ホテルに戻ると、私宛にメッセージが残っていた。
Zからである。
『明日、会社に連絡してください。』
というのである。
連絡は、しなければいけないだろう。
このまま、放っておくわけにはいかない。
決着は、つけるべきなのだ。
『Zさんから。』平田は、私に訊いた。
『うん。まぁね。』
『ええな。想うてくれる人がいて。』
彼女は、ため息をつきながら、言った。
私たちは、別々のシングルの部屋に分かれた。
結局、一晩中、いろいろ考えて、眠れなかった。
元来、私は、不眠症である。
眠れないつらさを味わうのは、今日が初めてではない。


平田は、私に『彼氏と会う時に、一緒にいて欲しい。』
と頼んだ。
『取り乱してしまうかもしれへん。』
『わかった。そないするわ。
 けど、最初は、二人で会い。
 私は近くの席にいるから、あやしい雰囲気になったら、
 アンタらの席に行くしな。』

朝、10時過ぎに、私は、彼の会社に電話を入れた。
彼が、電話に出た。

平田は、私の横で、話を聞いていた。
『昨日の会社の件だけど、断っておいたから。
 あなたの心配していたことも、ちゃんと説明をしておいたんで。』
『お手数をおかけしました。
 ごめんなさい。』
『何か、こっちも却って迷惑をかけたみたいな形になっちゃって。
 ところで、今日の夕食でこれからのことを、話したいと思っているんです。』
『申し訳ないです。
 平田の用事で、約束が入ってしまってるんです。』
『でも、明日、関西に帰ってしまうんでしょう。』
『はい。』
『帰る前に、一度、話ができませんか。』
正直な感想を言うと、今すぐに、電話を切りたかった。
それぞれの想いは、すれ違うばかりである。
『また、夕方に、連絡させてください。』
それで、電話を切った。

私は、お酒は強くない。
よく飲んで、グラス2杯が関の山である。
けれど、せっかくの旅だから、ホテルのバーに行こうと決めた。
ちょっと、お酒でも飲みたい気分だった。
ホテルで、30分ばかり、身体を休めてから、と部屋に戻った。
ベッドに横たわり、テレビを観ていた。
時計は、8時を少し回っていた。
9時過ぎに出かけよう、何となく、そんな風に考えていた。
ホテルの部屋の電話が鳴る。出る。
Zからかもしれない、とちょっと重たい気持ちになった。
私の友人からであった。
『加藤。』友人は、私の名を呼んだ。
『今、どこ。』私は訊いた。
『ホテルの部屋。』
『なんで。今日は、彼氏と一緒のはずやん。』
『それがなぁ。』沈んだ声である。
『今から、バーに行こう、思てたんやけど、一緒にどない。』
『行くわ。話、聞いてくれる。』

私たちは、ロビーで待ち合わせた。
鍵を受付に預けて、最上階に上がった。
エレベータに乗っている間も、彼女は、暗い面持ちであった。

バーのウェイターに席を案内されて、
私たちは、それぞれ、お酒を注文した。
私の注文は、いつも、決まっていた。
『このお店で、一番弱いお酒をお願いします。』
お酒を飲まない方が、マシかもしれないような注文の仕方である。
友人の話は、こうである。
彼氏は、まだ、会社にいる時間なので、
管理人さんに身内だと言って、中に入れてもらった。
『こんなこと言うと、加藤に馬鹿にされるかもしれんけど、
 あの人の日記があったんや。
 それで、読んだらアカン思たけど、どうしても、たまらんようになって、
 読んでしもたんやわ。』
そこには、平田の悪口が、山のように書いてあったのだ。
そして、すでに、彼には、別の女性がいた。
平田は、そっと彼の部屋を出て、
フラフラと街を歩き回った。
決心をして、彼氏の会社に電話をして、
今日、会う約束を明日にしてもらった。
『どうしたら、ええんやろ。』
彼女は、相手の男性を恨んでいない。
元々、不自然な始まりだったのだ。
いずれにしても、終わりにしなければならないことは、わかっているのだ。
私も、自分の決心を、彼女に話した。
『何で。加藤の場合は、私と違て、Zさんは、加藤のことを、好きなんやで。』
『そやから、アカンのや。』
『私には、わからんなぁ。』
私の友人は、私の好きな「バーディ」の映画を
『ただの男の友情の話やん。』と単純に考えられる性格である。
多分、私の気持ちを話しても、理解はしてもらえない。

