創造主の意識  理解と調和 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。




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創造主の意識  理解と調和


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作り直した私の記事へのリンク集です。


多くの記事へのリンクが可能だと思います。
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集団ストーカー被害関係


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私達が持っている意識と持つべき意識の違いと言うことで
いくつか記事にしてきましたが今日はその続きになります。


私達は何故に分割を生んで対立を続けているのか?


その原因には私達の好きと嫌いという意識、
強いては私達がその好きと嫌いで対象物を評価しているという
話へと繋がって来るのだという話を以前にも紹介しました。


私達誰もが持っていて、実は持ってはいけない意識が
分割や対立そして他人を裁く意識です。


それらは元々は創造主の意志、つまりは”御霊の想い”には
存在してはいないものだからです。


私達は持つべき意識と正反対の意識を持つことで
この社会をすさませ続けてきたのです。


それらは本当は”調和”や”理解”に置き換える事で
私達の社会をも変えうるようなものだと思います


しかし現実社会において、私達には調和や理解と言う意識は殆どなく
この社会を占めているのは”分割”であり”対立”です。


そしてその原因が私達の感覚器官が作り上げた
好きと嫌いの価値観に根ざしているという話から再び取り上げます。


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スペースブラザーズは
現象や物を見つめた時にそれをどのように分析しているのか ?


生命の科学を学んだ私達は理解していると思いますが、

彼らは私達が行っていない幾つかの過程を
短時間で実践し続けているのだと想像ができます。


彼らの対象物への意識は評価ではなくて理解でした。


まずは私達が行っているのと同様に視覚、聴覚、味覚、嗅覚を持って
彼らは対象物を吟味すると思います。


しかし彼らはそこで心のエゴを持って先入観で判断したり
好きや嫌いで対象物を眺める事はありません。


彼らは対象物を正しく理解するのです。


そこにある物がどんな形をしていて
どんな匂いや味をしていてどんな機能を持っているのかと言う情報を
彼らは四つの感覚器官で認識し


更には魂の意識の経路を使用しては
その見えない実態まで知るよう勤めることになります。


彼らの対象物の認識意識は”理解”なのです。


”理解”は、対象物を”評価”してそれを好き嫌いの価値観で
分類するのとは反対の意識です。


彼らは常に万物との調和を意識しています。


物事を正しく理解する事で
彼らは万物と正しい調和を図ろうとするのだと思います。


一方私達は少し違います。


対象物を正しく理解しようという意識で
物を見つめる事もないはずです。


心の価値観である感覚器官の価値観に囚われて
対象物が心地良いとか心地悪いとか


その結果それが好ましいとか好ましくないと言った意識を持って
それを眺める事が多いはずです。


もしくは他人の粗捜しではないでしょうか。


しかも私達は常に先入観を持っています。


その先入観が時には私達の判断を大きく狂わせる事にもなります。


例えばセリという食用の植物がありますが
それとよく似た毒セリと言われる植物があります。


視覚に重きを置いていて
しかも詳細までしっかりと認識しない傾向の強い私達は


時にはその毒セリをセリであると認識してはそれを食べて
毒を受けてしまう事にもなるのです。


それは私達が視覚ばかりに拘り、
しかも持っている先入観に囚われて物事を判断している証拠でもあります。

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 ドクゼリはセリより大型になりますが、
早春の芽出し時頃はまだ葉が小さく間違えやすいので注意しましょう。


セリより葉茎が太く長いのもドクゼリの特徴です。


また、セリ特有の良い香りはドクゼリにはありません。


  一番確かな見分け方は、根にあります。
ドクゼリの根は、 根茎といって太い芋状になっており、
竹(タケノコ)のような節があります。


ナイフなどで縦に割ってみれば一目瞭然。

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視覚をもって詳細を確認し、嗅覚を用いて匂いを嗅いで、
見えない根を確認していれば
私達はそれらを混同することも無いようです。


しかし私達の先入観は”似ている”事でそれを同じものだと認識してしまい、

それを事細かに観察する事を妨げます。


先入観が”理解”を妨害したのです。


更に私達は対象物の本質を理解する事ができません。


これは私達が魂を持って対象物の魂を理解する行為です。


彼ら天使達は私達の様な人間相手であれば
相手の心の中までも理解することになります。


これらはもちろん私達には出来ない行為です。
(出来るように努力しなければなりませんが)


