北インド☆ゆるヨガライフ -9ページ目

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

よく分かってないけど、書きます。

 

結婚式への出席準備をしながら、よく分からないけど胸焼けのような、ロックダウンのストレスのような、それとは違う絶望感のようなものが、暗雲のように頭の上に立ち込めていた。

 

これ以上どこにも行き場がないような。

 

下に下に潜っていって、

それが底を打ったんだと思う。

 

 

日曜、お休みの夫への八つ当たりが始まった。

 

インドのコロナの状況、全然良くならない。また都市封鎖に逆戻り。この閉塞感の中、もう4ヶ月息を殺してる。どうしたらいい?私日本に帰れるの?(今帰ったら、君はしばらくインドに戻れないと、夫)私がいないと困る?何とかならないの?

 

そんな悲しそうな顔して

私を追い詰めないで欲しい。。

 

 

この状況で、自殺者が急増しているのも分からなくないわと、私。憧れのボリウッドスターも、素敵な日本の男優も、きっと嫌になっちゃったんだね。私だってもう嫌だもん。どうすればいい?もう何もかもやめたい。飛び降りようか。一緒に飛び降りて。

(心にもない自暴自棄な発言だった)

 

よし、分かった!今行くの?ほら立って。一緒に行くよ!と、夫。

 

え?。。

まだご飯食べ終わってないんですけど、と私。笑

 

夫苦笑い。

 

この後

ぐずぐずご飯を食べながら

夫に怒られていた。

 

冗談でもバカなこと言わないで。

僕だって落ち込んだ事はあるよ。

父さんが死んだ後

学校に行けなくて

先生にも母さんにも怒られて

殺虫剤を飲んだ。

でもあの時は死ねなかった。

病院に運ばれて救われた。

 

「もう2度と同じ過ちは出来ない」

 

初めて聞く夫の告白に、どう答えて良いのか分からず、ドギマギしながら言い訳しか出なかった。

 

。。だよね。私だってそう。私も何回かやらかした。生きる意味が分からなくなった時。私も助けられたよ。警察が来てくれた。親友も泣いてくれた。だから本気じゃない。本当にごめん。

 

でも

 

どうしてこんな気持ちになるんだろう。感謝がない訳じゃない。良い事がない訳じゃない。せっかくインドまで来て、せっかく好きになって結婚したのに。ロックダウンだって4ヶ月乗り越えて、せっかくここまで来たのに。

 

ちょっとした忙しなさに

2、3日瞑想やレイキを忘れただけでコレ。

まだやる事だっていっぱいあるのに。

 

 

疲れてるなら寝なよ。

映画見ながらちょっと休もう。

僕がいるから大丈夫だよ。

 

そう言われて昼寝して、起きて少しスッキリしたら、また準備の買い出しに出かけた。

ここ2、3日、

モヤモヤをやり過ごし

底をついて

今朝、

変な夢から目覚めた感じ。

 

 

インドのチベット文化圏スピティ渓谷Kibber村。

 

 

 

思い通りにならないからクタクタになる。

でもそれは、

「何でも思い通りにしよう」って

そう思うクセがあるからだった。

 

 

せっかく瞑想を習って

執着を手放そうとしてるのに

真逆の事が起きている。。

 

 

月曜。

夫が仕事に行ったら、洗濯や縫い物の合間にインド占星術の出生図を読みたくて仕方がなかった。まだまだ、まだまだ、自分のことすら分からないことが沢山ある。もう4年も見てるのに。

 

「前世からの因果で」

「カルマを解消するために」

「運命として受けついだ苦しみ」

 

そんな配置のいくつかに目が行く。

 

何なのこれ。

私の現生と関係なくない?

どうすればいいの?

いくらポジティブに

仕事を頑張っても

結婚生活頑張っても

家族のために色々しても

問題はなくならないの?

 

 

答えが見えるまで気持ちが落ち着かない気がした。インド占星術はただの星占いではなくて、ヴェーダ哲学、仏教哲学に基づいている。

 

解脱に向かうこと。

生きとし生けるもののために

今生を捧げること。

 

いつもいつも

そんな記述に行き着いて

そんな事出来ないよと、腹の底から恐怖が反論する。

 

言い訳はいつもこの

えぐり取られるような痛みと

湧き上がる恐怖。

 

「この恐怖は、私のものじゃない」

「消えない罪悪感は、私のものじゃない」

 

ふと前世って何だろうと思った。

この前見た酷い夢は?

 

前世で私、罪を犯していないだろうか。

 

よく、分からないままに書いている。

 

 

東洋哲学では

前世は確かに存在していて

私たちは輪廻転生し続けていて

解脱を目指すことが

生きることの意味だという

 

生まれて来た意味

苦しみがやって来る意味

そしてたまに、

自由になりたくて仕方がなくなる意味。

 

夫と飛び降りている場合じゃなくて。

 

自分の苦しみから自由になって、

全人類の持つ苦しみを

解放する業へ向かうこと。

 

 

夫は安定していて強い人なので

いてくれて私は本当に助かっている。

 

私はまだまだ生きていたい。

尽きないモヤモヤの闇の向こうに

本当は生きる意味があること、

それを信じるためだけに。

 

 

先に去る人たちの気持ちが分かる。

誰にも分かってもらえないと絶望したり

途方もない光の世界に近づきたくて

地上で所在を失うような気持ち

 

苦悩も絶望も天からの祝福であると

ある占星術の先生がおっしゃった。

きっと、その通りなんだ。

 

悩んだり苦しんだり

辛くなったりすることぐらいしか

私に取り柄はない気がする。

 

仕事で認められることとか

仲間に入れてもらうこと、

沢山お金を稼ぐことでしか

自分を肯定できなくなったり、

非難されず無難でいることで

心の中の何かが疲弊したり、

そういう昔の生き方には

私はもうあまり

時間を使いたくない

 

変わろうとしなくても

変化は訪れる

 

抵抗しても抵抗しても

本分には引き寄せられる

 

無理にポジティブにしなくても

痛みの先の光が見えているから

悩むし苦しむ人が必要で

それだけのことなのに

 

 

 

 

今日のチベット仏教の瞑想は

苦しみに抵抗するのではなく

もっともっと受け入れ

引き受けるという練習

 

 

ダライ・ラマ法王は、

この地上の生きとし生けるものが

苦しみと共にある限り、

(転生して)地上に残り

苦しみを解放し続けると

当たり前の事のようにおっしゃる。

 

 

私たちはどうして

人としての慈愛から遠く離れて

何を築こうとしてるんだろう?

