龍のひげのブログ
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腐った情報の中を生きる苦難について

ということで、何から言おうか。何でもいいのだけれど、ところで皆さんは、キムタクこと木村拓哉さんが実は背が低いということをご存知でしょうか、というかそういう認識をこれまで持っていたであろうか。お笑いタレントの粗品が少し前に吹聴していたことであるが。そのキムタクの身長の話しを、私が週に1回通っている鍼灸院で話したところ、そこの鍼灸師が以前に友人から聞いた話しで、ダウンタウンの松本人志さんをどこかの場所で初めて実際に見たところ、思っていたよりもかなり背が低かったとのことで、「まっちゃん、見たら小さかったで」と聞かされたとのことであった。相方の浜田雅功さんがさらに背が低いので、そういうイメージが世間一般にないのではということである。今ではほとんどTVを見ない私でもさすがにキムタクやダウンタウンのまっちゃんはこれまでに何度もTVで見ているが、どちらも背が低いという印象なり認識を持ったことは一度もなかった。まあ、興味がないからどうでもよいと言ってしまえばそれまでであるが。ということで、私が何を言いたいのかおわかりであろうか。この段階でわかった人は、素晴らしい勘の持ち主であると思われる。そういう人々の感覚なり知性が新しい日本を作る原動力となるのであろう。私が言いたいこととは、TVは信用ならないということである。言うまでもないことだが、身長というあまりにも即物的かつ比較可能で、本来、誰の目にも明らかであって、誤魔化しようがないはずのことが、TVというフィルターを通すとカメラが映す角度や背景によって、実際のところがどうなのかよくわからないのである。だから要するにタレントの身長ですら、そのようにはっきりとしないのであるから、即物的な現実ではない、抽象的な物ごとの善悪であるとか、何らかの価値判断や正当性などについて、TV情報を拠り所としていては、社会や人生の最適解にたどり着ける訳がないのである。具体的に例を挙げれば、あまりにも程度が低くて言うのも憚られるが、衆院選前の各政党を毎日放送(MBSテレビ)が分類分けして、自民、維新、参政を「強くてこわい日本」とし、中道、国民民主、共産、れいわを「優しくて穏やかな日本」と報道したのである。今こうして書いていても笑ってしまいそうになるのであるが、私は最初にこの情報を知った時に、何かのTVのバラエティー番組でタレントが自分の印象を述べたものであろうと思って、それほどめくじらを立てるほどのことではないと考えていたが、何と信じ難いことに選挙の特集番組で述べられたということで本当に心底、呆れてしまった。小学生を相手に説明するような稚拙なレッテル貼りで、国民を馬鹿にするにも程があるのではないか、マスコミは一体、何を考えているのかと、何とも言えない不快な気持ちになったが、さすがに国民からの批判が集まって、それに対する毎日放送の言い訳が、こわい日本という表現は不適切であったが、正しくは手ごわい日本だと釈明したことということで、何だ、これは、やはりバラエティー番組だったのかと腹が立つ以前におかしくなってきたのであった。