創造主の意識 日々の実践事項 | 不幸のブログ 

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

コメント


この地域の心無い連中の手口のひとつとして
タンパク質を分解して出来たアンモニアを
脳へと誘導し脳機能を崩壊するという手法があるそうです。


タダでさえ排泄ができないようにされていて
まともに食事をしてませんが
おかげで今現在はタンパク質も取るのも危険なようです。


2015年4月21日


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
過去記事からの抜粋です。


---------------------------------------------------

今日は、


「生命の科学の目的は究極的には私達の心の意識を
魂の意識へと置き換えていく作業である」


という話について触れてみます。


まず、掲示板で生命の科学への理解不足の工作員が
ミスリードしていた内容に関して取り上げてみます。


「心を壊す事は良くない」
という取り上げ方をしている工作員らしき人間がいました。


最初はその意味するところが理解できなかったのですが


文章の前後の関係から、
それが心を抑える行為を勧めている私のような主張に対する
反論である事に気がつきました。


要するに心のエゴから開放され、魂の意識に従うと言う行為を
自分では体験できていないがゆえに勘違いしているか、


他の人間達が真の覚醒に近づく行為を妨害しているのだと思います。


私達がいくらエゴや感情を抑えても
心が壊れる事など通常はありえませんし、


私達が心が壊れるというのは
”脳が壊される状態である”と認識するのが正しいと思います。


本能を感じながら感覚器官の経験の積み重ねで得た
記憶や価値観で満ちている脳機能こそが私達の心と言えるからです。


私達が実践している事は、そんな工作員の主張とは異なり
心を壊す行為ではありません。


私達は「心の価値観を魂の価値観に置き換える作業をしている」
と表現するのが判りやすいかと思います。


心が無くなれば確かに私達は創造主の意志しか
感じる事が出来なくなると思います。


植物人間と言われる状態もまさにそれかもしれません。


植物は私達が心と呼んでいるものを持たない存在でもあります。


私達の場合それは脳機能が働かなくなった事を意味するのであって、


脳機能が正常に動いている状態で心の価値観を変える事を
「心を壊す」とか「心を失う」と表現している人間は、


魂の意識など理解できずに、
心が持っている既存のエゴの存在を肯定しているような物です。


判りやすく例え話をすれば
習字を学ぶときに、自分がまず


「謹賀新年」と書いたとします。


お手本が無いのですからそれは上手とは言えないものだと思います。


私達は習字を師範と言われる人間に学ぶ事が出来ますから
その師範の書いた「謹賀新年」の模範を横において


今度はそれを模範にして独自に練習を続けることで
当初の書いたものよりも立派な書画を
書くことが出来るようになります。


それは師の模範解答を見てそれを真似る行為です。


私達はそれと同様の事を実践するのです。


アダムスキーが言っているように
私達の社会の人間が完全などと言う事はありえません。


完全なのはこの社会の諸法則を作り上げた創造主の意識だけです。


そこで私達は自分達の心の意識の横に創造主の意識をおいて
自分の意識をそれに書き換えていくのです。


ただ、私達は創造主の100点満点の意識を感じる事など出来ないわけですから
その答えは魂の意識から地道に集めて行く事にもなります。


つまり一つ一つの閃きや印象と言う形で集めている
創造主の100点満点の解答の一部を、
判明した順に自分の価値観に置き換えるよう勤めているのが私達だ、


と言えば判りやすいと思います。


私達、生命の科学、宇宙の法則を学ぶ人間が当初理解すべきは、
魂と言うもう一つの感覚器官が
私達の四次元的本体として存在している事であり


同時に創造主の分身でもあるその魂の大元となる、
この宇宙を作り上げた創造主の意志の存在を認めることでした。


私達は当初はそれ以外の戒律を持ってはいません。


なぜならば、その戒律は私達が魂の実態に気がついて
その働きを意識するようになってから、


自らが印象や閃きという体験をする事で
その意志の欠片を一つずつ集めては