 

私は良く分からなくなっている。

 

違う世界に生きたいという思い。

その行く手を阻む恐怖なんて

本当は、私のものじゃない。

 

昨日はなかなか眠れなかった。

気がつくと節目の新月だった。

 

これからも分からないままだろうか。

 

私の苦しみを

夫は密かに分かっていた。

 

絶望感や無力感は

なぜか自分だけのものじゃない。

 

自分を見失いかける恐怖も

生きとし生けるものが

分かち合う苦しみの1つ。

 

見えそうで見えない光を

探す事をあきらめなくて良いと思う。

 

周りに分かってもらえなくて良いと思う。

無理に変わらなくて良いと思う。

 

私たちが命を受け継ぐ意味でさえ

よくは分かっていないことばかり。

 

月並みだけど、

「一人ではない」と思う。

 

孤独に見える私たちは

本当は

慈愛や共感、

そして恐怖や苦しみで

1つにつながっている。

 

 

旅先で会って2日目の夫。いつもこっちを見ててくれて、ありがとう。(世界一標高の高い村、Komic村の修道院にて)
 

ここ1月ほど右手首が痛く、右肩から突っ張るような痛み。

 

おそらくただの腱鞘炎だけど、どんな心の動きから来てる?と思いググってみると「自分を責める、男性的な攻撃性」という記述があり(スピリチュアル系の解釈)、なるほどなーと。笑

 

何事も思うように行かないんだものね。

インドのコロナ感染もついに100万人越え。

受け止められなくて当たり前のこと。

 
 

雨季のインドに残って良かったことの1つは、南国の花盛りが見られること。

 

 

日本の家族に言ってもポッカーンだし、海外在住向けの相談サイトはこのご時世で新規相談を締め切り、夫は今パソコンがバカ売れで忙しく、今月末の弟の結婚式の準備もてんやわんや。

 

かろうじてチベット仏教の瞑想の先生のガイド瞑想をしたら、やっぱり涙がポロポロ。

 

今は太刀打ち出来なくて無力でも

どんな状況も永遠には続かない。

 

瞑想の素晴らしいところは、どんな事も一旦受け止め、受け流せるところ。

 

少し冷静になれたので、今はサロンパス貼りまくって村行きの準備中。

 

 

 

先週は、4月に本帰国したKちゃん夫妻宅のお引越しに立ち会うことが出来た。寂しさを受け流し、一段落と再出発を喜びにできた日。

 

そして、この危機で2人は急に旅立ったため、残してくれた沢山の日本食材やインド家電、インド服をいただくことに。

 

非常時の優しさに元気を貰い、英気を養わせてもらっている。

 

 

一時は私も、「このまま日本に帰れなかったら。。」と根拠不明な暗い思考がよぎったのだけど笑、夫が大喜びで和食を食べて感動してくれて救われた。

 

たとえ帰れなくても、私がインドの日本になる!笑

 

そんな気概を忘れず、明るい方を目指したい。

日本の先祖や家族、友人知人がくれた優しい場所を受け継いで行きたい。

 

 

お出汁、お豆腐!日本がいっぱい♡♡

 

 

6月15日に中印国境で紛争が起き、中国製品のボイコットや税関チェックが強化され、夫の会社ASUS(エイスース。本社台湾)製品の入荷も滞ってきた。その反面、学校は再開せずオンライン授業のためのラップトップ需要が止まらない。

 

朝から晩まで鳴り続けるケータイのお陰で、夫に話しかけられないのが辛いところ。

 

 

同じマーケットの他店では、価格を水増して個人の利益にしちゃうインド式営業マン(夫の姉の旦那さん笑)も多い中、夫は正義感が強く、適正価格ポリス?なので、1人1人に丁寧に対応しすぎて疲れてる。

 

おかげで信頼は高く、更なる問い合わせが絶えない。。笑

 

大変だけど、きっとこれからはインドでも誠実さやホスピタリティーは大事。

 

嬉しい悲鳴も、きっと永遠には続かないのだから。

 

 

先週末、甥っ子と結婚式の買い物に出かけて来ました!

 

 

つい数日前、近所で第一感染者の一報があった。人口密集の下町なので情報も早いけど、夜間の外禁以外は活気が戻っているので油断大敵。

 

 

こんな中、息子の結婚式を決行する義母はある意味スゴい。

11月に延期される予定だったので、周りは大わらわ。

どこまでも想像を越えてくる。笑

 

 

自分たちの衣装や贈答品の買い物にもほぼ出かけられないため、今回はオンラインショッピング頼み。でも最近は仕事が丁寧なブランドが分かってきたので、あまり外れクジを引かなくなった。

 

 

第一候補。鼻の穴探検隊員としては、色々気になるところ。。。

 

 

さて今回初めて購入するのは、インド伝統のノーズリング。3つ注文して1つ選ぶつもりだけど、時間がないのでどうなることやら(鼻の穴がーw)。

 

 

結婚式は1週間後。ヘアカラーやトリートメントもこれから。数ヶ月の引きこもり生活の疲れが出ないよう、今さらYouTube見てフェイスマッサージを始めた笑。ちびっ子たちが暇を持て余すと絡んでくるので、遊びグッズも用意しなくては。

 

 

末息子の大事な式が無事終わるよう、私も今回はあまりワガママ言わず、楽しみながらインド式を受け入れられるだろうか?

 

ま、嫌なものは嫌って言っちゃうだろう。でも、義母から学んだ格言、

 

「アッチャー」(へぇ〜。 i.e. だから何?)

「キャーカルナ?」(ふぅ〜ん。 i.e.  だから何?)

「パタニ」(知らんがな。i.e. だから何?)

 

と、責任の所在を明確にしつつ、とばっちりは受け流せる余裕を持って、自分と右腕を労わろうと思う。

 

 

What happens in Village stays in Village!