その言い訳ではっきりしたことは、マスコミは、いや毎日放送は国民を馬鹿にしているのではなくて、彼ら自体の政治に対する見立てがそもそもそのレベルなのであり、まさに小学生程度の幼児性とさほど距離感のあるものではないということである。いや、もう本当に言葉がない。小学生の描いた強くてこわい日本と優しくて穏やかな日本の図工の絵が幾通りも頭に浮かんできて離れてくれない。悲惨なのはテレビだけではない。多少の程度の差はあれど、新聞も同じである。これもまた腹が立つというよりも憂鬱になるほど稚拙な記事内容であるが、自らの精神の健全性を保つために無視することはできない。誰かが問題視して、言わなければならないことだ。2月16日(月)の朝日新聞朝刊に衆院選の結果を受けて朝日新聞社が世論調査を実施したところ、自民党が単独で定数議席の3分の2以上を獲得したことについて、「多すぎる」という見方が62%を占めたということであった。いやいや、こういう調査を皆さんはどのように感じられるであろうか。私は前にも述べた通り、自民党が素晴らしい政党などとは全く思っていないですよ。素晴らしいどころか、腐り切っているよ。しかしそれでも国民全体の民意を問うた、神聖かどうかはわからないが選挙結果に対して、多すぎるとか、ちょうどよい、少なすぎるなどというような選択肢の調査をすることに何の意味があるのか。何のための選挙なのか。国民の判断にケチをつけているだけではないか。自民の議席が多すぎるという解答が62%で、「国論を二分するような大胆な政策」を進めることについては「慎重に進めるほうがよい」が全体の63%であるということだ。この世論誘導は、毎日放送の強くてこわい日本のレッテル貼りと五十歩百歩だと思われないであろうか。といっても我々の身の回りはこのようなレベルの報道ばかりなので、それが当たり前のように、信号の赤、黄、緑のライトの如く日常化してしまっているので何を言っても、最早、如何ともし難いものではあるが。だがやはりこれだけ情報や報道の質が稚拙で、質が低いと国民の良心として声を挙げざるを得ない。民放だけでなくNHKも同様である。いや、NHKが最も悪質であるとも言える。一つ例を挙げれば、今からもう何年か前のことであるが、コロナ感染が原因とされる死者数とワクチン接種による死者数を合算して、その区別がつかないように報道したものである。確か私の記憶では放送倫理違反のBPO案件にもなっていたと思われるが、私が知るところではTVでその問題について報道されたことはなかったように思えるし、新聞ではごく小さな扱いで記事が載せられただけであった。何よりもその問題に対するNHK側の弁明がふるっていた。それは広義の意味においては、コロナ罹患もワクチン接種による被害も、コロナ感染症という括りにおいては同一なので、敢えて区別せずに合算したということであった。皆さんはどう思われますか。何だ、それはと憤りを感じられないであろうか。情報が、権威的な報道内容が幼児的なまでに劣化し、国民が日常を生きていく上での、国家を向上させていくことへの毒素にしかなっていないのである。我々日本人は、腐り切ったどろどろの水槽の水中を無意味に泳がされている金魚のようなものである。消費税云々だけではなく、それ以前の問題なのだ。息苦しくて当然なのだ。生き苦しいのだ。ああ、本当に耐え難い。誰か、誰か、助けてくれ。