それを自分の戒律として持つ事になるからです。


私達の作業は心の価値観を創造主の価値観に似せようと
勤めている行為だと言うことです。


今まで模範解答も持たないままで
自分の持っている価値観を正しいと思い込んで
それを行動の基準にしていた私達の心の意識をいったんリセットして


そこを今度は確実に正しいと感じた価値観で置き換えていくのです。


勿論、自分の心のエゴのすさまじさを私達は理解していませんし
それを短時間で解消する事など出来ません。


とても地道な作業となるはずです。


しかし100点の解答は創造主の意識にこそ存在しています。


この社会には、自分が罪の無い人間だと
思い込んでいる人間が多いと思いますが
罪と言うのは犯罪行為に限られるものではないのです。


そして人間が作り上げた戒律が100点で無いからこそ
私達はこうやって争っては暴走していると言う実態があります。


イエスが主張していた、
”心のあり方が本来持つべき心の意識と異なっている事”さえも


”広義”の罪となると解釈するのが生命の科学です。


私達は自らの魂を持って創造主の戒律を感じることになります。


自分で認識し実感した戒律であれば
納得してそれを自分の価値観とする事も出来ます。


更に自分で戒律とした事を守れない事で
私達はそこに罪悪感を持つ事にもなります。


そして、それこそが私達にとっての罪なのです。


極端な話をすれば、赤ん坊や幼い子供が小動物を握りつぶしたとしても
それは罪とは言えません。


彼らはその行為の意味する事を理解していないからです。


しかしそれを私達大人がやればそれは通常は罪です。


私達はその行為を動物に対する虐待行為と認識できるからです。


知らないで実践した事を罪だと理解すれば
私達はそれを繰り返さないように勤めることになります。


そこで私達は自らに戒律を設ける事になるのです。


そして以前に触れたように
進化の進んだ人間ほどこの戒律は多くなります。


道徳といわれるような意識は誰もが持っていなければなりませんが
その大元は創造主の意識であると私達は認識すべきです。


良心や理性という物からも
私達はそこに創造主の意志を感じ取る事にもなります。


”良心が痛む”と言うのは、アダムスキーが言っていた
誤った行為をしたことで受け止めることになる
”印象”に他ならないと思います。


天使達の社会には少なくとも私達地球の人間にとって
罪と認識されるような行為は存在していないはずです。


私達が罪と認識できるようなものであれば、
彼らはとっくにそれを自らの戒律として封じているであろうからです。


しかしそれでも彼らは罪から解放されたわけではありません。


彼らにとっての罪は”神の御心”と異なる一切の行為だからです。


彼らの意志が創造主の意志と100%重ならない限り
彼らも延々と罪を犯すことになるのです。


イエスキリストが”罪”と言う言葉を私達に告げた頃には
同時に”戒律”が人間によって与えられていましたし、
私達は人によって作り上げられた戒律を破る事が”罪”であると認識しています。


しかしイエスにとっての本当の”罪”は
自分の持っている”創造主の戒律”を破る事だったはずです。


イエスは神殿の中で売買や金貸し行為をしている人間達を
怒鳴りつけて追い出しました。


神を意識する場所としての聖なる神殿が
お金と欲で汚されている事に腹を立てたからです。


腹を立てて怒ろうが、結果的に他人を締め出そうが
それは当時の人間達の戒律としては罪になる行為ではありません。


しかし、その後にイエスは創造主に向かって
自分のその行為を罪であると認め、悔いて見せました。


イエスにとってはどんな事情であれ、他人の生活を妨害したこと、
もしくはそんな行為をしている他人を批判したことは
罪だったのだと思います。


そしてそれに対して怒りの感情を露にした事もです。


地球社会の人間の肉体に身をまとっていた天使のマスターは、
本来の自分の持っている戒律と、それを実践してきた自分の心を
この社会ではうまくコントロールすることが出来なかったのかもしれません。


この社会の周波数は他の太陽系の惑星を覆っている周波数とは
異なることになるからです。


(低い波動の人間が生きていける環境へと
自然の方が人間の在り方に適応すると言う事かもしれません。


しかしその波動が低くなりすぎると
私達の自然環境はそれに耐えられなくなるのではないでしょうか。)