 

(e.i.インドの村で何が起きても、ほぼほぼ私のせいじゃない。笑)

 

 

SHOKOさんのマッサージ動画、一緒に出来て楽しい〜!効いてくれ。笑

 

 

優しい場所に辿り着きたい

私をわかってくれる場所

沢山の笑顔に囲まれて
料理をしたり
お喋りしたり

明るくて
くつろげて
いい香りのお花があって

永遠の時間

疑うことなど知らず
急ぐことも何もなくて

ずっと一緒に
日が暮れるまで。




私は何を求めているのかな。ふと思って書き始めてみたら、イメージで浮かんだのは懐かしい母方の祖父母の家。

大正生まれの祖母は、「良妻賢母」という言葉の似合う知的で優しい女性だった。生け花の師範で短歌をこよなく愛するロマンチスト。

自慢の小さな日本庭園にはいつも季節の花々が咲いていて、池には鯉が泳いでた。

年中親戚が集っては、女性陣が腕を振るう料理や男性陣が夢中の野球や相撲の中継を前に始まる宴。

数学教師だった祖父は、着物を着て囲碁を打った。小さかった私たちにも指南してよく褒めてくれたものだ。祖母は私たちに子供布団や着物も縫い揃えてくれた。

守られて満ち足りて幸せだった日々。

懐かしいなぁ。

今では幻のような思い出。



祖父母が生涯をかけて受け継いだ文化は、私はまだ何も体現できていない。。急に、そんなことを思った。

文化的な生活の安心感から、

ずいぶん遠くまで来てしまったと。


何せここはワイルドワイルドインディア。無法地帯のならず者が教育もなく生きるためにのさばって、犠牲者の連鎖を生む土地。


辟易することがある。

貧しさや無知や弱さに。


だからって何かが出来る訳じゃない。見たくないものから距離を置いて、真実なんて知らないふりして、保身しとくので精一杯。



一体どうやったら

優しい場所に行き着くんだろう。



どこから手を着けていいのやら。笑


最近よく思うのは、

「どっちが幻想なんだろ?」っていうこと。

 

(ちなみに私は大丈夫です。笑)

 

 

コロナ危機でロックダウン中、

それまでの「現実」が崩れる中でも

幸せはすぐ側にあることに気づけたり

 

でも、

「現実」では絶対に表すことのなかった

無意識のネガティブエネルギーが表出したり。

 

現実だったものが幻想で、

幻想だったものが

確かに存在していたことを知って。。

 

物質世界と精神世界。

 

それらの比重が逆転し始めているような感覚。

 

 

 

そんな感覚の変化には、チベット仏教の瞑想コースを受け始めた影響もあるかもしれない。「精神」という、目に見えないものに光を当て始めたから。

 

レイキの練習も再開して「自分勝手な思い(エゴ?)」を介さないエネルギーが少し循環し始めた感触もある。

 

あれ?!と思うのは、長年疾患している婦人科の症状が改善したこと。ひどい時は半月苦しんだ生理が、たった5日で済んでしまった。

 

 

「好転反応」と言われるようなエネルギーの変化も、意識的に体験している。それは未消化のネガティブ想念を「感じ直す・感じ切る」というようなプロセス。

 

これはガイド瞑想で誘導してもらった形。今は、自分では届かない場所に手が届いた感覚と、自分しか分からない何かがまだ眠っている感覚の両方ある。

 

 

 

ここ数年の趣味なのに、いつも色んな壁に突き当たる「ヴェーディック占星術」も再びやり直し。日本の一般女子として慣れ親しんだ西洋占星術を捨てられない壁があったけど、

 

捨てなくていい、という結論に至った。

 

結論:両方、当たる。笑

 

主体であるその人自身が何を信じ、どう受け止めて自分で活かせるかという事に尽きるのかもしれない。

 

 

自分の出生時間で西洋とヴェーディックのチャートを見比べると、半ば直感的に後者がしっくり来る。それは私が西洋占星術に関しては出生図で見る方法しか知らず、各分野のチャートがあるヴェーディックが単純に情報量が多く見えるからだろうか。

 

いや、インド在住だからか。笑

 

迷い続けるとキリがないので、ヴェーディック占星術を主として、ある程度両方理解できるようになる必要がある気がする。

 

近年のグローバル化、社会構造やライフスタイルの多様化も加味すると、視点も多様化して行くんだろうか。

 

両方あって両方いい!てことで。笑

 

 

 

つい先日は、亡き父の誕生日。

 

祈りの意味を込めて瞑想・レイキを行った。

 

これも初めての試みだったけど、今まで知り得ることのなかった父の感情をリアルに感じた気がする。

 

それは、いつも笑ったりふざけたり怒ったりして、父が決して表には出さなかった「悲しみ」「いらだち」「悔しさ」。

 

せっかくの誕生日なのに、私はオロオロ涙を流していた。父が見せたくなかった部分を見たかった訳ではないのに。それでも、ようやく謎が解けた。

 

父が抑圧していた感情は、そのまま私の中に抑圧されて存在していた。それに私がようやく気がついて、解放する役割があるってことも。

 

もう天国の父が悲しまなくても良いように、

私も、私を自由にして行こうと決めた。

 

 

 

目には見えない心の世界と繋がり、まだまだ重苦しかった気持ちが一段解放されるのと平行して、現実世界でも明るい動きが増して来たと感じる。

 

いまだ感染者数が急増し続け世界3位になったインドでも、少しずつ外出できる機会も増え、食べたいものを食べられたり、会いたい人と話せたり。明るい兆しは確実にやって来ている。

 

 

でも不思議なことに、コロナ前よりスッキリした感じ。

 

不要になった迷いや苦しみを手放して、新しい世界を作る時なのかもしれない。

 

 

どんな時代が来るんだろうか。

 

新たな時代が、分離や抑圧の少ないまあるい世界になること、

 

お互いの痛みも幸せも分かち合える世界になることを祈りたいと思う。

 

 

 

気が付いたらもう7月!

