に対抗する新興勢力であった藤原氏は、自らの勢力基盤の地域に平城京を建設することを目指したのである。


大伴氏は、万葉集の編纂者である。当然、藤原不比等の和歌は一つも入っていない。権力を握る藤原氏に対し、伝統的な名氏である大伴氏は文化を持って対峙したのである。


現実の世界では、大伴旅人は727年九州の太宰府の長官として左遷され、3年間を九州で過ごす。731年、都に帰ってきて7月25日に没している。


右大臣藤原不比等は720年に没しているが、その子どもたちによって、729年、当時のもう一方の権力者であった、左大臣長屋王は自害に追い込まれる。それは、実力者大伴旅人の留守中に計画され実行されたのである。


729年、2月長屋王の自害によって、藤原氏の独裁体制が確立し、8月には藤原光明子立后、遂に藤原氏は天皇家と姻戚関係となった。


710年に平城京に遷都されたものの、まだ建設は続いていた。


続日本紀和銅4年、711年の記述には、「国々の役民、造都に疲れて、逃げ出す者が多くなった。いくら禁止してもやむことはない。今、宮殿


の垣が完成せず、守ることができない。軍営を設置し、兵隊を常駐させて守らせなければならない」


この記述からすると、平城京は、順調に作られたのではなく、一般の民は、その過酷な労働に逃亡や反乱を起こしていたような様子である。

712年正月には、次のような詔が発せられている。


「国々の役民、都作りを終えて郷に帰る日、食糧絶え、乏しくして多く道路に飢えて、溝に転び倒れて埋もれている。その類少なからず。国


司らは勤めて保護し助けてもらいたい。もし死んだならば、埋葬してやり、その氏名を国に伝えよ」


実に残酷な記述である。働くだけ働かされて、放り出された感がある。まさしく奴隷の如くこき使われて、捨てられている。


古代社会は奴隷制社会であったという識者の本を読んだことがあるが、そのことが、続日本紀記述から窺い知ることができる。


万葉集は、歌を読むことができる知識階級の者たちの和歌を集めたものが主である。奴隷的な生活を強いられていた一般庶民の歌はない。


確かに技巧的ではない、率直な表現が多いことが救いである。縄文、弥生のまだたおやかな生命の感性を窺うことができるようである。

新江ノ島水族館

昨日は、仕事で江ノ島水族館へ行った。

昔と大違い。昔は、狭い、暗い、分かりにくい感じがあったが、

広いデッキがあって、そこで、何百人でも昼食を取れそうである。

すぐに、イルカショーの会場にも、流れて行ける。動線が考えられている。

そのデッキからは、サーフィンに興じる若者と関節の富士山が見えた。
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イルカショーは、久しぶりの大イルカのジャンプは大迫力。

アシカもかわいかった。
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館内の大水槽では、エイが悠々と泳ぐ。尻尾しか写ってないが、

確かに何尾もいたよ。
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放送大学と三殿台遺跡

先月の31日は、前日の台風も抜けて、何とか曇り空であった。

横浜の神奈川学習センターで古代文学の講義であった。万葉集を当時の時代背景と共に読んでいる。通算12時間の講義で1単位。

午前10時から午後5時15分まで、正味6時間の集中講義は、かなり疲れるものである。

昼休みには、運動不足解消のために、近くの高台にある三殿台古墳へ見学に。先回は、時間がなくて、ゆっくり見られなかったので、今日は歩きながらおにぎりをほおばり、直行。

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紀元前1世紀頃、、弥生時代中期の竪穴式住居。床の北側に炉が掘られ、4本の柱に支えられた入母屋作り。

他に、細長い建物の中に、掘り出した竪穴跡が展示されていた。その中には、火事で焼けたと思われる赤茶けた土の見える堀跡もある。

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横浜市教育委員会の遺構解説も分かりやすく、地図入りで看板になっていた。

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当時はすぐ近くまで海がきていたようで、考古館の前の道路を挟んだ反対側の芝生の空き地が、貝塚跡として保存されている。

その他にも、展示室には、古墳時代の勾玉や縄文時代の狩りの道具、死産した胎児が入っていたというかめ棺など多くの出土品があった。
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この日の講義の内容については、「続日本紀」から、読み取られる平城京遷都のために、庶民が苦しんだ様子が痛々しかったこと、藤原氏の権力で、平城京遷都が進められた様子など、興味深い講義であった。詳しくは後日。

町田のシルクロード

最近よく飲んでいる第三のビールは、サントリーから最近発売の「琥珀の贅沢」黒ビールの味わいがなかなかいい。

赤レンガ倉庫で飲んだドイツビールを思い出させる味である。

本格派の味わいである。京都工場で限定醸造とか。

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今日は水曜日で、時間に余裕があり、七国峠を歩く。

七国峠の住宅街が切れて眺めのいい高台から、東京のスカイツリーが見事に見えていた。小さい畑で仕事をする奥さんに

「富士山は見えますか?」声をかけたら、今は見えないけど、こちらかなと教えてくれたが、反対方向の東京方面を見て、「あれがスカイツリーだよ」教えてくれた。

なるほど、くっきりと晴れた青空にしっかりと立っていた。名物のスカイツリーが見えるとは、少々興奮してしまった。

それから程なく、緑地を歩く。緑地の公園に麻生区ビューポイントの石標があった。平成元年の設置になっているので、その頃はいい眺めだったのだろう、

今は、前の斜面に家が立ち並び、半分ほどしか見晴らせない。

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ここから、しばらく緑地内の道を歩く。

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この後、町田のドンキビル5Fのユザワヤへ。職員に頼まれた布を購入に行く。

その帰り、小田急町田東口前で、面白い物を発見。

原町田成立400年の碑とシルクロードの碑。シルクロード、ここは明治維新の横浜開港の時から絹の道となったという。

長野、山梨、八王子から、横浜港まで、絹を運んでいく道が、原町田のこの道を通っていたという。商店街や宿場が開けていたのかもしれない。

JR町田駅裏側に”たんぼ”という赤線街があったが、その頃の名残から形成されてきたものだろうか?