少なくとも私達が天国と呼んでいる
イエスの母星におけるオーソンさんは、


聖書の印象から感じる、
時には厳しいイエスキリストのイメージよりも


遥かに温厚な人間であることも
アダムスキーの著書からも感じ取る事も出来ます。


話は飛びましたが、
私達生命の科学を実践する人間は


他人よって戒律を与えられるのではなくて、
他人と戒律を比較するのでもなくて、


自ら戒律を印象として受け止めては、それを正しい認識だと確信した時に
心の価値観と置き換えると言う作業を延々と継続する事になるのです。


印象や閃きは時には私達の心の動きによって
捻じ曲げられる事があるからです。


しかし印象や閃きは時間の経過と共に
それを思い起こす度に強い印象となって現れます。


それが確信に変わった時に
私達はそれを正しいと認識すれば良いのです。


その行為こそが私達の魂の進化へと繋がる物ですし
進化が進めば、今度は私達は自分の魂の経路を強く感じる事にもなります。


与えられる印象はより明瞭になっていくと思います。


そしてアダムスキーは言っていた筈です。


魂と心を並行して利用する練習が大切だとです。


二つの異なった価値観を比較出来たならば
私達は心に創造主の意志とかけ離れた価値観を
持ち合わせている事実に気がつくはずです。


それを認識する事で初めて
私達は心の価値観を変えていく作業が可能になります。


元々持っている価値観が魂の価値観と同じ場合に関しては

当然そのまま維持することになりますが


私達は心の価値観のその多くを
真理ではないものを基準に構築していると言うのが実情なのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私達が正しい解答を集めていくためにも、
当初に理解すべきことが
私達にとっての最低限の戒律となっています。


戒律と言うよりもそれは知識と盲信ともいえるかも知れません。


視覚で確認できない創造主と魂の存在を
理解し信頼する事から始まるからです。


しかしたったそれだけが私達が当初
必要とされることでした。


私達が魂と言う意識の経路を理解しなければ
そこから印象や閃きを受けることも難しいですし


知らなければ折角受け止めても
それを自分の閃きだと考えてしまうからです。


そして私達はその解答の持ち主の存在だけは
認めなければなりません。


その存在があればこそ
私達にとっての共通意識である創造主の意志が存在しているからです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


パウロは
「それが悪いと認めている人が肉食をするとそれは罪になる」


と表現していました。


実は私達にとっての戒律は、


「その行為が自分の魂の進化のための
妨げになるのかどうか」


と言う事が判断基準となっているはずです。


つまりその行為をする事で精神の進化が止まったり精神が退化するのであれば
その行為は私達にとって罪だと言うことです。


それは形式的に判断する物ではなくて実質的にです。


そんな行為は人それぞれ異なりますし
しかもその置かれている状況によっても異なってきます。


固定化され画一化されたものでは在り得ないのです。


例えば、以前に私が指摘したように、
肉を食べることで精がついて淫らな行為に延々とふける羽目になったり
暴力的になると言うのであれば、


肉食はその人間にとって間違いなく罪です。


聖書のパウロの言葉です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。
その意見をさばいてはいけません。


何でも食べてよいと信じている人もいますが、
弱い人は野菜よりほかには食べません。


食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、
食べない人も食べる人をさばいてはいけません。
神がその人を受け入れてくださったからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