 

今週は毎日チベット仏教瞑想のオンラインクラスに参加したおかげ?か、泥の様に眠り朝は起きられない。入眠前にフラッシュバックの様に過去の人や出来事が浮かぶ。

 

前とは違う角度から見ているようで、わだかまりが消えていって「そうか!」「本当はそうだったんだー」と、アハ・モーメント(古い?)が起こる。

 

素敵なんだけど、私の脳はちょっと疲れるみたい。。

 

スピティ渓谷へ向かう道に建てられたチベット仏教のゴンパ(仏塔)

 

 

昨晩は、リアルな悪夢に手の汗握る様だった。東欧系?の顔立ちの子供たちの集団に自分も混ざっていた。何か、「宗教的な信仰心にいつわりがある」ことを全員で自問している場面。背後の建物の石柱の感じがローマ帝国ぽかった。

 

1人の子が「ボクは多分、信仰に従えていません。だから向こうに行きます」と言うと、ボクも私もと、100名位の子供たちが次々と半地下に掘られた広い 壕(ごう?)の中へ。


私は、そこで何が起こるか知ってか知らずか、他の「私には信仰があります」と声をあげた数名の子たちと一緒に地上に留まった。

 

壕の中の少年少女たちはお教のようなものを唱え始めると、地上に残った数名の大人と子供たちが、壕の中に火を放ち始めた。火は次々と燃え移り。。。っていう夢。何なのこれ?泣

 

 

先週も変なビジョンを見た。有名なヴェーディック占星術の先生の動画を見てたら(寝落ちしそうになりながら)、いきなりそのお顔の上に血塗られた?ホラー映像が重なって、ビックリして飛び起きた。

 

ホラーとか大嫌いなのに。泣

 

アウシュビッツとか、広島の原爆とか、人類の殺戮の歴史が怖くて怖くてまともにドキュメンタリーも見れない人なのに、今さら怖い夢とかやめてほしい。

 

ロックダウンのストレスか?

 

 

瞑想クラスは情報量が多く、まだ消化し切れない感がありありだけど、やっぱりチベット仏教ってスゴいと思うのは、仏教の教えに対して常に理論的、実験的、科学的な根拠を追求する姿勢。

 

盲目的に言われた事をしてるだけ?のように見えるご近所の○ンドゥー教徒の皆さんとの決定的な違い。笑

 

ダライ・ラマ14世も「仏教は宗教ではなく、哲学である」「盲目的な信仰心には基づかない」「自らの検証と実践に基づく」と言われている。

 

瞑想の先生たちの講義を聞いていて、自分についてよく分かったことがある。人は目の前のものを自動的に「感情」「好き嫌い」「嫌な思い出」等の偏った情報で即座に判断(ジャッジメント)しているということ。

 

そして瞬時に反応する衝動的な心の動きを、自分でも見えていない。なので後で後悔するような言動をしてしまう、と。

 

 

例えば私が5月にやらかした、義弟を罵倒するという行為(こだわってるなぁ笑)。

 

そこには、

 

恐怖

(放置したら取り返しがつかない!)

(絶対後で私の責任になるじゃん!)

(どこの世界でこんなの許されるの!)

。。。という過去からの概念と、

 

怒り

(アンタ、人様の前でどんな態度なん!)

(お前ワテの事ナメとっちゃろう!)

(今一発食らわせとかんと絶対腐るな)

。。。という経験上の擦り込みと、

 

恥 

(こんなインドのど田舎まで来たのに、情けない)

(こんな経験のためにここまで来たの)

(今までどんだけ苦労したと思ってんの)

。。。という自分勝手な我慢の八つ当たりと、

 

悲しみ

(どんなに避けても周りは半端者だらけ)

(まだ克服できてないなんて!)

(どうして命を粗末にするのアホンダラ)

。。。という過去に粘着しすぎの思考が、

 

一瞬にしてほぼ同時に沸き起こり、反応してしまった結果だった。

 

 

強烈に嫌な事が起きる時って、多かれ少なかれこんな心の動きがあると思う。

 

でもこれじゃあ感情も過去も嫌悪もマイルールも、一緒くたになって垂れ流し状態。笑

 

 

オンラインクラス楽しかったー。素敵な先生ばかり!
 

 

だからと言って目の前で起きている事に対して、いつもクールを装い反応しないのも不自然。それは「感情を抑圧する」という事で、カバーアップしてるだけ。そうするとまた1つ執着を作ってしまうらしい。

 

だから、現実起こる事に反応しちゃうのはOK。

 

それでも毎日根気良く、5分でもいいから瞑想を続けていると、自分の思考や反応のクセが客観的に見えるようになるんだそうだ。

 

見えちゃうと白々しいもんで、アホらしいからやーめよってなるのかもしれない。

 

先生は色々と専門用語を解説していたけど、ま、私が納得したのはそんな所。

 

 

感受性が強いとか、妄想の世界に入りやすいとか、これまでの私の傾向の対極にあるようなチベット仏教の瞑想法。正直、理論的に冷静に客観的に事実に基づいて「思考すること」がまともに出来ていなかった。

 

思考の力をナメてたね。笑(ブルース・リーの「Don't think. Feeeeel.」って言うの見過ぎたかな)

 

 

 

やはり何事もバランス。ヨガでも仏教でも瞑想でも、偏りと執着は苦しみを生むと言う。

 

頭のチャクラも、空回りじゃなく全体のエネルギーとカチッとギアが合わないと、方向がブレるよね。

 

心理療法に「認知行動療法」というのがあるけど、自分の思考を一度客観的に見て再評価するという作業って、学校の必須科目にして欲しいくらい大事と思う。

 

 

 

さて。急遽、例の義弟の結婚式がロックダウンをかいくぐって今月末に決まったので、また顔を合わせても気まずくないように、再度往復ビンタを飛ばさないように(手加減したのよ笑)、まだまだ修行が必要じゃっ。

 

インドではお祝い事の度に鬼のように服や靴を新調しなくてはならず、夫がどうしても1着買ってくれると言うのでオンラインで注文しようと思うんだけど、こんなのはどうかなー?

