平城京遷都の時代は?
放送大学面接授業で「続日本紀」と「万葉集」を読む。
平城京遷都の流れとそこで働く人たちのことをある程度知ることができた。
大化の改新を実現することに功績のあった中臣鎌足が、藤原氏の姓を賜ったのは、669年10月15日鎌足が没した前日のことであった。
藤原鎌足として世を去った鎌足の後継者が、藤原不比等であった。
この藤原不比等こそ、平城京遷都の提唱者であり、強力に推進する実力者であった。何のために遷都を実行しようとしたのか。
それは、自らの権力基盤を確立し、不動のものとすることが目的であった。藤原京の近くを故郷とする大伴氏に対抗する新興勢力であった藤原氏は、自らの勢力基盤の地域に平城京を建設することを目指したのである。
大伴氏は、万葉集の編纂者である。当然、藤原不比等の和歌は一つも入っていない。権力を握る藤原氏に対し、伝統的な名氏である大伴氏は文化を持って対峙したのである。
現実の世界では、大伴旅人は727年九州の太宰府の長官として左遷され、3年間を九州で過ごす。731年、都に帰ってきて7月25日に没している。
右大臣藤原不比等は720年に没しているが、その子どもたちによって、729年、当時のもう一方の権力者であった、左大臣長屋王は自害に追い込まれる。それは、実力者大伴旅人の留守中に計画され実行されたのである。
729年、2月長屋王の自害によって、藤原氏の独裁体制が確立し、8月には藤原光明子立后、遂に藤原氏は天皇家と姻戚関係となった。
710年に平城京に遷都されたものの、まだ建設は続いていた。
続日本紀和銅4年、711年の記述には、「国々の役民、造都に疲れて、逃げ出す者が多くなった。いくら禁止してもやむことはない。今、宮殿
の垣が完成せず、守ることができない。軍営を設置し、兵隊を常駐させて守らせなければならない」
この記述からすると、平城京は、順調に作られたのではなく、一般の民は、その過酷な労働に逃亡や反乱を起こしていたような様子である。
712年正月には、次のような詔が発せられている。
「国々の役民、都作りを終えて郷に帰る日、食糧絶え、乏しくして多く道路に飢えて、溝に転び倒れて埋もれている。その類少なからず。国
司らは勤めて保護し助けてもらいたい。もし死んだならば、埋葬してやり、その氏名を国に伝えよ」
実に残酷な記述である。働くだけ働かされて、放り出された感がある。まさしく奴隷の如くこき使われて、捨てられている。
古代社会は奴隷制社会であったという識者の本を読んだことがあるが、そのことが、続日本紀記述から窺い知ることができる。
万葉集は、歌を読むことができる知識階級の者たちの和歌を集めたものが主である。奴隷的な生活を強いられていた一般庶民の歌はない。
確かに技巧的ではない、率直な表現が多いことが救いである。縄文、弥生のまだたおやかな生命の感性を窺うことができるようである。