食事に関してもその本質的な意味を理解すれば
私達は何が良くて何が悪いかをも判断できます。


想念的な理由がその一つでした。


殺される動物の発する事になる恐怖や不安の想いが
私達に影響を与えると言う話です。


肉食獣に関しては多くの動物のそんな思いを持っていることからも
肉食には適さないと私達は理解することにもなります。


一方で草食動物に関してもそれが負の想念を
持つ事になる状況では私達にとっては”本当は”良くないことにもなります。


ブラザーズ社会では理想としては
肉の栄養価を植物などで代用している様に伺えました。


更に、私達の戒律には優先順位があるのです。


その全てを同時に禁じて精神を進化させる事の出来る資質など
私達にはありません。


沢山の戒律を消化も出来ないうちに次から次へと溜め込んでしまっては
その事をストレスと感じ、却って進化の妨げにするのが関の山です。


自分がその行為を出来ないことで
している他人を羨み批判する事にもなるかもしれません。


習慣としての戒律にしても、
肉食よりも先に飲酒をやめる事を求められる事になる人間もいます。


例えば酒を飲む事で理性を失い暴力を振るう人間で在れば
それは肉食よりも進化の妨げになる事と思います。


そして習慣よりも、
普段の心のあり方の方が更に重要だと思います。


そしてその戒律は人によって受け止めるべき内容も
重きを置く順番も異なるのです。


だからこそ私達は独自の経験を生かして、
体験からもそれが自分の魂の進化にとって良いのか悪いのかを判断し
自由意志によって行動していく事をも求められているのだと思います。


そして自らが罪と認識し、
自分の戒律に加えた事にそむくとそれは罪になります。


パウロのここでの記述はその事に触れているのだと思います。


私達が心と魂を重ね合わせて使用しながら物事を体験することで
私達はその行為の一つ一つに対して
それが正しいのか正しくないのかを自ら判断する機会を得る事にもなります。


アダムスキーが私達にそれを求めていたのは
私達が宇宙的記憶を持つためであり、


同時に事の良し悪しを創造主の意志に照らして
判断する事が出来るようになる練習をするためです。


そして更には私達は心の価値観を
魂の価値観を見本として書き換えていくことになるのです。


私達は当初は創造主の意志に変えて
それを道徳や良心という基準に置き換えていくことも出来ます。


当初は私達は印象や閃きを強く感じる事も出来ませんし
常時、魂を意識し続けることも不可能だからです。


まして私のように半ば脳を封印される事になると
時には魂の意識をまったく感じる事も出来なくなります。


しかし、もしもその時にすでに心に置き換えられている価値観があれば
魂を封じられていてもそれを理性的に使用する事も可能です。
(そこでは今度は感情の高ぶりが障害となりますが)


私達は何も考えないで外部からの刺激に反応すると、
心の価値観や習慣で動いてしまう事になります。


そのためにも私達は心の価値観を魂の価値観に
置き換え続ける必要があるのだと思います。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私達が自分の意志を持って何事をも経験することは
知識だけでなくて同時に体験から多くの教訓を与えられる事にも繋がります。


机上の学問では身につくことの無い生きた勉強が
自分の意志を持ってする体験で得られるからです。


私達は戒律をその本質から理解する事を求められているのです。


それを他人に強制されるのではなくて
それが正しいと自らの意志で判断しながら自らに課すのです。


当初の戒律は私達の経験が進むにつれて
そして多くの印象と閃きを受け止めるにつれて
その数を増していくことになります。


自らの体験で自らの進化にとって良くないと感じたものに関しては
それを自らの戒律とすることで
私達は自分の心の価値観を変え、そのことが私達の行動をも変えます。


イエスキリストが


「私がしているのではなくて
私の体を持って父がなしているのだ」


と言った事の意味を
私達は遠い未来に実感することにもなるのだと思います。


本当はその事を私達に教えようとして
イエスは”神の国の奥義”を弟子達に与えたはずです。


それは当時のイエスの弟子や孫弟子達によって理解され
実践されて行ったはずです。


しかし時代の中で、それはいつしか失われ
イエスの真意は伝わらなくもなりました。


それが50年前には再び天使達とアダムスキーの手によって
この社会に復活させられたのです。


そして私達はそれを今学び実践している最中であるということ。。。


日々の経験を魂と心を併用して行うことで
私達は永遠に進化を続ける事になるのだと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
P.S.