 

夫のオススメはこっち。。。(やっぱこういうのが好みですか?笑)

 

 

ちなみに、「写真と全然違うやんけー!」っていうレビューが多いインドの通販。

 

そういうのも、ひょっとして認知の歪みかもしれない。。。と、色々考えさせられるこの頃です。笑

 

 

前回は小さい頃、感受性が高かったことについて書いた。高い低いという表現は妥当ではないのかもしれないと思うけれど。

 

人はそれぞれ感じ方が違っていて、考え方や行動にも違いが生じるし、その毎日の積み重ねによって多様な人たちが共存し合う世界が作られている。

 

 

 

感じ方、考え方はその人の人生を大きく左右する。より良く生きること、より満足して幸せな人生を作ることにおいて、感じ方や考え方を振り返って内省することは大きな前進になりうると思う。

 

 

インドに来た当初、ヨガ仲間に誘われてチベット仏教の瞑想センターのオープンセッションに参加したことがあった。ヴィパッサナーやマインドフル瞑想とも違う、ダライ・ラマ14世の推奨する"Compassion"(思いやり)をベースとする瞑想クラスは初めての事。

 

 

実際の人物を思い浮かべ、その人の幸せについて思いを馳せる。

その時の自分が一番嫌っている相手を思い浮かべるというものだった。

 

同じように、自分の母親の幸せを願うという瞑想が続いた。

 

あんなに心が揺さぶられた瞑想はなかったと記憶している。

 

 

何度も通っているせいか、晴れやかな顔の友人を横目に、何とも言えない感情が溢れて涙が溢れたり、感謝が溢れたり、嫌悪感を再確認したり、そんな自分を責めたくなったり、

 

ぐちゃぐちゃのスタート。笑

 

 

そのチベット仏教の瞑想センターが今回オンラインの瞑想コースを行うと聞いたので、今週参加することにした。

 

ほぼ4年ぶり。

コロナの思わぬ恩恵を感じる。

 

 

ダラムサラ(ダラムコット)にあるTushita Meditation Centerにて(2016年)。
 

 

まだ2日目だけれど、「思いやり」を基盤にした瞑想の無限の可能性を感じる。世界的にも広がりを見せていて、世界各国から幅広い年齢層の参加がある。

 

今回の師範も英語圏の青年たち。若い間から心の平和を持てたら、その後の人生も必ず違ってくるのだろうと希望が持てる。

 

今日も「今一番好きになれない人」を思い浮かべた。何と今回も、4年前と同じ人が目の前に思い浮かんだ。笑。どうしてこんなにも長い間、一人の他人への嫌悪を手放せずに来たんだろうと自分でも驚きだった。そう思うと、その人が何か大事なメッセンジャーに思えた。

 

他にも、次々と瞑想の対象になる人物や事象が現れる。敵とも言うべき人。あなたを傷つけた人。あなたが絶対に許せない行動を起こした人。あなたの何かを奪った人。あなたの競争相手。あなたの友人。親友と呼べる人。あなたの愛する人。

 

次々に、顔や姿を変えながら対象が目の前に現れる。

 

 

その全ての人に対して、思いやりの念を送ることを絶え間なく続ける鍛錬。

 

 

途中で息は苦しくなるし、心は乱れるけれど、呼吸と共に思いやりの心を絶やすことなく送り続ける。ガイド瞑想に従って、自分の中の苦しみに気づくことになる。長い間そのままにされてきた、憎しみや恨み、傷ついたままの自分の魂に気づくことになる。

 

私はまだまだ初心者なので、具体的なメソッドをうまく伝えることは出来ないけれど、今日強烈に感じたことは、

 

「もうこれ以上憎しみを抱えていたくない。」

 

ただそれだけだった。

 

 

普通に生きていて、普通に日常をこなして、普通に善悪を判断して、普通にやって来たつもり。特に誰かを傷つけようとか悪い意志があるわけでもない。それでも、40数年生きてきて、本当の意味では負の感情に向き合えていなかった。

 

自分は感受性が強かったとか、傷つきやすかったとか、不器用だったとか。言い訳は果てしない。でも、そうしていてはほんの小さな日常の嫌悪感の種からも、憎しみの連鎖を止めることは出来ないと思った。

 

誰を憎みたいわけでもないのに。

 

そしてもちろん、自分を憎み責めたいわけでもない。

 

 

瞑想の中で私の目の前に現れたK先生のこと、もう何とも思っていないと思っていた。それどころか、すっかり忘れていたのに。笑

 

 

憎しみの対象は、次々と姿を変えて現実世界に現れる。

 

自分の中に嫌悪の感情がある限り、この悲しい現実を終わりにすることは出来ない。

 

その憎しみは、ある日突然、愛する人に向けられるかもしれない。

 

 

How to Meditate クラスの概要。
 

 

先月は、夫の弟の振る舞いに怒り心頭してしまった私。怒りで頭に血が上り、我を忘れて普段の自分らしからぬ言動をしてしまった。今思うと、その事が自分の中で放置されている負の感情を見つめるきっかけになった。

 

出来ることなら、どんな環境に置かれても自分らしくありたいと切実に願った。

 

 

今こうしてインドの下町の喧騒の中、心を乱されないために安全な部屋に込もっている間は、一見何事もなく生活することが出来る。

 

でも一歩外に踏み出そうと思ったら、ひとつも私の思う通りに行かない事ばかり。それは環境のせい、インドのせい、教育のせい、努力しても報われない社会のせい、そして私が「繊細過ぎるせい」だなんて諦めかけた。

 

 

チベット仏教の瞑想法は、繊細さを魔法に変える。

 

 

自分の怒りや憎しみを感じないように封印するのではなく、感じ方を変える。見方を変える。考え方を変える。それを長年の習慣化する。

 

 

恐怖や怒り、憎しみなどの負の感情は、そのままにしておくと、年を追うごとに対象を変えて人生の節目の中に散りばめられて行く。

 

安全で守られた環境から少し外れただけで、思わぬ形で噴出する。

 

 

インドでロックダウンを過ごしながら今表出した中国とインドの間での紛争を見ながら、ここに来て、もう本当にこんな世界は耐えらえないと感じる。

 

苦い思いはもう沢山だ。笑

 

 

私の瞑想コースはあと3日。

 

過去のすべての嫌悪感、憎しみ、恐怖、恥、自責、そんな思い違いのトリックを「思いやり」の力で見破って、変容した力に変えたいと思う。

 

 

ダラムサラにあるナムギャル修道院本堂にて(2016年)。
 

 

最近、たまたま見た記事や動画の内容が、今自分に必要など真ん中の内容な事が増えた気がする。心理セラピストのカズ姉さんの今日の動画は、ちょっと前の自分のことみたい?とドキっとした。自己否定に耐えられるのも、限界がある。私は本当、もう、いいです。笑

 

 

 

違和感を敏感に感じられる繊細さは、

子供の頃から足かせになって行った。

 