(吉川 玲)

立憲民主党議員消滅の検証

ということで、終わってみれば一人でこっそりと祝杯を挙げたくなるような結果の選挙であった。いやいや、もちろん自民党が素晴らしい政党であるなどとは1mmも1gも思っていないし、むしろ腐り切っていると言えるものである。また高市総理もどれだけのことが任期中にできるか未知数ではあるが、それ以上に日本の不幸の根源であり、災厄をもたらす要因にしかなっていないにも関わらず、何の悪びれたところもなく、反省の意を全く示そうとしない立憲民主党に完膚なきまでに正義の鉄槌がくだされたことがあまりにも痛快とでもいうか、ちょっと大袈裟にいえばこれまで生きていて良かったと思えるほどであった。日本の国民は馬鹿ではないし、選挙の結果というものには、国民の声の集積という以上に、何かしら尊い人知を超えた審判が示されているようにすら感じられる。立憲民主党の議員には改悛の情もなけれえば、更生の見込みも全くないので、この調子で参議院も地方議員も徹底して駆除していくことこそが、日本の再生と独立に不可欠であると言えるであろう。ということで、今回の立憲民主党の選挙結果を数字で具体的に検証してみることにしよう。中道の獲得議席は49人で、その内28人が公明党で残りの21人が立憲民主党となる。公明党の28人は比例代表で候補者の全てが当選していて、前回選挙時の24人からむしろ4人増やしている。立憲民主の21人の内訳は、小選挙区が7人のみの当選で、残りの14人が比例復活当選である。中道に合流した立憲民主144人が21人になったのだから、8割減以上ということで、特に小選挙区が7人ということは、ほぼ全滅といってもいいような惨状である。何が言いたいのかと言えば、公明党は負けていないのである。私が以前にも予想していた通りの結果となったが、24人が49人へと倍増しているのだから、これは大躍進といってもいいものだ。中道とは政党名を変更した公明党であるのだからそういうことになる。公明党は本当にしたたかというのか、立憲民主がどうしようもないほどに間抜けというべきなのか。公明党の斉藤鉄夫代表は、テレビカメラの前では沈鬱な表情で自らの進退について腹を決めているなどと述べているが、カメラのないところではにこやかにほくそ笑んでいるように思えてならない。今回の選挙は公明党の作戦通りであると見れる。小選挙区の立憲民主党候補者に対して、創価学会が誰を当選させて、誰を落選させるかという生殺与奪の決定権を完全に掌握していたことが今回の選挙の特徴であった。前にも言ったことだが、立憲民主党系の議員が当選し過ぎるのも中道(公明)にとっては、喜ばしい事態ではないのだ。なぜなら公明党とは、これも前に述べたことだが二大政党制の一翼を担うことを目標とする政党ではないのである。陰でというと言葉が悪いかもしれないが、第三の勢力としてキャスティングボードを握り、政局をコントロールすることが日本の政界における役割であり、何でその位置づけに拘るのかと言えば、それはやはり背後に中国の存在があって、中国の日本に対する介入や侵食を国民の目に目立たないように静かに推し進める必要があるからだと考えられる。それで私が考えるにということであるが、立憲民主党はそもそも自民党から政権を奪取して、安定した日本の第一政党になり得る存在であると中国は考えていないし、罷り間違って2009年選挙の民主党政権のように、立憲民主党政権が誕生するような事態になると、公明党とは違って立憲民主党の議員は中国に対する態度を変えるのではないかと、つまり親中国の政治姿勢を権力を握った時点で転換させる可能性が高いと中国が考えているのであろう。要するに心の底から信用していないということである。立憲民主党の議員はわざわざ訪中して、何らかの覚書まで取り交したりしてきたようだが、中国の政治家も馬鹿ではないので、立憲民主党の連中は政権奪取のためには何でもありで、中国の反日圧力を利用して高市政権潰しをしているが、いざ与党になった時には必ずしも中国の言う通りにならないだけでなく、反目する存在になり得ることをよくわかっているのである。公明党と立憲民主党では大雑把に親中勢力といっても、その染まり具合の濃淡に大きな差があるであろうということだ。だから公明党は、いや創価学会は必要以上に立憲民主党を勝たせる訳にはいかないのである。1足す1が2になって、立憲民主の144人がそのまま横流しに中道で当選すると、数の論理で公明党が立憲民主に飲み込まれてしまうことになるし、背後の中国にとっても、信用できない連中に勝たせることは将来的な脅威の種となるからである。中国の思惑とすれば、あくまでも中国に都合の良い、操縦可能な日本の政党や政治家、そしてそれらを総合した政治力学を維持したいと考えているであろうということだ。立憲民主の有力議員であった、小沢一郎や岡田克也、枝野幸男、安住淳などが揃って落選したのも恐らくはそういうことで、創価学会としても中道を内側からかき乱す可能性のある人間には小選挙区で名前を書きたくないと考える人間が一定の割合で存在したのであろうし、またそういう事情でそこまで強く立憲民主党の候補者の名前を書くことを推奨されていた訳ではなかったと考えられる。代表の野田佳彦は辛うじて当選したが、それは彼が最も公明党の色合いに染まりやすいというか、創価学会の折伏にも素直に応じるような雰囲気を持っていたからではなかろうか。要するに中身がないということである。しかし政治生命を掛けるなどと言っていたのだから代表から外れるだけでなく、政治家を辞職すべきである。ここでもまた平気で嘘をつくのか。ということで中国はこれほど深く日本の政治に入り込んでしまっているのである。これは本当に恐ろしいことである。立憲民主党の連中は本当に愚かであり、自分たちのことしか考えていないから近視眼的で、日本の政治の全体像がよく見えていないのである。人間の愚かさとはどういうものかを1枚の絵にしたような立憲民主党の転落劇であった。一方で公明党、創価学会の選挙をコントロールする能力は凄いものであるが、今回の選挙結果で唯一の誤算は自民党が勝ち過ぎたことである。自民党が単独で3分の2も獲得してしまえば、もう中道は連立与党に戻る余地はなくなったということで、それは中国にとっても都合の悪いことである。さすがの選挙のプロ集団もそこまでは読めなかったということであろうか。

(吉川 玲)

