思いやりの底力 | 北インド☆ゆるヨガライフ

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

前回は小さい頃、感受性が高かったことについて書いた。高い低いという表現は妥当ではないのかもしれないと思うけれど。

 

人はそれぞれ感じ方が違っていて、考え方や行動にも違いが生じるし、その毎日の積み重ねによって多様な人たちが共存し合う世界が作られている。

 

 

 

感じ方、考え方はその人の人生を大きく左右する。より良く生きること、より満足して幸せな人生を作ることにおいて、感じ方や考え方を振り返って内省することは大きな前進になりうると思う。

 

 

インドに来た当初、ヨガ仲間に誘われてチベット仏教の瞑想センターのオープンセッションに参加したことがあった。ヴィパッサナーやマインドフル瞑想とも違う、ダライ・ラマ14世の推奨する"Compassion"(思いやり)をベースとする瞑想クラスは初めての事。

 

 

実際の人物を思い浮かべ、その人の幸せについて思いを馳せる。

その時の自分が一番嫌っている相手を思い浮かべるというものだった。

 

同じように、自分の母親の幸せを願うという瞑想が続いた。

 

あんなに心が揺さぶられた瞑想はなかったと記憶している。

 

 

何度も通っているせいか、晴れやかな顔の友人を横目に、何とも言えない感情が溢れて涙が溢れたり、感謝が溢れたり、嫌悪感を再確認したり、そんな自分を責めたくなったり、

 

ぐちゃぐちゃのスタート。笑

 

 

そのチベット仏教の瞑想センターが今回オンラインの瞑想コースを行うと聞いたので、今週参加することにした。

 

ほぼ4年ぶり。

コロナの思わぬ恩恵を感じる。

 

 

ダラムサラ(ダラムコット)にあるTushita Meditation Centerにて(2016年)。
 

 

まだ2日目だけれど、「思いやり」を基盤にした瞑想の無限の可能性を感じる。世界的にも広がりを見せていて、世界各国から幅広い年齢層の参加がある。

 

今回の師範も英語圏の青年たち。若い間から心の平和を持てたら、その後の人生も必ず違ってくるのだろうと希望が持てる。

 

今日も「今一番好きになれない人」を思い浮かべた。何と今回も、4年前と同じ人が目の前に思い浮かんだ。笑。どうしてこんなにも長い間、一人の他人への嫌悪を手放せずに来たんだろうと自分でも驚きだった。そう思うと、その人が何か大事なメッセンジャーに思えた。

 

他にも、次々と瞑想の対象になる人物や事象が現れる。敵とも言うべき人。あなたを傷つけた人。あなたが絶対に許せない行動を起こした人。あなたの何かを奪った人。あなたの競争相手。あなたの友人。親友と呼べる人。あなたの愛する人。

 

次々に、顔や姿を変えながら対象が目の前に現れる。

 

 

その全ての人に対して、思いやりの念を送ることを絶え間なく続ける鍛錬。

 

 

途中で息は苦しくなるし、心は乱れるけれど、呼吸と共に思いやりの心を絶やすことなく送り続ける。ガイド瞑想に従って、自分の中の苦しみに気づくことになる。長い間そのままにされてきた、憎しみや恨み、傷ついたままの自分の魂に気づくことになる。

 

私はまだまだ初心者なので、具体的なメソッドをうまく伝えることは出来ないけれど、今日強烈に感じたことは、

 

「もうこれ以上憎しみを抱えていたくない。」

 

ただそれだけだった。

 

 

普通に生きていて、普通に日常をこなして、普通に善悪を判断して、普通にやって来たつもり。特に誰かを傷つけようとか悪い意志があるわけでもない。それでも、40数年生きてきて、本当の意味では負の感情に向き合えていなかった。

 

自分は感受性が強かったとか、傷つきやすかったとか、不器用だったとか。言い訳は果てしない。でも、そうしていてはほんの小さな日常の嫌悪感の種からも、憎しみの連鎖を止めることは出来ないと思った。

 

誰を憎みたいわけでもないのに。

 

そしてもちろん、自分を憎み責めたいわけでもない。

 

 

瞑想の中で私の目の前に現れたK先生のこと、もう何とも思っていないと思っていた。それどころか、すっかり忘れていたのに。笑

 

 

憎しみの対象は、次々と姿を変えて現実世界に現れる。

 

自分の中に嫌悪の感情がある限り、この悲しい現実を終わりにすることは出来ない。

 

その憎しみは、ある日突然、愛する人に向けられるかもしれない。

 

 

How to Meditate クラスの概要。
 

 

先月は、夫の弟の振る舞いに怒り心頭してしまった私。怒りで頭に血が上り、我を忘れて普段の自分らしからぬ言動をしてしまった。今思うと、その事が自分の中で放置されている負の感情を見つめるきっかけになった。

 

出来ることなら、どんな環境に置かれても自分らしくありたいと切実に願った。

 

 

今こうしてインドの下町の喧騒の中、心を乱されないために安全な部屋に込もっている間は、一見何事もなく生活することが出来る。

 

でも一歩外に踏み出そうと思ったら、ひとつも私の思う通りに行かない事ばかり。それは環境のせい、インドのせい、教育のせい、努力しても報われない社会のせい、そして私が「繊細過ぎるせい」だなんて諦めかけた。

 

 

チベット仏教の瞑想法は、繊細さを魔法に変える。

 

 

自分の怒りや憎しみを感じないように封印するのではなく、感じ方を変える。見方を変える。考え方を変える。それを長年の習慣化する。

 

 

恐怖や怒り、憎しみなどの負の感情は、そのままにしておくと、年を追うごとに対象を変えて人生の節目の中に散りばめられて行く。

 

安全で守られた環境から少し外れただけで、思わぬ形で噴出する。

 

 

インドでロックダウンを過ごしながら今表出した中国とインドの間での紛争を見ながら、ここに来て、もう本当にこんな世界は耐えらえないと感じる。

 

苦い思いはもう沢山だ。笑

 

 

私の瞑想コースはあと3日。

 

過去のすべての嫌悪感、憎しみ、恐怖、恥、自責、そんな思い違いのトリックを「思いやり」の力で見破って、変容した力に変えたいと思う。

 

 

ダラムサラにあるナムギャル修道院本堂にて(2016年)。
 

 

最近、たまたま見た記事や動画の内容が、今自分に必要など真ん中の内容な事が増えた気がする。心理セラピストのカズ姉さんの今日の動画は、ちょっと前の自分のことみたい?とドキっとした。自己否定に耐えられるのも、限界がある。私は本当、もう、いいです。笑