ある時、私たちは神戸の須磨海岸にいた。
修子は、私に言った。
『夕方の海辺って、老若男女関係なく、
 みんな、ロマンチックに見せてくれる。』
私はさらりと彼女に質問した。
『インポでも?』
彼女は、肩を震わせるほど、笑っていた。
『今のは、聞かんかったことにしとくわ。』
『そんだけ、笑おうたら、アカンやろ。』
『笑たことも、忘れて。』
『私が言うたことは、忘れても、
 アンタがそんだけ笑たことは、忘れられへん。
 けど、じゃ、何で、笑たんやと言うことになると、
 結局、そこに、戻るんやなぁ。』
私は、最後に修子に向って、舌を出して、言った。
『これは、一本、やられましたなぁ。』

これから、行こうというバーは、私が1年くらい前に行ったことがあるバーである。
Zと出会った時に一緒に上京した友人の修子と二人で、行ったのだ。
その時に、私たちよりも、いくつか年上の雇われマスターと
店を閉まった後で、残って一緒に遅くまで話をしたことがある。


1年くらい前のことである。
そのバーは、六本木の交差点から歩いて5分くらいの場所にある。
大きな道路に面していたので、安心だろう、と私たちは入ることを決めた。
私の友人の修子は、お酒が強い。
そのバーは、結構、いっぱいで、テーブル席は、すでに満席だった。
私たちは、カウンター席に座った。
そこで、私たちは、エンエンと話をした。
基本的には、20代の女性が話すような内容ではない。
私たちは、ファッションの話は、ほとんど、しない。
修子は、決して美しい女性ではない。
彼女自身もそれを知っている。
修子は、肌が浅黒く、強い意志を感じさせる顔立ちをしている。
私は、そんな彼女の顔立ちが、好きである。
そして、その顔立ちに合った洋服を選んだ。
かなり慎重に吟味して選んでいることを、私は、知っている。
選んだ洋服や靴を長く着用するタイプで、
決して、流行に左右されない。


修子と私は、同じ感覚を持ち、何時間でも話は尽きなかった。
映画、小説、絵画、政治、そう言う話は、いつまでも続いた。
架空の話も大好きである。
『なぁ、もし、男も妊娠するとしたらどうなると思う。』
修子は、私に質問した。私は逆に修子に不明な点を尋ねた。
『男の人が子供を生むときって、
 下唇がおでこにつくまで引っ張るような痛みらしいで。
 そんなことって、無理やん。
 それほど、痛いってこと。
 女の人のほうが、痛みに鈍感なんやて。
 そやし、かなり、いろいろ考えるやろな。
 それって、女の人の代わりに、男の人が妊娠するって言うこと?』
『ううん。どっちが、妊娠するか、わからん、っていう場合。
 私は、確実にレイプが減ると思うな。』
修子は、答えた。
『それは、言えるな。
 けど、五分五分やったら、する人間もあるやろな。
 生殖機能が完全にない、と言う男の人は、別やろけど』
私たちは、そんな馬鹿な話を長く続けた。

六本木に出て、食事をした。
平田は、今、別れた相手のことをそれでも、話した。
仕方ない。
彼女の心の中には、まだまだ、彼の形跡は残っている。
例え、あのおぞましい日記を読んだ後であっても。
私も、失恋の経験は、ある。
何をしても、やるせない。
私は、その相手の気持ちを私なりに解釈して、
平田に話した。
彼女の気持ちを落ち込ませないように、かなり注意しながら。
要するに、平田が一時的にせよ気持ちを預けた人間の悪口は、
言いたくなかったのである。
それは、大きく間違った路線であったが、
(実際は、私は、平田の相手をそんな風に考えていなかった。)
それで、彼女が落ち着くのであれば、
罪があるとは、思えなかった。