それが出来ないが故に、私達は好ましい姿や
好ましい言動や好ましい匂いに好意を持って


時にはその人間の本質を理解できず
心の中と表の姿のギャップに騙される事にもなります。
(正しく理解していないので誤解する)


私達は感覚器官の好き嫌いのために、心の先入観のために、
そして魂を認識できないがために


物事を正しく理解する事もできず、
好きと嫌いの価値観で物事を見て分割意識を持ち
心のエゴによって好きと嫌いで対象物を裁いている存在なのです。


私達は対象物を正しく理解などしてはいない。。。


好きと嫌いの尺度で見つめて
自分にとって心地良いものを身近に寄せて
心の不快に感じるものを遠ざけては批判している存在だと言うことです。
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私達の好きと嫌いと言う意識が、
四つの感覚器官と、今まで自分が作り上げてきた
心の価値観に根ざしている事は何度も触れました。


極端な話をすれば自分が過去に酷い目にでも遭わされて
大嫌いになった人間がいたとして


それとそっくりな人間が居たとすれば
その人間を見つめた時に、おそらくは
私達の心は当初は不快感や警戒心を持つ事になるかと思います。


それは私達の以前の経験によって作り上げられた価値観が
先入観を作り上げていること、


更には私達の視覚、聴覚、嗅覚が
その対象を嫌いだと判断したからに他なりません。


しかし現実にはその人間が、自分が以前に不快な思いをさせられた人間と
全く同じ人間であるわけがないのですし


時間をかけて付き合ってみると今度は相手への理解が強まって
好意を持つ事にもなるかもしれません。


最初に自分が持った印象が先入観であった事を
その場合は後で実感する事になるかもしれません。


好き嫌いの激しい方であれば、
似ていると言うだけでその人間を遠ざけ続けて
いつまでも理解する機会を得られないこともあり得ます。


しかし私達が先入観を持っていなければ
当初にその人間を見て不快感を持つ事もなかったはずです。


ここでの不快感は私達の心の価値観と
視覚、聴覚、味覚、嗅覚の、訴える好き嫌いが
作り上げてしまった弊害なのです。


アダムスキーは私達に四つの感覚器官を使用して
正しく対象を分析しなさいと言いました。


それは対象物を好きや嫌いで裁くのではなくて
理解するためです。


とすれば私達が初めにすべき事は、
四つの感覚器がそれぞれ好きと嫌いと言う意識で
対象物を見ていると言う実態を、


私達は自覚するべきだと言う事になります。


そして四つの感覚器はそれぞれが独自のエゴを主張し
私達はその中で影響力の強い好き嫌いの価値観によって
物事を裁いているという事でした。


私が頻繁に取り上げるのは見た目の綺麗な花があっても
それが近寄ってみると悪臭を放っていたような場合です。


視覚に訴える事の強い人間は、その花の姿を心地良く感じますが
近くに寄った事で今度は嗅覚が悪臭を察知します。


その時にその人間はその花をそのままの
美しいと感じた時の良い印象を持ち続ける事ができるか


それとも匂いに不快感を感じた事で
その評価を下げる事になるかは
個人差が出てくることになります。


視覚と嗅覚との重きの差かもしれませんし
その匂いに対する免疫のような物の差かもしれません。


食べ物では納豆がまさにそれで、

見た目ではグロテスクで匂いも強いこの食べ物は
多くの人間に嫌われてもいます。


視覚重視の人間はその見た目の悪さに拒否反応を起こし
聴覚重視であればそれをかき混ぜる音に拒否反応を起こし
嗅覚重視の人間はその匂いに拒否反応を示すと言うことになりかねません。


勿論食べてみて味覚が拒否する方もいるでしょう。


食わず嫌いの人間も多い納豆ですが
私のようにそれを好んで食べる人間もいます。


私の場合は食べた時の味が悪くないと判断した事で
それが見栄えの悪さや臭さを克服した事になります。


食べず嫌いの方は
少なくとも納豆を理解できていないと言うことは
私が説明するまでもないと思います。


彼らは見た目や匂いで好き嫌いを判断し、
それを味わってもいないからです。


そして納豆を食べず嫌いしている方は
自分の冷蔵庫に納豆が入ることもありません。


嫌いなものを自分から遠ざけるのが私達だからです。


それが人間相手であればそれはそのまま分割となります。


このような感覚器官と価値観による好きと嫌いの意識が
私達の間に分割を生み出すのだと言うことです。

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私達が何かを理解しようとした時に
それを正しく理解するためには先ずは先入観を除くことです。