自分が感じたものを

うまく表現する術を知らなかったから。

 

多分、赤ちゃんの頃は夜泣きもすごかったと思う。

 

親からは「感受性が強いからねぇ。。」と、困ったように言われてた。

 

 

私には双子の片割れの妹がいて、夜中に急に泣き出したり、夢で見た出来事をすぐ目の前で起きたように話すのを、鏡のように見ていた。


2人で同じ夢を見たこともある。

それは誰にでもある

自然な事だと感じていた。

 

音や光や空気の臭い、犬との会話や雲のメッセージ。言葉を覚える前から伝えたいことがたくさんあった。


私たちは「双子語で話していた」と母は笑うけど。これは双子にはありがちなのかもしれない。

 

成長と共に、親には理解されない事が「当たり前」になった。

 

感じる事を表現する方法よりも、

「何も感じない」フリを覚えて行った。

それは、家族に理解されたかったからかもしれない。


いつか私を

分かってくれる人に出会いたかった。

 

 

でも、自分の感覚を否定し偽り続けることで、思春期から次々といじめや孤立という問題が起きてきて、青春期にはDVや共依存関係、事故や事件の末にウツになるまで感覚を閉じることになった。

 

その後は心理療法を受けながら「感じること」を少しずつ取り戻して行ったけど、あの頃は10年単位で時間が飛んで行ってしまった感じがしている。

 

 

最近では

繊細すぎて周りとうまくやれない人を

HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)と呼び、

世界的にも認知されて来ているらしい。

 

 

感受性が強すぎることがOKな世界があったら、その感覚を生かす方法を上手に身につけられたり、本来の自分らしく生きることが出来るかもしれない。


それって、どんなに素晴らしい世界だろうと夢想してしまう。

 

 

感じ方というものは人それぞれ違うのに、ちょっと前までは平均値を行かないとすぐに敬遠された気がする。

子供の頃から、親や社会に認めてもらえる事をするので一杯いっぱいになっていた。


得意でも好きでもない事も、人並みに出来るようにならなきゃって。

 

周りに理解されない感受性なんて

あっても邪魔なものでしかないようで。

 

 

 

本当は、テレパシーみたいのが得意だった。笑

 

 

私の場合は、英語の習得の仕方が独特だったかもしれない。反復的に勉強するより、感覚的にテキストや話者とシンクロするようにして身について行った。「え?勉強してないのに?」って、子供ながらに成績を見て驚いたり。参考書をやらずに枕元に置いて寝てしまったのに、満点を取ったり。

 

でも、空気が読めたり先回りし過ぎた

り、「冷めている」と先輩からは目を付けられる。

 

「一生懸命」「努力」「根性」「みんな一緒」みたいな美徳が分からないので、仲間意識の強い場所が苦手だった。

 

頭であれこれ思索している人と、雑念なく感じたことを行動する人の違いはすぐに見分けられたけど、


若い頃はいつも前者にハマって振り回された。「何を感じているのか」見ようとすればする程、見えなくなる人たちがいる。

でも、きっと見えるはず!とこだわり続けると、うまく行かずにこちらも傷ついてしまう。

 

「感じること」は結局、あまり役立たないのだと諦めかけた。

 

無防備に意気投合しても、後で傷つくのが目に見え始めた。

 

そして、諦めるためのさまざまな「屁理屈」が潜在意識に刻まれたのかもしれない。

 

感じてしまうと、良くない事が起きる。

素直な感情は出してはいけない。

周りに合わせて変わらなくてはと。

 


でも傷ついた感覚を癒せないまま、ただ用心深くなっただけで、気がつくと何もリアルに感動出来なくなっていた。


本当は感じることが得意だったのに。

 

必要以上に傷つくのが怖くなった。もっと守りに入って、無感動な毎日が繰り返されることで、トラウマになる出来事を避けるどころか、逆に呼び込んでしまっていたかもしれない。

 

 

何てもったいんだろう。汗

 


これってHSPあるあるだろうか?笑

 


ようやく他人さまと心が通って結婚できた40代の今は、寂しいという感情が蘇ってしまった。

 

周りに分かってもらえない寂しさ。


 

ついつい、近しい人に分かってもらいたいと望んでしまう。


親やきょうだいや親友でも、全てを分かってくれる人はいなかった。

 

スルリと、聞いたフリをしてすり抜けるのも見えていた。笑

 

 

 

 繊細過ぎることは生きづらい時代だったかもしれない。でも、時代の変化はどんどん進んでいる。


私も少しは回復したし、年と共に知恵もついて来た。笑



繊細でいることを生かせる術を身につけたいと最近よく思う。

 

瞑想や呼吸法、レイキはまさにその手段。

 

人の気持ちを感じ取るのは得意なので、それをどうやったら周りに生かして行けるのか、その方法を学んでみたい。カウンセリングや自然療法、ヒーリングみたいな事だろうか。

 

ちょっと前まで後遺症やブロックが凄すぎて、本来の自分を活かすことなんて絶対に無理と思ってたから、それと比べると今は、少しずつ癒されて来ている実感はある。

 

 

自分から

分かってもらえる世界に行っても良いし、

この人生を活かせる道を歩いてもいい。

 

 

逆に、分かってくれない場所に身を置いて、分かってくれない人たちに分かってもらおうと執着して、心身に無理を強い続けるのって、今となっては一体どうやってこなしてたんだろう??って。

 

病気になってもおかしくなかった。

(今は体調もかなり安定しています)

 

 

インドの地方都市の下町に住んで、似たような人や分かり合える場を見つけるのは正直とても難しく、何年も試行錯誤しているけれど、


唯一、細かいことを気にせずに丸ごと受け止めてくれるのは、やっぱり今の夫の存在だと改めて思う。

 

出会った頃は「雰囲気」で会話していたほど言葉も通なかったのに、今ではお互い少しずつ言葉も覚え、昨日の夜は珍しくインドの政治の話で盛り上がったなんて、冗談抜きで奇跡みたいに思える。まぁ、4年も経ってしまったけど。笑

 

 

諦めなくて良かったと思う。

 


人生も半ばになって、ようやく自分の命を生きるスタートラインに向かうのかもしれない。



そう思えたら、何があってもワクワクしていられそうな気がする。

「どうして私の人生には

 辛い事が起こるんだろう?」

 