食事の後で、私は東京の知り合いAに電話をした。
六本木にいるから、一緒に飲もうと誘った。
彼は、軽く食事をしてから行く、と答えた。
六本木の改札口で1時間後に待ち合わせをした。
私たちは、六本木のABCこと、「青山ブックセンター」で時間をつぶした。

その相手は、彼女が自分の日記を読んだことなぞ、
思いもよらない。
『やぁ。』
相手は、軽い挨拶をした。
平田は、お互いに遠距離だし、他に好きな人がいたとしても、おかしくない、
そんな風に切り出した。
相手は、あっさり認めた。
『実は、他につきあっている人がいるんだ。
 ごめん。』
『わかった。ほな、私とは、終わりやね。』
『悪い。平田さんには、世話になった。
 本当にそう思っているんだ。』
多分、それが、一番正直な気持ちであろう、と私は思った。
『もぅ、ええわ。帰って。』
彼は、何も言わずに、席を立って、店を出た。
彼が注文したコーヒーが、
テーブルにひとつ飲まれる相手もなく、所在なく残った。


私は彼女の席に移った。
『平田、えらかった。』
『あの人の、足の引きずる姿、見たら、何にも言えへんようになってしもた。』
『うん、わかるわ。』
彼女たちの関係の始まりも、彼のその姿にあったのだ。
その相手と平田と知り合った当時、彼は童貞であった。
彼は、自分の童貞を捨てたかった。
それで、平田に初めての相手になってくれと、申し出たのだ。
『平田さんだったら、経験もあり、受け入れてくれそうだったから。』
相手は、平田にそう言ったらしい。
平田も彼のその姿に同情したし、それに多少なりとも、好意を持っていた。
そんな風な始まりで、彼らは何度も寝た。
本当に不自然な始まりである。
お互いが愛し合っていたわけではない。
『すっきりしたわ。』
平田はそう言ったが、気落ちしていることは、わかった。
『店、出よ。』
私は、そう言うと立ち上がった。
こんな店に、長居は無用である。

その夜は、私は別の東京の知り合いのAと夕食をとる約束をしていた。
Aは、気楽な人だった。
Aには、別に好きな女性がいたし、私も特別な感情は、ない。
私は、Aに電話をかけた。
事情を話して、今日の夕食の約束をキャンセルすることにした。
彼は、夜遅くまで仕事しているから、その後、時間があれば、
会社に電話してくれたらいいから、と言った。


私と平田は、青山・原宿、新宿と町をさまよい歩いて、
いくつかのものを買った。
ちょっとしたことにも、
お互いに馬鹿みたいに反応して騒いだ。
Zとは、明日、関西に帰る前にランチを一緒にとろう、と決めた。
私は今度は平田に頼んだ。
『一緒にいててな。』
彼の指定する場所に行くことになるだろう。
夕方、私は、電話をかけて今回の東京での最後の会う日をZに伝えた。
そして、待ち合わせ場所と時間を確認した。


夜になって、平田と私は、あるレストランに向った。
彼女とその相手が待ち合わせしているレストランである。
私たちは、バラバラの席に座った。
私の席から、平田が見える。
15分ほどして、大きく足を引きずった彼女の相手が現れた。
彼は、幼い頃の病気のために、足を引きずって歩く。
私たちの周りには、何かが足りない人たちが集まって来ているかのようだった。
あるいは、何かが多すぎる人なのかもしれない。
その相手の精神構造に、足の病気は、まったく関係ないとは言えない。
むしろ、その障害が、彼の精神の歪みを形づくっている、
と私は平田の今までの話から判断した。
物事には、ある基準値が存在する場合がある。
けれど、精神的なものに基準値は、ない。
「常識的な範囲」というあやふやな規定があるだけだ。
だから、その誤差は、それぞれの価値観に左右される。
その相手は、確実に病んでいる、と私は考えたのだ。
もちろん、それは、私の誤差かもしれない。
私は、Zのことを「線からはずれた人」と評したが、
「歪んだ人」とは、思っていない。
むしろ、平田のこの相手こそが、「歪んだ人」である。