何で鉛筆でなければならないのか。

ということで、身体全体が凍える寒い一日であったが、投票に行って来て、どうでもよいことであるが、いや全然、どうでもよくはないが、個人的な長年の選挙の投票に関する疑問を、ある行動でもって試してみることにした。それは何かと言えば、先ず疑問とは、何で投票用紙への記入が未だに鉛筆なのかということである。投票に行く全ての日本人は、当たり前のように投票所に用意されている鉛筆で何の疑問もなく書く。確かに鉛筆は、ボールペンよりも安い。コスト面だけを考えれば、安い方にすべきだという理屈は成り立つ。しかし果たしてそういう問題か。日本の政治や選挙に一体、いかほどの税金が投じられているというのか。その全体の規模から考えれば、鉛筆とボールペンの価格差など取るに足らないことではないのか。区役所や市役所に住民票などの申請用紙記入に用意されている筆記具は、鉛筆ではなくボールペンである。おかしいとは思わないであろうか。何も私は消しゴムで消して、書き換えの不正が行われていると主張するつもりはない。しかし、そうし得る可能性の余地があることは、鉛筆とボールペンの価格差など、民主主義の健全性を守るという観点とその価値から考えれば、無視すべき程度のことではないのか。仮に私が比例代表の政党名で共産党と記入して、それが自民党にカウントされたり、その反対であったりすることは、恐らくはないとは思われるが、100%絶対にないと言い切れるかと言えば、それをどう考えるかということが畢竟するところの、その国の政治のレベルだと思うのである。というよりもそれが全てではないかというような気もする。いつまでも純粋無垢な性善説に則って政治や日本の支配体制に向き合っていてよいものなのだろうか。たとえば警察官が嘘をつくはずがないとか、証拠を捏造するなど考えられないとか、学校の教師が生徒に対して劣情を催してわいせつ行為や盗撮などを行うことなど考えられないなどと言えればよいが、実際の現実はそうではない。司法判決の独立性についても同様である。何でこんな時代の投票用紙の記入が鉛筆であることに疑問を持つことが、根拠のない陰謀論者などと蔑まれて、排除されなければならないのか。アメリカにおける2020年の大統領選挙において、トランプ大統領が主張するように不正が行われたのかどうかについてはわからない。しかし仮にそうではなくとも、不正があったと、そう主張し続ける人間が、今のアメリカの大統領であること自体が、中国やロシアのような独裁政治ではない民主政治の価値を体現しているとも言えなくないのではないのか。ということで、今日、私はほんのささやかな勇気を振り絞って、自宅から愛用のボールペンを持参して投票に行ったのであった。それで投票所に入ってすぐに、係員の女性が、「案内状をお持ちですか」と聞いてきたので、私は「ちょっと聞きたいことがあるのですが、家からボールペンを持ってきたのですが、それで書いても有効ですか。」と聞いた。さて、考えてください。どんな返答がなされたと思いますか。答えは、驚くべきことに、「こちらでは鉛筆で書いてもらわなければならないことになっています。」と拒否されたのであった。面白くなってきた。私はその場で議論するつもりなど毛頭なかったが、「何でボールペンではダメなのですか。」と一応は聞いてみた。そうするとその女性は、ちょっとお待ちくださいと言って、その場を離れ、奥にいる誰かに聞きに行ったのであった。そうして間もなくすると、小走りで女性は私の元に戻ってきて、「すみません、ボールペンでも良いとのことです。」ということであった。そういうことで私は、生まれて初めて選挙の投票に全てボールペンで記入したのであった。さて皆さんは私のこのような行為についてどのように思われるであろうか。私は、アポロ11号のニール・アームストロング船長の言葉ではないが、「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては、(日本の真の民主主義の実現のためには)、偉大な飛躍だ。」と自画自賛するものである。今日の選挙において、日本国内において数千万人の人間が投票所に行ったであろうが、果たしてその内の何人の人間が、投票所にある鉛筆ではなく、持参のボールペンで記入したのであろうか。下手をすると、私一人であるかも知れない。ということは私は数千万人の中の僅か一人というほどの、宝くじの一等の当選確率にも及ばないほどの希少、貴重な、それこそ偉大な飛躍を果たした人間であるということだ。もちろんこれは自慢しているのではなくて、嫌味を言っているのだ、それほどまでに日本の国民は、権威に対して従順というか盲目なのである。詐欺被害に遭う人間が多いのも当然である。寒い日に凍えながら投票所に赴いて、候補者名や政党名を書く以前の問題なのだ。そういうことなのだ。奴隷には奴隷に相応しい幸福しか用意されていないということである。何か文句、あるか。

(吉川 玲)

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