脳の作り上げている価値観を使用して対象を判断しようとすれば
先述の毒セリをセリと間違えて食べる事にも繋がるからです。


更に、感覚器官の好きと嫌いで判断すれば
今度は理解以前の段階で私達は物事を放り投げることにもなります。


私達が習慣や心の価値観で繰り返しているのは
結果的に心にとって心地良い物とそうでない物を
先入観と四つの感覚器官の好き嫌いで分別し続ける行為なのです。


価値観であれば自分の持っている価値観に近いものに惹かれますし
そうでないものや自分の心を不快にする価値観は
自分にとっては悪しき物となります。


人間相手でも同様で、
それが自分の心にとって心地良ければそれは味方となるのでしょうが
そうでなければそれははじかれる事になります。


この事はそのまま人間関係にも現れるでしょうし
その結果が人間同士の分裂を生み出すことになります。


価値観が異なる同士、好きと嫌いで分かれた物の集団同士は
その中で対立を起こすかもしれません。


それが酷くなれば今度は嫌いと言う意識が憎しみにも変わります。


憎しみが酷くなればそれは戦う意識へと変貌するかもしれません。


私達は好きと嫌いと言う裁きをもって
対象物を分別しその中で争いを作り上げているのです。


本来調和するためにこそ理解しなければならない対象を、
好きと嫌いで分け隔てるのですから

その意識が対照的である事が理解できるかと思います。


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私が苦手としていたのが実はこの”理解”という意識です。


と言っても私は先入観や心のエゴを持って
相手を裁いてきたのではありません。


少なくとも自分に悪気無く、もしくは好意的に接してくれる人間に
悪態をついたりはしません。
(例外はありましたが(苦笑))


例えば会社の中でとても意地の悪い人間がいた時に
私であればその言動にいちいち心を動かされ、意識はそれに反応しました。


私はそんな人間とは交流出来ませんでした。
(私が寄っても相手は拒絶する事になりますし、
自分が不快な想いをするのを避けてしまったのだと反省できます)


ただ、私の妻であればその相手を
「こういうところがあるんだ」と理解する事で
どんな人間相手でも上手に付き合う事が出来るようです。


つまり妻は相手を理解した事で
妥協の場合もあるでしょうが、調和を見出した事になります。


私であれば、もしも私がその人間に徹底した嫌悪感を持てば
調和どころかそこには争いをも生み出す事になりかねません。


私達は対象物を正しく評価することで
その対象物が物であればそれを上手に使用する事も出来ますし

人間であれば上手く付き合う事も出来るのだと言う話になります。


しかし現実社会ではそうではありません。


私達は心のエゴと感覚器官を暴走させては
好きと嫌いで物事を評価して


そこに分裂と争いを生み出す事こそが
当たり前となっているからです。


小さな会社であっても仲良しグループごとに分かれて
対立する事もあるのが私達のこの社会の実態なのです。


アダムスキーの話の中で一番
目の中から鱗が落ちた気分になったのは、やはりこの話でした。


私達の心が如何に暴走するか、
どのように誤った価値観を作り上げているかを、
先入観と感覚器官の話は教えてくれました。


アダムスキーは四つの感覚器官をバイオリンの弦に例えていました。


それぞれが正しく調弦出来ていればバイオリンは綺麗な音を奏でます。


しかし調弦が狂っていると不協和音をもたらす事になります。


私達が正しく理解するためには
それぞれの感覚器官を調和させて独自のエゴを主張させないことが
不協和音を出させないために重要だと言うことです。


だから私達は四つの感覚器官を教育しなければならないのです。

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以前から頻繁に繰り返す食べ物を例にして
ここでももう一度四つの感覚器に拠る理解の仕方をおさらいすれば