私の友人の平田は、自分が熱をあげている男性に会いに行く
と喫茶店を出て行った。
平田は、その相手を彼氏を信じていたが、
それは、間違っていた。
彼女の勝手な思い込みであり、
彼は、彼女のことを、ただの単なる遊び相手として考えていなかったのだ。
それが、今回の旅で、はっきりした。


私は、品川プリンスホテルに戻り、
近くにある高輪プリンスホテルの庭を一人で歩き回った。
ちょっと、頭をすっきりさせたかった。
きれいに整えられた庭を、当てもなく、歩き回った。
彼が、何故、私にはっきりとした愛情表現をしないのか、
私には、わかりすぎるくらいにわかっていた。
私から、はっきりした答えを聞きたくないのだ。
彼が、恐れていることは、私と会えなくなること。
そして、それを正式に私から言い渡されるのが、
とても、いやなのだ。
そう、彼は、私が彼に対して恋愛感情を持っていないことを知っているのだ。
私が、彼に対して、どうすればいいのか。
一つは、彼から離れること。
もう一つは、彼が私に対して特別な感情を持つことがなくなるのを、
待つこと。
私は、すでに、決めていた。
こういう決め事は、とても、早い。
それを、どのように実行するか、問題は、それである。
気持ちは、本当に重かった。

私は、一人、近くのレストランで、夕食を取った。
彼と一緒に食べるよりも、気楽に食事が進んだ。
近くのお店を回り、ウィンドウショッピングをした。
少し、自分らしさを取り戻していた。
もし、東京に住むのであれば、自分の力でするべきなのだ。
愛情を取引にしては、いけない。
しかも、応えることのできない愛情である。
それは、私自身を束縛することに、つながる。
そんなことは、はじめから、わかっていたのだ。
今、東京に住めば、彼は、毎週、私に会いたがる。
前の轍は打っては、いけない。
散々、懲りているのだ。

彼女は、その彼に冷たい目を向けた。
短い間の私とその友人と彼の三人だけの立ち話であったが、
彼女は、徹底的に彼を無視した。
彼は、その後、私に言った。
『(彼女は、私が)僕とつきあうことを、いいように、思てへんみたいやった。
 ものすご、(彼女が)怖かった。』
私は、黙っていた。
彼女の言いたいことは、言葉に出さなくても、わかる。
『何で、こんな人とつきあうの。
 アンタは、こんな人とつきあう人間やない。やめて欲しい。
 Yのこと、思い出して。
 Yみたいな人としかつきあったら、アカンのや。』
一般的に見れば、彼だって、いい人かもしれない。
条件的な面で、という捕らえ方をするならば。
けれど、彼女と私にとって、Yと言う人間は、ある意味、特別だったのだ。
それは、特別と言う表現よりも、最適と言った方が、当てはまる。
Yにしても、同じように、お坊ちゃんである。
父親は、地方のライオンズクラブに所属する実業家で、
Y自身は、国立大学の医学部に通い、
常に学年トップの成績を保っていた。
異なるのは、その人間性である。
仮に、Yが余り裕福でない家の息子で、
聞いたことのない大学の卒業生であっても、
私とその友人は、Yに興味を持っただろう。
彼女は、もしかしたら、Zのことは、気に入るかもしれない。
私は、フト、そんな気がした。


自分の気持ちのない人とつきあうことが、
自由な気持ちを持って生きたい人間にとって、どれだけ苦痛か、
私は十分、理解していた。
私は、Zを愛せない。
それだけは、確かだ。
あんな毎日は、真っ平、ごめんである。
他人から見れば、贅沢なことなのかもしれない。