肉食、禁酒、禁煙、ギャンブル禁止、性的行為の制限、


その他いろんな戒律がこの社会には存在していると思います。


これらを全て完全に禁じていても
肝心の心のあり方が負の想念で満たされているのが
私達の社会の実態なのです。


恐らくは私達が進化した転生を果たせば
このような行為は全てが自分の進化によくない行為とされ
制限される事になると思います。


しかしアダムスキーは言っていました。


何事も程々にリラックスしながら学びなさいと。。。


私達の社会の中の人間の意識はとても低いのです。


それに自覚しない人間であれば
この全てを制限したところで覚醒は果たせませんし


逆に多少はそんな行為をする人間であっても
それが進化の妨げにならない人もいるのです。


例えば自分がそんな戒律を実践していることで
その価値観を他人に押し付けている人間達であれば


そこで既に他人を裁いているのですから
その意識の方が心に悪影響だとも言えます。


凝り固まった思考と誤った価値観を持って形式を守ることで
自分は義である、自分は善人で在ると考える意識の方こそが
私達にとっては危険だと言うことです。


私程度の意識の人間であれば(私達は創造主の法の落第生です)
何事も適度にしていれば
それが必ずしも罪にはならないと断言します。


それに溺れて心を乱すようでは問題ですが
それ以上に学ぶべき大切な意識があるからです。


大体、アダムスキーだって喫煙、飲酒、肉食は嗜んでいましたし、
私だってそれを今のところは罪だとは感じてはいません。
(ギャンブルの経験もありますがギャンブルにふける行為は
今では罪ですね)


出来の悪い私は、
それ以前に学んで改善すべきことが
山ほどあるからだと思います。


そしてそれが消化された頃には、
今度はこのようなものが自分にとって確実に罪であると
順に認識することにもなるはずですが
そこまで長生きは出来ませんね(苦笑)


因みに私は子供を設けるためではない性行為を
今の自分にとっては罪であると認識するようになっています。


しかし性的な刺激を与えてくる人間が要るために
対応策も必要となります。


欲求不満を溜め込むことが自分の精神にかえって良くない事を
はっきりと認識しているからです。


性的な制限もそうですが、禁酒や禁煙を無理に実行して
それでストレス溜め込んだり欝になったり
精神的に麻痺した状態にさせられるぐらいであれば、


普段ストレスを溜め込んでいる方には、
それが悪しき習慣にならない程度に嗜むことを
お勧めしたいぐらいです。


私達にとって改善すべき箇所はもっと別のところに
もっと重要なものが沢山存在してもいるからです。


好き嫌いの意識で分裂するのをやめなさい。


感情を抑える術を覚えなさい。


憎しみや戦いや争いの意識を持つのやめなさい。


つまらぬ自尊心を抑えなさい。


多くの方の進化にとって
こんな意識こそが優先順位が高いはずです。


勿論私にとっても同じです。


創造主の戒律ではこちらの方が遥かに重要で、
私達が創造主の意識とかけ離れているのは
まさにこちらなのですから。


目に見えて、外から認識できる
特定の行為にばかり戒律を設けて


肝心の心のあり方をおざなりにしている事に
私達は気がつくべきです。


肉食、禁酒、禁煙、ギャンブル禁止、性的行為の制限、


全てが第三者が外から物理的に認識できる
行為であることに気がついていますか?


私達にとって一番重要な心のあり方は
他人に見える行為ではなくて、
他人の目には映らないものだと思います。


そしてそれを二の次としているから
私達は進化を果たせないでいる。


イエスの言っていた言葉の意味を
私達はもう一度噛み締めるべきではないでしょうか。



創造主の戒律の中では、心のあり方こそが
一番重要だという事をイエスは語っていたのです。



http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11326078801.html
自らに最適な戒律を課す
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11319307709.html
血と肉と肉食と想念
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11301379416.html
聖書のイエスキリストの奥義 改
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11329829392.html
続・宇宙の法則 VOL6 イエスの奥義前編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11330640319.html
続・宇宙の法則 VOL7 イエスの奥義後編
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11352149563.html
イエスの奥義を受け継ぐ者へ
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11320208573.html
最後の審判と転生の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11376405514.html
進化を促進するのは正しい動機
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11370292500.html
生命の科学 復習・応用編 VOL4 潜在意識のカルマ
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11369748271.html
生命の科学 復習・応用編 VOL3 カルマは解消できる?