って、

嫌なことが起きる度、いつも思ってた。

 

口に出したら、もっと酷くなりそうで

口には出さないようにして。笑

 

何の被害に合っても

何年も誰にも言えなくて。

 

誰も助けてくれないと信じていた。


それは、

社会のせい、時代のせい、親のせい

やっぱり自分のせい、とか。笑

 

自分を守るために戦っても、

心が安らぐことは一度もなくて。

 


自分の人生なのに、

駒でも振るように生きていた。

イチかバチか。笑


目の前のものを信じすぎて、

色んな物事に幻滅しすぎて。

 

信じるものはどこにもなかった。


人の闇ばかりが見えてきて

怖かったなぁ。。

 


後ろを振り返ると、

そんな長くて暗ーいトンネルがある。


やっとここまで来れたと思う、2020年の夏至だった。


1996年の私、2001年の私、


2006年の私、2011年の私には


信じてもらえないかもしれないけど笑


どんな出会いも、別れも

感動した事も、すごく嫌だった事も、

気が狂いそうだった出来事も、笑


私を光の方に歩かせてくれた。


いつか全てに感謝ができる日が来るだろうか。


まだ、早いか。笑


カメラ越しに日食、結局見てしまった。真上ー。笑

昨日、水星が逆行に入ってから、私はやっぱりヴェーディック占星術の復習をしたくなっている。

 

水星の逆行時期は過去からやり残している事に取り組んだり、自分の内側を見つめて内観をするのに適した時期。

 

(新しい契約や事業には向かず、思考、交通、通信、コミュニケーション、電化製品には支障が出るとも言われる)

 

 

先日苗を買ってきたブーゲンビリアの真ん中に、可憐な白い花が咲きました♪

 

 

 

私にとって「ヴェーディック占星術」は何かと言うと、

自分をより良く理解して人生を歩むためのツール。

 

そして奥深いエンターテイメントの1つでもある。

 

学んでも学んでも学ぶ尽くすことがないという醍醐味がある。

一生楽しめるエンタメ。笑

 

 

みんなのためのエンタメになりつつあるとも思う。

 

これだけグローバルなレベルで各方面のネットワーキングが進んだ現在は、さまざまな古代の叡智も隠された秘術ではなくなってきている。プロアマ問わず世界各国の愛好家が、実際の人生経験を踏まえたエッセンスを公開できる時代。特定の人だけがアクセスできた時代は過去になるのだと思う。アプリもいっぱいあるし。笑

 

ただ人によって自分で読みやすい人と読みにくい人がいるので、得意な人の力を借りる方が良い場合もある。

 

本来、誰もがより人生を謳歌するためにある教え。

 

激動のこのご時世、古代から変わらないインドの現行の解釈方法ではうまく読めない事象もある。ネットのなかった時代には不可能だった情報交流や意思疎通。昔の人なら「テレパシー能力」と呼ぶような事も多くの人に可能になった。ちょっと前は「チャネリング」できる人しか得られなかった情報も溢れているし、自らチャネリング出来る人も急増していると思う。

 

私個人としては、せっかくこの時代に生まれたからには、みんなが自分の生まれ持った運命やその障害を知り、それらの葛藤を乗り越える術があることを知り、自分の人生の主導権を得て、与えられた力を生かす喜びを感じられるようにと願う。

 

命に絶望する人の幻想が晴れますように。

 

この混沌の時代に希望の光がさすように。

 

 

トート・アーム(オウムのマンゴー)と呼ばれる種類のマンゴーはモッチリした食感。

 

 

今回、私自身の出生図ついて学んだことを、ノート的にまとめてみたいと思った。

 

今日は、ヴェーディック占星術を読む上では重要な星である「ラーフー」と「ケートゥー」について。伝統的なヴェーディック占星術の解釈では両方とも凶星と言われ、日食や月食を引き起こす星たち。(蝕にはネガティブな力を及ぼす力があると言われる)

 

 

私のラーフーは1ハウス、ケートゥーは7ハウス。何度自分の出生図を見直しても、私の人生前半にかなり大きな影響を及ぼしたと思える星たちでもある。

 

ラフーとケートゥーは必ず真向かいのハウスに位置する。常にオポジション関係。そして他の惑星の動きとは真逆(北インド図では時計回り)の方向に進行する。

 

ラーフー1ハウス・ケートゥー7ハウスは、両方ともケーンドラ・ハウス(チャートの中心側に位置する4つのハウス)に入り、これらのハウスに位置する星は影響力が強まる。過去生からのカルマを表すラーフーとケートゥーがケーンドラに入ることは、過去生からのカルマを解消することに重きを置く人生と言える。

 

 

(あくまで自分自身を理解するために長々と書きます。興味のない方は本当にすみません!笑。ちなみに他の星の影響を加えずにラーフーとケートゥーだけ見るので、同じ配置を持つ人でもすべて当てはまる訳ではありません)

 

 

上は私の北インド式の出生図。ラーフー(Ra)が一番上の1ハウスにある。
 

 

 

 

【ケートゥー 過去生で取り組んで達成した事】

 

 

7ハウスのケートゥーは、過去生で人間関係やパートナーシップについて学びマスターしたことを示す。現生においても、新しい友人を作ったりパートナーを得たりしやすい。一緒にいて居心地が良いため多くの人を引き付けるが、騙されやすい部分があり、利用しようとする人が近寄って来ることもある。あなたのためになる人間関係を見分けることが課題。

 

過去生からのカルマによる運命的なパートナーと出会うことになり、パートナーシップにより自分軸が定まることになる。その一方で、自らのユニークな才能を発揮して表現するという目的があり、それが叶えられなければ、どんなに完璧なパートナーに恵まれても、完全に満足することはない。

 

自己のハウスである1ハウスと、他人のハウスである7ハウスのバランスを取ることが問われる。

 

10ハウスの表す「社会」や、3ハウスの表す「きょうだい」にアスペクトが取られるため、社会に所属することは出来ても「本当の自分」を見つけることが難しく、きょうだいの価値観はしっくり来なくなる。社会に属する事、きょうだいとのコミュニケーションが疲れたり、パートナーの存在が重荷になるのは、自分だけの道を見つけて突き進む目的があるから。

 