私には、精神を病む友人がいた。
(以前のブログサイトから読んでくださる方は、重複してごめんなさい。)
その頃、彼女にとって、私とのつきあいは、かけがいのないものであった。
そのせいで、私は、その種の本を何冊か読むことになった。
精神疾患は、大きく二つに分かれるということも、わかった。
それは、質と量に分かれるというのである。
躁鬱病や、何とか強迫症は、量の病気である。
一般的な人よりも、量が多いのである。
手を何回も洗わないと汚れた感じがしてしまう人は、
人よりも、その回数が多いだけである。
鍵をかけているのかどうか、不安である。
一度、確認する。それでも、不安で、また、確認する。何度も繰り返す。
こういう量の病気は、確実に治る。
治療を受ければ、量を加減することができる。
それに比べて、質の病気は、治療が難しい。
代表的な病気は、業界でエスと呼ばれる、精神分裂症が、それであるらしい。
私の友人は、精神分裂症ではなかったが、質的な病名であった。


例えば、外からダメージを受けた場合に、
それが内側に向うタイプと外側に向うタイプに分けられる。
こんな結果になったのは、自分に問題があるからだと考えるのが、
内向的なタイプである。
そうではなく、相手に対して、攻撃的な態度ないし思想を持つタイプが
外向的なタイプである。
私の友人は、外向的な方であった。
彼女以外の私の周りの友人は、彼女のことを『怖い』と言った。
相手に対して、攻撃的な態度ないし思想を持ち、
なおかつ、精神のバランスが壊れていると聞くと多くの人は、
ヒステリックな人物を思い浮かべるかもしれない。
しかし、彼女は、そうではなかった。
静かに、攻撃的な態度を示す。
そこには、凄みがあった。
さらに、しつこく、責める。
いつまでも、続くかとに思えるくらいに、彼女は、長々と相手を責める。
それが、私の周りの人間に『怖い』と言わせしめたところである。


-----------------------------------
私は今、定期的にひきこもりの青年にパソコンを教えています。
私は、彼が、他人よりも外に出る機会が少ないと考えています。
要するに量の問題です。
もちろん、その背景には多くの難しい問題が含まれています。
それに、少しずつ、私に馴染んでくれています。
帰ろうとすると、『質問があったんや。』と引きとめようとします。
私の雇い主である彼の祖母は、私に驚いたように言いました。
『あの子、よぉ、あの部屋にアンタを入れたなぁ。
 家族でも、ほんまに、滅多に入れへんのや。』
私は、彼に個人的な質問はほとんどしません。
本人が話してくれるまで、根気よく待つタイプです。
誰だって、触れられたくない問題を抱えて生きているのです。
その青年もボチボチと話してくれています。
『ほとんど、学校行ってへんからなぁ。
 いろいろな出来事があったんや。
 僕の口からよぉ、言わんから、また、機会があったら、家族から聞いて。』
彼の祖母から事情をききました。
思っていた通りで、いじめにあって、
教師も知らん顔だったそうです。
そうして、5年近くも家に引きこもっているのです。
彼にとって、外とつながる人間は、今のところ、私だけです。
ただ、心配なのは、
多分、ほとんどのひきこもりの子供たちがそうかもしれないですが、
基礎学力ができていないのです。
漢字が書けない、英語が書けない、英語の意味がほとんどわからない、
という現実です。
数学の因数分解も理解していない可能性があります。
これでは、生活していく能力がないです。
家の中にひきこもっているので、
筋肉も全然、ついていません。
彼のことを心配しているのは、祖母だけです。
彼の母親は、まるで、子供の存在を忘れているかのようです。
実は、この環境は、
私の精神のバランスを壊した友人と似通っています。
漢字や英語、数学を一緒に勉強しています。
テキストを購入してきて、一からです。
地道な道のりです。