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尖閣諸島は日本の領土

「私は政治家になります女子大生ブログ」のコメント欄を読んでいましたら、

貴重な記事が載っていました。忘れるといけないので、載せておきます。


尖閣諸島は1885年から日本政府が現地調査を10年間も行ない、
清国の支配が及んでいる痕跡がない無人島であることを慎重に確認した上1895年1月正式に日本領土に編入。

以降国際的にも認められた5島3岩礁からなる日本領土。
1895年4月の日清講和条約で遼東半島、台湾、澎湖諸島を
清が日本に割譲したが、尖閣諸島の日本編入は清戦争の結果での割譲ではない。

1920年には福建省漁民31名の遭難救助に貢献した石垣村長以下に
馮冕中華民国駐長崎領事は感謝状を贈呈した。
感謝状は明確に尖閣諸島を日本領土として表記している。

戦後も、尖閣諸島はサンフランシスコ条約の第2条の放棄領土に含まれず、
第3条に基づき南西諸島の一部として米国施政下に置かれた。

1971年の沖縄返還協定においても、我国に沖縄とともに
施政権が返還された。魚釣島北東27kmにある久場島は一貫して射撃場として、米軍は現在まで360万円前後の賃借料を毎年日本政府に支払っている。

沖縄返還に伴う1969年及び70年の国連、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の海底の資源調査報告で、推定1095億バレルという、イラク埋蔵量に


匹敵する石油の埋蔵可能性やチタン等の豊富な海底資源が公表されるや否や1971年中国、台湾が領有権を初めて主張した。


本日の読売新聞の朝刊1面にも、アメリカのアーミテージさんの中国との交渉についての論考が載っていたが、アジアの民主主義大国としての誇りを持って、裏の駆け引きでなく、堂々と正面から交渉に臨んで欲しいですね。



夏目漱石-ゆっくり活きる!

放送大学で「日本の近代文学」という講座をとっている。

教科書の第2章「文学と国家」に夏目漱石の小説「行人」

についての記述がある。


漱石は登場人物に「人間の不安は科学の発展から来る。

進んでとどまることを知らない科学は、

かって我々に止まる事を許してくれたことがない。


徒歩から車、車から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、

それから航空船、それから飛行機と

どこまで行っても休ませてくれない。


どこまで連れて行かれるか分からない。

実に恐ろしい」と、語らせている。


漱石は、英文学者として近代化に携わる一方、

国家が主導する近代化の矛盾にもいち早く気づいていた。


私は思う。漱石は、イギリス留学の経験を通して、

神経を病むような苦しみと共に、イギリスが味わい

つつあった近代化の矛盾を追体験していたのではないだろうか?

そして将来の矛盾に苦しむ日本の姿も、

見えてしまっていたのではないか。


そして彼は、自らの人生を明治国家の官僚として生きるよりも、

文学者として生きることを選び取ったのではないだろうか?


それが、100年前に書かれた漱石の文学を読んでも、

違和感がなく、現代人に読み継がれている理由であろう。


皆さんはどう思われますか?


忙しすぎる人生はいやですね。


ゆっくり、活きましょう!!

歴史を尋ね、新百合ヶ丘を歩く!

最近、新百合の駅から歩いて職場へ通勤している。歩いていると、地域の歴史がいろいろ分かってくる。

多摩丘陵の一番高いところにある職場なので、峠や坂が多い。今は住宅が多いのでそれほどではないが、昔は最高の見晴らしであったろう。

七国峠・・・富士、箱根はもとより、南に天城山、西に丹沢、大山そして冬の晴れた朝には、南アルプスの山々の銀色に輝くのが見える。北には秩父

連邦、東には筑波山も見えることがある。昔の里人は、房総半島まで見えたという。つまり、西のほうから、

駿河、甲斐、伊豆、武蔵、相模、上総、常陸の七つの国々を見る事ができたので、この名前がついたようである。

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勝坂・・・1530年6月、府中から多摩川を渡って攻めてきた上杉軍とこの一帯で戦った北條早雲の孫新九郎氏康16歳は、初陣であった。

初陣に初名乗りを上げた氏康は、その勢いに乗って、上杉の大軍を打ち破った。上杉軍は川越に退却した。

氏康はその勝利の雄叫びを上げながら、金程から細山へのこの坂を駆け上ったという。それ以来ここを勝坂と呼ぶようになった。

ここは急峻な坂のため、明治時代には、丸太で階段が作られ、細山分教場への通学路として利用されていた。

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ここからの眺めも、新百合の街並みを見下ろす雄大な眺めであり、西の方角の山々が薄くかすむように見る事ができる。

この勝坂から、少し降りたところに、寺子屋跡がある。この寺子屋の師匠白井清三郎は100年余続く細山土曜句会の祖であるという。

寺子屋は、明治5年の学制発布に伴い明治6年に廃止され、白井は細山分校の教師となった。


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