ソウルメイトに出会い結ばれるまでには、人間関係において望ましくない経験も積むことになる。1ハウスのラフーが成熟する年齢(36〜42才ころ)には自分軸を自覚できるようになり、満足できるパートナーを引き寄せられるようになる。

 

次に、真向かいのラーフー1ハウスについて見て行く。

 

 

 

【ラーフー 過去生では得られず、今生で達成するもの】

 

 

古典的なインドの解釈では、ラーフー1ハウスに良くない解釈がされることが多い。それは(物質欲が強くなったり、自己中心的になったり、周りに不協和音をもたらす)と言われることだが、これは未成熟な解釈と言える。

 

ラーフー1ハウスには、その様な俗世的な通念を超えて行くという真の目的がある。生まれた環境や子供の頃の状況、その文化や価値観を乗り越えて進むところに、この配置の真の意味が隠されている。

 

ラーフー1ハウスの人は、ある種の才能や力を持って生まれるが、幼少期からその力を阻害されることになる。周囲の人に合わせ過ぎてしまうところがあり(ケートゥーの影響)、自分の思うように物事を進めることが出来ない。常に周囲の様々な障害に飲み込まれるため、気がつくと(親のせい)(きょうだいのせい)(パートナーのせい)など、他人のせいで自己実現が出来ないという無力感、被害者的な意識に陥ることになる。

 

しかし元々今生では「自己実現」に大いなる目的がある。それは過去生では決して得られなかった目的だからである。自分の行いや出来事の責任を引き受け、人生の主導権を取り戻す必要がある。そのためにも、勇気を持って(その他大勢の価値観)から抜け出し、周囲との円満な人間関係を築きながらも自己実現を達成する道を模索することになる。

 

長年、自分の持つ才能や力が何なのか確信を持てずに苦しむことも多い。出生図においてラフー1ハウスの「星座」が何なのか、その星座の守護星がどこに位置しているかを見る事で、その人の持つ才能を読み取ることが出来る。また、出生図とは別に「ナバムシャ図」(D9チャート)でのラフーの位置を見ることも重要になる。

 

1ハウス(自己を表すハウス)なので、自己実現で満足するためには、周囲に合わせず全く新しい事を試みる必要がある。どんな職種を選んだとしても、その業界で試されたことのない手法に達成の道が開かれる。しかしながらラーフーの示す道は簡単に達成できるものではない。周囲の声に自分を見失うことなく、自分の個性や才能を生かすことが今生で与えられたギフトである。

 

ラーフーから数えて9ハウスと5ハウスにラーフーの影響が出る。9ハウスでは父親との関係に障害が出るが、これは結果的には生まれ持った価値観を越えて進むことに繋がる。また哲学や宗教学に造形が深くなる。5ハウスでは「教える」ことに縁があり、子供との関わりが強くなるが、子供について困難も経験する。ユニークで斬新な哲学的な見解を持つようになり、世の中に表現して行くようになる。

 

 

 

【ダーシャー期について】

 

 

ヴェーディック占星術では、人生をダーシャー期という期間で区切る。各惑星・太陽・月・ラーフー・ケートゥーが支配する時期(外惑星は含まず)があり、それぞれの時期でそれぞれの星の影響が出る。

 

 

・ケートゥー・ダーシャー(ケートゥーが支配する時期)は18年間。

 

この時期の影響の強さは、ケートゥーの度数が高いほど(1〜5度など)強く出やすく、過去生からのカルマをより強く体験することになる。反対に度数が低い(26〜30度など)場合、影響が出ても若い魂のように早めに切り替えることが出来る(私のケートゥーは1度)。

 

ケートゥー7ハウスの人がケートゥー期に入ると、周囲の人間関係に飲まれたり、本当の意味での人との繋がりを感じられず、共依存的なパートナーシップで孤独や苦しみを味わうことになる。結婚には向かない時期であるが、カルマ的な関係やソウルメイトに出会うこともある。これらは過去生からの持ち越された学びであり、通過しなければいけない経験でもある。ケートゥー期から脱する頃には、自分にとってより望ましい関係が自覚できるようになる。

 

 

・ラーフー・ダーシャー(ラーフーが支配する時期)も18年間。

 

ケートゥー期と同じくラーフー期においても、ラーフーの度数が高い(1〜5度など)ほどその影響が強い。この時期に入ると父親や子供との関係に障害が生まれたり、自分の置かれた環境から抜け出して心機一転したいという思いが強まる。

 

新たに強い影響力を及ぼす人物が現れ、人生の新たな方向性や転職がもたらされることもある。人生の転換期の大きな波にさらわれるような感覚に恐れを抱かず、示された方向に一歩踏み出すことで多くの恩恵を受けることが出来る。

 

 

と。

 

以上が私なりに納得しているこの配置の解釈。

 

様々な解釈の仕方はあれど、実体験と重ねて実感出来るので、自分のチャートを読むことは意義深い。

 

 

最近富に意識が及ぶのは、やっぱり6月21日の皆既日食のこと。皆既日食が見られるのはアフリカの一部、パキスタン、インド北部、インド中国国境を通り、何と話題の武漢のあたりまで。

 

インドでは特にデリーなどの大都市でコロナ感染者が急増し続けており、中国との国境で死傷者を出す衝突が起きている。多くの懸念材料がある中、伝統的にインドの人たちは蝕の時間には断食をしてマントラを唱え、瞑想をし、静かに内観をして過ごす。

 

また蝕の時間に受胎すると生まれた子供に影響するとも言われることから、仲良しは控えたり、飲食や入浴をしない、外出や表に出て日食の光を見たりと影響を受けそうなことは極力避けると言われる。

 

幸い日曜日なので、夫は先週あたりから「21日は仕事を休む」とスタンバイ。

 

不思議と勘は悪くなく、習った訳でもないヴェーダ的な知識の豊富な夫。夫の出生のナクシャトラの真向かいで今回の蝕が起こるので、かなり気をつけるべきなのだけど、何の説明をしなくても直感で分かるのかな?

 

世界の混乱が少しでも平和におさまることを祈って、

私たちもインド式のサーダナで過ごしたいと思う。

 

 

こちらは小さくて小ぶりのデーシー・アーム(地物マンゴー)。パイナップルの様な芳香と酸味があり、野性味を感じます。