以前のようにステーキで例えれば
それは目の前に置かれた時には目でその実物を見て形や色を判断しますし


鉄板の上で焼けている音を耳を持って聞くことになります。


香ばしい?肉の匂いが、肉の好きな方には
食欲をそそる事にもなります。


そしてその上にそれを口に入れることで
その味を堪能する事になります。


肉を嫌いな方はおそらくはそれを口にする事もありませんし
匂いも嫌いかも知れませんし、


肉に関しては食べれる方と食べれない方に分かれる
特殊な食材でもありますが、


もしもステーキを理解しようとすれば
このような手順を踏むことになりますし


私達は通常自分の好むものに関しては
このような行為を無意識の内に実行しているのだと思います。


そしてそんな各種感覚器官の認識が
ステーキと言う自分の好物を深く堪能させてくれいる事になります。
(ちなみに私はステーキを食べる習慣はありません)


更にこの行為を、生命の科学的にもっと深く理解しようとすれば、
例えばそれを切った時にどんな断面が現れるかと想像したり、
その肉が一体どんな牛のどんな部分であるかを考えたり


一方ではその、肉と言う成分の中に
どんな栄養が入っているかといった知識まで
学ぼうと意識する事にもなるかと思います。


対象物が好物の食べ物でなくても結局は手法は同じことです。


対象物が人間であれば、
先ず目で見て、顔色が良いとか悪いとか、痩せているとか太っているとか
どんな顔形をしているとか先ずは目で見ては理解します。


その上で話声を耳で聞いてその人間の上辺の姿は
大体が理解できることになります。


もしかしたらその人間がお洒落であれば
香水やコロンの香りがするかもしれませんし、
時には不潔であったり汗を掻いていて体臭がするかもしれません。


通常人間相手に味覚を感じる事はないでしょうが、


私達生命の科学を学んでいる人間は
その上で相手の見えない物をも意識する努力をする事になります。


先ほど確認した顔色の悪さから
体のどこかを病んでいる可能性を想像するかもしれません。


そしてそれによって侵されている肉体の内部かもしれません。


初対面で見せられる表立っての人間性を
そのまま受け止めて評価するのが私達この社会の人間ですが


そうではなくて、私達であれば通常は見えない腹の中まで
探るくらいの意識が必要かもしれません。


ブラザーズであれば私達の心の中の思考も見えています。


彼らには隠し事は存在しないのです。
(だからこそ余計に心が汚れないのでしょうね)


更に彼らは、私達一人一人の人間が皆異なると言う”波動”まで受け止めては
それで私達を認識する事にもなります。


彼らの対象物への”理解”はそこまで深いのだと思います。


そして彼らであれば私達の事を深く知ることで
私達と上手に交流しようとするはずです。


それが理解であり調和だと思います。

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スペースブラザーズは
アダムスキーが彼らの社会と地球との違いを心の中で苦悩するのを見て、
それに深い理解と同情を示していていた様です。


私達の理解の足りなさが、創造主の与えてくれた
彼らの社会と同様の素材を基にしている環境を地獄へと変貌している。。


その事をとても良く理解しているからです。


同じ元素を用いるのでも
彼らはそれを平和と調和と進化のためにこそ利用します。


しかしこの社会での私達は破壊と殺戮と欲とエゴのためにそれを使用しては、
この社会の中を乱す事をやめようとはしません。


そしてその根底にあるのが私達の真理の理解不足である事を
彼らは何よりも悲しんでいるのだと思います。


私達の社会の中の混乱の種の一つを撒いたのも
彼らの仲間であったから、


そしてそれ以上に、彼らの私達の社会への改善の想いよりも、
私達の社会に根付いている私達の悪しき想いの方が大きいために
この社会が一向に良くならない事に対してかもしれません。


そして私達が正しく創造主の法を理解することは
今の社会の中では環境的にも困難となっている現実もあります。


心に植えつけてしまった先入観や持ってしまった誤った価値観、
更には間違いだらけの情報が私達の判断をも誤らせ続けているからです。


そして創造主の意志に従わず、自ら分割を選んでおきながら
私達は作り上げてしまった沢山の不快な現象や敵や物事に苦難しては
今度はそれを神に解消して欲しいと願ってもいるのです。


間違いのローテーションをどこかで終わらせる事が出来れば
私達の社会は改善されることもあるのかもしれませんが
そのためには多くの方が真理を理解しなければなりません。


しかしその広報や認知を求める行為自体が
この今の環境の中では困難となっているのです。


でも、こんな社会に対しても、
天使達は自分らがこの社会の見えない守護者であることを
止めてはいないはずです。


この世界に於いては数少ない真理の理解者である私達は
其の想いに報いるよう勤めて行きましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】